病める子がしばし遊びてをりし卓象牙の子馬は宙を蹴りつつ
河野裕子(『ひるがほ』)
この歌は希望を歌っていると思う。「病める子」のしばしの一人遊びの中で「象牙の子馬」が何度も宙を蹴ったという、その情景には、この子供の、今は無理だけれど出来ることなら自由に外の世界に飛び出して駆け回りたいという内に秘めた強い願望が表れているように思える。病気のために今はそのことが無理であるという現実は、この子にとっては、本人にはどうしようもない理由で願望を否定するものであり、絶望をもたらすものだ。でもだからこそ、この子供は「象牙の子馬」に託して、自分の願いを、自分に言い聞かせるかのように、確かめるように、表現したのだと思う。絶望の中で強い願いを表現し、自分自身がその願いを確かめる時、人は希望を持つのだと思う。この子供は遊びの中で希望を歌っているのだ。
そしてその子供を見て、そこに希望を感じて言葉でそれを描写して歌にした「私」も、そのことによって希望を歌っている。子供が遊びという行為によって歌った希望を、それを言葉で写し取って歌にするという行為によって「私」が歌っている。それは「病める子」の希望であり、「私」の希望でもある。
歌われた希望は一時的・個人的な願いという範疇を超えて普遍性を持つ。だから、例えば仮にこの子が不治の病でこの後一度も外に出ることが出来ずに死んでしまったとしても、ここにある希望は消えないし、ずっと意味を持つ。「象牙の子馬」がくりかえし宙を蹴るというイメージはそのようなことを伝えているようにも思える。
河野裕子(『ひるがほ』)
この歌は希望を歌っていると思う。「病める子」のしばしの一人遊びの中で「象牙の子馬」が何度も宙を蹴ったという、その情景には、この子供の、今は無理だけれど出来ることなら自由に外の世界に飛び出して駆け回りたいという内に秘めた強い願望が表れているように思える。病気のために今はそのことが無理であるという現実は、この子にとっては、本人にはどうしようもない理由で願望を否定するものであり、絶望をもたらすものだ。でもだからこそ、この子供は「象牙の子馬」に託して、自分の願いを、自分に言い聞かせるかのように、確かめるように、表現したのだと思う。絶望の中で強い願いを表現し、自分自身がその願いを確かめる時、人は希望を持つのだと思う。この子供は遊びの中で希望を歌っているのだ。
そしてその子供を見て、そこに希望を感じて言葉でそれを描写して歌にした「私」も、そのことによって希望を歌っている。子供が遊びという行為によって歌った希望を、それを言葉で写し取って歌にするという行為によって「私」が歌っている。それは「病める子」の希望であり、「私」の希望でもある。
歌われた希望は一時的・個人的な願いという範疇を超えて普遍性を持つ。だから、例えば仮にこの子が不治の病でこの後一度も外に出ることが出来ずに死んでしまったとしても、ここにある希望は消えないし、ずっと意味を持つ。「象牙の子馬」がくりかえし宙を蹴るというイメージはそのようなことを伝えているようにも思える。