吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

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歌にする者たちのアンセム

2019-10-12 09:24:01 | 日記
部屋を出たあとに聞こえる嗤い声いまに見ていろ歌にしてやる
相原かろ『浜竹』

あまり具体的には書かれていないが、「私」が立ち去ったとたんにさっきまで一緒にいた人たちが自分のことをバカにして嗤っている声が聞こえる、という状況だと思われる。「いまに見ていろ歌にしてやる」という心の中のつぶやきの背後には、怒り、惨めさ、憎悪などの暗い感情があるだろう。だが、この人が言う「歌にしてやる」という行為は、そのような感情をぶちまけたり、自分を嗤う者を攻撃したり呪ったりするものではないと思う。
「いまに見ていろ歌にしてやる」と言うこの歌が、その、してやった歌でもある。そう考えると、「歌にしてやる」という言葉・声を発すること自体がすでに歌であり、その「いま」の時点でもう、自分を嗤う奴らへの復讐は終わっているようにも思えてくる。
人がやりきれない状況に置かれて一人で立ちすくみそうな時に、「歌にしてやる」と胸の中でつぶやくことが、感情に流されたり他者の言動に囚われたりすることなく心を立て直すことにつながるのかもしれない。そういう「いま」の行為そのものがすでにもう「歌」であり、その“行為としての歌”を、いずれその人は“言葉としての歌”にするだろう。
この作品は個人的な体験に根ざした歌という体裁をとっているが、ここに書かれていることはたぶん、歌をつくるということの本質にふれていて、普遍性がある。日常の現実を歌にする人たちにとってのアンセムになりうる歌だと思う。
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窓の色

2019-05-13 08:15:22 | 日記
叱るのみで結局なにもせぬ人と気づきぬ冬の窓の紅(くれない)
吉川宏志『海雨』

これまでたびたび“私”を叱ってきた人が、他者に言うばかりで自分自身では「結局なにもせぬ」という事実に、今思い至ったのだろう。その気づきは、相手への怒りや軽蔑といった感情を伴っていると思われる。「冬の窓の紅」は、職場等の部屋にいる“私”の目に、日が暮れかけている外の様子が窓から見えていることを表わしているのだろうが、「紅」という色の表現には“私”の感情も託されているように見える。
ただ、その事実に気づいたことで、“私”は今後、新たな考え方や行動をして、前に進んで行くことになるだろうということもこの歌からは予感される。「冬の窓の紅」は他者へのネガティブな感情だけではなく、“私”の心の中に燃えている生命力をも想起させる。また、こうして日が暮れて、この日はこれで終わるけれど、明日からは違う風景がある、という思いもここにはあるかもしれない。
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戻ってきたい場所

2019-05-12 01:26:21 | 日記
『夜と霧』 つめたきこころのままに読みときどきおほき黄の付箋貼る
藪内亮輔『海蛇と珊瑚』

『夜と霧』は、アウシュヴィッツの強制収容所で理不尽な極限状態に置かれた人々の生や死のあり方を、当事者であった心理学者が体験をとおして記述することで、人間が生きることの意味を問うた本である。その本を、「つめたきこころのままに」読むと“私”は言う。名作を読んで胸が熱くなるとか、泣くとかいうような、本にまつわる感動を押し売りするような一般的な言い方に対する皮肉のようにも読める。
だが、そうでありながら“私”は『夜と霧』を読みつづけ、「ときどきおほき黄の付箋貼る」。あとで読み返したい文章がそこにあるのだろう。ただの付箋ではなく、大きい黄色の付箋であるところに“私”の思いが表れている。本の世界の中を静かに一歩一歩進んでいき、いずれまた戻ってきたい場所にはしっかりと目立つようなしるしを残しておく。この歌には一人で淡々と旅をしていくような読書の体感があると思う。
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夜の木蓮が象徴するもの

2019-05-11 09:01:20 | 日記
悪口を言われないため残りたる会もあるんだ夜の木蓮
吉川宏志『西行の肺』

顔見知り同士の飲み会などがあり、“私”は途中で抜けて帰りの夜道を一人で歩いているのだと思う。その会の中では、その場にいない人の悪口を言うような会話がされていたので、本当は帰りたいけれど、自分の居なくなったあとで他の人から「悪口を言われないため」に帰らない人もいるようだ。本人がはっきりとそう言ったわけではないだろうが、“私”はそう思っている。表向きは親睦を深めるために同席しているのに、水面下では相互に疑心暗鬼になっているのだとしたら、そこでの人間関係は息苦しい。「夜の木蓮」は“私”が帰路で見ている風景であろうが、同時に、闇の中にうかぶ暗紅紫色の花は、どこか人々の心の暗部にあるものを象徴しているようにも見える。
「あるんだ」という口調には、自分はそんな考え方はしないけどね、というニュアンスが含まれているように思える。実際、“私”はそんなことは関係なく、残らずに帰っている。ただ、“私”は人に悪口を言われる(かもしれない)ことをまったく気にしていないかといえば、おそらくそうではない。悪口というものになんのこだわりももたない人であれば、悪口を言われないために残る人がいるということにそもそも気づかないのではないか。そういう人がいることを、「あるんだ」といった口ぶりでわざわざあげつらったりはしないのではないか。“自分も悪口を言われているかもな・・・”と心の隅で少しくらいは思っているのではないかと思う。悪口を言われるかどうかなど関係なく一人で帰ることを実行する心と、それでも悪口のことが少し気になってしまう心とが“私”に同居しているように見える。そうだとすれば、「夜の木蓮」は、会に残った人たちの心だけではなく、“私”自身の心をも象徴している。
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絶望と覚悟

2019-05-10 01:48:20 | 日記
この家の前を人殺しが何度通っただろう 窓開けて寝る
山川 藍『いらっしゃい』

「この家の前を人殺しが何度通っただろう」という上句は、“気づくことは難しいけれど、自分の周囲にいる多くの他者たちの中には凶悪な暴力をふるう悪意のある者も含まれている”という事実について述べていると思う。「人殺し」という言い方は極端に見えるけれど、たとえば、“殺す”ということを、“悪意を持って人を、元の状態には戻らないほど深く精神的に傷つける”といった行為まで含めて考えるなら、そういう行為を平気で繰り返す者は、見分けることは難しいけれど、身近に存在しているかもしれない。
そういう現実の世界に対して「窓開けて寝る」という行為の背後には、自分をとりまく世界や他者に対する絶望や諦めと、その果てで開き直って生きようとする覚悟をもった態度があると思う。
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