降る雨の速度を音に変へながら絹張りの傘かしげてあゆむ
栗木京子『中庭(パティオ)』
「速度を音に変へながら」という認識の仕方、表現の仕方が印象に残る。普通の言い方をすれば、「絹張りの傘」に雨が当たる音を聞いて「私」はその雨の速度を感じ取っている、ということになるだろう。しかしこの歌は、歩いている「私」が雨の速度を音に変えている、と表現している。
この表現が印象的なのは、単に奇をてらって普通はしないような言い方をしたものではなく、歩いている「私」自身に生じた感覚を、正確に記述しようとしたものだからだと思う。理屈だけで考えれば、「速度」という概念と「音」という概念を直結させることには無理があるようにも思えるが、にもかかわらず「私」は実際に「傘をかしげて歩く自分が、雨の速度を音に変えている」という体験をしたのだろう。実感に忠実であることが、結果的に新しい表現を生み出している。
ただし、この歌は、単に「私」の内側で生じている感覚を表現しているものではないだろう。「私」の体感を織り込みながら「私」の視点から情景を描いているようであり、同時に、その「私」の姿が含まれる情景を外側から描写しているようでもある。この歌は、「私」という存在に確かに根ざしながら、同時に外側の世界に向けて開かれてもいると思う。
また、上句の(特に「速度」という言葉がもたらす)硬質な印象と、下句の(特に「絹張り」という言葉がもたらす)やわらかな印象は、対照的でありながら、歌全体としては一つの情景としてまとまっている。
この歌はいろいろな意味で、異質なものどうしが調和するということの美しさを体現していると思う。
栗木京子『中庭(パティオ)』
「速度を音に変へながら」という認識の仕方、表現の仕方が印象に残る。普通の言い方をすれば、「絹張りの傘」に雨が当たる音を聞いて「私」はその雨の速度を感じ取っている、ということになるだろう。しかしこの歌は、歩いている「私」が雨の速度を音に変えている、と表現している。
この表現が印象的なのは、単に奇をてらって普通はしないような言い方をしたものではなく、歩いている「私」自身に生じた感覚を、正確に記述しようとしたものだからだと思う。理屈だけで考えれば、「速度」という概念と「音」という概念を直結させることには無理があるようにも思えるが、にもかかわらず「私」は実際に「傘をかしげて歩く自分が、雨の速度を音に変えている」という体験をしたのだろう。実感に忠実であることが、結果的に新しい表現を生み出している。
ただし、この歌は、単に「私」の内側で生じている感覚を表現しているものではないだろう。「私」の体感を織り込みながら「私」の視点から情景を描いているようであり、同時に、その「私」の姿が含まれる情景を外側から描写しているようでもある。この歌は、「私」という存在に確かに根ざしながら、同時に外側の世界に向けて開かれてもいると思う。
また、上句の(特に「速度」という言葉がもたらす)硬質な印象と、下句の(特に「絹張り」という言葉がもたらす)やわらかな印象は、対照的でありながら、歌全体としては一つの情景としてまとまっている。
この歌はいろいろな意味で、異質なものどうしが調和するということの美しさを体現していると思う。