最近、突然にお亡くなりになった野球の木村コーチ。
ご本人も突然ぱたりと意識が途切れたまま
お亡くなりになったのではないかと思います。
37歳とお若いのに。体力もおありだっただろうに。
野球はまったくわかりませんが、残念です。
ただ、たぶん前日頭が痛いとおっしゃっていたそうですから、
その時点でもう出血をしていたのでしょう。
くも膜下出血は1回目の出血から2回目を引き起こすのは数日以内で
かなりの高確率で起きるといわれています。
頭が痛い時点で病院に行く勇気があったら。
残念でなりません。
その影響で連日、
死因となった「くも膜下出血」が報道されています。
私も2年前同じ病気になりましたが、この病気からはすんなり復帰。
早期発見・早期処置そしてただただラッキーだったのだと思います。
それを忘れないうちに記しておこうと思います。
2008年7月19日(土)
神戸に帰省。父のホームへ行き、散歩をしたり、買い物したり。
夕方ホームを出て、カットに行く。
懐かしい友人から電話がかかってくるが、うまく出られず。
神戸の家で仕事をする。夜中までかかる。
エアコンの利きが悪く、蒸し暑い。
2008年7月20日(日)
21日まで休みなので1泊で奈良へ「法隆寺金堂展」行く。
暑い!暑い!暑い!大阪、奈良と猛暑。蒸し暑い。
でも、法隆寺の四天王や興福寺の阿修羅さま、東大寺などにいたく感動。
夜のライトアップコースに申し込み、バスで若草山などいろいろめぐる。
夜9じすぎ。ご飯を食べるところがない。岩盤浴とか思っていたけど
そのような施設もない。ホテルでご飯をやっと食べる。疲れたが、感動もあって、
結構充実した気分。
2008年7月21日(月)
奈良ホテルに泊まったので、うろうろ。歴史あるホテル。
昼過ぎに奈良発伊丹空港行きのバスに乗るまで
東大寺の二月堂や普賢菩薩、四天王などをみて、またまた感動する。
ただ、このとき疲れてタクシーに乗る。
商店街に出て観光センターのエアコンで涼をとった記憶あり。
東京に戻る。
2008年7月22日(火)
朝から重苦しくて、頭が重い。最近頭痛がひどいことが定期的にあり、
頭が重いのはその前兆のことが多かったので、会社を休む。
だるい。ただ、この症状はよくあることではあった。
夜9時過ぎ、明日会社に行かねばと、
サラダを食べてリフレッシュ!と思い、食べていたら、
後頭部首の付け根のちょっと上あたりが「プチ」と音がした。
そのとたん、首が硬直。首を回せるどころではない。冷や汗。
ただ、からだは動ける。意識も鮮明。
明日病院に行くか、救急車かを15分ほど考える。
でも冷や汗とちょっとした吐き気、
プチと音がしたあたりに血が広がる感触(触ったが血はつかないので
体の中と認識)があったので、救急車を呼んだ。
来るまで確認の電話が2回。家族に病状を聞く想定のようだが、
本人なので、コレは結構きつかった。
9時半すぎ救急車到着。病院着はたぶん10時ごろではないか。
救急車では「脳出血もしくは肩こり」と病院との受け入れ連絡で
言っていた。「えー、肩こり?」と内心ずっと思っていた(笑)
結果的に脳卒中集中病棟がある病院でラッキーだった。
すぐにMRIを取って、先生が「くも膜下~手術~」と叫んでいた。
内心、「あ~あ、なっちゃったよ。がっかり」と思っていた。
その後、身内に連絡したいとのこと。身内はいないというと、
知り合いに連絡したいと。ネコが心配だったので、
猫の面倒を見てくれている友人の名前を告げると、
私の携帯で看護師さんが連絡。その時点で麻酔で私は眠り続ける。
その後、友人が呼び出されて来てくれた(らしい)。
友人が麻酔、手術の許可、病状の説明を受けた(らしい)。
手術は翌日夕方だった(らしい)。
2008年7月23日(水)
いつか不明だけど、寝ている間に友人がどこに連絡したい?
