吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

新しい景色を思い出す

2012-09-11 00:37:07 | 日記
踏切もあぢさゐも濡るる雨のなか傘をささずに犬歩みゆく
栗木京子『けむり水晶』

雨が降っていても犬が傘をささないのは当たり前だというのが、一般的な感覚だろうし、だからそもそも犬に関して、傘をさす/ささないということを普段私たちは問題にしない。だが「傘をささずに犬歩みゆく」と言われた途端、読者の認識においても「雨のなかを歩みゆく犬」は「雨のなかを傘をささずに歩みゆく犬」になる。景色の見え方のささやかな、しかし確実な変化がそこにはあるように思える。
しかし普段の私たちも、濡れながら歩く犬を見る時には、少し寒そうだなとか濡れなければいいのになとか、そういうことは頭のどこかで何となく思っているだろう。だとすれば、「傘をささずに犬歩みゆく」という表現は日常的な感覚から極端に飛躍したものではない。意識の水面下にある感覚を水面の上へあと数センチ押し上げるような表現である。だから、新しい景色を見る、というよりは、新しい景色を思い出す、というような不思議な感覚をこの歌は読者にもたらす。
上句の「踏切もあぢさゐも濡るる」という言い方も、さりげないが、これ以外にはありえないと思わせる表現だ。ぱっと見ると、別に「踏切」と「あぢさゐ」でなくてもいいじゃないか、と思いそうになるが、何度か読むとそうではないと気付き、さらに繰り返し読むと、読むごとに、「踏切」と「あぢさゐ」でなければ駄目だという確信に近づいていく。人工物と自然との対比、その対照的なものたちを等しく雨が濡らすこと、「踏切」が喚起する音のイメージ、「あぢさゐ」が喚起する色彩のイメージや梅雨の空気感など、様々な要素を凝縮した一つの景色が短い言葉の連なりによって描かれている。それは、目に映る無数のものの中から作者が、それ以外の要素を捨てて「踏切」と「あぢさゐ」だけを、そしてこの二つを合わせて、選んだことによって初めて立ち上がった景色である。