続々・異風塵の雑記帳☆

プロバイダー変更に伴い前のブログが存続不能となりました。
このブログでは飼い猫の話、つぶやき、趣味の短歌を掲載します。

大西順教尼の歌☆

2017-01-27 14:22:18 | 日記
わたしは20歳まで大阪府浪速区という所で育ちました。
住まいの長屋からほど遠からぬ所には、今でいう地区もありました。
本来なら浪速区の小中学校に通うべき地域だったのですが、
隣の西区に非常に近かったことと浪速区に編入される前に西区であったこともあり、
特例で小中学校は西区の学校に通うことが許されていたのでした。
通っていた小中学校の傍には、昔の花街の「堀江」という場所がありました。

そんな関係で大西順教尼が巻き込まれた事件のことを知ったのは随分昔のことでした。
多分小学生の頃だと思います。おぼろげに父親から彼女の悲劇を聞いた記憶があります。
その悲劇とは、彼女がまだ14歳?の見習い芸者の頃、
彼女が習い事のため訪れた楼内で刀を振るう狂人の巻き添えを食らって、
両方の腕を付け根付近から切断されるという災難に遭遇するのです。
興味のある方は「堀江六人斬り事件」で検索いただければ詳細がわかると思います。
被害者6人の内、瀕死の重傷の彼女だけ何とか命を取り留めたということでした。

中学生の頃でしょうか、わたしはテレビで何度か大西順教尼を観た記憶がありました。
口に咥えた筆で書画を書いておられた姿を今も鮮明に記憶しております。
幼い頃、その悲劇を父親から聞いていたこともあり胸が締め付けられたものです。
不自由な身体で結婚もし(後に離婚されたようです)、2人の子供も設けられた由です。
その後得度されて大西順教尼となられたというのが概略です。

大概の人間は五体満足であることを当たり前の如くに思っています。
そして愚痴や不平を言うことに慣れて、自ら努力することを怠りがちです。
わたしも弱い自分に負けそうになることばかりの情けなさですが、
そんな折、大西順教尼の歌に触れて自らを鼓舞しています。

 何事もなせばなるてふ言の葉を胸にきざみて生きて来しわれ  大石 順教尼



手作り梅干しを頂く☆

2017-01-25 10:17:06 | 日記
わたしの住むマンションは2棟36所帯の古くて小さなマンションです。
マンションの敷地内には1本の白梅の木があり、毎年花が咲き沢山の大きな実を付けます。
その梅の木はおよそ40年前に住人の方が娘さんが出来た時の記念に植樹したそうです。
白梅の木の持ち主の方は、毎年その梅の実を漬けて梅干しを作っておられます。
わたしもその梅干しのお裾分けを何度か頂いていたのですが・・・。

半年ほど前、その方の娘婿の方がバイク事故で亡くなられて近々引っ越すそうです。
だから梅干しも多分今回が最後になるとお母さんはしみじみと語っておられました。
娘婿は娘さんより7、8歳年下で死亡当時32歳であったそうです。
親戚の方が漁師をしておられて、その方の後を継いで漁師になる予定だったそうです。
4,500 万円の新造船が出来たその前日に事故で逝ってしまったという嘘のような話です。
船を作って下さった身内の方は「何で死んだんや」と嘆き、
「わしが代わってあげたい」とその悲しみ・落胆は想像を絶する状態であったとか。

最近自家用車に娘さんが乗っていることが多くて、
婿さんは病気なのかと思ってましたが実は亡くなられていたのです。
若夫婦には2人の幼い子供がいて、マンションの敷地内でいつも明るく遊んでいますが、
この子供達は父親の死をどのように受け止めているのかを考えると気の毒でなりません。

人間がいつ死ぬかは簡単に予測することができません。
わたしのように60歳半ばの人間は「明日は死がやって来るかもしれない」
という不安がいつも脳裏の片隅に存在します。
若い32歳のこの婿さんは、自分が死ぬということなど考えることも無かったと思います。
しかし、そんな死の瞬間がまさかの確率でやって来たのです。
生きることの意味、死とは何なのかをつくづく考えさせられました。