と聞いてくれた記憶があり、「会社…」といった記憶がある。
というわけで10時過ぎに友人が会社に連絡をしてくれる。
私はそういう状態で朦朧とした麻酔の眠りのまま、
開頭して、クリッピング手術。
脳に広がった血液を取るためのチューブや
水頭症を防ぐための点滴、頭痛薬等の点滴、栄養剤などの点滴。
2週間絶対安静の暮らしが始まった。
起きたのはたぶん次の日かな。このあたり記憶が朦朧。
2008年7月24日(木)
目が覚めて、痛みも何も。何の記憶もなかったが、
看護師さんに鏡を見せてもらって
ブラックジャックになっていたことに気づいた。
あまりショックではなかった。
ソーシャルワーカーさんが転院の準備をしましょうと。
マヒがある場合のリハビリのため。
友人に病院の申し込みなどを頼む。
ここから1週間。
からだは元気だったがチューブや点滴で動けない状態だった。
手足に麻痺はなかった。ラッキーとしか言いようがない。
体力回復のリハビリ等が始まる。
トイレはチューブ。大は寝たまま。これがとても困難であった。
さらに、ここから1週間。
1度、頭痛のあまり、せん妄状態となった。
痛さ→夢の中の出来事と混同。
看護師さんに「テストをやめてください」と言った。
なんか携帯電話の新サービスで脳に直接信号を送って反応するテスト
をしていると思っていた。ごめんなさいねー、看護師さん。
途中「この電話はPHSで院内専用ですよー、安心してください」と
言っていた記憶がある。ふ~。
ラッキーなことに、頭痛とせん妄はこれ1度で終わったが。
その後、脳内の血液も取れ、水頭症等の危険もなくなり、
チューブも取られた。
点滴はあるものの、トイレに行けるなどある程度自由に。
リハビリの診断の結果、麻痺がないこと、脳の異常もないようだと言うことで、
転院する必要なしと判断された。
やったー。
2008年8月3日(日)
一般病棟に移る。SCU(脳卒中集中治療室)はいたれりつくせりで
看護師さんとも仲良くなっていたので、少し残念だった。
一般病棟はでも患者さんたちが元気?なので
もっとにぎやかで情報交換も出来て、コレも楽しかった。
私は点滴とリハビリはまだ続いていたが、これといって普通に過ごせていた。
この間、たくさんの友人に支えられて、お見舞いもたくさん来てくれて
本当にありがたい。携帯も使い放題(黙認)だったし。
あまりに元気そうだったのか、どうする?と先生。
外泊して様子を見るかと聞かれたが、なんとなく自信があったので、
もう家に帰るといった。ただ、確率は低いが、脳の反応によって、
何があるかわからないので、1ヶ月くらいは安静にしてねと言われた。
2008年8月8日(金)
北京オリンピックの日。退院。
友人が迎えに来てくれた。ヤッターと言う気分とは裏腹に
ちょっと不安が募ってきていた。外に出るのにちょっと緊張した。
でも大したことないと思ったのが間違いだったのだが、
そのときは大丈夫と思って、家につれて帰ってもらった。
外でご飯を食べようといってくれたが、断って、家に帰った。
ただ、まだこのときの気分は悠々自適な夏休み気分ではあった。
2008年8月中旬
この頃集中豪雨がよく話題になっていた。
一人で家で寝ていると、この雨がやたら怖くなった。
雨が怖いなんて思ったこともないし、雨が溢れてくる地形でもない。
が、尋常でなく怖い。水を飲めと言われていたので、
あまり得意ではないけどがぶがぶ飲んでいたら、めまいもする。
とにかく怖かった。過呼吸になった。病院に行った。
精神的なものと言われ、精神安定剤や抗うつ剤をもらった。
その後何度も過呼吸と動悸に見舞われ、病院に駆け込んでいた。
脳関連に異常はまったくなく、こちらの診断は終了した。
2008年9月
どうにもこちらの病院では治らないかも(心療内科がなかった)と
感じていたが、脳神経外科の手術を執刀した先生が
責任を感じたのか、苦しくなったら、うちの病院に来なさいと言っていた。
たぶん、時間の問題と考えていたのだろう。
でも、薬がうまく合わず、本当に苦しくて、ほぼ終日
動悸、吐き気、過呼吸で苦しんだ。
何事にも不安が募るようになり、下痢も続いた。
違うアプローチをと思い、漢方薬屋さんへ。
いただいた薬を飲んでいるうちに少し落ち着いてきた。
神戸にも行ったが、すごい呼吸をして、
老人ホームのスタッフを驚かせたりしていた。
今思えば、すごい執念だ。
2008年9月下旬~12月
これまたすごい執念で過呼吸を抱えたまま、仕事復帰。
過呼吸を起こし、会社から何度も病院へ行く。人騒がせ。
脳神経外科的にはまったく問題ない状態。
あとは心理的なものとの判断。
さらに、このころから食欲不振が始まっていて、
入院中はまったく減らなかった体重がどんどん落ちていた。
下痢もずっと続いていて、もうヘロヘロだった。
でも、なぜか会社に行っていた。
たぶん、家にいるのが怖かったのだと思う。
さらに、婦人科で子宮筋腫が大きいものも含めて数箇所見つかる。
ただ、内筋になく、癒着もないので、経過措置に。
また、歯ぐきが痛くなり、寝ている間の食いしばりと判明。
体の緊張が寝ていても取れていない状態。
お正月に帰省の予定だったが、恐怖のあまり、帰れなかった。
次々とお店が休みで閉まっていくのが怖かった。
