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「隋」 と 「明日香」

2020年05月08日 | 歴史
 隋(581年~618年) 飛鳥時代(592年~710年)

 『隋書』の「列傳第四十六 東夷 俀國」
明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹嶋 南望聃羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 

 『ウィキペディア訳』
「翌年(大業4年 608年)文林郎裴清を倭国へ遣し、百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(つしまこく?)(対馬)を経て大海に出、東に一支国、竹斯国(ちくしこく?)(筑紫)、また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」

 『勝手な私の解釈』ーーー他の古文書との矛盾は無視していますーーー
「西暦608年に、文林郎裴清を倭国(日本)に派遣した。百済から竹嶋(巨文島周辺?)に渡り行くと南方に耽羅国(済州の国)が見える。そこから都斯麻国(対馬の国)を経て大海に出、東に行くと一支國(壱岐の国)、そして竹斯國(筑紫の国)。更に東へ行くと秦王國(飛鳥時代以前の日本の東九州~中国地方?)があり、そこに住んでいる人々は中華民族と同じなのに、何故”野蛮な国”と言うのかは不明。」

 飛鳥時代の大和朝廷の本体が「明日香(奈良)」に在ったことは「軍事機密」の可能性も有り、「隋以前」に知られていた「九州(説))を否定しない事で、大陸からの侵略を防いでいたと解釈しています。「大和朝廷」は対外的には「邪馬台国(九州)」⇒「秦王国(中国地方)」⇒「大和王国(大阪)」⇒「明日香」と遷都した事を知らせなかったので、支那大陸側の支配者は「古い情報を」そのまま信じていたと思います。現在でも、外国人の誤解や間違いを日本人が声高に訂正しないのは、この時代から連綿と続いている「生活の知恵」なのかもしれません。

 この「解釈」や「訳」は兎も角、「地名」と「国」に付いて考えます。

 ここで、「百済」は「百済国」とは書いていないので、「百済地域」の意味です。同様に「竹嶋」も、その場所は判りませんが地域名です。「耽羅国(済州の国)」「都斯麻國(対馬国)」「一支國(壱岐の国)」「竹斯國(筑紫の国)」と書いてある事から、これらは「國」です。また、「秦王國」は「王の治める國」なので「
」であり、恐らく大和朝廷の支配地域を指していると思います。

 これは「隋書」に書かれている事から、隋は「百済は隋の一地域」と認識していたと思われますが、史実としては、現在の「台湾」を中共が「中華・台北」であると主張するように、単なる「覇権主義」のプロパガンダに過ぎないとも解釈できます。

 百済は、事実として大和国と同盟関係にあり、今で言う「連合王国」や「連邦国」のような関係です。新羅も元々は日本(大和国とは限らない)と同盟関係に有ったと思われますが、新羅の親中派(隋とは限らない)の勢力が強くなり、反旗を翻したと考えています。

 縄文時代は、日本海を挟んで大陸と列島は「縄文人」の居住地域でしたが寒冷化と共に南下し、大陸縄文人は朝鮮半島の南部(新羅、百済)まで下り、遂には「白村江の戦い」を経て日本列島のみが「直系縄文人」の住処になりました。この「大陸縄文人」と「侵略大陸民族」との混血と、「列島縄文人」の末裔を現在では「
弥生人」としている為、話が複雑になります。また、侵略大陸人は蝦夷(現在の北海道)にも入り込み、現在のアイヌの一部を構成するようになりました。

 「大陸縄文人」は常に外部からの侵略に曝されていた為、自衛の為の「武器文化」が発達し、弥生時代の一つの特徴である「鉄器」と、「列島縄文人」の平和で安定した地勢で生まれた「水田稲作」が合体して「弥生時代を形成しました。

 日本は古くから帰化人を受け入れてきたと言われていますが、其の殆どは「元縄文人」であり、仲間です。そこに「侵略民族」が多少含まれているかも知れませんが、少しずつ溶け込んできました。戦後の混乱期に入り込んだ「外国人」の一部に、その多さから、未だ溶け込めない人もいるようです。




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