戦国武将夫婦の歌(2)☆

2017-01-18 14:41:16 | 日記
前回の続きです。岸和田城内にあった戦国武将等の和歌の紹介です。
信長の妹・市が美人であったことはよく知られていることです。
夫の浅井長政は義兄・信長に離反して、その後攻め滅ぼされます。
市と子供達は城が落ちる前に信長方に引き渡され、命を長らえます。

その後、市は信長の家臣筆頭の柴田勝家に嫁いだことはご存じのことでしょう。
この当時の女性には現在のような人格権は無きに等しい状態です。
兄の信長の命は絶対で市も命じられるままに勝家の元に嫁いだのだと思います。
よく語られることですが秀吉も市に執心していたようですが、
結果的にはこれは実現しなくて、後にその子・淀殿を側室に迎えます。
市と勝頼は結構仲良く過ごしていたようです。
勝家と市はその後の秀吉との戦い(賤ケ岳の戦い)に敗れて二人共に自害して果てます。
わたしも一度賤ケ岳の頂上に登って合戦の様を想像したことがありました。
山頂からの眺めはなかなかの絶景で琵琶湖と余呉湖が見えたと記憶します。

去年のNHK大河ドラマ「真田丸」で淀殿の子供秀頼が登場しますが、
彼は小男の秀吉とは真逆の偉丈夫で身長は180から90センチあったようです。
これは多分、浅田長政の血を引いた隔世遺伝の可能性が高いように思います。

 さらぬだにうちぬる程も夏の夜の別れを誘ふほととぎすかな  お市 辞世の歌

 夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山ほととぎす  柴田勝家 辞世の歌


戦国武将夫婦の歌(1)☆

2017-01-12 14:07:13 | 日記
わたしの住む岸和田市には城があります。
転居して来た時に訪れたのですが、中に入ってガッカリしました。
大阪城と同じ鉄筋コンクリート造りの近代建築であったのです。
エレベータで天守まで上がり展示物をあれこれ見て回りました。
その中に信長や秀吉の時代に活躍した戦国武将や女性の和歌がありました。
 
名前に記憶があった荒木村重とその妻の短冊もありました。
荒木村重の人生はかなり波乱万丈の一生でした。
信長を裏切り、そのせいで人質の妻を殺される?ようですが、
最後は秀吉に拾われてお抱え茶人の一人となります。
NHKの大河ドラマの主人公になれそうな人生だと思います。

そんな荒木村重と妻の和歌を読んでいささか感動しました。
戦国の世の人間の寿命は50歳前後ではないかと思いますが、
波乱万丈の生き様は中身の濃い充実した人生であったように思います。

 思ひきやあまのかけ橋踏みならしなにはの花も夢ならむとは 荒木村重

 みがくべき心の月の曇らねば光と共に西へこそ行け      荒木村重
                 
 残しおくそのみどり子の心こそ思ひやられて悲しかりけり   荒木村重・妻だし


わたしの大晦日☆

2017-01-05 10:35:00 | 日記
大晦日から新年にかけては録画したEテレのベートーベン第9を聴いて過ごしました。
わが家の年長の方のネコ(チャムやんという)がわたしの横に座って一緒に聴いてました。
NHKの紅白歌合戦はここ30年以上見たことがないですねえ。
一度中島みゆきさんが黒四ダムから中継したときは録画して観たのが唯一の例外です。

チャムやんは推定13歳のメスネコでボランティア団体から譲渡を受け7年が経ちました。
ネコという動物は奇妙な生き物で長年付き合っていますが興味が尽きません。
加齢と共に徐々に賢くなるのは間違いないようです。
人間の話す言葉を理解していると思われることがしばしばあります。

仕事をリタイアすると時間だけはタップリとあります。
定年前は仕事を辞めたらあれこれしようと考えていたこともいくつかありましたが、
残念ながらどれも放置したままで専らテレビばかり見て過ごしています。
これではいけないと思い、取り敢えず衛星のアンテナを取り外し地デジだけにしました。
どの程度テレビ離れが出来たか疑問ですが少しはテレビから離れる時間が増えたようです。

仕事を辞めてから短歌を作る趣味も疎かにになってます。
やはり刺激が無い日々では短歌も出来ないようです。
最後に大晦日に出来た1首をご紹介させていただき幕引きとさせていただきます。

 年の瀬の第九に耳を傾けしわが家のネコの過去世は人か

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