やはり、これもくも膜下の手術を受けた病院に行っていた。
2009年前半
病院を近くの心療内科に変えて、漢方と抗不安剤で、
次第に過呼吸は落ち着いていくが動悸がずっと残った。
このころも食欲不振で体重は減り続け、
倒れる前の9キロ減になっていた。
下痢もずっと続いて、体力の限界を感じていた。
5月に愛猫が急死。精神的に堪える。
2009年後半
自分の体力のことで頭がいっぱいで、生きることに神経集中(笑)
この間、出勤していたが、何も出来ていないに等しい。
液体の酵素で栄養をつけながら、漢方の薬で
何とか体力を回復。これらによって長い間の下痢も段々と回復。
下痢は漢方薬が効いた。この間、動悸が一番の問題となってきていた。
これは抗不安薬のセパゾンとリーゼで乗り切っていた。
ただ、仕事と職場の人間関係のストレスでウツ傾向が出てきて、
年賀状がかけない、家事が出来ない、仕事もうわのそらという気分。
ストレスでもあっただろうが、
体力とのバランスが取れていなかったのだろう。
ちなみに人間関係でストレスはあっただろうが、それで悩んだことは
過去にない。年賀状もかけなかったことはない。
2010年
年明けからSSRIの抗ウツ剤ジェイゾロフトを服用。
人間関係に悩んで、漢方医や心療内科の先生の前で
ただ説明をしようとするだけでよく泣いていた。
2月~3月ウツで会社を休む。
特に2月はかなりの放心状態で引きこもり。
お皿を洗うことが出来ず、友人に手伝ってもらう。
本も新聞も読まず、
ずーっと、つけっぱなしのテレビを見ていた。
この間、体重、体温、血圧、脈拍を測り続けた。
血圧は130-90と高血圧予備軍的な数値。
体温は35.1度で低体温。
ご飯を作る気には3月くらいからはなってきた。
多少は進歩。3月に猫2匹来る。
4月一旦復帰したが、再び休む。
ただ、会社の、上司のウツの理解があまりに不足していることが
結構堪えた。
2010年6月
だましだまし行っていたが、ついに起き上がれなくなった。
ふたたび傷病休暇。
上司の理解不足と以前ストレスになっていたことが怖くなってきた。
治っていなかったということである。
薬も変え、本格的に休む。首にならないか不安だった。
2010年7月~9月
投薬と同時に復職プログラムを念頭に置いたカウンセリングに通う。
これがとても役立っている。
+++++++++++++++++++++++++
くも膜下出血と基本的には関係のないパニック障害とうつだが、
私の中では連続している。
頭の血管が切れているわけだから、体が覚えた恐怖と
日ごろ思っている不安が一緒になって吹き出てきたのだろうと思う。
弱い体には弱さが表に出てくる。
先日、NHKで「無縁死」という番組をしていたが、
強く共感できるものであった。
パニック障害(不安神経症)だったころ、雨が怖かった頃、
この不安が恐怖となって自分に覆いかぶさっていた。
身寄りが老人ホームにいる父だけの私は、
ありがたいことに友人に助けてもらったが、
今後、ひとりで死ぬこと、ひとりで死ぬことへの準備をすることが
とても不安だった。だって、身内、家族があって保障される世界だから。特に老人は。
毎日、毎日「この世に一人」と言う現実を異常にかみしめて、嘆いていた。
その現実は変わらない。
でも、病から少し脱出した今は、これらをフォローするNPOの団体や
地縁、血縁がいても、同じ状況である人がたくさんいる事実を把握するにいたり、
変えられない事実を悔やんでも仕方がなく、最善を尽くすしかないと
思えるようになった。
少し、ウツからは脱却したのではないだろうか。
友人にたくさん支えられてきた。
本当にありがとう。
闘病の記録として記す。(2010.4.9)
++++++++++++++++++++++++++
2012.9.28 加筆
その後のこれまた一波乱の状況を書き加えます。
2010年10月
ずいぶん生活も安定してきて、そろそろ復帰できるかなと思っていた矢先、
自分のツイッターの書き込みが問題視されているといわれる。
内容は守秘義務があるので…。
しかし上司がずっと私のツイッターを日々見ていたこと、ブログも見て、会社に報告していたことが
かなりのショックでウツ悪化。そのまま傷病休暇を満期まで継続して会社を辞めることにした。
人事の人にはお世話になったと思う。
カウンセリングでももう頑張らなくてもいいですよと言ってもらえた。
2011年7月
傷病休暇満期により退社。
長いサラリーマン人生がこんなことであっさり終わるとは夢にも見ていなかったので
かなり追い打ちをかけられた。
夏は自律神経失調的なホットフラッシュや体温調整ができにくく、余計に疲労困憊。
2011年12月
友人が声をかけてくれてとある会社で業務委託で働こうと詳細を詰めていたが、
結局フルタイムで会社に縛りをかけられたので、仕事を断る。
これもまた話が違って、人と接したり、仕事をすることでどんどんトラブルが増える気がして
ウツがこう着状態になる。
2012年1月~
父の面倒を見ながら、ゆっくり凝り固まってしまった私の心をほぐそうと思い、
現在仕事を探していない。というのも、いまだに会社であったことが
怖くてぼーっとしていると頭に浮かんでくる。自分でももういい加減考えたくない。
