絵本読み聞かせ横浜祭

読み聞かせする人、読み聞かせ聞く人、
絵本・読み聞かせにご興味のある方は、是非、お待ちしております。

人生の価値:絵本読み聞かせ横浜祭

2017年12月30日 17時54分30秒 | 日記

ヴィクトール・フランクルは
人生において実現できる価値」を
 ①「創造価値
 ②「体験価値
 ③「態度価値
の3つに分類しています。

創造価値とは
 行動や活動を通して創り出していく価値のことです。
ヒトが行動し,何かを作ることで実現される価値のことです。
仕事や芸術作品を創作したりすることがこれに当たります。

体験価値とは
 人間が何かを体験することで実現される価値のことです。
芸術・自然・学問・人間関係などを通して得られる
感動的な体験がこれに当たります。

態度価値とは   
  人間が運命を受け入れる態度によって実現される価値のことです。
病気・貧困・その他の様々な逆境において
「創造価値」と「体験価値」が奪われたとしても,
その逆境を受け入れる態度を決める自由が人間に残されています。

フランクルは,人間が最後まで実現しうる価値として
態度価値」を重視します。

 フランクルは『医師による魂の癒し』の中で,
次のように述べています。

「人間が人生の意味は何かと問う前に,
人生のほうが人間に対し問いを発してきている
だから人間は,本当は,生きる意味を問い求める必要などないのである。
人間は,人生から問われている存在である
人間は,生きる意味を求めて問いを発するのではなく,
人生からの問いに答えなくてはならない
そして,その答えは
それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する

具体的な答えでなくてはならない

「私たち一人ひとりには”なすべきこと・充たすべき意味”が与えられている。
そして,それと共に,今・ここに定め置かれている。
そしてその”何か”は,

私たちによって発見され実現されるのを”待っている”。
私たちは,常にこの”何か”によって必要とされ
それを発見し,実現するのを待たれている
そういう存在なのだ。」

「自分のしたいこと」ではなく
「人生が自分に求めてきているもの」を発見せよ
とフランクルは言います。

それこそが,自分の人生における
実現すべき意味」であり
なすべきこと」なのです。 
  
  発見の手がかりとなるのが
創造価値」「体験価値」「態度価値」この3つの価値領域です。


<絵本、読み聞かせ、横浜>


確かに間違いがないので、ついシリーズ絵本ものばかり選んでしまう…:絵本読み聞かせ横浜祭

2017年11月01日 19時04分27秒 | 日記

キャラクター商法というものがあって、
なにかひとつヒット商品・ヒット作品を生み出したら、
あとはそこから派生する関連事業
つぎつぎに利益が生まれてくるという仕組みです。

絵本の世界でも、シリーズものは人気が高いです。
最近では、40年も前に描かれ、
いまなお子どもたちに愛されつづける
ロングセラー絵本の続編が、
新刊として出版されるようなケースも珍しくありません。

過去、そのようにすばらしい作品、
キャラクターを生み出した作家さんが、
現役の絵本作家として第一線で活躍されているということは、
大変喜ばしいことです。

かつて、その絵本で楽しんだという親世代が、
その続編の新刊本を自身の子どもとともに読むことができる、
というのは、まるで奇跡のような体験ではないですか。
思わず童心に返ってしまうような方も少なくないのではないでしょうか。

そのようなシリーズものを読み聞かせで利用するのは、
よいアイデアだと思います。
このシリーズを読みつづけると決めてしまえば、
あれこれ迷ったり、
失敗することもないので選書がラクですし、
人気が高いため、子どもたちの反応もよいはず。
「いつも、○○シリーズを読んでくれるお母さん」
という認識を子どもたちに持ってもらうこともでき、
地域の子どもたちに何か困ったことなどがあった際、
信頼できる、頼れる大人のひとり、と思ってもらうことにも繋がります。

しかし、ずっと、そればかり…、
というのは子どもたちも、読み手の方も飽きが来るときがあるに違いありません。
そのとき、また別のシリーズものを読んでみてもよいでしょうが、
たまには、その「間違いのなさ」から逸脱して、
ちょっと毛色の違った個性的な絵本を読んでみるなんてこともアリかもしれません。
子どもたちからは、思ったようなリアクションは得られないかもしれませんが、
自分にも、子どもたちにも、
あらたな発見があることは間違いありません。

