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History, Strategy, Ideology, and Nations

農業には「営業力の強化」が必要

2010年03月20日 | ET CETERA
 異国の地で生活していて、やはり一番恋しくなるのは日本食である。
 普段からの悪食のおかげで、米国での食事も満更いけないわけでないのだが、
 ふと、寿司とか丼物とか、要するに日本の米を使った物が食べたくなってくる。
 一応、こちらにも日本食のレストランは存在するし、それなりに美味しいのだけれど、
 やっぱり日本で食べるものに勝てるはずもない。
 こういう時、自分が日本人であることを自覚しないわけにはいかないのである。

 グローバリゼーションの時代とはいっても、人間の味覚は相変わらず国の文化や風習に根ざしている。
 あるいは、そうした感覚が遺伝子によって組み込まれているのだとしたら、
 DNAレベルでも、「味覚の国境」といったものがあるのかもしれない。
 実際、どこの国でも、食品産業は自国の企業が圧倒的に強いというのも、
 食文化への理解や消費者のニーズを汲み上げる点で、
 感覚的に、海外の企業よりも優れているからであろう。
 
 日本の食文化は、米によって支えられている。
 一部の経済学者は、米など食べられなくても、海外から輸入すればよいし、
 米がないなら、パンを食べればよいではないかと嘯く人がいる。
 統計面から合理的に考えれば、そういうことになるのかもしれない。
 しかし、米が工業製品と同じように画一化されて生産されているならともかく、
 日本の農家は、少しでも特色を出して、差別化を図りながら、美味しい米作りに情熱を注いできた。
 また、病気や冷害に強い品種改良にも努力し、日本の風土に合った米生産を絶えず模索してきた。
 それは、必ずしも他国には応用できない日本の技術的蓄積であって、
 日本が持つ価値ある知的財産にほかならない。
 合理化によって、そうした財産を自ら捨て去ることに抵抗を感じないというのは、
 食文化というものを本質的には理解していないのである。

 とはいえ、中国をはじめとした海外の食糧生産が非常に拡大しつつある中で、
 日本の農業を取り巻く環境が厳しさを増していることは確かである。
 以前、北海道で畜産を営んでいる農家がテレビ番組で取り上げられていたが、
 せっかく搾乳した牛乳が、その辺の水よりも値段が安いと嘆いていた。
 逆に、畑作農家では、廉価な輸入品との競合によって、価格面でどうしても負けてしまい、
 商品が売れない状況にあるとも紹介されていた。
 このことは、よほどニッチの作物でない限り、もはや未加工の農産品での勝負において、
 日本の農家が十分に戦っていけない経済環境となりつつあることを示しているように思われる。

 そこで、事態打開を図るために、一部の地域では、加工商品を生産して付加価値をつけたり、
 地域ブランドを立ち上げて、他の地域の農産品と差別化を図ったりする取り組みが行なわれている。
 そのこと自体は、非常に有意義なことではあるけれども、
 問題は、それが単なる狼煙に終わるのではなく、どこまで継続して実践できるかという点である。

 こうした取り組みにおいて、決定的な役割を担うのは、営業(セールス)だと思う。
 どれだけ優れた商品を開発しても、誰にも知られなければ何の意味もないし、
 ブランドを立ち上げても、売り込む理念が曖昧であれば、誰も信頼を寄せることはないだろう。
 最近、東京や大阪などの大都市圏では、
 「アンテナショップ」と呼ばれる地方の特産品販売店が多く出現し、好評を博しているようだが、
 そこで得た情報を分析して満足するだけでなく、
 さらに広く販売し、大きな利益を生む力に変えていかなければならない。
 そのためには、営業本部を設置して、地道なセールス活動を展開する覚悟が必要である。
 だが、そうした活動は非常に面倒なので、結局、誰もやりたがらない。
 結果として、得られた情報は、やがて死ぬことになる。

 情報の収集・分析、あるいはマーケティング調査といったものは戦略立案の上で不可欠な作業である。
 だが、情報とは、常に活動とセットでなければ意味がない。
 「よく分かりました」だけでは、物事は動いてくれないのである。
 農業生産の現場だけでも大変なのに、とても営業まで手が回らないと言われるかもしれないが、
 それならば、専門の部門を地域で設けて、彼らに全国を走り回らせればよい。 
 個人で可能な努力には限界があるのだから、
 そうした面での分業もまた、必要なことであるように思われる。