次のステップに移りたいのに。でも怖くてどうにもできない。
2012年4月~
どうにもできないのに、ずっと暇でまた考えてしまう悪循環をたちきるために、
仕事以外のことを考えようと、放送大学に入学。心理学を勉強中。
こころの状況は変わらないものの、放送大学のおかげで集中力がついて、
読めなかった本も読めるようになった。
ただ、まだ色んな人に会うことや仕事的な話とかは直前で動悸がしてきて断ってしまっている。
またこの夏は夏バテがひどく、自律神経失調の症状(不眠、ホットフラッシュ、体温調整)が
出て疲労困憊。
2012年10月~
ひょっとしてPTSDみたいなことになっているのかと思い、
カウンセリングに通うことにして予約を入れた。
心療内科では薬を色々と調整して薬による気分の落ち込みや睡眠不足は補えている。
落ち込んだりしないわけではない。自分がやってきた仕事にも自負はあったし、
こんな形での退職なので残念ながらいろいろなご縁も消えた。
私も神経過敏になっていたのだろうと思う。あせりもある。この不況。
再就職は無理だなとも思う。
しかし、体が資本なんだとしみじみ思う。
心身が健康でないと、人生自体も楽しくない。
うつは人が思う以上に苦しく、傷つき、孤独感にさいなまされる。
長いくらいトンネルにいて、一生懸命前に行こうともがいているのに、
ここがどこかもわからない状態だ。
神経過敏であることを認識できるとずいぶん違う。
でもそれに気づくまでに時間がかかる。助言者のことばにきづかないこともある。
ウツで苦しんでいらっしゃる方は私のようになる前に、
自分ですぐに治ったなどど思わず、じっくり休養されることをおすすめします。
++++++++++++++++++++++++++
2013.4.7 加筆
ずいぶん安定をしてきました。
2012.11月~1月
PTSD専門のカウンセリングに通った。計4回。
1回目は状況説明、スケジュール感の話し合い。
2回目にセラピーを行った。
詳細を書いても人によって違うし、個人情報的な話なのでおいておくが、
本当に些細な子供のころの記憶ことまどい、進めず、
泣き、その時の自分の話しかけ、その時の自分を許し、
自分に納得していくといったセラピーだった。
結構すっきり感があって、なにがどう変わったとか毎日いきなりハッピーに、
とかはならないけど、すごくすっきりできた。
やはりPTSDだったのか。
じつはこれで長年の悩みも少し笑えるようになった。
心理学を勉強しているせいもあって、先生も信頼できたし、
すごく心が安定出来たのは確かだ。
このせいか、前向きになれて、
すこし知り合いに働きかけるなどでき、
2つほど業務委託で仕事をしている。
仕事をいただいたり、私を信頼してくださった仕事関係に方には
本当にお礼を申し上げたい。感謝でいっぱいだ。
年末年始にお世話になった方がお二人お亡くなりになった。
ちょっと過呼吸がまだして、お葬式に行けずじまいだった。
まだ少し不安定な日々を過ごしてはいるけど、
数年前と比べるとどれだけ安定しているか。
お財布は別として!
今は自律神経失調気味の体調で、仕事をしたり、
神戸に父の様子を見に月に1度帰ったあとは、
3日ほど頭痛で寝込む状態。
それでもまだ全然ましな日々だ!!
頭痛はあまりにひどいときはCTを撮ってもらうのだが、
異常はない。つまり自律神経失調症ですね。
なんとか乗り越えていきたい。
ご本人も突然ぱたりと意識が途切れたまま
お亡くなりになったのではないかと思います。
37歳とお若いのに。体力もおありだっただろうに。
野球はまったくわかりませんが、残念です。
ただ、たぶん前日頭が痛いとおっしゃっていたそうですから、
その時点でもう出血をしていたのでしょう。
くも膜下出血は1回目の出血から2回目を引き起こすのは数日以内で
かなりの高確率で起きるといわれています。
頭が痛い時点で病院に行く勇気があったら。
残念でなりません。
その影響で連日、
死因となった「くも膜下出血」が報道されています。
私も2年前同じ病気になりましたが、この病気からはすんなり復帰。
早期発見・早期処置そしてただただラッキーだったのだと思います。
それを忘れないうちに記しておこうと思います。
2008年7月19日(土)
神戸に帰省。父のホームへ行き、散歩をしたり、買い物したり。
夕方ホームを出て、カットに行く。
懐かしい友人から電話がかかってくるが、うまく出られず。
神戸の家で仕事をする。夜中までかかる。
エアコンの利きが悪く、蒸し暑い。
2008年7月20日(日)
21日まで休みなので1泊で奈良へ「法隆寺金堂展」行く。
暑い!暑い!暑い!大阪、奈良と猛暑。蒸し暑い。
でも、法隆寺の四天王や興福寺の阿修羅さま、東大寺などにいたく感動。
夜のライトアップコースに申し込み、バスで若草山などいろいろめぐる。
夜9じすぎ。ご飯を食べるところがない。岩盤浴とか思っていたけど
そのような施設もない。ホテルでご飯をやっと食べる。疲れたが、感動もあって、
結構充実した気分。
2008年7月21日(月)
奈良ホテルに泊まったので、うろうろ。歴史あるホテル。
昼過ぎに奈良発伊丹空港行きのバスに乗るまで
