吉岡昌俊「短歌の感想」

『現代の歌人140』(小高賢編著、新書館)などに掲載されている短歌を読んで感想を書く

異質なものどうしが調和する

2012-06-27 01:34:09 | 日記
降る雨の速度を音に変へながら絹張りの傘かしげてあゆむ
栗木京子『中庭(パティオ)』

「速度を音に変へながら」という認識の仕方、表現の仕方が印象に残る。普通の言い方をすれば、「絹張りの傘」に雨が当たる音を聞いて「私」はその雨の速度を感じ取っている、ということになるだろう。しかしこの歌は、歩いている「私」が雨の速度を音に変えている、と表現している。
この表現が印象的なのは、単に奇をてらって普通はしないような言い方をしたものではなく、歩いている「私」自身に生じた感覚を、正確に記述しようとしたものだからだと思う。理屈だけで考えれば、「速度」という概念と「音」という概念を直結させることには無理があるようにも思えるが、にもかかわらず「私」は実際に「傘をかしげて歩く自分が、雨の速度を音に変えている」という体験をしたのだろう。実感に忠実であることが、結果的に新しい表現を生み出している。
ただし、この歌は、単に「私」の内側で生じている感覚を表現しているものではないだろう。「私」の体感を織り込みながら「私」の視点から情景を描いているようであり、同時に、その「私」の姿が含まれる情景を外側から描写しているようでもある。この歌は、「私」という存在に確かに根ざしながら、同時に外側の世界に向けて開かれてもいると思う。
また、上句の(特に「速度」という言葉がもたらす)硬質な印象と、下句の(特に「絹張り」という言葉がもたらす)やわらかな印象は、対照的でありながら、歌全体としては一つの情景としてまとまっている。
この歌はいろいろな意味で、異質なものどうしが調和するということの美しさを体現していると思う。







異世界への通路

2012-06-20 00:53:52 | 日記
地下駅へ深く降りゆく足元に百年前の町の風吹く
栗木京子『綺羅』

足元に吹く風を「百年前の町の風」だと言っている。客観的な事実としてはもちろん現在の風なのであるが、なぜそれを「百年前の風」だと言うのだろう。その風には何か、百年前を思わせるような特徴があったのだろうか。おそらくそうではないだろう。町の景色は百年経てば変わるけれど、風は目に見えない形の無いものだから、百年前の風も今の風も多分見分けがつかない。見分けがつかないからこそ、ごく当たり前に吹いているその風が、「私」の想像の中で「百年前の町の風」になりえたのだ。
そして、その風が「百年前の町の風」だと感じられたのは、「地下駅へ深く降りゆく」という状況のせいである。私たち(特に地下鉄に乗り慣れている人)にとっては特別ではない状況だが、地面から何十メートルも下にあるところへ階段で降りてゆくということは、改めて考えてみるとかなり特殊な状況のように思えてくる。地下駅は、地上の町とつながってはいるが、地上とは異なる世界のようでもある。だとすれば、そこへ下りてゆく階段は、地上の町と異世界とをつなぐ通路である。
百年前の町に住んでいた人は、日常生活の中でそんなふうに地下に降りてゆくことなどなかっただろう。だから、そこは「百年前の町の風」が百年前には吹くはずのなかった場所である。でもだからこそ、その風が何かの間違いで今吹いている、という想像が、より強いリアリティをもつように思える。







