オメガねこ

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「進化論」 と 「アポリア」

2019年12月28日 | 思想・思考
 「アポリア」の哲学での意味は「一見すると解明できそうもない難題」の事です。この手法は「サヨク」が、知ってか知らずか、よく使う手です。

 例えば、本来の目的が「敵対する人物の写真を燃やす事で、仲間同士で自己満足をしたり、金づるを繋ぎ止める事」でも、直接表現(示威行為)をすると訴えられる恐れがある為、憲法で保障されている「表現の自由」を利用し「芸術での表現の自由」を主張します。これは「芸術の表現」とは関係なく、「自由のアポリア」です。

 この「アポリア」は、実際には「尤もらしいが、実は矛盾している前提の結果」なので、簡単に反駁する事が出来ます。

 憲法第一二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 国民(個人)に「与えられる自由」は、国民(全体)の努力と責任が有って初めて保障されるのだから、「勝手な自由」は許されない、と言えます。「サヨク」は最初から「自由」の定義を勝手に解釈して、自己主張に使っただけです。

 それはそれで勝手にすれば良いだけの事ですが、「憲法は権力者を縛る為に有る」と云うのも「サヨク」の言い分で、この主張が正しいとすると、権力者が「公共の福祉に反する」と解釈したならば、「勝手な自由」を取り締まる義務が生じる事になります。少なくとも、「勝手な自由」に公金を支出する事は確実に憲法違反になります。

 バカげた「サヨク」の主張は「アホリア」なので放って置くとして、本題の「進化論」と「アポリア」に付いて考えてみます。
 ここからの「アポリア」は、「相反する答えが同時に成り立つ様に見える」難題です。

 一神教の宗教は「進化論」を否定していると言われています。「論」なので「確定した正しさ」では無い事は間違いないのですが、「進化論」が正しいとしても絶対神を否定できません。進化しているように「見える」のは神の意志なので、相反するどころか寧ろ「進化論で神性を補強」してしまいます。

 「進化論」とは言っても、現在では「進歩しているのでは無く、変化しているだけであり、価値判断としては中立的」とされ、寧ろ、当初の仮説よりも「神の意志」からは離れていくように見えます。神ならば「ヒトを、より神に近づくように成長させる」筈ですが、「人は、進歩では無く変化する」と云うのが「現在の進化論」だからです。

 恐らく、宗教家に寄り添う為に「進化論」の定義を変えたとは思いますが、それは「予定説」を補強する事になります。「予定説」では「その人が神の救済にあずかれるかどうかはあらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことでは、それを変えることはできない。」とされています。

 「進化論」には、「進歩する(神に近づく)」場合と、「変化する(神の意志には関係ない)」場合があります。何方も正しいように思えますが、「変化」には後退も含まれるので、「神の形に似せて人間を造った」とされる事から、人間が「進歩」したり「後退」する事は何れも「神の意志」に反するとも言えます。

 「宗教論」には、「善行によってのみ救われる」場合と、「悪行でも救われる」場合があります。「悪行でも救われる」場合にも2種類あって、「神は善悪に関係なく総ての人を救う」場合と、「救われる人は善悪に関係なく、最初から決まっている」場合です。善悪も絶対神が決めたのだから、当然と言えばそれ迄です。

 「進化論」を主張する人については、これは「悪行」なので「善行によって救われる」場合は、希望はありません。また「悪行でも救われる」場合は、運しだいです。つまり、「進化論」を信じる人にとって「宗教」は、「サヨク芸術」と同様に、論じても意味はないと云う事です。



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