この記事は、私の別ブログ goo blog<RADIXー根源を問い続けて>の2006年6月13日の記事を基に改めて加筆修正した記事です。
このブログの読者の方で自閉症について、あまりご存知無かったり、あるいは自閉と言う語感から、引きこもり、暗い、内向的と混同していたり、自閉的をそれと互換的に使っている方が8,9割と思うので一度説明しておく。
Autism、AutisticDisorderが自閉症の英訳だ。Aut- と言う接頭辞はAutomaticと言う言葉で分かるように自動、自家、自己完結を表すものだ。自閉=自己再帰,自己完結と考えて頂くと、分かりやすいと思う。他者性の介在無く行為が自己に全て向けられる心の傾向、他者への配慮、気働きの乏しい精神構造と集約されると考える。子供は泣いたり、笑ったり、拗ねたりして自己への関心・愛情を周囲の親・兄弟・近親者などの他者から獲得して成長していく。
人間の独特の成長構造だ。
他の動物と違って成長過程が極度に長くなるように、遅延されているのが人間の成長・発達の特徴だ。馬など生後、しばらくして立って歩き回る。
しかし、人間は這い這いしたり、夜鳴きしたりして、他者の愛情を独占しながらゆっくりと、成長を続ける。
幼形進化(pedomorphosis、paedomorphosis、 juvenification)、幼形成熟=ネオテニィ(neoteny)という概念がある。自閉症を的確に把握する為にはここをしっかりと押さえて頂きたい。
ここが、すっぽり抜けると療育・教育に支障を来たすのだ。
人間は成長を遅延することによって、様々なことを長い幼形の時期に学習する。
ヒトに於ける幼形成熟ネオテニィ(neoteny)の更なる発達遅延の発現が自閉症という形式をとっているのではないかという発想が自閉症・発達障害の全てを語り尽くしてはいないだろうか?
このような事情は次の事実で理解できるだろう。
自閉症が発見(?)されたきっかけはこの幼形の時期に他の幼児と明らかに違う発達構造の子供がいることであった。1940年代、カナー、アスペルガーの2人の医者がそれぞれが違うタイプの発達構造の子供の存在を報告した。自閉症概念の黎明である。幼形の延長期に目を見張る様な特徴的な発達を遂げる子供の中に、夜鳴きも、拗ねることも、感情の駆け引きもしない育て易い子供がいる。2,3歳時の育て易さが逆転して育て難さに転化するのが3,4歳時である。たいていは、この時期に自閉症と診断が下される。
(私の別ブログ goo blog<RADIXー根源を問い続けて>の2006年6月13日の記事から。)
http://blog.goo.ne.jp/yosh0316/
自閉児は呼びかけても目を合わさないことが多い、遊び方も儀式的繰り返しに終始するケースが殆んどだ。自動車のおもちゃで遊ぶとき、通常の子供の場合は『ブッぶー』といいながら、動かして遊ぶ。自閉児の遊び方の中でも典型的な遊び方は「おもちゃの自動車をひっくり返して、車輪に指をあて擦る様に車輪を飽きることなく回し続ける」というものである。おもちゃは、物である以上に製作者の意図・意匠が表現されたものだ。意匠を理解しその意図に沿った遊び方をして初めて、遊びの中で物を媒介にしての他者とのコミュニケーションが成立する。
おもちゃで遊ぶと言う行為は見えない会話だという構造が浮かび上がる。
自閉症児の遊びは他者性の欠如の中に特徴が見出される。
(しかし、この欠如は見方を変えると、存在様式の宝物を内に秘めているとの理解も出来るとの見解に私は至っている。他者へと還らずに自己とモノとの自己再帰のサイクルに還元する彼らの方がモノそのものの根源を問い続けるているのではないだろうか?
彼らの只管な繰り返しの反復をしている時の彼ら眼差しに私は人間の、新たな可能性を感じている。)
『子供は遊びの中で社会性を身につける』ということとは集団の中でということだと誤解している人が殆どだろうが、一人遊びも上記のような作者の意図を理解するという意味に於いて立派なコミュニケーションであり、社会的行為なのだ。
自閉児の遊び(?)にこの様な他者性は皆無だと言うことに気が付かれただろうか?
