今しがた起ちゆきし誰かある如く星夜の庭に腕ぬれゐる木椅子
河野裕子(『ひるがほ』)
「腕ぬれゐる木椅子」という表現が生々しくて美しいと思う。「腕」とは「木椅子」の腕(人が腕を載せる部分)ということだろうが、「誰か」の腕がつい先ほどまでそこに置かれていたことを示しているようでもある。単なる“椅子”ではなく「木椅子」であることも、そこにいた人の湿り気や体温がその椅子に微かに、しかし確かに残っているような感じを受ける理由ではないか。これがもしパイプ椅子だったりしたら、そこに人の存在の痕跡を感じ取ることはたぶん難しい。
「星夜の庭」というシチュエーションは、日常と非日常のちょうど真ん中あたりにあるように思える。「星夜」も「庭」も現実にあるもので、とりたてて珍しいものではないが、それらが合わさって「星夜の庭」と表現されると、物語の世界の中の場所であるような感じを仄かに醸し出す。そしてそのような場所で、「私」は現前しないものの痕跡と気配を見て、感じ取る。そこにある景色から、そこに無いものの存在/不在を知る。この短歌は、詩にとってのリアリティとはどういうものなのかということを教えてくれていると思う。
河野裕子(『ひるがほ』)
「腕ぬれゐる木椅子」という表現が生々しくて美しいと思う。「腕」とは「木椅子」の腕(人が腕を載せる部分)ということだろうが、「誰か」の腕がつい先ほどまでそこに置かれていたことを示しているようでもある。単なる“椅子”ではなく「木椅子」であることも、そこにいた人の湿り気や体温がその椅子に微かに、しかし確かに残っているような感じを受ける理由ではないか。これがもしパイプ椅子だったりしたら、そこに人の存在の痕跡を感じ取ることはたぶん難しい。
「星夜の庭」というシチュエーションは、日常と非日常のちょうど真ん中あたりにあるように思える。「星夜」も「庭」も現実にあるもので、とりたてて珍しいものではないが、それらが合わさって「星夜の庭」と表現されると、物語の世界の中の場所であるような感じを仄かに醸し出す。そしてそのような場所で、「私」は現前しないものの痕跡と気配を見て、感じ取る。そこにある景色から、そこに無いものの存在/不在を知る。この短歌は、詩にとってのリアリティとはどういうものなのかということを教えてくれていると思う。