東大寺の二月堂や普賢菩薩、四天王などをみて、またまた感動する。
ただ、このとき疲れてタクシーに乗る。
商店街に出て観光センターのエアコンで涼をとった記憶あり。
東京に戻る。
2008年7月22日(火)
朝から重苦しくて、頭が重い。最近頭痛がひどいことが定期的にあり、
頭が重いのはその前兆のことが多かったので、会社を休む。
だるい。ただ、この症状はよくあることではあった。
夜9時過ぎ、明日会社に行かねばと、
サラダを食べてリフレッシュ!と思い、食べていたら、
後頭部首の付け根のちょっと上あたりが「プチ」と音がした。
そのとたん、首が硬直。首を回せるどころではない。冷や汗。
ただ、からだは動ける。意識も鮮明。
明日病院に行くか、救急車かを15分ほど考える。
でも冷や汗とちょっとした吐き気、
プチと音がしたあたりに血が広がる感触(触ったが血はつかないので
体の中と認識)があったので、救急車を呼んだ。
来るまで確認の電話が2回。家族に病状を聞く想定のようだが、
本人なので、コレは結構きつかった。
9時半すぎ救急車到着。病院着はたぶん10時ごろではないか。
救急車では「脳出血もしくは肩こり」と病院との受け入れ連絡で
言っていた。「えー、肩こり?」と内心ずっと思っていた(笑)
結果的に脳卒中集中病棟がある病院でラッキーだった。
すぐにMRIを取って、先生が「くも膜下~手術~」と叫んでいた。
内心、「あ~あ、なっちゃったよ。がっかり」と思っていた。
その後、身内に連絡したいとのこと。身内はいないというと、
知り合いに連絡したいと。ネコが心配だったので、
猫の面倒を見てくれている友人の名前を告げると、
私の携帯で看護師さんが連絡。その時点で麻酔で私は眠り続ける。
その後、友人が呼び出されて来てくれた(らしい)。
友人が麻酔、手術の許可、病状の説明を受けた(らしい)。
手術は翌日夕方だった(らしい)。
2008年7月23日(水)
いつか不明だけど、寝ている間に友人がどこに連絡したい?
と聞いてくれた記憶があり、「会社…」といった記憶がある。
というわけで10時過ぎに友人が会社に連絡をしてくれる。
私はそういう状態で朦朧とした麻酔の眠りのまま、
開頭して、クリッピング手術。
脳に広がった血液を取るためのチューブや
水頭症を防ぐための点滴、頭痛薬等の点滴、栄養剤などの点滴。
2週間絶対安静の暮らしが始まった。
起きたのはたぶん次の日かな。このあたり記憶が朦朧。
2008年7月24日(木)
目が覚めて、痛みも何も。何の記憶もなかったが、
看護師さんに鏡を見せてもらって
ブラックジャックになっていたことに気づいた。
あまりショックではなかった。
ソーシャルワーカーさんが転院の準備をしましょうと。
マヒがある場合のリハビリのため。
友人に病院の申し込みなどを頼む。
ここから1週間。
からだは元気だったがチューブや点滴で動けない状態だった。
手足に麻痺はなかった。ラッキーとしか言いようがない。
体力回復のリハビリ等が始まる。
トイレはチューブ。大は寝たまま。これがとても困難であった。
さらに、ここから1週間。
1度、頭痛のあまり、せん妄状態となった。
痛さ→夢の中の出来事と混同。
看護師さんに「テストをやめてください」と言った。
なんか携帯電話の新サービスで脳に直接信号を送って反応するテスト
をしていると思っていた。ごめんなさいねー、看護師さん。
途中「この電話はPHSで院内専用ですよー、安心してください」と
言っていた記憶がある。ふ~。
ラッキーなことに、頭痛とせん妄はこれ1度で終わったが。
その後、脳内の血液も取れ、水頭症等の危険もなくなり、
チューブも取られた。
点滴はあるものの、トイレに行けるなどある程度自由に。
リハビリの診断の結果、麻痺がないこと、脳の異常もないようだと言うことで、
転院する必要なしと判断された。
やったー。
2008年8月3日(日)
一般病棟に移る。SCU(脳卒中集中治療室)はいたれりつくせりで
看護師さんとも仲良くなっていたので、少し残念だった。
一般病棟はでも患者さんたちが元気?なので
もっとにぎやかで情報交換も出来て、コレも楽しかった。
私は点滴とリハビリはまだ続いていたが、これといって普通に過ごせていた。
この間、たくさんの友人に支えられて、お見舞いもたくさん来てくれて
本当にありがたい。携帯も使い放題(黙認)だったし。
あまりに元気そうだったのか、どうする?と先生。
外泊して様子を見るかと聞かれたが、なんとなく自信があったので、
もう家に帰るといった。ただ、確率は低いが、脳の反応によって、
何があるかわからないので、1ヶ月くらいは安静にしてねと言われた。
2008年8月8日(金)
北京オリンピックの日。退院。
友人が迎えに来てくれた。ヤッターと言う気分とは裏腹に
ちょっと不安が募ってきていた。外に出るのにちょっと緊張した。
でも大したことないと思ったのが間違いだったのだが、
そのときは大丈夫と思って、家につれて帰ってもらった。
外でご飯を食べようといってくれたが、断って、家に帰った。
ただ、まだこのときの気分は悠々自適な夏休み気分ではあった。
2008年8月中旬
この頃集中豪雨がよく話題になっていた。
一人で家で寝ていると、この雨がやたら怖くなった。