自閉=自己再帰、自己完結と私は先に指摘した。『自閉』の閉の意味を閉ざすと理解しても差し支えないが、引きこもり、内向的の閉ざすとは違う。自の意味を自分・自分の内面=心と誤解している人が多いからだ。
『自動』の自は自己のシステム・動き・行為の起点を意味している。他の動きと相関して動くのではなく、自己の内部システムを起点として動くということだ。このような理解で自閉と言う言葉を眺めれば、他者の行動を自らの行為の起点とすることなく、自己の行動を行うことだと理解できる。
他者の意図を自らの行動の起点として行動して、逆にその行為が新たな他者の意図を生み出し、自らに再び他者の行為が及ぼされる。このような関係がコミュニケーションであり社会性ということだ。しかし多くの教育者は社会性=集団順応性と誤解して指導している。特に日本の場合はどう仕様も無い程の誤謬が幅を利かせている。
私はAUTISMの自閉と言う言葉の由来に基づいて、独自の観点も導入して自閉と言う言葉の意味を解明してきた。
通常は子供とおもちゃの関係を二項、これに他の存在が加わると三項関係などと研究書には書かれている。
しかし、このような研究書ではおもちゃを単なる物と捉ええている。
私はここに自閉症研究者の学問的幅の狭さを感じている。
幼児にとってはコップも立派な他者である。
物であると同時に物に込められた他者の意図・意匠をも象徴している。
コップは水などの液体飲料を飲むように意匠されている。
7,8才の自閉症児の中には水をコップにうまく注げずにボトルが空になるまで注ぎ続ける子供もいる。
もちろん、多くの研究者が指摘しているように自閉症児・発達障害児の場合にはワーキングメモリーに欠陥があることは認めるが、それ以前にコップ、ボトル、水という他者性(物ではなく、物と者の両者性が象徴する社会性)が理解出来ていないと考えている。
ボトルの中の水はコップに注ぐ事によって更なる他者とのコミュニケーションを喚起する。
母親に褒められる。他者に感謝される。通常の子供は周囲の保護者の愛情独占の戦略からか、可愛い仕草でこの行為をやってのける。或いは拗ねて故意に失敗をしたりして世話を焼かせることで愛情の深さを探ったりする。
私が言及したネオテニーの時期にこの様な愛情獲得の手だてを学習することで人の子供は、言語、社会性を身につけ、それを手段に今度は知識など生きる上での必要なものを身につけていく。
自閉症児の親が殆んどの場合『2,3才までは手の掛からない育て易い子供だった』と述べるのは、現代人の安易な子育て観を現している。自閉症児の親を責めているのではなく現代人は全てに渡ってイージーゴーなのが良い事だという神話に生きている。
ネオテニーという事が本能的に理解されていた時代には、自閉児は早期に発見されていた筈だとの逆説が成りたつのではないだろうか?
自閉症が問題になり始めたのは西欧社会の文明の成熟が行き着いた1940年代半ばの文明社会においてだった事の意味を今後の論考で展開して行きたいと考えている。
このブログの読者の方で自閉症について、あまりご存知無かったり、あるいは自閉と言う語感から、引きこもり、暗い、内向的と混同していたり、自閉的をそれと互換的に使っている方が8,9割と思うので一度説明しておく。
Autism、AutisticDisorderが自閉症の英訳だ。Aut- と言う接頭辞はAutomaticと言う言葉で分かるように自動、自家、自己完結を表すものだ。自閉=自己再帰,自己完結と考えて頂くと、分かりやすいと思う。他者性の介在無く行為が自己に全て向けられる心の傾向、他者への配慮、気働きの乏しい精神構造と集約されると考える。子供は泣いたり、笑ったり、拗ねたりして自己への関心・愛情を周囲の親・兄弟・近親者などの他者から獲得して成長していく。
人間の独特の成長構造だ。
他の動物と違って成長過程が極度に長くなるように、遅延されているのが人間の成長・発達の特徴だ。馬など生後、しばらくして立って歩き回る。
しかし、人間は這い這いしたり、夜鳴きしたりして、他者の愛情を独占しながらゆっくりと、成長を続ける。
幼形進化(pedomorphosis、paedomorphosis、 juvenification)、幼形成熟=ネオテニィ(neoteny)という概念がある。自閉症を的確に把握する為にはここをしっかりと押さえて頂きたい。
ここが、すっぽり抜けると療育・教育に支障を来たすのだ。
人間は成長を遅延することによって、様々なことを長い幼形の時期に学習する。
ヒトに於ける幼形成熟ネオテニィ(neoteny)の更なる発達遅延の発現が自閉症という形式をとっているのではないかという発想が自閉症・発達障害の全てを語り尽くしてはいないだろうか?
