誤報・防災の誤算が多くの行方不明・死者に繋がる!新聞記事をみて現地での被災者証言に思い当たる。

2011-04-22 00:11:34 | 3.11大震災・釜石
きのう20日付けの朝日新聞夕刊・一面の見出しを見て、その記事を読み進みながらハッとした。釜石で聞いた話が思い起こされたからだ。
記事全文は以下の通り。

「津波3メートル」独り歩き  
気象庁情報 停電で更新不能
釜石の防災無線 
実際は9メートル到達


写真=大きな被害が出た岩手県釜石市鵜住居地区=3月11日午後、浦山奈穂江さん提供
 

 東日本大震災で津波を知らせる防災行政無線の放送内容は、被災した沿岸自治体ごとに違っていた。予想された津波の高さを知らせず、「とにかく逃げて」と訴えて功を奏した自治体もある一方、「高さ3メートル」と放送したため、2階に避難すればいいと判断して被災した人が多い自治体もある。行政は何をどう伝え、市民はどう対処すべきか。課題を残した。

 3月11日、気象庁は地震発生3分後の午後2時49分に大津波警報を発令し、1分後に岩手県には高さ3メートルの津波が来ると予想した。これを受け、岩手県釜石市は午後2時50分と同52分に「高いところで3メートル程度の津波が予想されます。海岸付近の方は直ちに近くの高台か避難場所に避難するよう指示します」と市内96カ所のスピーカーで放送した。

 気象庁は津波予想を、午後3時14分に6メートルと切り替え、同31分に10メートル以上とした。しかし、市は停電で気象庁情報を伝えるメールを県から受け取ることができなくなっていた。この間、避難を指示する放送を6回繰り返した。

 2階への避難多数

 その結果、市民の中には「津波は3メートル」と思い込み、2階に避難すれば大丈夫と判断した人が多かった。実際には、釜石港には約9メートルの津波が押し寄せたとみられている。

 2階建ての同市鵜住居(うのすまい)地区の防災センターには周辺住民150~200人が駆け込んだが、2階まで被災し生存者は約30人だった。避難した古川悌三さん(72)は「もっと高い津波と知っていたら山に逃げた」と話す。

 同市の漁師坂本正男さん(55)は地震発生時、海辺の倉庫でワカメの加工作業をしていた。立派な防潮堤があるので、3メートルの津波なら避難しなくていいだろうと思ったという。だが、外に出てみると、すさまじい音が海から聞こえ、慌てて逃げた。「妹と義兄も見つかんねえ。こりゃあ人災じゃねえか」と憤る。

 市防災課は「確実な情報が得られない中で精いっぱいやった」としている。

 「とにかく逃げて」

 一方、隣の岩手県大船渡市は当初から津波の高さを言わず、大津波警報の発令と高台への避難のみを呼びかけた。市防災管理室は「津波は湾によって高さに差が出るので、誤解を与えないようにしている。警報の発令さえ知らせれば逃げてもらえる」という。

 大船渡港を襲った津波は約9.5メートルとされる。同市の死亡・行方不明者は約500人。一方、釜石市は1300人を超えた。

 岩手県山田町は「3メートル以上」と放送した。その後、予想される津波の高さが6メートルに切り替わったことをテレビで確認し、放送の準備をした。しかし、消防署庁舎から津波が見えて、全員が屋上に避難し、放送できなかった。

 同町の田老邦光さん(52)は「3メートル程度の津波と思い込み、自宅の2階に避難した人が大勢いる。自分も堤防を越える津波を見て慌てて逃げた」と話す。職員の間からは「ただ『逃げてください』と連呼した方がよかったのでは」との反省も出ているという。

 市街地がほぼ壊滅した陸前高田市と大槌町では資料がすべて流されてしまったため、どんな放送をしたかわかっていない。

 宮城県では当初から6メートルの大津波警報が出ていたが、放送内容は自治体によって違っていた。南三陸町では、地震直後から「6メートルの津波が来ます」と防災無線で呼びかけた。無線を聞いて高台に避難した町民も多かったが、実際の津波は15メートルを超えており、3階建ての防災対策庁舎が水にのまれて、多くの町職員が犠牲になった。

 同県気仙沼市の対策本部によると、3月11日当日は、気象庁の大津波警報が出た時点で防災無線を使って避難を呼びかけた。具体的な津波の高さを明示して注意を促したかどうかは記録が残っていないが、「とにかく高台に避難を、と徹底的に呼びかけた」という。


 群馬大大学院災害社会工学研究室の片田敏孝教授は「速報性を重視する気象庁が初期段階で発表した3メートルという数字が独り歩きしてしまった。津波速報の活用方法を、行政も市民も見直す必要がある」と話す。(青木美希)
一方、隣の岩手県大船渡市は当初から津波の高さを言わず、大津波警報の発令と高台への避難のみを呼びかけた。市防災管理室は「津波は湾によって高さに差が出るので、誤解を与えないようにしている。警報の発令さえ知らせれば逃げてもらえる」という。