雨が怖いなんて思ったこともないし、雨が溢れてくる地形でもない。
が、尋常でなく怖い。水を飲めと言われていたので、
あまり得意ではないけどがぶがぶ飲んでいたら、めまいもする。
とにかく怖かった。過呼吸になった。病院に行った。
精神的なものと言われ、精神安定剤や抗うつ剤をもらった。
その後何度も過呼吸と動悸に見舞われ、病院に駆け込んでいた。
脳関連に異常はまったくなく、こちらの診断は終了した。
2008年9月
どうにもこちらの病院では治らないかも(心療内科がなかった)と
感じていたが、脳神経外科の手術を執刀した先生が
責任を感じたのか、苦しくなったら、うちの病院に来なさいと言っていた。
たぶん、時間の問題と考えていたのだろう。
でも、薬がうまく合わず、本当に苦しくて、ほぼ終日
動悸、吐き気、過呼吸で苦しんだ。
何事にも不安が募るようになり、下痢も続いた。
違うアプローチをと思い、漢方薬屋さんへ。
いただいた薬を飲んでいるうちに少し落ち着いてきた。
神戸にも行ったが、すごい呼吸をして、
老人ホームのスタッフを驚かせたりしていた。
今思えば、すごい執念だ。
2008年9月下旬~12月
これまたすごい執念で過呼吸を抱えたまま、仕事復帰。
過呼吸を起こし、会社から何度も病院へ行く。人騒がせ。
脳神経外科的にはまったく問題ない状態。
あとは心理的なものとの判断。
さらに、このころから食欲不振が始まっていて、
入院中はまったく減らなかった体重がどんどん落ちていた。
下痢もずっと続いていて、もうヘロヘロだった。
でも、なぜか会社に行っていた。
たぶん、家にいるのが怖かったのだと思う。
さらに、婦人科で子宮筋腫が大きいものも含めて数箇所見つかる。
ただ、内筋になく、癒着もないので、経過措置に。
また、歯ぐきが痛くなり、寝ている間の食いしばりと判明。
体の緊張が寝ていても取れていない状態。
お正月に帰省の予定だったが、恐怖のあまり、帰れなかった。
次々とお店が休みで閉まっていくのが怖かった。
やはり、これもくも膜下の手術を受けた病院に行っていた。
2009年前半
病院を近くの心療内科に変えて、漢方と抗不安剤で、
次第に過呼吸は落ち着いていくが動悸がずっと残った。
このころも食欲不振で体重は減り続け、
倒れる前の9キロ減になっていた。
下痢もずっと続いて、体力の限界を感じていた。
5月に愛猫が急死。精神的に堪える。
2009年後半
自分の体力のことで頭がいっぱいで、生きることに神経集中(笑)
この間、出勤していたが、何も出来ていないに等しい。
液体の酵素で栄養をつけながら、漢方の薬で
何とか体力を回復。これらによって長い間の下痢も段々と回復。
下痢は漢方薬が効いた。この間、動悸が一番の問題となってきていた。
これは抗不安薬のセパゾンとリーゼで乗り切っていた。
ただ、仕事と職場の人間関係のストレスでウツ傾向が出てきて、
年賀状がかけない、家事が出来ない、仕事もうわのそらという気分。
ストレスでもあっただろうが、
体力とのバランスが取れていなかったのだろう。
ちなみに人間関係でストレスはあっただろうが、それで悩んだことは
過去にない。年賀状もかけなかったことはない。
2010年
年明けからSSRIの抗ウツ剤ジェイゾロフトを服用。
人間関係に悩んで、漢方医や心療内科の先生の前で
ただ説明をしようとするだけでよく泣いていた。
2月~3月ウツで会社を休む。
特に2月はかなりの放心状態で引きこもり。
お皿を洗うことが出来ず、友人に手伝ってもらう。
本も新聞も読まず、
ずーっと、つけっぱなしのテレビを見ていた。
この間、体重、体温、血圧、脈拍を測り続けた。
血圧は130-90と高血圧予備軍的な数値。
体温は35.1度で低体温。
ご飯を作る気には3月くらいからはなってきた。
多少は進歩。3月に猫2匹来る。
4月一旦復帰したが、再び休む。
ただ、会社の、上司のウツの理解があまりに不足していることが
結構堪えた。
2010年6月
だましだまし行っていたが、ついに起き上がれなくなった。
ふたたび傷病休暇。
上司の理解不足と以前ストレスになっていたことが怖くなってきた。
治っていなかったということである。
薬も変え、本格的に休む。首にならないか不安だった。
2010年7月~9月
投薬と同時に復職プログラムを念頭に置いたカウンセリングに通う。
これがとても役立っている。
+++++++++++++++++++++++++
くも膜下出血と基本的には関係のないパニック障害とうつだが、
私の中では連続している。
頭の血管が切れているわけだから、体が覚えた恐怖と
日ごろ思っている不安が一緒になって吹き出てきたのだろうと思う。
弱い体には弱さが表に出てくる。
先日、NHKで「無縁死」という番組をしていたが、
強く共感できるものであった。
パニック障害(不安神経症)だったころ、雨が怖かった頃、
この不安が恐怖となって自分に覆いかぶさっていた。
身寄りが老人ホームにいる父だけの私は、
ありがたいことに友人に助けてもらったが、
今後、ひとりで死ぬこと、ひとりで死ぬことへの準備をすることが
とても不安だった。だって、身内、家族があって保障される世界だから。特に老人は。
毎日、毎日「この世に一人」と言う現実を異常にかみしめて、嘆いていた。