このような事情は次の事実で理解できるだろう。
自閉症が発見(?)されたきっかけはこの幼形の時期に他の幼児と明らかに違う発達構造の子供がいることであった。1940年代、カナー、アスペルガーの2人の医者がそれぞれが違うタイプの発達構造の子供の存在を報告した。自閉症概念の黎明である。幼形の延長期に目を見張る様な特徴的な発達を遂げる子供の中に、夜鳴きも、拗ねることも、感情の駆け引きもしない育て易い子供がいる。2,3歳時の育て易さが逆転して育て難さに転化するのが3,4歳時である。たいていは、この時期に自閉症と診断が下される。
(私の別ブログ goo blog<RADIXー根源を問い続けて>の2006年6月13日の記事から。)
http://blog.goo.ne.jp/yosh0316/
自閉児は呼びかけても目を合わさないことが多い、遊び方も儀式的繰り返しに終始するケースが殆んどだ。自動車のおもちゃで遊ぶとき、通常の子供の場合は『ブッぶー』といいながら、動かして遊ぶ。自閉児の遊び方の中でも典型的な遊び方は「おもちゃの自動車をひっくり返して、車輪に指をあて擦る様に車輪を飽きることなく回し続ける」というものである。おもちゃは、物である以上に製作者の意図・意匠が表現されたものだ。意匠を理解しその意図に沿った遊び方をして初めて、遊びの中で物を媒介にしての他者とのコミュニケーションが成立する。
おもちゃで遊ぶと言う行為は見えない会話だという構造が浮かび上がる。
自閉症児の遊びは他者性の欠如の中に特徴が見出される。
(しかし、この欠如は見方を変えると、存在様式の宝物を内に秘めているとの理解も出来るとの見解に私は至っている。他者へと還らずに自己とモノとの自己再帰のサイクルに還元する彼らの方がモノそのものの根源を問い続けるているのではないだろうか?
彼らの只管な繰り返しの反復をしている時の彼ら眼差しに私は人間の、新たな可能性を感じている。)
『子供は遊びの中で社会性を身につける』ということとは集団の中でということだと誤解している人が殆どだろうが、一人遊びも上記のような作者の意図を理解するという意味に於いて立派なコミュニケーションであり、社会的行為なのだ。
自閉児の遊び(?)にこの様な他者性は皆無だと言うことに気が付かれただろうか?
自閉=自己再帰、自己完結と私は先に指摘した。『自閉』の閉の意味を閉ざすと理解しても差し支えないが、引きこもり、内向的の閉ざすとは違う。自の意味を自分・自分の内面=心と誤解している人が多いからだ。
『自動』の自は自己のシステム・動き・行為の起点を意味している。他の動きと相関して動くのではなく、自己の内部システムを起点として動くということだ。このような理解で自閉と言う言葉を眺めれば、他者の行動を自らの行為の起点とすることなく、自己の行動を行うことだと理解できる。
他者の意図を自らの行動の起点として行動して、逆にその行為が新たな他者の意図を生み出し、自らに再び他者の行為が及ぼされる。このような関係がコミュニケーションであり社会性ということだ。しかし多くの教育者は社会性=集団順応性と誤解して指導している。特に日本の場合はどう仕様も無い程の誤謬が幅を利かせている。
私はAUTISMの自閉と言う言葉の由来に基づいて、独自の観点も導入して自閉と言う言葉の意味を解明してきた。
通常は子供とおもちゃの関係を二項、これに他の存在が加わると三項関係などと研究書には書かれている。
しかし、このような研究書ではおもちゃを単なる物と捉ええている。
私はここに自閉症研究者の学問的幅の狭さを感じている。
幼児にとってはコップも立派な他者である。
物であると同時に物に込められた他者の意図・意匠をも象徴している。
コップは水などの液体飲料を飲むように意匠されている。
7,8才の自閉症児の中には水をコップにうまく注げずにボトルが空になるまで注ぎ続ける子供もいる。
もちろん、多くの研究者が指摘しているように自閉症児・発達障害児の場合にはワーキングメモリーに欠陥があることは認めるが、それ以前にコップ、ボトル、水という他者性(物ではなく、物と者の両者性が象徴する社会性)が理解出来ていないと考えている。
ボトルの中の水はコップに注ぐ事によって更なる他者とのコミュニケーションを喚起する。
母親に褒められる。他者に感謝される。通常の子供は周囲の保護者の愛情独占の戦略からか、可愛い仕草でこの行為をやってのける。或いは拗ねて故意に失敗をしたりして世話を焼かせることで愛情の深さを探ったりする。
私が言及したネオテニーの時期にこの様な愛情獲得の手だてを学習することで人の子供は、言語、社会性を身につけ、それを手段に今度は知識など生きる上での必要なものを身につけていく。
自閉症児の親が殆んどの場合『2,3才までは手の掛からない育て易い子供だった』と述べるのは、現代人の安易な子育て観を現している。自閉症児の親を責めているのではなく現代人は全てに渡ってイージーゴーなのが良い事だという神話に生きている。
ネオテニーという事が本能的に理解されていた時代には、自閉児は早期に発見されていた筈だとの逆説が成りたつのではないだろうか?
自閉症が問題になり始めたのは西欧社会の文明の成熟が行き着いた1940年代半ばの文明社会においてだった事の意味を今後の論考で展開して行きたいと考えている。
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