吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

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今日は死なない

2018-08-02 01:53:56 | 日記
リニアモーターカーの飛び込み第一号狙ってその朝までは生きろ
穂村 弘『水中翼船炎上中』

他者に呼びかけているのか、自分に言い聞かせているのか、あるいはその両方なのか。いずれにしても、この歌を読んで私は、「リニアモーターカー」のスピード感や、歌全体の文体の勢いも相俟って、「その朝までは生きろ」というメッセージが、自分自身に向けて真っ直ぐに突きつけられたように感じた。第五句が六音(字足らず)であることも、声にならない呼吸の音が最後にあるような切実さ、生々しさを感じさせる。
昼でも夜でもなく「朝」であるのは、「第一号」になるために誰よりも早く飛び込む必要があるからだろう。だが、それだけではない。自分以外の人たちには、また新しい一日が始まる、まさにその時に自分は一人で死ぬということには、死ぬことの(あるいは、死に向かって生きることの)どうしようもない孤独さを知った上で、それを引き受けようとする意思が表れているように思える。
生きていくということは、ある意味では、今日死ぬことを一日ずつ保留して、先延ばしにしながら進むことなのかもしれない。そもそも、(この歌が、いつ、誰に向けられたものであるにしろ、)「リニアモーターカー」が走り始める日まで、自分が生きていられるのか自体、誰にも分からない。どのみち「その朝」まで生きることはできないかもしれない、ということを踏まえながら、それでも「その朝までは生きろ」と言うこの歌には、絶望を裏返したような希望があると思う。
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無かったことにならない

2018-06-24 21:28:40 | 日記
雪の日の各駅停車はゆきの匂ひ話の切れ目に窓を見る人
松原あけみ『海盆』

「雪の日」という初句の言葉から見える外の白い風景と、「ゆきの匂ひ」という三句から漂う電車内の空気の感じが重なって、歌の中の世界が立ち上がってくる。また、この電車が特急でも快速でもなく「各駅停車」であることが、歌の中の時間の流れ方をどこかゆったりとしたものにしているように思える。上句において、そこにある空間と時間が簡潔かつ豊かに描き出されている。
下句では、会話をしている人たちが出てくる。もっとも、この歌の場面にあるのは、言葉を交わす時間でも、沈黙の時間でもない。「話の切れ目」という通常は見落とされるような断片的な時間における状況と出来事が書かれている。「窓を見る人」の微かな目の動きをとらえるこの歌においては、歌にならなければ無かったことになるはずだった時間に目が向けられている。目を向けているのは、「窓を見る人」であり、作者であり、そして読者でもある。その視線の先に、歌の冒頭にあった外の白い風景が再び現れる。
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音楽と風景がかさなる

2018-04-01 21:57:07 | 日記
ベランダで斉藤和義聴いてゐる和義跳ねると雲が近づく
澤村斉美『galley』

ロックを聴きながら空を見ている。日常の中の場面だが、音楽と風景が重なる様はどこか映画のようでもある。和義と雲には客観的には関係がないはずだが、この歌の中では関係が生まれている。今、この人が和義の歌を聴くことと雲を見ることを同時にしているから、無関係なはずのものの間につながりと意味が生まれている。
上句では「斉藤和義」とフルネームを出しておいて、下句では「和義」と下の名前で呼んでいるところに、歌手への思い入れが感じられる。和義の声の跳躍と雲の素早い動きが相俟って、この人の気分を少し高揚させているのだと思う。「ベランダ」という家の中と外の境目にある小さなスペースが舞台になっていることも、この歌の内容に合っている。
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一人の時間の中で他人とつながる

2018-03-26 01:49:30 | 日記
よく生きたる人はいつでもそばにいる酒を酌むとき目を閉じるとき
三枝昂之『上弦下弦』
(東直子・佐藤弓生・千葉聡編著『短歌タイムカプセル』より)