その現実は変わらない。
でも、病から少し脱出した今は、これらをフォローするNPOの団体や
地縁、血縁がいても、同じ状況である人がたくさんいる事実を把握するにいたり、
変えられない事実を悔やんでも仕方がなく、最善を尽くすしかないと
思えるようになった。
少し、ウツからは脱却したのではないだろうか。
友人にたくさん支えられてきた。
本当にありがとう。
闘病の記録として記す。(2010.4.9)
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2012.9.28 加筆
その後のこれまた一波乱の状況を書き加えます。
2010年10月
ずいぶん生活も安定してきて、そろそろ復帰できるかなと思っていた矢先、
自分のツイッターの書き込みが問題視されているといわれる。
内容は守秘義務があるので…。
しかし上司がずっと私のツイッターを日々見ていたこと、ブログも見て、会社に報告していたことが
かなりのショックでウツ悪化。そのまま傷病休暇を満期まで継続して会社を辞めることにした。
人事の人にはお世話になったと思う。
カウンセリングでももう頑張らなくてもいいですよと言ってもらえた。
2011年7月
傷病休暇満期により退社。
長いサラリーマン人生がこんなことであっさり終わるとは夢にも見ていなかったので
かなり追い打ちをかけられた。
夏は自律神経失調的なホットフラッシュや体温調整ができにくく、余計に疲労困憊。
2011年12月
友人が声をかけてくれてとある会社で業務委託で働こうと詳細を詰めていたが、
結局フルタイムで会社に縛りをかけられたので、仕事を断る。
これもまた話が違って、人と接したり、仕事をすることでどんどんトラブルが増える気がして
ウツがこう着状態になる。
2012年1月~
父の面倒を見ながら、ゆっくり凝り固まってしまった私の心をほぐそうと思い、
現在仕事を探していない。というのも、いまだに会社であったことが
怖くてぼーっとしていると頭に浮かんでくる。自分でももういい加減考えたくない。
次のステップに移りたいのに。でも怖くてどうにもできない。
2012年4月~
どうにもできないのに、ずっと暇でまた考えてしまう悪循環をたちきるために、
仕事以外のことを考えようと、放送大学に入学。心理学を勉強中。
こころの状況は変わらないものの、放送大学のおかげで集中力がついて、
読めなかった本も読めるようになった。
ただ、まだ色んな人に会うことや仕事的な話とかは直前で動悸がしてきて断ってしまっている。
またこの夏は夏バテがひどく、自律神経失調の症状(不眠、ホットフラッシュ、体温調整)が
出て疲労困憊。
2012年10月~
ひょっとしてPTSDみたいなことになっているのかと思い、
カウンセリングに通うことにして予約を入れた。
心療内科では薬を色々と調整して薬による気分の落ち込みや睡眠不足は補えている。
落ち込んだりしないわけではない。自分がやってきた仕事にも自負はあったし、
こんな形での退職なので残念ながらいろいろなご縁も消えた。
私も神経過敏になっていたのだろうと思う。あせりもある。この不況。
再就職は無理だなとも思う。
しかし、体が資本なんだとしみじみ思う。
心身が健康でないと、人生自体も楽しくない。
うつは人が思う以上に苦しく、傷つき、孤独感にさいなまされる。
長いくらいトンネルにいて、一生懸命前に行こうともがいているのに、
ここがどこかもわからない状態だ。
神経過敏であることを認識できるとずいぶん違う。
でもそれに気づくまでに時間がかかる。助言者のことばにきづかないこともある。
ウツで苦しんでいらっしゃる方は私のようになる前に、
自分ですぐに治ったなどど思わず、じっくり休養されることをおすすめします。
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2013.4.7 加筆
ずいぶん安定をしてきました。
2012.11月~1月
PTSD専門のカウンセリングに通った。計4回。
1回目は状況説明、スケジュール感の話し合い。
2回目にセラピーを行った。
詳細を書いても人によって違うし、個人情報的な話なのでおいておくが、
本当に些細な子供のころの記憶ことまどい、進めず、
泣き、その時の自分の話しかけ、その時の自分を許し、
自分に納得していくといったセラピーだった。
結構すっきり感があって、なにがどう変わったとか毎日いきなりハッピーに、
とかはならないけど、すごくすっきりできた。
やはりPTSDだったのか。
じつはこれで長年の悩みも少し笑えるようになった。
心理学を勉強しているせいもあって、先生も信頼できたし、
すごく心が安定出来たのは確かだ。
このせいか、前向きになれて、
すこし知り合いに働きかけるなどでき、
2つほど業務委託で仕事をしている。
仕事をいただいたり、私を信頼してくださった仕事関係に方には
本当にお礼を申し上げたい。感謝でいっぱいだ。
年末年始にお世話になった方がお二人お亡くなりになった。
ちょっと過呼吸がまだして、お葬式に行けずじまいだった。
まだ少し不安定な日々を過ごしてはいるけど、
数年前と比べるとどれだけ安定しているか。
お財布は別として!
