意外性の未来は?
さて、このようなミステリの意外性には、
どのような未来が待っているのでしょうか。
同じジョークを繰り返すことで使い古されてしまうように、
同じような意外性は読者に飽きられてしまう危険性があります。
このままでは、意外な真相を核とする本格ミステリの未来は、
明るいものではないと考えざるを得ません。
これを回避するためには、
どのような手段が考えられるでしょうか。
一つの手段としては、以前の作品を踏まえ、
意外性を生み出す機構を複雑化していくことが考えられます。
しかしながら、複雑なジョークが理解されにくいように、
複雑高度な意外性も読者に理解されにくくなる可能性があります。
特に、ミステリに慣れていない新規読者を獲得することが困難になると考えられます(*)。
マニアには受け入れられるかもしれませんが、
やはり戦略的に問題があると思われます。
他にはどのような手段があるでしょうか。
この文章では、前節まで、
ミステリの意外性とジョークとの関連について述べてきました。
したがって、ミステリの意外性の未来についても、
ジョークに学ぶことができるのではないかと考えられます。
ジョークはどのように生き残ってきたのでしょうか。
その長い歴史の中で、
新たなパターンが生み出されてきたのはもちろんですが、
むしろ時事風俗など新たな要素を取り込む、
すなわち連結するための新たな材料を手に入れることによって、
新たな笑いを作り出してきたのではないでしょうか。
これに学ぶとすれば、
やはり同じように新たな要素を取り込む必要があるでしょう。
これは、いわゆる“本格コード”から
の単なる脱却を意味するのではなく、
意外性を作り出す機構として、
新たな要素を積極的に取り込んでいくということです。
具体例としては、西澤保彦の一連の作品、
さらにはロバート・J・ソウヤー
『ゴールデン・フリース』などのようなSFの要素、
あるいは霞流一の一連の作品のような、
笑い・ギャグといった要素が考えられるでしょう。
いずれの作品も、
ミステリに新たな可能性をもたらすものと言えるのではないでしょうか。
これら以外にも、色々な可能性が考えられると思います。
今後は、一体どのような意外性が作り出されていくのでしょうか。
注目していきたいと思います。
(*):考えてみれば、新本格ミステリと呼ばれた一連の作品、
特に初期のものは、“新本格”と銘打たれながら、
実態はかなり古典作品に近いわかりやすさを持っていたと思います。
これら新本格ミステリは、
そのわかりやすさによって、
ミステリが新たな読者を獲得することに
大きく貢献したのではないでしょうか。
<絵本、読み聞かせ、横浜>