2023.6.23
あとがき読了。
将棋連盟の職員さんと、てばなしの喜怒哀楽はこの世にもあの世にもない(これは個人的に人類愛に凝り固まって、浅田さんの名作の感想にこじつけた。こじつけということが可能な名作。浅田さんもその基本の部分はよくよくお気持ちとしてお持ちだろうことも察するけれども。)世界の山ちゃんとの件が、この新書の全てを凌駕するものがある。
どちらも生意気のスイッチがあるが、その基本原理が、職員さんならば、あんたのそのドリョクショウブンが基本原理で、こっちはそんなことを恥を忍んで宣わなくちゃならんし、将棋の過去、現在、未来、そして全体像としてのということと、唯一無二の叡王戦?(電王戦というのがあったような記憶が私はあって、コンピューター戦というのはその棋戦ではないのかと、個人的にどうでもよい感覚。)で優勝された初めての棋士に、今後の叡王戦、そして最初で最後の、唯一無二の棋士の、社会人の、人間の姿の一撃が、棋士にそんな暇はないことの自覚と責任が、間違いなく将棋連盟職員さんにあるんだろう。
「それもそうだな」というレベルで参加へ棋士の一手(この一手が、将棋の一手と同じレベルで、お忙しい人々には棋士の一手ではあるのではないかと思うけど。)を指した山ちゃんは、その部門、部類の無頼の安定が棋士の本分というと万能細胞だが、棋士としての天才と欠落の信用?尊敬?だろうか。勝ち負けの番つみかさねってののブンギョウザ、しかも一個人のパイ、時空間では意味を持たない部分でも、将棋連盟職員さんとのやり取りではなくて、山ちゃんが再参加というのが人間性と社会性にしかならぬ部分でもあり、不参加であってもそれはそれで成立する筋もあるが、棋士の一手は、将棋連盟職員さんの棋士の一手への一手ではなくて、棋士は棋士と棋士で棋士で、大多数の棋士というものは、棋士と棋士と棋士であることもあるから、棋士と棋士のために、将棋連盟職員さんが棋士として、棋士と棋士へのそのようなことでもあるかも知れない。
羽生さんが第二回?叡王戦に参加されたのも初耳というか初読みだったが、羽生さんは終生コンピューターと公に指さないだろうと何となく考えてもいないような感覚の私だった。
ほどなくして、将棋スマホアプリを観賞会。
棋戦を数年拝読してなかったので、新鮮ながら、棋戦に東西オールスターサントリー杯という斬新(将棋では)な棋戦が今年あるらしい。
イロハというよりイロモノの流れが将棋(それが早いか遅いかは別として)というものへというよりは、そのブンギョウザのジュキョウとシュシガクでは、棋士も当然その対象としての魅力があるというところまで漕ぎ着けたのか、コンピューター将棋というものが途中にマルダシドコンジョウで、その可能に至らしめたのか。
野球にオールスター(一軍はセ・パだけど)戦が昔からあるということでは、昔からその手順があって、将棋連盟さんなどの全体主義の棋譜がそれまでの手順としてということだろうか。
何れ将棋オールスター戦も、一手座席システムになるだろうか。
柔道のようなセンポウというようなシステムより。しかし打席はその打席の起承転結が完全である。
座席の完全さの起承転結であればセンポウからタイショウという完全さの一席だろうか。
持ち時間の問題としても、一手座席システムでは、ファンがもたないか。
羽生さんが東の番付で二位に少し驚いた。永瀬さんという若手の優秀な方が王座を現在四期というのも驚いたがそのドリョクショウブンの知名度であるにしても、羽生さんがと考えても、例えば野村さんなり落合さんなりが現在の人気?投票では、現役選手の同時代の感動なりインパクト(特に競馬では、その時に強かった馬がどうしても上位に入る。数年それほど変わらぬ上位がほぼ普遍的に人気がある部分のラリパップ。)の瞬発力があるからだろう。
私が投票しても一票だが、選択肢皆無で羽生さんというほどのド素人ではある。
王座戦は面白いからな。永瀬さんも内容が良い将棋なのだろう。王座戦四期ならば当世の人気としては流石にタイトルなしの棋士に人気で劣るのも下手だという将棋の真心もあるかも知れない。王座戦四期も現在までつみかさねられていれば人気も自ずとその将棋そのものからしてもあるだろう。
今期だろうか、王座戦のみが、藤井さんの八冠の可能性。七冠が防衛出来るかがもっと基本だが、
どちらも大変(八冠達成というのは、最早将棋の問題ではないというか。将棋の時空間の様々な可能性にダイレクトに直結、連結という問題になる。それでは八百長になるから、八百長前に八百長だけつみかさねていくというのが、ある程度大昔からの本物の八百長ってのがあるわけだが、永瀬さんだって、防衛イコール八冠阻止というのは棋士の一手としてのものがあるから、それほどの懸念はなかろう。)だが、今まで大勢の人々の踏ん張りから、藤井さんというインパクトによっても、オールスター戦というサイクルスポーツセンターと、将棋ファンの特になまじっかの最大値が、将棋離れもリョウリンで、将棋の難しさの実感、実現によって、逆説的に将棋全体への尊敬、敬意は育つ。部分があるからな。皆様それほど暇ではないが。ブンギョウザの調和のドリョクショウブンとしての一撃ってな大変なこったというところが正味なとこでもあるだろうけれども。
そしてプロスピの御メンテナンスが終わるまで後10分の午前3時前。
その時に強い部分が最も人気面、知名度としてということではあるだろうことを加味しても、歴代ということになると、羽生さんでも、例えば升田さんだとか坂田さんとかに匹敵或いは凌駕の時、人はいるだろうが、あふれない交通事情がそのおっさんらにはある。
