吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

人であること

2011-06-12 23:35:21 | 日記
ふたひらの木の葉のやうに昏れてゆく耳が寒かり黄櫨の森を出で
河野裕子(『ひるがほ』)

「ふたひらの木の葉のやうに昏れてゆく」と表現される「耳」は、「黄櫨の森」の一部であるかのようである。「黄櫨の森」の中でしばらく過ごしたことによって、自分自身の心身と周囲の森との境界が少し曖昧になるような感覚が「私」の中に生じているのではないかと思う。そのため「私」の「耳」は、(本来は音を知覚する器官であるにもかかわらず)季節の経過とともに色を変える木の葉のように、時間の経過やそれに伴う周囲の温度の変化を敏感に感じ取っているのだと思う。
しかし一方で、「耳が寒かり」という表現からは、この「耳」は自分という人間の身体の一部であるという「私」の実感が伝わってくる。「耳」が寒いということは「私」が寒いということだ。
この歌に書かれているのは、「私」が、「森」という自然の世界を出て、「私」が生活を営んでいる社会へと戻ってゆく場面だろう。この場面において「耳」は、いわば「森」(自然)と「私」(社会の中で生きる存在)の境目に存在しているのではないか。
「私」は“人”である。“人”はもともと“自然の中の生き物”である。そのことは、社会の中で生きている日常の中では意識されづらいことであるが、 “人”の(つまり「私」の)本質的な一側面である。この歌は「私」が“人”であるということはどういうことかを表現しているように思える。