シリーズものというのは、
大多数の子どもが支持し、好意的に受け入れる要素のつよいものです。
しかし、少数派というのは、
子どもの世界にも存在するもので、
大多数からの支持は受けずらい、
個性的な本をあえて好むというタイプの子も中にはいます。
私たちは、日頃、読み聞かせをする上で、
大多数の反応を気にすることが多いものですが、
少数派の子どもの気持ちを丁寧にくみ上げることも、
読み聞かせの使命のひとつであると思うのです。

<絵本、読み聞かせ、横浜>


読みきかせの講座に通っています、習った通りに読んだのですが…:絵本読み聞かせ横浜祭

2017年10月29日 15時03分31秒 | 日記

「子どもの通う小学校で、
読み聞かせを始めるにあたって、
初めてなので分からないことだらけで…。

身近で読み聞かせの講座をやっているのを見つけて参加しました。

まずは、読み聞かせに適した
選書の仕方をじっくり教えてもらい、
実際にプロとして読み聞かせ活動を行っている方の実演も見せていただいたので、
とても参考になりました。

数回に及ぶ講座を学び終えて、
修了証もいただいて、
そこで習った通りに、
子どものクラスで絵本を読んだのですが…」。

そこまで話されて、その方は黙ってしまわれました。
私は、その方の言おうとしていることが、
なんだか分かるような気がしていました。

読み聞かせの講座では、
読み方について、このようなことが教えられます。

読み聞かせをするときは、
感情を込めたりして大袈裟に読んではいけない」。

これは、読み聞かせを通じて、
なんらかの自己表現をしようと思っている人には、
一種の厳しい「縛り」のように感じられてしまうものですが、
本を読むことは好きだけど、人前で発表することなどは苦手、
目立つのはイヤ、というような消極的な性格の人には、
「そうか、読み聞かせするときには感情を込めなくていいんだ。
大きな声を出して派手に読む必要もないんだ」
と好意的に解釈され、読み聞かせをすることの苦手意識を消し去る、
ある種免罪符のような効果を発揮するようです。

しかし、その教えは、
実は「縛り」なわけでも「免罪符」でもありません。
どちらも間違っている、というわけではないのですが、
それぞれの解釈にはやや不完全なところがあるのです。

読み聞かせを通じて自分なりの表現をしたい、
と思う人は少なくないようです。

それもまた、ひとつの考え方ではありますが、
パフォーマンスではなく、
あくまで「読み聞かせ」を軸に考えてみますと、
あくまで絵本の内容を伝えることが大切なのであり、
「あの本を読んでいる人、面白いなあ」と、
自身のパフォーマンスのみが聞き手の記憶に残り、
「で、いったいどんな話だったっけ?」
となってしまうのでは、本末転倒です。

表現なんかはしなくていい。感情を排してただ淡々と読めばいい」。
そんなことだけを考えて読みますと、
聞き手の誰の心にも響かない、
独りよがりな読み聞かせになってしまうことがあります。
大袈裟に読まない、ということは、
声のボリュームを出さなくていい、ということではありません
また、声のボリュームはある程度出ていても、
抑揚を出さない、淡々と読む、
ということばかりに気を取られ、
コトバがうわのそらで宙を舞ってしまっている場合もあるようです。

読み聞かせとは、そう言った表面的なことではないのです。

自己表現をしたい人は、「届けるコトバ」は持っています。
でも、それが、「上手に読んでいる私を見て!」
というだけのメッセージだったら、
読み聞かせを楽しみにしていた聞き手にとっては、
「押し売り」と取られかねません。

届かない声、うわのそらのコトバは、
せっかく読み聞かせを楽しみに集まっていてくれた人々に対し、
「読み聞かせって、つまらないね…」
というような感想をもたらしてしまうかもしれません。

では、一体どうしたらよいのでしょうか。

まずは、絵本を好きになってください。
好きになった絵本をよく知ってください。
その本のことをだれかに知って欲しい、伝えたい、と思えたら…、
きっと聞き手の心に届く、すてきな読み聞かせができると思うのです。

<絵本、読み聞かせ、横浜>


読み聞かせを始めるにあたり、いちばん大事なことを伝えたい!その2:絵本読み聞かせ横浜祭

2017年10月28日 01時11分10秒 | 日記

どんなにすぐれた読み手であっても、
読み手側、聞き手側双方のコミュニケーションがなければ、
そのように本を読んで聞かせることだけで、
モノクロ本から、
極彩色のギリシア神話の世界をつくりだすことなどできっこありません。

