いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

言語の限界に関する考察(2)。

2007-10-08 18:43:00 |  Study...
言語の限界に関する考察(1)。の続き。

疑問と根本的な限界



自分はこの文章を読んだときに、なるほどと思うと同時に、次のような疑問を感じざるを得なかった。
「ならばその宇宙飛行士は、どうやって自分の宇宙での経験を語ったらよかったのだろうか?」

まず考えたのは、タイトルには「上下左右のない世界」とあるが、宇宙に行ったときに左右という概念はなくなるのだろうか、ということだった。
少し考えてみれば分かるが、宇宙に行ったとしても左右という概念はなくならない。
なぜなら、左右という概念は重力によって生じる概念ではなく、人間の体の構造から生じる概念だからである。
宇宙に行こうと、人間の体の構造が変わってしまわない限り(トートロジー的な言い方ではあるが)右手のある方が右であり、左手のある方が左である。

ならば、本来は重力によって生じる上下の概念を、体の構造から生じる概念に拡張してしまえばいいのではないか、というのが当時の自分の行き着いた考えである。
すなわち、本来は空のある方を上とし、地面のある方を下としていたわけだが、頭のある方を上とし、足のある方を下と定義し直せばいいのではないか、というわけである。
これは普通であれば本来の重力による定義と矛盾することもせず、また宇宙空間での体験を語ることも出来るようになる。
こう考えると、上下という概念を拡張することを考えなかった識者の方が短慮であったのではないかとさえ思えてくる。(*3)

太陽の色にしても、確かに文化によって何色とみなすかは変わってくるかもしれないが、太陽の色そのものが変わってしまうわけではないのだから、それぞれの文化において太陽を何色と見なすのかという事実さえ知っていれば特に問題は起きないと思われる。

このことから、お互いの言語が何を指しているのかということに対して共通認識を得ることこそが重要であり、もしその共通認識が得られたのであれば、たとえ生活様式や文化が違っていたとしてもお互いの感覚を伝えあうことは可能なのではないかと自分は考えた。

しかし、これではダメなのだ。

上のような考えを発表した自分に対して、国語の先生は次のようにおっしゃった。

確かに文化による色の違いはお互いに共通認識が得られるかもしれない。
太陽が黄色いと主張されたとしても、納得できる部分はある。
けれど、次のような場合はどうだろう。
色のない世界の住人に自分の見ている世界(色のついた世界)の説明を求められたとしたら、どう答えればいい?

自分はこう言われて初めて宇宙飛行士の置かれていた立場に気がついた。
そう、彼の置かれていた立場というのは、自分の体験した色のある世界というものを色を見たことがない人々に対して説明しなければならない立場にいたのだ。

確かに、色のない世界に存在する概念だけを用いて色について説明をすることは可能かもしれない。
しかし、どうやったらこの色を見たときに感じる「感覚」(*4)というものを色のない世界の住人たちに伝えることが出来るだろうか?

同じように、確かに「上」や「下」という言葉の定義を拡張すれば、無重力空間というものがどういうものであったのかということを説明することは出来るかもしれない。
しかし、どうやったらその無重力空間での「感覚」というものを無重力を経験したことがない人たちに伝えることが出来るだろうか?

説明をすることは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない。
この事実は言語に対して一つの限界を与えているように思われる。
しかしこの限界というのは、本当に「言語そのものの限界」から生じている限界なのだろうか?
これについてはまた後で考察を加えたいと思うのだが、その前にこの“説明することは出来ても、「感覚」まで伝えることは出来ない” ということに対して考察を加えていきたい。

(つづく)

*3 「上」や「下」という言葉を使ってしまっては「正しい向き」というものを勝手に想定してしまい、宇宙空間における空間の使用に対する思考の自由度を下げてしまう。
識者の指摘したかったことは、まさにこのことであったと思われる。
なので、この狙いを実現させるために上下の概念を拡張することを主張しなかっただけであり、決して上下の概念の拡張自体を考えなかったわけではないと思う。

*4 例えば、りんごを見たときに「赤い」と感じる、まさにその「感覚」


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