Cosi Fan Tutte

どきどき更新

レベル6、死者1万人

2011年03月25日 | Weblog
毎日毎日、福島の状況が夜中に悪化しないことを祈りながら眠る日々が続いていますが、
今朝ついにレベル6認定となってしまったようです。

http://www.asahi.com/special/10005/TKY201103240465.html

週刊文春や新潮の記事によると、水素爆発する前の段階で東電が真水を注入することにこだわっていたため、事態の悪化を招いたと書いてありましたが、本当であれば許せないことだし、政府はもっと強権を発動して、海水を入れるべきでしたよね。
本当に後の祭りなのですが。。。

今この段階でも「廃炉」を明言しない東京電力の役員、たしかに個人の責任で口にできることではないのでしょうが、憤りを感じます。

そして死者はついに一万人に。
全く予期なく、突然自分の命を失うことになってしまった人々、大切な家族や友人、恋人を奪われた方々の気持ちを考えると、やりきれない思いです。

3連休

2011年03月25日 | Weblog
18日金曜になると、これまで比較的同情的であった海外メディアも、一斉に東電と政府の無策、対応の遅れに批判的な記事を展開するようになってきました。

東北や原発近くに住む方々と比べれば大変申し訳ないとは思いながら、金曜夜に東京から少し離れたところに行くことにしました。これ以上不安を感じながら一人でいるのには限界だったので。

レベル5

2011年03月25日 | Weblog
3月18日、ついに福島の事故はレベル5の認定になってしまいました。
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110319ddm001040039000c.html

自らの身の安全を犠牲にして、日本のため、国民のために放水作業をされた警視庁、自衛隊、東京消防庁、そして東電社員と関係会社の個人個人の方には本当に頭が下がります。
この方々が仕事を投げ出していたら、今頃事態はもっと深刻になっていたことでしょう。。

17日

2011年03月25日 | Weblog
17日は久しぶりにクライアント先で会議でした。
クライアントは全く普段通り、というか官公庁から支援要請もされていたようで、大変忙しくされていました。

その後

2011年03月25日 | Weblog
地震の翌日と翌々日は基本家に留まり、片づけものをしたり、連絡を取り合ったりしていました。
仙台に住んでいる小中時代の友人とも、彼女のお姉さん経由で連絡を取ることができました。こういうときにmixiもやっていて良かったと思いました。

14日、通常通り出社しましたが、まだ鉄道が乱れているみたいで、あまり人がいませんでした。会社からもなるべく早く帰宅するように、とのアナウンスが流れました。
イギリスに留学している友人たちから、「ロンドンのLSEで義捐金募集のイベントを考えているので、取材にきてもらえるように、知り合いのマスコミに連絡を取ってほしい」と言われました。エコノミスト社の日本代表と、ニューズウィークの記者の友人に連絡を取り、手配をしてもらいました。2人とも普段ほとんど連絡をしていないにも関わらず、すぐに動いてくれて、さすが業界の方々だなと思い、感謝しました。

15日、会社は通常通りでしたが、福島の原発が大変なことになったのが次第に分かり、友人たちと連絡を取り、今後どうするかを話し合いました。
外資系勤務の親友夫妻は既に福岡に脱出していましたし、アメリカ人の友人からは「なぜ東京にいるのか、こんな状況で仕事しているなんて、君はどうかしている!」と言われました。イタリア人も「いますぐローマに避難しにおいでよ」と言ってくれました。

が、政府が非常事態宣言を出して避難勧告しない限り、日本企業は普通に営業を続けるしかないのです。そして、会社が動いていてクライアントもいる限り、自分だけ逃げるわけにもいきません。そしてもっと大変な思いをされている被災地の方のことを思うと、せめて東京で経済活動をして貢献することが、今できることなのでは、と思います。
そうして15日の夜は都内に留まり、静かに夜が更けて行きました。



3・11その日

2011年03月25日 | Weblog
地震があったその瞬間、私は会社でお客さんとミーティングをしていました。
免震構造の高層ビルなので、横揺れはこれまでにも感じていたのですが、その時は明らかに今までと違う、タテ揺れで数分、横揺れでぐらんぐらん、の繰り返しで数分間続いていました。一緒にいた地震が苦手な部長は「キャー」と言って会議室を飛び出してしまいましたが、私はお客さんと一緒に「大きかったですね」と言いながら比較的冷静に、でも震源地を気にしながらテレビをつけました。
その時、対岸のお台場で煙が上がり、大規模な火災が発生しているのが分かりました。
それほどの衝撃だったのか、と思い、震源地を確認したところ、宮城県沖ということでした。

山形にいる友人のことが気になり、すぐにメールをしたところ「私は大丈夫」という一言が来てホッとしましたが、その後電話は繋がらなくなりました。

NHKに切り替えると、大規模な津波がざーっと寄せて来て、車も建物も、全てをなぎ倒していく光景が映し出されていました。あまりにも非現実的な光景で、「これは大変なことになったのかもしれない」と感じましたが、その時はここまで被害が甚大かつ深刻になるとは、まだ想像もつきませんでした。

会社のエレベーターは全て停止したとの館内放送があり、都内の鉄道も全て止まり、復旧の目処なしとのアナウンスでした。

無理して歩いて帰るより、会社にいようと思い、私はビル内で一夜を過ごすことにしました。その日、会社では1700名が社内に泊まり、段ボールを敷いて毛布を被りながら眠りました。
ただ、頻繁に起こる余震と、緊急地震速報のけたたましいサイレン音で全く心が休まらず、結局ほとんど眠ることができませんでした。

テレビで仙台の荒浜地区に遺体が200~300体見つかった、との報道を見て、青ざめました。友人の実家がそのあたりにあるためです。焦って連絡を取ろうとしましたが、電話は通じず、メールも返って来ません。

facebookやメールを通じて、国内や海外からお互いの安否を確認しあうメールが飛び交いましたが、東北にいる人たちとは連絡がつかず。。。。

一夜明けて、現地は凄惨な状況になっているのがテレビの報道で分かりました。
地震のせいか具合の悪くなった後輩を病院に連れて行き、私もヘルメットと緊急避難袋を持って、帰路につきました。
山手線は間引き運転でしたが混雑はしておらず、結局12日16時頃に自宅マンションに着きました。