昨今、スマホを利用した、子育てアイテムが若い母親たちを中心に人気です。
技巧的に優れた読み手による絵本の読み聞かせなども、
映像として見ることが可能です。

しかし、どんなに読み方がすばらしくとも、
映像による読み聞かせでは
双方向のコミュニケーションが成り立ちません。
映像から発せられる声は音声信号に変えられ、
生の声の温かみは失われてしまいます。

ですから、たとえ、たどたどしくとも、
手慣れていなくとも、自身の生の声で、
読み聞かせをして欲しい

双方のコミュニケーションから生まれる
読み聞かせの世界というのは、
無限の広がりを持っているもの

叔母がその声で、
ギリシア神話の極彩色の世界を、
まだ幼かった私のためにつくりあげてくれたことからも分かるように。

<絵本、読み聞かせ、横浜>


読み聞かせを始めるにあたり、いちばん大事なことを伝えたい!:絵本読み聞かせ横浜祭

2017年10月26日 22時22分20秒 | 日記

<参考例>
幼い頃の私は、
多くの人から読み聞かせをしてもらいました。

中でも、とくに印象が強かったのは、
当時学生だった叔母が読んでくれた、
ギリシア悲劇の「ナルシスとエコー」の物語。
私は小学校に上がる前くらいの年齢だったと思います。
ナルシスとエコーの物語は、報われぬ愛のために、
湖のほとりに咲く花になってしまったり、
恥ずかしさに自身の姿がだんだんと消えてなくなり、
やがて声だけの存在になってしまうという、
残酷な悲恋の話です。

幼稚園の子どもにはきっと難しかったと思います。
けれど、私は、その本がいたく気に入り、
叔母に「ちょうだい」とねだったところ、
いつも気前のよい叔母にしては珍しく、
「買ったばかりだからダメ」と
つれない返事で断られたことを、
今も鮮やかに思い出すことができます。

その本に、大人になってから再会しました。
その本は、私の記憶の中では〝オールカラーの色鮮やかな絵本〟
だったはずが、実際のその本は、
モノクロの切り絵が部分的に挿絵としてつかわれているだけの、
大人っぽい地味な童話だったのです。
極彩色のギリシア神話の世界をつくりだしたのは、
叔母の読み聞かせによる〝マジック〟
だったんだな、と思い至りました。

叔母が読み聞かせによって作り出したのは、
色鮮やかな〝〟だけではありませんでした。
ナルシスが覗き込む湖の冷たさ(触感)や、
走って逃げるエコー少年の息づかい()や、
濃密な森の匂い(臭覚)まで、
私は感じることができ、
いまなお、脳裏に再現することが可能だったのです。

それはきっと、私と叔母との双方向コミュニケーション
「共犯関係」によって作り出された世界だったのだと思います。

どんなにすぐれた読み手であっても、
読み手側、聞き手側双方のコミュニケーションがなければ、
そのように本を読んで聞かせることだけで、
モノクロ本から、
極彩色のギリシア神話の世界をつくりだすことなどできっこありません。

昨今、スマホを利用した、子育てアイテムが若い母親たちを中心に人気です。
技巧的に優れた読み手による絵本の読み聞かせなども、
映像として見ることが可能です。

しかし、どんなに読み方がすばらしくとも、
映像による読み聞かせでは
双方向のコミュニケーションが成り立ちません
映像から発せられる声は音声信号に変えられ、
生の声の温かみは失われてしまいます。

ですから、たとえ、たどたどしくとも、
手慣れていなくとも、
自身の生の声で、読み聞かせをして欲しい。
双方のコミュニケーションから生まれる読み聞かせの世界というのは、
無限の広がりを持っているもの

叔母がその声で、
ギリシア神話の極彩色の世界を、
まだ幼かった私のためにつくりあげてくれたことからも分かるように。

そしてまた、読み聞かせというものが
どんなに子どもによい影響を及ぼすかということを知っていても、
読み聞かせを義務だけで行うようなことはしないで欲しいのです

叔母は、私のために読み聞かせする本を選書したのではなく、
自分が欲しいと思った本を手に取り、
購入したに過ぎなかったに違いありません。
「なんか読んで」とねだる私に、
たまたま、持っていたその本を読んで聞かせたのでしょう。

