千葉千枝子さま、こちらこそありがとうございました。

2011-05-08 14:26:15 | 3.11大震災・釜石
千葉千枝子さまコメントありがとうございました。このたびの震災のことは、これからもさまざまな媒体を通して情報発信されていくようですので、できる限り拝見させていただきたいとおもいます。これからの千葉さんのご活躍をお祈りしています。(観光ジャーナリスト・千葉千枝子さんのHPは、必見です)

さて、この連休を利用して長男と妹が夜行バスで釜石へ。未だまちそのものが悲惨な災害状況の中で、まちなかを徒歩で移動したり、ホテルでは雑魚寝を余儀なくされたり、難儀をしてきた体験をいろいろと聞きました。今回は葬儀の打ち合わせでしたが、日本基督教団新生釜石教会で6月4日に執り行うことが決まりました。

母咲子の確認ができたのは、3月28日新日鉄東門の遺体安置所。ヒンヤリトシタ体育館みたいな工場跡地の地べたに、棺が並べられいました。一時間ほど前の発見でしたから、「66」番目の母には、棺はありませんでした。その数メートル手前に「下川原00」(年齢75?)と「下川原00」((年齢7 ?)さんがいらっしゃいました。「遺体確認された棺」はじめ「未確認の棺」と全てに、手を合わせて参りました。

その遺体安置所で死亡診断書を書いてもらって、(普段は、釜石市周辺の観光とみやげ物店が並ぶ「シープラザ」=)災害対策本部となっている駅前の建物へ移動。その一画にある火葬受付のテーブルへ。(ココでの対応は、市の職員ではなくどこかの女子大のボランティアさんだという)
「火葬は、青森県か秋田県だと明日以降直ぐにできますが、いかがなさいますか?」「わたしたちは、釜石での火葬を希望します」と申し出たら「では、一番近いところで、4月5日です」と、すべてが“災害特例”のなかで粛々と進行していきました。

という訳で、4月5日の日は、札幌・埼玉・葛飾・松戸などから盛岡駅前に20人が集合して、そこから貸し切りバスで釜石斎場へ。そのあと石応寺でお経の後、本堂横にある建物に仮置きしたまでした。今回行ったら、「お母さんの近くに、下川原孝さんの骨壷があったよ」とのこと。これもご縁を感じます。

下川原さんは、80歳を過ぎてから詩吟を始められ、会員のみなさんが自分のことのように、敬愛する自慢の存在で人気者でした。「ものごとを始めるのに歳は関係ない。自分にエンジンをかけるのは自分だからね」を自ら実践されていたようです。
陸上の世界記録達成ニュースやテレビ出演のことなどのビデオテープを送ってきて「わたしも下川原さんのように100歳まで元気でいるからね」と明るく話していました。
母は、90歳の今でも全部自分の歯で、子どもや孫たちと晩酌をするのが楽しみでした。最近になって始めた携帯電話は、近況を写メールするなどめきめきと上達し、送受信し合っていました。戦争という時代を生き抜いてきた艱難辛苦を乗り越えて、活力にして、いつもくよくよしないで明るく前向きに生きている姿に、子どもたちも安心しつつ、勇気付けられてきたことは確かでした。だから高齢となっても、釜石でいる一人住まいは、子どもらにとっても全く自然な姿でした。そのかわり季節の変わり目などに、子供か孫の誰かが釜石へ出かけて、家の整理整頓などをしていました。

下川原孝様   磯崎咲子さん
 
いつまでも、いくつになっても、わたしたちのそばにいるものだ、と思って疑いませんでした! 津波が憎い!

<合掌>







 

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1 コメント

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Unknown (千葉千枝子)
2011-05-21 01:47:33
本日、久しぶりにインターネットを検索しまして、このページに辿り着きました。
あらためまして、ご母堂様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

他人事のようには思えない、壮絶な日々であったことと拝察いたします。バイオマスセンターで、きっと、もっとも手前にありました叔父の棺を見つけてくださったのですね。生涯忘れることのない寂しい対面の場でしたね。

若々しかったでしょうに、生前のお母様の明るいお姿が目に浮かぶようです。6月4日の釜石でのご葬儀を、遠く東京よりお祈り申し上げております。釜石に、また活気が戻りますよう…。本当に有難うございました。  千葉千枝子拝

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