「よく生きたる人」は、目の前にいなくても「いつでもそばにいる」。それは、「酒を酌むとき」や「目を閉じるとき」のことだという。一人で過ごす時間の中で、今ここにいない大事な人と対話しているのだと思う。
「よく生きたる」というのは、自分から見て敬意を持ち信頼することができるような生き方をしている、ということだろう。そのように生きている人が、ここにはいなくても、どこかで同じように生きている。その人の面影や佇まいを、心を落ち着けて思い出せば、確かなつながりを感じることができる。
自分にとって本当に支えになる他人とのつながりとはどんなものだろう。
たとえば、他人の狡猾な言動を目の当たりにしつづけたとき、人間そのものを信じられなくなりそうになるかもしれない。理不尽で筋の通らないことが当然のようにまかりとおる状況に長い間身を置く中で、自分が生きている世界に対して絶望しそうになるかもしれない。自分自身が過去にとった数々の言動の愚かさや不誠実さを思い出すたびに、罪悪感や羞恥心で潰れそうになるかもしれない。そのようなとき、今ここにはいないけれど、同じように今を生きている、自分にとって信頼できる、お互いに肯定し合える誰かの存在を思い描き、つながりを感じることで、何とか自分の心を支え、保つことができる、ということはあると思う。そのような「いつでもそばにいる」人のおかげで、ぎりぎりのところでまだ人間を信じ、世界に対して希望を持ち、自分が存在することを肯定することができる。
一人でいる時間の中で、自分にとって大事な他者とのつながりを確かめられるということは、そうしたつながりがあるからこそ、安心して一人でいることができるということでもあるだろう。「酒を酌むとき」や「目を閉じるとき」に「そばにいる」人が、今、一人でもいるとしたら、それはとても運のよいことだし、心強く、誇らしいことだと思う。
この歌そのものが、「いつでもそばにいる」「よく生きたる人」のように、読者の時間に寄り添ってくれるようでもある。
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今と永遠

2018-03-18 23:58:47 | 日記
路地をゆく猫はいつでも長旅の途中のごとし春の夜はなほ
栗木京子『けむり水晶』
(小高賢編著『現代の歌人140』より)

歩いているときに「路地をゆく猫」を見る。ほんの一時の出来事だが、その姿は、猫の過去と未来を思わせる。遠いところから来て遠いところへ行く「長旅の途中」のように見える。この人は「路地をゆく猫」を見るとき、自分の目の前にある一つの風景や猫と共有する短い時間の中に、猫が見てきた/見ていく無数の風景や猫が生きてきた/生きていく長い時間の存在を感じ取るのだろう。
結句の「春の夜はなほ」という限定も、この歌にとって重要だと思う。上句では「いつでも」と言っているので、“路地をゆく猫は長旅の途中のようである”ということは、この人にとっては季節や時間帯を選ばない普遍性のある真理のようなものなのだろう。だが、そのように述べておきながら、最後に「春の夜はなほ」とあえて言い添えることにより、「路地をゆく猫」の姿は、一つの風景の中に置かれることになる。風景が「春の夜」のそれとして絞り込まれることで、猫の姿はよりくっきりと浮び上がり、そこにある色や温度や匂いなども感じられる。
この人には知る由のない過去や未来にどこまでも開かれているという意味で、猫の「長旅」は、“永遠”の出来事のようでもある。(どんな猫にも寿命があるという意味では、その「長旅」は限られた時間の中でのことなのだが、それでも、「いつでも」と思う心の中には、それは始まりも終わりも見えないような時間の広がりをもって映し出されていると思う。また、過去・現在・未来のあらゆる「路地をゆく猫」たちが「いつでも」長旅の途中のようであるとすれば、それもまた果てしない出来事であるように思える。)その“永遠”は、自分がそのときに見る「路地をゆく猫」の姿の中に見出されたものだ。この歌の背後には、この人が見てきた一つ一つの“今”の風景がある。
また、めぐり続ける季節や日々において「いつでも」そうであるような、つまり“永遠”にそうであるような「長旅の途中のごとし」という感慨は、この歌において、「春の夜」という“今”の中にとりわけ色濃く生じている。(もしこの人が、実際に目の前で、「春の夜」に「路地をゆく猫」を見ているのではないとしても、“今”、心の中には、他ならぬ「春の夜」の風景があるだろう。)そして、「春の夜」の猫の姿を思い描くことで、それ以外の季節や時間帯に生きる無数の「路地をゆく猫」の輪郭もまたはっきりとしたものになる。
“今の中に永遠がある”ということが、「路地をゆく猫」というありふれた存在を通して見えてくる。

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