幼稚園児に地味な表紙のギリシア悲劇を
わざわざ読んで聞かせようなどとは、
いくらなんでも思っていなかったはずです。

けれど、結果的に、
私は叔母から途方もなくゴージャスな読み聞かせの贈り物を受けることができたのでした。

<絵本、読み聞かせ、横浜>


読み聞かせと演劇・お芝居は違うと言われたけど、どこが違うの?:絵本読み聞かせ横浜祭

2017年10月24日 15時36分51秒 | 日記

近年、舞台や映像メディアなどで活躍される役者さん、
声優さんなどによる読み聞かせが盛んになっています。

読み聞かせの講座を依頼されることも多い、
ある女優さんは、
「読み聞かせを中心に行っている方の読み方というのは、
わりと控えめですよね」と語られていました。

「私は、絵本のセリフのところは、
登場人物になりきって思い切りよく演じるように心がけていますし、
観客を飽きさせないため、読み方に心地よいリズムを持つようにしています」。

役者や声優ではなく、
読み聞かせだけを行っている人の読み方は控えめだから、
もっと派手に読んだ方がいい、とその女優さんは感じ、
アドバイスもしていたようですが、
実際に読み聞かせのレクチャーなどを受けると、
女優さんの意見とは真逆の指導をされたりするものなのです。

「読み聞かせとは演じるものではない。
大袈裟な読み方はNG。
抑揚はつけず、感情を荒らげず、淡々と読みなさい」。

つまり、読み聞かせを中心に行っている方というのは、
もともとが控えめな読み方をされていたというばかりではなく、
指導の上、抑揚をつけず淡々と読む訓練をし、
あえて控えめに見えるように読んでいる場合が少なくないのです。

演劇畑の人は、そのような指導をされるとたいてい面食らってしまうようです。
しかし、本は好きだけど、人前に出て発表するとか、
派手なことが苦手という人にとっては、
その指導がありがたい福音ともなるでしょう。

けれど、もし、その指導を頭でっかちに、
表面的にしか理解できないと、控えめどころか、
単なる地味で心ない読み聞かせにしかならない場合もあります。

絵本の持つ世界観を伝えるために、
大袈裟なパフォーマンスは必要ありません。
しかし、だからと言って、
感情を排した無機質な読み方を習得しさえすれば、
必ずや絵本の世界観が伝わるというのは間違った認識に他なりません。

いちばん大事なことは、
読み聞かせをしようとしている本を深く理解するということです。

その絵本にじっくりと向き合い、
読み込めば、作家が伝えようとしていることが、
おのずと理解できるのではないでしょうか。

そうしたアプローチは、実は演劇の世界でも通用することなのです。
ただ自分のセリフをどう言おう、どうすれば自分が目立つか、
そういったことばかりに気を取られていると、
よい作品はできません。

脚本を深く読み込むことで、
ストーリーの全体像が見えてきて、
自分の与えられた役柄への理解が深まり、
その作品の中での、自分の役割・立ち位置はどういったものなのか、
どのような立ち居振る舞いが妥当なのか、
そのようなことが自然と分かるのです。

それは〝個〟を消して、その物語の中の住人となり、
その演劇世界を真に生きることに繋がり、
ステージに感動を呼び起こします。

絵本の読み聞かせにも同じことが言えると思うのです。
深い理解の上で行われる読み聞かせは、
読んでいる〝私〟というものが消えて、
聞いている人を、その絵本の世界に誘うことだからです。

絵本の世界を真から愛し、
伝えようという気持ちを持ってさえいれば、
抑揚や声音は、とくに大袈裟に演技せずとも、
ごく自然に滲み出てくるものでしょう。

読み聞かせは演技や芝居とはまったく別物、
と断言される指導者が多いですが、
絵本や脚本の持つ世界観を伝えるために、
テキストに真の愛情と深い理解が必要という点では、
どちらも似通っていると私は思うのです。


☆あのう、要するに
絵本が好きなのか?!
絵本を通してその先にいる子供(人間)が好きなのかでしょう。。。

楽しい時間を共有するために絵本に向き合いうのであって。。。
作家が伝えようとしていること等は、
運が良ければ、その場で伝われば良いし、
時が経過してから、ああそいうことだったのだなぁ。。。
と思へば良いのではと思う。。。

