吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

音楽と風景がかさなる

2018-04-01 21:57:07 | 日記
ベランダで斉藤和義聴いてゐる和義跳ねると雲が近づく
澤村斉美『galley』

ロックを聴きながら空を見ている。日常の中の場面だが、音楽と風景が重なる様はどこか映画のようでもある。和義と雲には客観的には関係がないはずだが、この歌の中では関係が生まれている。今、この人が和義の歌を聴くことと雲を見ることを同時にしているから、無関係なはずのものの間につながりと意味が生まれている。
上句では「斉藤和義」とフルネームを出しておいて、下句では「和義」と下の名前で呼んでいるところに、歌手への思い入れが感じられる。和義の声の跳躍と雲の素早い動きが相俟って、この人の気分を少し高揚させているのだと思う。「ベランダ」という家の中と外の境目にある小さなスペースが舞台になっていることも、この歌の内容に合っている。
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一人の時間の中で他人とつながる

2018-03-26 01:49:30 | 日記
よく生きたる人はいつでもそばにいる酒を酌むとき目を閉じるとき
三枝昂之『上弦下弦』
(東直子・佐藤弓生・千葉聡編著『短歌タイムカプセル』より)

「よく生きたる人」は、目の前にいなくても「いつでもそばにいる」。それは、「酒を酌むとき」や「目を閉じるとき」のことだという。一人で過ごす時間の中で、今ここにいない大事な人と対話しているのだと思う。
「よく生きたる」というのは、自分から見て敬意を持ち信頼することができるような生き方をしている、ということだろう。そのように生きている人が、ここにはいなくても、どこかで同じように生きている。その人の面影や佇まいを、心を落ち着けて思い出せば、確かなつながりを感じることができる。
自分にとって本当に支えになる他人とのつながりとはどんなものだろう。
たとえば、他人の狡猾な言動を目の当たりにしつづけたとき、人間そのものを信じられなくなりそうになるかもしれない。理不尽で筋の通らないことが当然のようにまかりとおる状況に長い間身を置く中で、自分が生きている世界に対して絶望しそうになるかもしれない。自分自身が過去にとった数々の言動の愚かさや不誠実さを思い出すたびに、罪悪感や羞恥心で潰れそうになるかもしれない。そのようなとき、今ここにはいないけれど、同じように今を生きている、自分にとって信頼できる、お互いに肯定し合える誰かの存在を思い描き、つながりを感じることで、何とか自分の心を支え、保つことができる、ということはあると思う。そのような「いつでもそばにいる」人のおかげで、ぎりぎりのところでまだ人間を信じ、世界に対して希望を持ち、自分が存在することを肯定することができる。
一人でいる時間の中で、自分にとって大事な他者とのつながりを確かめられるということは、そうしたつながりがあるからこそ、安心して一人でいることができるということでもあるだろう。「酒を酌むとき」や「目を閉じるとき」に「そばにいる」人が、今、一人でもいるとしたら、それはとても運のよいことだし、心強く、誇らしいことだと思う。
この歌そのものが、「いつでもそばにいる」「よく生きたる人」のように、読者の時間に寄り添ってくれるようでもある。
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今と永遠

2018-03-18 23:58:47 | 日記
路地をゆく猫はいつでも長旅の途中のごとし春の夜はなほ
栗木京子『けむり水晶』
(小高賢編著『現代の歌人140』より)