今は自律神経失調気味の体調で、仕事をしたり、
神戸に父の様子を見に月に1度帰ったあとは、
3日ほど頭痛で寝込む状態。
それでもまだ全然ましな日々だ!!
頭痛はあまりにひどいときはCTを撮ってもらうのだが、
異常はない。つまり自律神経失調症ですね。
なんとか乗り越えていきたい。
偶然たどり着きました。
私も2008年くも膜下出血発症後遺症なしで復活その後パニック発作発症その後自律神経過敏症ですが同じような経過を辿った者です。
年々良くなって元気に過ごす日が増えました。
お互いボチボチいきましょう。
後遺症がなく良かった!と思うものの。。。
年々、全てのことが不安になり、人ごみが怖く、ヨーカ堂とかジャスコでは頭がくるくるする、これまで積み重ねたことへの罪悪感。
命をうたう歌をきくとポロッと涙が出たり、ネットを見れば、色々な情報があふれ、その情報を見るほど色々なことが怖くなり。
子供たちにはそんな弱い自分は見せたくない。誰かに話したいけれど話せない。
これは、自分だけの特殊なことではない?とわかっただけで、少し前進できそう。
メンタルクリニックは行っても大丈夫?ご経験があれば教えてください。
取り急ぎ、ありがとう。
ごめんなさい。
怖いけどメンタルクリニックへ行ってみます。
書き込みありがとうございます!
パニック障害は比較的薬でなおすことができます!
メンタルクリニックぜひ行ってください。
普通の病院です。だって、内科ですもん(笑)
私も最初は変な人ばかりなのだろうかと怖かったです。
初診の予約とっていけなかったことも実は何軒も。
でも行ってよかったです。
パニック障害のお薬(落ち着かせる薬)は
持っていれば大丈夫と思えるだけでも
ずいぶん心が楽になりましたよ。
話せないつらさ、わかります。
心療内科の先生とは相性もありますので、
どこか信頼できると思えればしばらく通い、
なんかなーと不信感が少しでも出れば
病院を変えることをお勧めします。
わたしもPさんの書きこみを見て
同じなんだなと安心できました。
がんばりましょうねお互い!!
これからも何度もブログよませてください。かなりホッとできます。
今日は遅くなってクリニックに連絡とれませんでしたが、明日また連絡してみます。
では。。
あせらずじっくりなおしてください。
ウイルス性などの風邪ではないので、
薬が病原菌をやっつけてくれるわけではありません。
でも薬で改善できます。
薄皮をはがすようにゆっくりと治っていきます。
あせらないでくださいね。
この2年、私もいろいろあったので、加筆しました。
会社を休んで、いくつかのお医者さんに電話してみたけれど、全部いっぱい。
結果、来週の金曜日朝から予約のお願いをしました。
長いな~
頭がつっぱる~
がんばりますぅ~
トラネコさんもファイト
1週間後ですか。
でも、どこもそんなものかもしれませんね。
そういえば!
心療内科は何かを検査するということはないので、
ほかに病気がないかどうかを確かめましたか?と
言われる時があります。
そのためにも、くも膜下の手術を受けた病院などに
今のこんな症状が出ているのですが後遺症ですか?
などと一度受診されたほうがいいかもしれません。
なら、きっと1週間、すぐ過ぎますよ!
お仕事いったんお疲れ様。
今日はじめて中学からの友人に話しました。
そんなことくらい~の連発で、
だよな~って言える、感じれるときがホッとできます。
この夏は会社のクーラーにはやられましたよ。寒い寒すぎる!他の人は暑すぎる(笑)フリース着てました。
何でなんだろう?の自問自答は強烈で、も~あたま突っ張り?しっぱなし。
いつの間にか一時間かけて、自転車で会社にいっていました。6月位から。節約のつもりだったけど、知らないところで人こみから遠ざかったのかもしれません。
不安の内容は、指が動かなくてかけない(笑)
ではまた
東京下町から。
誤字脱字はゆるしてください。
あ!いますごく楽!