季節と身体

2012-06-16 02:01:27 | 日記
苦しみののちに来る夏 真ふたつに背中が割れて飛べる気がする
栗木京子『夏のうしろ』

希望を歌によって表現することは難しい。”絶望や苦しみの中で希望を見出す”という考え方自体はありふれているし、そのようなことを言葉で表現すると観念的でつまらないものになりやすい。だがこの歌は、希望を表現することに成功していると思う。それは何故だろう。
一つには、今よりもよくなる未来のことを「夏」という季節で言い表しているからではないか。季節は「私」という小さな存在にかまうことなどなく、淡々と移り変わっていく。「私」の感情や思考とは関係なく時間が流れ、またあの暑く明るい世界が「私」に訪れる。「夏」は、生きているもの皆に等しく訪れる一見ありふれたものであるが、逆に言えば生きているからこそ出会えるものである。この歌の中で「夏」は、今生きていてこれからも生きようとしている、他ならない「私」のための恩寵であるかのようだ。
もう一つの理由として、下句の身体性を伴った比喩が挙げられるだろう。「真ふたつに背中が割れて飛べる気がする」という表現には、読み手の身体をも実際にざわざわさせるような力があると思う。それは、上句にある「夏」という言葉が喚起する、この季節特有の暑さ(あるいはそれゆえの風の心地よさ)、眩しさ(それゆえの影の濃さ)、騒がしさ(それゆえの静寂の深さ)などのイメージと相俟って、読み手の感覚に直に訴えかけてくる。ここに表現されているような身体的な感覚もまた、「私」の内面の感情や思考とはかかわりなく、「私」に迫ってくるものではないか。
「私」の心とかかわりなく、季節は移り変わり、その中で「私」の身体は勝手に新しくなっていく。そういう希望がこの歌には描かれていると思う。

基本的な世界の見え方

2012-06-13 01:28:38 | 日記
意地悪をされしと十年後に気付くわれが好きなり十年後も晴れ
栗木京子『夏のうしろ』

この歌の中で「私」は“自分が好きだ”と言っている。ここに表現されているのは自己肯定感(自分で自分を支えるための根拠になるような感覚)だと思う。
十年前の誰かの言動を思い出し、それが意地悪だったのだと今頃になって初めて気付く。ここには、他者の言動を無闇に悪く解釈しないという、「私」の基本的な態度が表れていると思う。だからこそ十年間「私」は、意地悪を意地悪として受け取らなかった(受け取らずにいられた)のだろう。自分の周りには色々な他者がいるが、とりあえずは肯定的に向き合おうとする。そのような他者への肯定感を前提として、「われが好きなり」という自分への肯定感が生じているのではないか。
どんな他者と出会い、どんな言動に出会うかを、人は必ずしも選ぶことができないが、他者に対して(そして自分に対して)基本的にどのように向き合うかということは自分次第である。その向き合い方のちがいによって、その人の生きる世界の様相もちがったものになるだろう。「十年後も晴れ」というのはつまり“十年前も今も”ということだろうが、ここで「晴れ」という言葉が指しているのは、十年前から今にいたるまでずっと「私」自身が作り出してきた基本的な世界の見え方ではないかと思う。

日記ではなく歌

2012-06-05 01:36:05 | 日記
大雨の一夜は明けて試し刷りせしごと青き空ひろがりぬ
栗木京子『夏のうしろ』

仮に「試し刷りせしごと」という直喩がなく、「大雨の一夜は明けて青き空ひろがりぬ」という内容を述べているだけであれば、この歌は単なる日記のようなものになる。こういう光景を見ればたいていの人はハッとするはずなので、読み手の共感を得やすい題材ではあるのだろうが、だからこそ「この光景を見て、他ならない「私」がどのようにハッとしたのか」ということを表現することが難しい。それを表現できて初めて、読み手をもハッとさせる歌になる。
この歌を歌たらしめているのは、三句の「試し刷り」という言葉であると言えるだろう。“昨夜の雨が嘘のような快晴”といった言い方があるが、「試し刷りせしごと」という表現は、その“嘘のような”というニュアンス(予期していなかったものに出くわしたという驚き)を感じさせる。それは、「試し」であることが、どことなく嘘っぽさ、冗談っぽさに通じるからだと思う。また、「試し刷り」というからには、この青空は本番のものではないということになるので、このあと時間が経てばもっと青空らしい青空になるであろうという、まだ見ぬ空の色に対する予感のようなものもここには漂っている。そのためこの歌からは、
 昨夜:大雨 → 早朝:「試し刷り」の青空 (→ 昼:本番の青空)
という時間の経過を(未来への予感も含めて)感じることができる。そしてそれは、早朝の今のこの空が「試し刷り」だからつまらないということを示すのではなく、むしろ逆にこの歌は、本物の青空になりきる前の青空が見せた束の間の美しさを讃えているのだと思う。