 大船渡港を襲った津波は約9.5メートルとされる。同市の死亡・行方不明者は約500人。一方、釜石市は1300人を超えた。

 岩手県山田町は「3メートル以上」と放送した。その後、予想される津波の高さが6メートルに切り替わったことをテレビで確認し、放送の準備をした。しかし、消防署庁舎から津波が見えて、全員が屋上に避難し、放送できなかった。

 同町の田老邦光さん(52)は「3メートル程度の津波と思い込み、自宅の2階に避難した人が大勢いる。自分も堤防を越える津波を見て慌てて逃げた」と話す。職員の間からは「ただ『逃げてください』と連呼した方がよかったのでは」との反省も出ているという。

 市街地がほぼ壊滅した陸前高田市と大槌町では資料がすべて流されてしまったため、どんな放送をしたかわかっていない。

 宮城県では当初から6メートルの大津波警報が出ていたが、放送内容は自治体によって違っていた。南三陸町では、地震直後から「6メートルの津波が来ます」と防災無線で呼びかけた。無線を聞いて高台に避難した町民も多かったが、実際の津波は15メートルを超えており、3階建ての防災対策庁舎が水にのまれて、多くの町職員が犠牲になった。

 同県気仙沼市の対策本部によると、3月11日当日は、気象庁の大津波警報が出た時点で防災無線を使って避難を呼びかけた。具体的な津波の高さを明示して注意を促したかどうかは記録が残っていないが、「とにかく高台に避難を、と徹底的に呼びかけた」という。

 群馬大大学院災害社会工学研究室の片田敏孝教授は「速報性を重視する気象庁が初期段階で発表した3メートルという数字が独り歩きしてしまった。津波速報の活用方法を、行政も市民も見直す必要がある」と話す。(青木美希)

=ここまでが、新聞記事=

・釜石で、従姉妹のはなし。
 津波がくる・・・高さ3メートル程度の・・・
午後から車で港の近くにある免許センターへ出かけた。書類ができるのを待っているときに聞いた。車に乗って帰る際に、実家に立ち寄ろうか、このまま小佐野の家へ帰ろうかと運転していたら、びっくり仰天。
バックミラーに黒い津波の大きな塊が、襲って来ているではないか。
釜石湾にはギネスブックに載ったほどの巨大防波堤が完成してあるというのに、なぜ!!?
”津波は3メートル”と知らされていたから、大変な誤報だ!と怒ってもはじまらない。必至で、死に物狂いでアクセルを踏んで逃げた。
そう語る唇が、恐怖で歪んでいました。住まいがあるのは、釜石市小佐野だから、幸いにも津波の被害とは無関係の地域だ。しかしあれ以来、実家のある天神町方面には足を向けたくないという。生まれ育った釜石のまちを、一瞬のうちに蹴散らしてしまった瓦礫の光景は、見たくないからだ。死の恐怖が襲ってくるからだ、という。

・津波が襲ってくるまで信じられなかった。浦の法華さんの高台へ避難して見た光景は、目を覆うばかりだった。船も自動車も、枯れ葉のように流されてくる。歩いていたはずのお年寄りが、波にさらわれていなくなってしまった。

・3メートルの津波なんてもんじゃない。早い流れで黒い塊が、一瞬にしてまちを呑み込んでいった。とにかく速かった。恐怖でした。

・港から1キロ以上も離れているから大丈夫、と家の中にいて被災した人がずいぶんいたと思います。

・防災無線放送があったけど、2日前の9日にも地震があり大丈夫だったからと、判断を誤った人が多かったよう。

・午前中に出かけていた大槌町のまちが消えて無くなった。一緒にお茶していた友人らは、未だに行方不明です。私は歯医者の予約時間が午後2時だったから、八雲の方に帰っていて難を逃れたけれど、大変悲しい日々が続いています。

・釜石市役所が、停電で県からの気象庁情報を受信できなくなっていた、とは。行政としては、自家発電装置など普段からの備えが不十分だ。

・天災に人災が加わって、被害を大きくした。危機管理の点で課題が多い。災害に強いまちづくりと対策について、叡智を結集しなければなりません。

さきほど、千葉県で震度5弱を観測した地震が発生した。
マンションの10階は、かなりの揺れを感じた。
帰宅したちひろに言ったら。
地下鉄の車内だった、地震を予知した携帯電話の警報がピコピコとにぎやかに鳴った。ほどなく地震の揺れがあった。が、電車はすぐに走ったからホッと安心。
帰宅の乗客でいっぱいの車内だったが、慣れてしまったのか、平静の様でしたよ。

あークワバラ、くわばら・・・
 どんとはれ

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1 コメント

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無力な政治 (Unknown)
2011-06-21 00:37:46
発生から100日を経過したいま、国会ではようやく法案がひとつ。政治が見えない。これまで何をやってきたのか?馬鹿にするのもいい加減にして欲しい。

被災地のみなさん・・・・これからずっとがんばり続けるためにも、がんばり過ぎてはいけません。
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