鎌田實さんの文章の一節。
> 人生の話、命の尊さ、家族の大切さ、
>千年以上も伝わる諏訪大社の御柱祭(おんばしらさい)のこと、
>生きているモノにはやがて死がくること、
>そんな話を次郎さんは、中学生の孫にたくさん聞かせた。
>孫に話しているときが一番楽しそうだった。
>孫は、きょとんとして聞いた。
> 次郎さんの言葉を、孫が本当に理解できるようになるまでには、
>10年も20年も時間がかかるだろう。それでいいのだ。
痛ましい事件が起こるたびに
「いのちの大切さ」を子どもに教えなければいけない、
という言い方がされる。
いのちの大切さを本当に理解できるようになるのは、
たとえば一緒に住んでいたおじいちゃんが亡くなるとか、
大切に飼っていた犬が死ぬとか、
同年代の友人が突然入院するとか、
何万分の一の確率で巡り合った人と結婚するとか、
自分に子どもが生まれるとか、
ライフサイクルに合わせた経験を通してしかない、と強く思っている。
小学生に、講話で「いのちの大切さ」を説いても、
きょとんとするばかりだろう。
自分もそういうご高説を賜るたびに
「そんなうわっつらなこと言ったって…」
「大人の自己満足だな…」と思っていた。
でも、それはたぶんそれでいいのだ。
その時にはわからなくても、じきにわかるときがくる。
振りかえってこういうことだったのか、と思うときがくる。
すべての話がそうとは限らないけれど、そういうことがきっとある。
PTA、子ども会の活動とか、
地域の行事とか、近所の上棟祝いとか、お祭りとか、
親戚のあつまりとか、
子どもにも(まぁときには大人にとっても)意味がわからない、
きょとんとしてしまう、うざったいものかもしれないけれど、
年上の人から教えてもらうこと、集団の中での自分の立ち位置、
しがらみの中で見えるみんなの嫌なところ、
そういうことが経験として自分の身になることで、
人間とはこういうものだ、自分はこういう存在だ、と
思い知ることになる。
自分を形作る肉となる、大切な場である。
大切だとわざわざ思えるのは、自分が子どものときのきょとんとした
思いも、まんざらではなかったから。
今妻をはじめとする周りの人間とのつながりが、
とても好ましいと感じているから。
子どもに、「今はよくわからんが、じきに理解できるようになる」
という体験をさせること、
親もそれを一緒に楽しんでしまうこと。
子どもが傷ついたときには、一緒に悩み、それでいい、と言って
あげられるような関係。
そういうことを思った。
> 人生の話、命の尊さ、家族の大切さ、
>千年以上も伝わる諏訪大社の御柱祭(おんばしらさい)のこと、
>生きているモノにはやがて死がくること、
>そんな話を次郎さんは、中学生の孫にたくさん聞かせた。
>孫に話しているときが一番楽しそうだった。
>孫は、きょとんとして聞いた。
> 次郎さんの言葉を、孫が本当に理解できるようになるまでには、
>10年も20年も時間がかかるだろう。それでいいのだ。
痛ましい事件が起こるたびに
「いのちの大切さ」を子どもに教えなければいけない、
という言い方がされる。
いのちの大切さを本当に理解できるようになるのは、
たとえば一緒に住んでいたおじいちゃんが亡くなるとか、
大切に飼っていた犬が死ぬとか、
同年代の友人が突然入院するとか、
何万分の一の確率で巡り合った人と結婚するとか、
自分に子どもが生まれるとか、
ライフサイクルに合わせた経験を通してしかない、と強く思っている。
小学生に、講話で「いのちの大切さ」を説いても、
きょとんとするばかりだろう。
自分もそういうご高説を賜るたびに
「そんなうわっつらなこと言ったって…」
「大人の自己満足だな…」と思っていた。
でも、それはたぶんそれでいいのだ。
その時にはわからなくても、じきにわかるときがくる。
振りかえってこういうことだったのか、と思うときがくる。
すべての話がそうとは限らないけれど、そういうことがきっとある。
PTA、子ども会の活動とか、
地域の行事とか、近所の上棟祝いとか、お祭りとか、
親戚のあつまりとか、
子どもにも(まぁときには大人にとっても)意味がわからない、
きょとんとしてしまう、うざったいものかもしれないけれど、
年上の人から教えてもらうこと、集団の中での自分の立ち位置、
しがらみの中で見えるみんなの嫌なところ、
そういうことが経験として自分の身になることで、
人間とはこういうものだ、自分はこういう存在だ、と
思い知ることになる。
自分を形作る肉となる、大切な場である。
大切だとわざわざ思えるのは、自分が子どものときのきょとんとした
思いも、まんざらではなかったから。
今妻をはじめとする周りの人間とのつながりが、
とても好ましいと感じているから。
子どもに、「今はよくわからんが、じきに理解できるようになる」
という体験をさせること、
親もそれを一緒に楽しんでしまうこと。
子どもが傷ついたときには、一緒に悩み、それでいい、と言って
あげられるような関係。
そういうことを思った。