『個』を消して、その物語の中の住人となり。。。
幻想です!演者側が個を消すのではなく
観客が想像力で演者の『個』を消せば済むのです

演劇読み聞かせも。。。
観客の想像力で補われて、
はじめて成立するのです

静的or動的に読もうが演じようが、
観客の想像力をかき立てることができれば、
良いのです

答えは、一つでありません。
絵本と読み手の組み合わせで、
まったく別の作品と言えるのが、
絵本の読み聞かせだと思うのです。

<絵本、読み聞かせ、横浜>


ユングの理論とレビンソンの理論:絵本読み聞かせ横浜祭

2017年10月23日 03時24分40秒 | 日記

ユングは、「人生の正午」について次のように語っています。

「太陽は、予測しなかった正午の絶頂に達する。
予測しなかったというのは、
その一度限りの個人的存在にとって、
その南中点を前もって知ることができないからである
正午12時に下降が始まる
しかも、この下降は午前すべての価値と理想の転倒である。
太陽は、矛盾に陥る」

確かに、人生の正午を迎える時、
人は「自分自身について
これからの生き方について

真剣に考えることを迫られるでしょう。

午前と同じ生き方をしていくわけにはいかない、
今まではとは違う生き方をしなくては、
でもどうすれば良いんだろう?

…こうして生きること自体につまずき、
生き方や価値観の転換
うまくできないケースも珍しくありません。 

実際、約8割の人が激しい混乱を経験すると言われています。

これが、いわゆる「中年の危機」ですね。
この「中年の危機」という言葉を生み出したのは

アメリカの心理学者レビンソンですが、
彼はこの時期(40歳頃)になすべき課題として

若い時代を振り返って再評価すること
それまでの人生で不満が残る部分を修正すること

新しい可能性を試してみること
人生の午後に入るにあたって、
 生じてきた問題を見つめること

…を挙げています。
さらに、レビンソンは、
この危機的時期をうまく切り抜けられれば、

よき指導者、そして、よき助言者として自立できると説いています。

もちろん、ユング
中年の危機を乗り越えることの意味を強調しています。

何を隠そう、ユング自身も「中年の危機」の経験者です。

中年の危機を乗り越えることが、
その人の人生の午後をどれだけ深く、創造的にするかを身を持って体験しているわけです。
だからこそ、ユングの言葉には説得力があるんですよね。

<絵本、読み聞かせ、横浜>


「人生の正午」という考え方③:絵本読み聞かせ横浜祭

2017年10月15日 19時22分02秒 | 日記

「今のままでこの先も幸せ?」と揺れる40歳

 「30代前半までは若くて体力もありますから、
仕事も楽しいでしょうし、
独身でも毎日ハッピーに過ごせるでしょう。
しかし、30代後半にさしかかり、
40代という中年期が目の前に迫ってきた時
『今のままでこの先もハッピーでいられるだろうか』と思うようになります。
すると、それまでの自分らしさや価値観だけでは
この先は生きていけないと感じます。
それが、アイデンティティの揺らぎなのです」

 しかし、経験も積み、
自分なりの価値観も完成したところで、
なぜ「それまでの自分ではやっていけない」と感じるのでしょうか。

 「中年期はさまざまな喪失体験をしやすい時期なのです。
自分自身の病気や怪我はもちろん、
年老いた親の介護や死、
子どもの病気や親離れなどですね。
また、子どもを望んでも授からないとか、
リストラといった経験をする人もいるでしょう。
そうした喪失体験をすると、
若い頃は無限に思えた自分の人生が、
実は有限であるということに気付きます
残り時間を意識したり、
場合によっては、それまでの人生設計を変更せざるを得なくなる人もいるでしょう。
また、体力の低下など、
身体的な衰えを実感しやすいのもこの時期です。
仕事の仕方やライフスタイルを変えざるを得なくなるケースも出てきます。
そうした危機に直面した時には、
それまでの考え方や価値観、
自分らしさでは対応しきれないのです

 それまでのやり方や自分らしさが通用しないため、
「今までの生き方は間違っていた」
「こんなはずではなかった」と、
行き詰まりを感じてしまうというわけ。

 こう言われると、ミッドライフクライシス=お先真っ暗、
と感じてしまう人もいるかもしれませんが、
決してそうではないと岡本さんは言います。

 「心理学的に『危機』という言葉は、
破局的な状況という意味ではなく、
回復するか、悪くなるかという決定的な転換点を指します

ミッドライフクライシスもまた、
心を発達させ、変容させる転換点なのです」

<絵本、読み聞かせ、横浜>


「人生の正午」という考え方②:絵本読み聞かせ横浜祭

2017年10月09日 04時02分29秒 | 日記

ミッドライフクライシス
という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
日本語に訳すと「中年の危機」です。

