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History, Strategy, Ideology, and Nations

雨ニモ負ケズ

2010年06月15日 | ET CETERA
 今年始め、米国に行って知ることができたのは、
 米国の学者たちが学問的誠実さを非常に重視しているということであった。
 学問的誠実さとは一体、何か。
 それは、仮に無名の存在であっても、聞くべき主張があれば、
 きちんと耳を傾けて、その内容を真摯に評価するという姿勢である。
 逆に、仮にその分野の権威であっても、聞くに値しないような主張であれば、
 忌憚なく批判を浴びせて、対立することも厭わないという姿勢である。
 つまり、盲目的な権威主義を排して、新しい学問的な発見や解釈を提示した努力に対して、
 身分や立場の如何を問わず、公平に評価するという姿勢である。
 このことは、個人的には大変、印象深いものがあった。
 
 もちろん、すべての学者がそうだというわけではない。
 意固地な人もいれば、偏屈な人もいるだろう。
 しかし、少なくとも身の回りで接することができた人から受けた印象としては、
 おおむねそうした誠実さを持ち合わせた人が多かったように思うし、
 それは多分、米国では学問に取り組む上で尊重されるべき精神にほかならないのであろう。
 短い時間しか滞在できなかったので、研究分野の成果は必ずしも十分とは言えなかったが、
 彼らの学問への姿勢を何となく見て取ることができたことは幸運であった。

 学者と呼ばれる人たちにとって、権威主義ほど唾棄すべきものはない。
 高名な学者が言ったから正しいとか、無名の研究者が言ったから認めないとかいうのは、
 「物事を見定める判断基準が自分にはありません」と告白しているようなものである。
 一方で、自分の理解力を超えたものについては認めないという人も多い。
 本来、理解できないことについて、認めるも認めないもないはずなのだが、
 好き嫌いで物事の優劣を決める人が多いのか、そうした場面に遭遇することが少なくない。
 だが、こういう場合、「分かりません」と自分に判断能力がないことを率直に認めることが、
 学問的誠実さの表れであろう。
 ましてや自分が評価するものしか学問として認めないなどというのは、
 知的発見に喜びを見出す学者としてのアイデンティティを放棄しているようなものだし
 ただならぬ権威主義の臭いが何とも鼻に付く。
 人は成長の限界を知ると、現状が変化することに恐れを抱く。
 きっと権威主義を振りかざす学者というのは、自らの知的限界を悟ってしまっているのだろう。
 見方によっては、同情すべきことなのかもしれない。
 
 その点で、世間的には陰謀論といわれるような話でも、
 頭ごなしに否定することから始めるのではなく、公平な立場から評価を下したいものである。
 若手だからといって邪険に扱うのではなく、
 その道の権威だからといって褒め称えることしかしないのではなく、
 書物の前には万人が平等であるという精神に基づいて臨んでいくことが大切だと思う。
 処世術に長けるよりも、そうした誠実さを忘れないように心掛けていきたい。