60年代のアメリカTVで話題だった「The Fgitive」(逃亡者)がここ何年かDVD化されていてうれしい。最近、その最終シーズン(全部で4シーズン)VOL1が出ました。多分このシーズンでやっとカラーになり画像がきれいで見易くなってます。僕はこのシリーズの大ファンで、日本でもその当時、ドラマの結末がどうなるのか、ドクター キンブルの無実は晴れるのかハラハラしていて確か新聞や週刊誌にも記事になってたと記憶してます。再放送でその後何度も見てますが、DVDで又見ました。David Jensen早くに死んでしまいましたが好きでしたね。
まだ只、観光に行くだけなのに前もって領事館でビザを取得しなければいけない時期にアメリカに来ました。今は結局、長年住み着いてしまいましたが、最初は本当にアメリカの高校を3年留学見たいにした後、日本に帰る考えでした。 最初にアメリカに来たときの奮闘記、ハイスクール留学生活、特に音楽生活の思い出を交えて語りたいと思います。
まず、夏に来米したのですが、サンフランシスコは「涼しい」。どっちかと言うと一年中「涼しい」。一年中を通して余り変化なく、猛暑もなく、雪も降らないし、結局10年程市内に在住しましたが、後で余りにもそれに慣れて、他の所に引越した時は少し大変でした。その話は今は置いといて。 リッチモンド地域の6th Avenueのアパートに暮らしていて、有名なゴールデンゲートパークのすぐ側でした。初めてその公園に足を踏み入れた時の第一印象、公園は森見たいな広い所なんですが、とにかく人がいない、どこにもいない、見渡す限り、人の気配がない。これは何処に行けども人ごみだらけだった大阪とは大違いでした。でも、それが好きでした。それからは何か考え事がある時はその森に散策に行ったものです。
ハイスクールは同じリッチモンド地域の 32nd Avenueにありました。思い出のGeorge Washington High Schoolです。その後3年間弱(アメリカは成績が良いと早めに卒業出来るのです)。今、人生を振り返ると、その高校時代の3年間が一番気楽で楽しい時期だった風に思えます。大きな学校で市街の1ブロック全部の面積で生徒は1000人位いた様に思えます。写真がありました。
校舎内の大きなフットボール球場のベンチに座ると、目の前にあの有名なきれいなゴールデンゲートブリッジの全貌が絵葉書の絵の様に見渡せます。これはいつ見ても息を呑む風景です。おどろき、その写真がありました!
英語の問題の話は又今度にする事にして、学校の音楽部に早速出向いて色々その関連クラスを取りました。昼はマーチングバンドでトランペットを吹く事になり、放課後はJAZZバンド、ビッグバンドでピアノを弾くことになりました。その頃、僕はコード名を読んでピアノの伴奏が出来たので(その頃は他にそういう生徒はいなかった見たいでした)、先生が驚いた見たいです。音楽の先生はMr. Welch(ミスターウェルチ)と言って多分当時40代の、あのBenny Goodman (ベニーグッドマン)を思わせるJAZZクラリネットの名人でした。放課後、よく僕がピアノ、先生がクラリネット、他の生徒がドラムとベースを演奏してジャムセッションをしたのが、楽しい思い出です。 別のピアノの先生にも招かれて、生徒たちにポピュラーピアノの講演もした事がありました。 僕はピアノもトランペットも別にそんなにうまくはなかったのですが(全部日本にいる頃からの独学)、それがアメリカのいい所でみんな楽しければいい見たいな所があって経験とか余り関係ないのでした。
次回につづく --------
この前Googleで生まれ故郷の大阪の事を検索していたら、中華料理店の「鴻盛園」ていう名前が出てきました。これは淀屋橋のラーメン屋らしいのですが、もしや僕が中学卒業後に初めてバイトした、懐かしの「なんば」にあった同じ名前の店ではないかなっと一瞬うれしくなったが、どうも違うらしい。 僕はアメリカに来る直前、この 難波にあった中華料理店の「鴻盛園」で約一年半、厨房でバイトして、大変でしたが今は懐かしいです。 1969年のその頃、昼に心斎橋の「PL米語学園」(だったかな?)に行き、午後5時から出勤、夜中12時半まで普段は忙しくてドタバタずっとでした。 5階建てのビルで、1階が普通の客の店、二階から4階まで宴会所、5階が厨房でした。父の知り合いの場所で、普通は皿洗いの見習いから始めるのですが、僕は特別、料理を最初から習わせてもらいました。 月に二日だけ店の都合で決められる非番の日があるだけで、それで月給一万五千円だったので、今から思うと大変でしたが、いい思い出でした。 音楽が好きなので、一番最初の給料の一部で始めてのステレオLPレーヤーを買いました。 この事は又別のときの書こうと思います。