歩いているときに「路地をゆく猫」を見る。ほんの一時の出来事だが、その姿は、猫の過去と未来を思わせる。遠いところから来て遠いところへ行く「長旅の途中」のように見える。この人は「路地をゆく猫」を見るとき、自分の目の前にある一つの風景や猫と共有する短い時間の中に、猫が見てきた/見ていく無数の風景や猫が生きてきた/生きていく長い時間の存在を感じ取るのだろう。
結句の「春の夜はなほ」という限定も、この歌にとって重要だと思う。上句では「いつでも」と言っているので、“路地をゆく猫は長旅の途中のようである”ということは、この人にとっては季節や時間帯を選ばない普遍性のある真理のようなものなのだろう。だが、そのように述べておきながら、最後に「春の夜はなほ」とあえて言い添えることにより、「路地をゆく猫」の姿は、一つの風景の中に置かれることになる。風景が「春の夜」のそれとして絞り込まれることで、猫の姿はよりくっきりと浮び上がり、そこにある色や温度や匂いなども感じられる。
この人には知る由のない過去や未来にどこまでも開かれているという意味で、猫の「長旅」は、“永遠”の出来事のようでもある。(どんな猫にも寿命があるという意味では、その「長旅」は限られた時間の中でのことなのだが、それでも、「いつでも」と思う心の中には、それは始まりも終わりも見えないような時間の広がりをもって映し出されていると思う。また、過去・現在・未来のあらゆる「路地をゆく猫」たちが「いつでも」長旅の途中のようであるとすれば、それもまた果てしない出来事であるように思える。)その“永遠”は、自分がそのときに見る「路地をゆく猫」の姿の中に見出されたものだ。この歌の背後には、この人が見てきた一つ一つの“今”の風景がある。
また、めぐり続ける季節や日々において「いつでも」そうであるような、つまり“永遠”にそうであるような「長旅の途中のごとし」という感慨は、この歌において、「春の夜」という“今”の中にとりわけ色濃く生じている。(もしこの人が、実際に目の前で、「春の夜」に「路地をゆく猫」を見ているのではないとしても、“今”、心の中には、他ならぬ「春の夜」の風景があるだろう。)そして、「春の夜」の猫の姿を思い描くことで、それ以外の季節や時間帯に生きる無数の「路地をゆく猫」の輪郭もまたはっきりとしたものになる。
“今の中に永遠がある”ということが、「路地をゆく猫」というありふれた存在を通して見えてくる。

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個人の精神の自由

2018-03-12 00:03:38 | 日記
ワインなら二人、日本酒なら一人いずれがよきかそれは決めない
三枝昂之『世界をのぞむ家』
(東直子・佐藤弓生・千葉聡編著『短歌タイムカプセル』より)

お酒が好きな人なのだろう。ワインを飲むなら気のおけない誰かと飲みたい。日本酒を飲むのなら一人がよい。そのどちらがよりよいかは決めない。ワインもよいし日本酒もよい。二人もよいし一人もよい。
何かを比べてよしあしを決めることは、威勢がよくて格好よいようだが、「比べる」ということに自らとらわれているようで、どこか不自由さも感じさせる。それに対して、この歌の「いずれがよきかそれは決めない」という態度は、一見優柔不断であるように見えて、そうではない。二つのことを比べてどちらかを選ぶのではなく、「選ばない」ということを意思を持って選んでいるのだ。別々のこととして、同じような強さでそれぞれを肯定している。
また、「ワインなら二人、日本酒なら一人」という嗜好は、誰にでも共通する一般的なものではないという点も重要である。ワインこそ一人で飲みたい人もいるだろうし、日本酒を二人で(あるいは三人や四人で)飲みたい人もいるはずだ。そういうことはわかった上で、あくまでも自分の場合は「ワインなら二人、日本酒なら一人」なのだと、この歌は言っている。
一つ一つの思いはどのようであってもよく、個人内でも個人間でも、そのあり方を比較してよしあしを決めることはしない。この歌に示されているそのような態度には、個人の精神の自由が宿っていると思う。
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「全力」の表れ方

2018-03-07 00:07:14 | 日記
しずかなる全力ありて咲き初むるまず紅梅の二輪三輪
三枝昂之『上弦下弦』
(東直子・佐藤弓生・千葉聡編著『短歌タイムカプセル』より)

「しずかなる全力」という言葉は、シンプルだが重みがあると思う。派手ではなく、自らを誇示しているわけでもないから、ぱっと見ただけでは気づかないけれど、たしかに「全力」で咲きはじめた梅の木が目の前にある。「紅梅の二輪三輪」に、これから次々に花を開きやがて満開になる梅の木の姿を、かさねて見ることができる。今の風景の中に未来が映し出されている。
「全力」とは何だろう。咲くという一点に力を注ぎ込むなら、咲こうとする意思を持ち続ける、その過程の時間の中だけに、「全力」は表れるだろう。そう考えれば、「全力」が「しずか」であるということは、意外なことではなく、むしろ当然のことかもしれない。自分の本分に「全力」を注ぐときには、周りの目や耳を引くために騒ぐ余力はないからだ。
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