血液型別占いの信憑性については、すでに多くの心理学者から否定的な見解が出されている。
朝のテレビ番組や新聞・雑誌などにきまって血液型別占いが紹介されているのは、
日本だけの特異な現象であって、諸外国ではまず見られないものである。
実をいうと、海外でも第二次大戦前までは、占いとまではいかないまでも、
血液型別に人格や性格を分類分けすることは比較的よく行なわれていた。
その根底にあったのが、いわゆる「優生学」の考え方である。
優秀な形質や才能を持っている民族や種族を様々な要素によって見分けることを主旨としたもので、
概ねそれは白人種がいかに黒人種や黄色人種よりも優れているかを証明するためのものであった。
血液型もまた、そうした分類に際して用いられていた一つの指標となっていた。
大戦終結度、この考え方は民族差別や人権侵害との批判が高まった結果、急速に退潮していったが、
どういうわけか、日本では「ガラパゴス諸島」のように取り残された存在となって、
現在に至るもまだ血液型別の分類分けを好んで使っているのである。
今でこそなくなっていると思うが、
ある企業では、新規に雇用した社員を血液型に応じて配属先を決定したり、
学校などでも、血液型別に勉強の習熟度や運動能力の差を比較するといったことが行なわれていた。
おそらく今なら完全に人権問題として糾弾されかねないようなことを、
一昔前の日本では特に違和感を覚えることなく実践されてきた。
また、ファッション誌などの大衆誌に目を向けると、
いまだに血液型の組み合わせによる男女間の相性をアドバイスした記事が散見される。
「B型の男は自分勝手」とか、「A型の女性は良妻賢母」など、
いくらでも反例を挙げることは可能と思われるのだが、
こうした記事が相変わらず廃れないのは、
やはり読者たちがそれを読んで楽しんでいることの表れであろう。
かくいう私も、朝、出掛けにテレビを観ている時に、血液型占いのコーナーが始まると、
ついつい結果を確認してしまっている。
別に今更、それを指針にして一日過ごす気など、まるでないくせに、
大吉だ凶だと一喜一憂しているのが、いかにも幼稚で、我ながら何とも不甲斐無いと思う。
正直言って、とても子供に見せられる姿ではないだろう。
いい年をした大人が、血液型別占いで自分の血液型が良かったりすると、
「おぁ、今日は行けそうだ!」などとテンションが上がるなんて、誉められた話ではない。
おそらく多くの人も、「下らない」とは心の中で思いつつも、
いざその占いが始まってしまうと、
「自分の血液型はどうなのかな?」と見ないではいられないのではないか。
大事な点は、ここである。
「下らない」とは思いつつも、「見てしまう」ところがミソである。
要するに、おみくじを引くようなもので、別に誰も本気でそれを信じているわけではないのである。
一種の子供の遊びであって、あえて退行してみせることで戯けるているのである。
それを本人が自覚しているからこそ、子供の前で一喜一憂するのがみっともなく思えるであろう。
子供の前でおみくじを引いて大喜びしていたら、何となくバツが悪いのと同じである。
血液型別占いの信憑性にしても、所詮はその程度のものであって、
目くじら立てて、その科学的根拠の乏しさを論うのは、
あまり物分かりの良い大人の態度ではないような気もする。
もちろん、それによって社会的な差別を受けることは断固として許してはならないが、
たかだかおみくじ程度の代物である。
笑って済ませるのがご愛敬と言えば怒られるだろうか。
朝のテレビ番組や新聞・雑誌などにきまって血液型別占いが紹介されているのは、
日本だけの特異な現象であって、諸外国ではまず見られないものである。
実をいうと、海外でも第二次大戦前までは、占いとまではいかないまでも、
血液型別に人格や性格を分類分けすることは比較的よく行なわれていた。
その根底にあったのが、いわゆる「優生学」の考え方である。
優秀な形質や才能を持っている民族や種族を様々な要素によって見分けることを主旨としたもので、
概ねそれは白人種がいかに黒人種や黄色人種よりも優れているかを証明するためのものであった。
血液型もまた、そうした分類に際して用いられていた一つの指標となっていた。
大戦終結度、この考え方は民族差別や人権侵害との批判が高まった結果、急速に退潮していったが、
どういうわけか、日本では「ガラパゴス諸島」のように取り残された存在となって、
現在に至るもまだ血液型別の分類分けを好んで使っているのである。
今でこそなくなっていると思うが、
ある企業では、新規に雇用した社員を血液型に応じて配属先を決定したり、
学校などでも、血液型別に勉強の習熟度や運動能力の差を比較するといったことが行なわれていた。
おそらく今なら完全に人権問題として糾弾されかねないようなことを、
一昔前の日本では特に違和感を覚えることなく実践されてきた。
また、ファッション誌などの大衆誌に目を向けると、
いまだに血液型の組み合わせによる男女間の相性をアドバイスした記事が散見される。
「B型の男は自分勝手」とか、「A型の女性は良妻賢母」など、
いくらでも反例を挙げることは可能と思われるのだが、
こうした記事が相変わらず廃れないのは、
やはり読者たちがそれを読んで楽しんでいることの表れであろう。
かくいう私も、朝、出掛けにテレビを観ている時に、血液型占いのコーナーが始まると、
ついつい結果を確認してしまっている。
別に今更、それを指針にして一日過ごす気など、まるでないくせに、
大吉だ凶だと一喜一憂しているのが、いかにも幼稚で、我ながら何とも不甲斐無いと思う。
正直言って、とても子供に見せられる姿ではないだろう。
いい年をした大人が、血液型別占いで自分の血液型が良かったりすると、
「おぁ、今日は行けそうだ!」などとテンションが上がるなんて、誉められた話ではない。
おそらく多くの人も、「下らない」とは心の中で思いつつも、
いざその占いが始まってしまうと、
「自分の血液型はどうなのかな?」と見ないではいられないのではないか。
大事な点は、ここである。
「下らない」とは思いつつも、「見てしまう」ところがミソである。
要するに、おみくじを引くようなもので、別に誰も本気でそれを信じているわけではないのである。
一種の子供の遊びであって、あえて退行してみせることで戯けるているのである。
それを本人が自覚しているからこそ、子供の前で一喜一憂するのがみっともなく思えるであろう。
子供の前でおみくじを引いて大喜びしていたら、何となくバツが悪いのと同じである。
血液型別占いの信憑性にしても、所詮はその程度のものであって、
目くじら立てて、その科学的根拠の乏しさを論うのは、
あまり物分かりの良い大人の態度ではないような気もする。
もちろん、それによって社会的な差別を受けることは断固として許してはならないが、
たかだかおみくじ程度の代物である。
笑って済ませるのがご愛敬と言えば怒られるだろうか。