他のしょーもないことのクソだしというか。肥料的な。クソがよくわからないというか。
そしてプロスピ再開。TSガチャガチャの奇数バージョンは確かに凄い。
新書違いの「動物の言い分、~」のような題名を流し読み。
猫から始まり次は犬の件と。
淘汰の部分を考える。
確かにゴールデンレトリバーだとかラブラドールレトリバーだとというと、ゴルゴ13の傑作「黄金の犬」(物語構造としてもうまくはまってるけれども、難しいお話ではある。)を思い出す。
駒は棋士でしか生命の躍動を持たない。
ゴールデンレトリバーも(たぶんだが。よく知らんし、ナデナデしたことすら一度もない。)一緒に生きてる人間でしか生命の躍動を持たないだろう。
人間が作り出したマスターピースの部分。
人間のための、しかもブンギョウザへのブンギョウザからのブンギョウザのための。
ジュキョウとシュシガクの豊かさのブンギョウザの象徴でもあるか。駒転がしも大変だし、ゴールデンレトリバー転がしはいけねぇが、商売としての転がしというワンコンプであってゴールデンレトリバーと共に生きるってぇのも大変なことである。
駒ってのは死なねぇんだが、くたばるのは王、玉というゴールデ。
するってぇとゴールデンレトリバーは死なねぇということは、一緒に生きた時空間によってのそのてめぇらのブンギョウザとしては、くたばることはないけれども、ゴールデンレトリバーなどという犬種を作り出したことのつみかさねとしては、ワンコンプのみを考えると、人間のブンギョウザの部分の補填ではなくて喪失としての部分はある。
人間にその安定がないというよりは、それほど大切な時空間の変質、物事によって、そのためへのそれらで生きることが不完全であるつみかさねがある。
駒がずっと生きられる世界、ゴールデンレトリバーがずっと生きられる世界として人間どうこうというよりは、人類が人類として、人類でしか駒もゴールデンレトリバーも生きるというよりは活きる、そして生きるというよりは生きた。そして活きたというよりは生きた。
人類愛への道程が長丁場に過ぎるんだが、その道程を踏めねぇ人類であるはずはない。
人類でなければ踏めねぇが、人類でなければ踏めねぇが、人類だからな。人類ってのは。
人類のくせと人類のくせで、人類が人類としてということが欠落しちまってる。
アンダー140のつみかさねによる怠慢。
それは四千年モダニズムということにしといてやらんとな。
YouTubeで名局を検索してたら、個人的に米長永世棋聖の印象派しかない(佐藤さんも念のため書いとかないな。谷川さんは永世棋聖だろうか。どっちでも良いんだが。)棋聖戦で、藤井棋聖がベトナムで一局という見出しなみがあった。
二度見したが、そんなことがあるだろうか。
タマタマではお互いないにせよ、タマタマ、そっちは随分ともしかして40年前に朝鮮への一撃をかましたというのかというような、個人的に過ぎるこじつけを考える。
善悪ではない、ここに角を打ったということに、感服するね。私は。という米長さんの名言としても、善悪ではないことにしか将棋そのものはどうしても日本というか国産というか国技というかの部分としては、何故にベトナムでタイトル戦(将棋なので、世界戦という当然さもあり。今のところ。)か。
お部屋だけなら何処でも良いという将棋のポテとポジの成せるタクミノワザ。
本日途中までしか見れねぇ浦野さんの棋譜ではタクアナグマワザ(しかもリョウシキでやってた。)だったという、私の趣味的な能書き根性で、この新書の感想会をこれにて終了。
2023.8.29
この新書の感想会を終了後、将棋を考えたわけでもないが、ちょっともっと考えたこと。
剣道とか柔道とか将棋でないと、クダン以上は不可能だろう。
国技としての社会性の部分。そこまでいける奴等とそれ以外の奴等との民主主義の部分。
ヤスクニは、勿論アマクニ、ウマクニがある。
ヤスジン、ヤスビトとか。そうなってただけにしかそもそも人間だとか人々はなりようがない。
では、嘉納治五郎なり大山十段なりが、現在その立場になるか。それではそれまでよ人間はそれらのインフラからの発展、発達がないということになる。彼らを超えることにドリョクショウがある。では、彼らは現在の人間からはガキのままごとか。それは現在の人間がいずれそのようになるという先人、先陣ということになる。
これも人類愛へ生きることになる人類の神の領域。
不可能、不完全の解決では、人類のインフラが今までと全く同じにあわなくなる。勿論そのブンギョウザの英雄、愛が、英雄同士、愛同士、話があわないというよりは、話が意味不明なほどがそれなりにブンギョウザのドリョクショウの成果というか、てめぇなり、てめぇらなり、ナニオクンというかナンダコイツラ。独りの人間でも、例えば家族内でもその部分が当然にあるけども。
さすがに私は未だ、クダンのクダンをうっすらと、アーリントンと共にもしてないが、考えることすら難しい。
アリさんの勝手で同棲中で、この時期は、お外での紫外線よりは、お部屋でのアリさんに皮膚をちゅうちゅうされることで長袖長ズボン。パンツの中にも入ってきて、玉袋がちくっとちゅうちゅうされたが、お尻がもっとちゅうちゅうされて、痒すぎて血が出るまでかいた。パンツ血だらけに。十センチメンタル程度のハバで。
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