吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

現前しないものの痕跡と気配

2011-01-14 23:43:39 | 日記
今しがた起ちゆきし誰かある如く星夜の庭に腕ぬれゐる木椅子
河野裕子(『ひるがほ』)

「腕ぬれゐる木椅子」という表現が生々しくて美しいと思う。「腕」とは「木椅子」の腕(人が腕を載せる部分)ということだろうが、「誰か」の腕がつい先ほどまでそこに置かれていたことを示しているようでもある。単なる“椅子”ではなく「木椅子」であることも、そこにいた人の湿り気や体温がその椅子に微かに、しかし確かに残っているような感じを受ける理由ではないか。これがもしパイプ椅子だったりしたら、そこに人の存在の痕跡を感じ取ることはたぶん難しい。
「星夜の庭」というシチュエーションは、日常と非日常のちょうど真ん中あたりにあるように思える。「星夜」も「庭」も現実にあるもので、とりたてて珍しいものではないが、それらが合わさって「星夜の庭」と表現されると、物語の世界の中の場所であるような感じを仄かに醸し出す。そしてそのような場所で、「私」は現前しないものの痕跡と気配を見て、感じ取る。そこにある景色から、そこに無いものの存在/不在を知る。この短歌は、詩にとってのリアリティとはどういうものなのかということを教えてくれていると思う。

隠喩ではなく、「いのち」そのものの一つの姿として

2011-01-14 23:07:01 | 日記
緑蔭とふ陽の影さへもまぶしがるいのちいまだ幼き吾子は
河野裕子(『ひるがほ』)

「緑蔭」は、影ではあるが真っ暗なものではなく、仄かな明るさを含んでいる影だと思う。陽の光が遮断されてできた影というよりは、青葉によって薄められた陽の光が地面に落ちてできたもの、という感じではないか。「陽の影」という言葉はそういうことを思わせる。
「緑蔭とふ陽の影」は、「私」にとっては(今ではもう)まぶしくはないものなのだろう。しかし、同じものを見ているはずなのに、「吾子」はそれを「まぶしがる」。それは“いのちがいまだ幼い”からだ。
単に「いまだ幼き」とするのではなく、「いのちいまだ幼き」と言っていることには大事な意味があるのだろう。「緑蔭とふ陽の影」は、「陽」と「影」という対極にあるように思えるものが同居しているという点で、「いのち」(生と死)とどこか似ている。そして、生まれたばかりで“いまだ幼きいのち”をもつ吾子だからこそ、その「緑蔭」に強く感応するのではないか。「吾子」は「緑蔭」を「いのち」の隠喩として見ているのではなく、「緑蔭」を「いのち」そのものの一つの姿として捉えているのだと思う。