吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

希望の歌い方

2011-05-13 00:59:53 | 日記
病める子がしばし遊びてをりし卓象牙の子馬は宙を蹴りつつ
河野裕子(『ひるがほ』)

この歌は希望を歌っていると思う。「病める子」のしばしの一人遊びの中で「象牙の子馬」が何度も宙を蹴ったという、その情景には、この子供の、今は無理だけれど出来ることなら自由に外の世界に飛び出して駆け回りたいという内に秘めた強い願望が表れているように思える。病気のために今はそのことが無理であるという現実は、この子にとっては、本人にはどうしようもない理由で願望を否定するものであり、絶望をもたらすものだ。でもだからこそ、この子供は「象牙の子馬」に託して、自分の願いを、自分に言い聞かせるかのように、確かめるように、表現したのだと思う。絶望の中で強い願いを表現し、自分自身がその願いを確かめる時、人は希望を持つのだと思う。この子供は遊びの中で希望を歌っているのだ。
そしてその子供を見て、そこに希望を感じて言葉でそれを描写して歌にした「私」も、そのことによって希望を歌っている。子供が遊びという行為によって歌った希望を、それを言葉で写し取って歌にするという行為によって「私」が歌っている。それは「病める子」の希望であり、「私」の希望でもある。
歌われた希望は一時的・個人的な願いという範疇を超えて普遍性を持つ。だから、例えば仮にこの子が不治の病でこの後一度も外に出ることが出来ずに死んでしまったとしても、ここにある希望は消えないし、ずっと意味を持つ。「象牙の子馬」がくりかえし宙を蹴るというイメージはそのようなことを伝えているようにも思える。






記号ではない美しさ

2011-05-12 01:06:42 | 日記
納屋の壁の無数の亀裂にゆふひ来て黄変写真のやうに昏れたり
河野裕子(『ひるがほ』)

「黄変写真」とは、たぶん黄色く変色したモノクロ写真のことを言っているのだろう。この言葉のニュアンスが掴めているか、自信がないが、この言葉自体は(一般的な意味での)美しいイメージをもつものではないのではないかと私は思う。例えば、“セピア色の写真”というような表現は耳障りがよく、美しげな感じを受ける。そのようなよく用いられる表現に比べると、「黄変写真」という表現には独特の生々しさがあり、微かな禍々しさのようなものさえ感じられる。しかし、にもかかわらず(というか、それだからこそ)、この歌の中で情景をたとえるために使われることで、この言葉は詩的な美しさを帯びていると思う。
詩的な美しさ、ととりあえず言ってみたが、詩的な美しさとは何だろうか。それは“記号ではない美しさ”だと思う。美しいものを見てその美しさを表現するのに、"いかにも美しげなよく使われる言葉”を安易に使ってしまうと、そこでは言葉も、それによって表現されるものも、使い回しが可能な記号のようなものになってしまう。“いかにも美しげな言葉を使わないことでしか描けない美しさ”というものがあって、おそらくそれこそが詩が描こうとするものであって、この歌は「黄変写真」という言葉を使ってそれを描いていると思う。そしてここで描かれている美しさが、荒廃した感じや禍々しさなどと裏表の関係にあるということも重要であると思う。


目の前の・心の中の風景 過去の・現在の風景

2011-05-11 00:52:57 | 日記
病みし日のうすき胸元にさしてゐし晩夏のひかり ひるがほのはな
河野裕子(『ひるがほ』)

「晩夏のひかり」と「ひるがほのはな」はどこにあるのだろうか。「ひるがほのはな」は「晩夏のひかり」に照らされて、その中にあると考えるのが自然だろう。では「晩夏のひかり」はどこにあるのか。
「胸元にさしてゐし」という表現は、「晩夏のひかり」が(「私」をその一部として含む)風景の中にあるようにも読めるし、「私」の心象風景の中にあるようにも読めると思う。また、過去形で書かれているので、これは過去(「病みし日」)の、その時の風景であると言えるが、「胸元にさしてゐし」という表現は、この「ひかり」の記憶が「私」の心身に深く根付いたものであることをも感じさせるので、それを思い起こしている「私」にとっては、今ここにある風景であると言うこともできるような生々しさを持つ記憶だろう。
「私」の目の前にあると同時に「私」の心の中にあり、過去にあると同時に現在にある。そういう「ひかり」や「はな」の風景をこの歌は描いているのだと思う。個人にとって重要な風景というのは、そのような意味の多重性を帯びるものなのかもしれない。そして、ここに描かれている「ひかり」が「晩夏のひかり」であり、「はな」が「ひるがほのはな」であるということ、つまりこの風景が淡く儚い色彩や質感を持つことは、「私」にとってこの風景が特別なものであることの大きな理由なのだろうと思う。

時間が経つとはどういうことか

2011-05-10 00:05:33 | 日記
折りためしましろき鶴はほのかなる翳となりつつ雪夜ふけゆく
河野裕子(『ひるがほ』)

この歌は“時間の経過”が表現されている歌だと思う。鶴を折りためた、という「私」の手間ひまがまずそれを感じさせる。真っ白い折り鶴たちのその白さが一つぼんやり翳っては、また一つ翳っていく、ということもそうだ。また、雪夜がふけてゆくという表現も、単に夜がふけていくという場合に比べ、雪が降り積もっていくという情景を思い起こさせる分、時間が経っていくことをよりはっきりと読み手に印象づける。
「ましろき鶴はほのかなる翳となりつつ」というのは、「私」の目にそう見えた、「私」の心にそう感じられた、ということだろう。だからこの歌が表現している“時間の経過”は、時計の針が刻むそれというよりは、「私」の中に、あるいは「私」が見ている世界に生じた現象であると言うべきだろう。だが考えてみれば、“「私」が時間の経過を感じる”ということは、どんな場合でも、どんな人にとっても、“「私」の中に、あるいは「私」が見ている世界において時間が経つ”ということである。この歌はきわめて個人的・主観的な感覚を表現しているようだが、同時に、きわめて普遍的な事柄を述べているとも言えると思う。

「私」であって「私」ではないもの

2011-05-08 23:50:56 | 日記
森のやうに暗く光れる鏡面をそびらに置きて夜夜睡るなる
河野裕子(『ひるがほ』)

「鏡面」は平らでそれ自体は厚みの無いものだが、その面の向こう側には奥行きがある。
「森のやうに暗く光れる」という表現は、「鏡面」の向こう側に、こちら側とは別のもう一つの世界が存在しているという事を思わせる。それは、大きく深く、闇と光のどちらをも含む世界なのだろう。そこは不気味で危険な場所だが、豊かで魅惑的な場所でもあるだろう。
「鏡面」は眠っている「私」の背後にある。だから「私」は、その向こう側の世界を直接見ることはできない。そこにあるのは「私」とその周りの世界を映した景色である。しかし同時に、「鏡面」という境目を超えた向こう側に存在する「私」やその周りの世界は、(「私」が見ている)「私」やその周りの世界とは、似て非なる異質のものなのだろう。
「私」であって「私」ではないもの、“この世界”であって”この世界ではない世界”を込みにして、「私」が生きているという事は成り立っているのだろう。