これは、さまざまなきっかけで
それまでの価値観がひっくり返り
その後の生き方を問い直すことになる、
人生の分岐点です。
その分岐点に立った時、
どんな風景が見え、どう心が動くのか――。


40歳は、見えていなかった人生の影が見える時期

 自分の歩いてきた道を振り返り、
「こんなはずではなかった」「これでよかったのだろうか」
……そんなふうに感じたことはありませんか

 今まさにそう感じている人は、
ミッドライフクライシスを迎えつつあるのかもしれません。

 一般的に、40歳から60歳くらいまでを中年期と呼びます。
ユングは、中年期を「人生の正午」と名付けました。
つまり、人生のちょうど真ん中、折り返し地点というわけです。

 40歳といえば、職場ではベテランとして能力を発揮したり、
管理職として部下や後輩を指導する立場です。
仕事人としてまさに「脂が乗った」年代と言えるでしょう。

 プライベートでも恋愛や結婚、出産などを経験し、
「大人」とみなされる年頃です。
人は、こうして仕事やプライベートで
さまざまな経験を積むことで、
自分なりの価値観や生き方を確立していくもの。
しかし、悩みがまったくないわけではありません。

 大人の発達臨床心理学を専門に研究する
広島大学教授の岡本祐子さんは、
中年から先は、
それまでとまったく違う地平が広がっている」と言います。

「分別をわきまえ、成熟した大人とみなされる中年期ですが、
その内面には、深刻な問題が潜んでいる可能性があります。
それらと向き合わざるを得ないのが、
ミッドライフクライシスなのです。

ユングも言っているように、
人生の前半は午前中の勢いある太陽の光のような、
強い光に目がいきがち。
しかし、正午を過ぎ、
太陽が傾き始めると日の光は弱まり、
影の部分に目がいくようになります。
つまり、中年期にはそれまで見えていなかった部分が
見えるようになり、
アイデンティティが揺らぎ始めるのです

 アイデンティティとは、
「これが自分である」と感じるもののこと
例えば、「仕事をしている私が一番私らしい」と感じる人なら
「仕事人としての私」が、
「子どものためにおいしい料理を作っているのが私らしい」という人なら、
「母親としての私」がアイデンティティと言えるでしょう。

 ただし、アイデンティティは一つではなく、
「△△社の社員としての私」
「趣味のスキーに没頭しているスキーヤーとしての私」
「母親・妻・娘としての私」と、
人の中にはさまざまなアイデンティティがあります

つまり、アイデンティティは、
その人の価値観そのもの
そうした「これが私」と信じていた
自己像や価値観が揺らぐのが、
ミッドライフクライシスだと岡本さんは言います。

<絵本、読み聞かせ、横浜>


「人生の正午」という考え方①:絵本読み聞かせ横浜祭

2017年10月01日 18時29分25秒 | 日記

混沌としていて、人の心はもちろんのこと、
自分の本心さえも見えにくい現代社会。
自分自身との「対話」を重視した
ユングの心理学は、
現代を生きる私たちに
何らかのヒントを与えてくれるハズです。

一生を太陽の運行になぞらえてみる

ユングが残した有名な考え方に
人生の正午」というものがあります。
彼は、人生を一日の太陽の運行になぞらえて考え

人生を4つの時期に分けて定義しています。

人生の正午」とは
青年→中年にさしかかる頃ですよね。
この時期を、ユングは「転換期」であると捉え、

危機の時期」でもあることを指摘しています。

確かに、自分たち自身について考えてみても、
この青年→中年の過渡期を
うまく乗り越えられなかった人、
「中年になること」をポジティブに
受け入れられなかった人たちは
得てして心身を病んでいるような
印象がないでしょうか?

ユングも、成人期→中年期の移行期については、
生の午前→午後への移行期として、
重要視していたようです。

午前というのは、日が上昇していく時間帯
つまりは人生も「これから」という時期です。

心身ともに成長し、
自分を取り巻く世界もどんどん広がっていきますよね。

これに対して午後は、
日没に向けて“暮れて”いく時間帯
生では、老いていくプロセスに入っていくわけで…。

もちろん、人によって捉え方は様々ですし、
40代、50代になってから人生が花開く人もいます。

ですから、一概には言い切れませんが、
やはり
「これから暮れていく」
「人生が終盤にさしかかる」というのは
ネガティブなイメージがついてくるもの。
「自分のこと」として
うまく受け入れられない方が多いのも
仕方ないのかもしれません。

<絵本、読み聞かせ、横浜>