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2024.10 わたしの幸せな結婚→ハルチカ→エクストリーム・ジョブ→ピーチガール→トガニ→交換ウソ日記→なのに、千輝くんが甘すぎる。→僕らのごはんは明日で待ってる→幸福な食卓 感想6

2025-06-13 10:49:10 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

午前2時半。なほちゃん(広瀬すずちゃんだろうか)が、翔くんを好きになって、現在だろうかまで、ずっとそれなりにキュンキュンしながら観てた。

そしてらなほちゃんは、赤ちゃん出来てて、スワくんが旦那さんで、赤ちゃんが翔くんで、えぇぇとちょっと不満の感情になる。最初の二週間欠席の翔くんは、病弱で或いは翔くんの周辺が病弱という事情があったのだろうか。カレーパンの件もよく分からない。現在に翔くんはもういないということだろうか。赤ちゃんの翔くんはいるわけだが。制服の濃緑ブレザーはハイセンスファッションだと思う。なほちゃんが10年前のてめぇに手紙を出せる能力はどうでもいい感じか説明責任を果たすそのものに意味があるならばあるとして、なほちゃんを含めた五人衆が、翔くんが恐らくはふじのやまいやまぁちゃんとしての周辺事態活動家ということだろうか。なほちゃん以外に、現在でも手紙の存在の無自覚化があるように思う。


午前3時過ぎ。なほちゃん早くお弁当を渡して!と心でいい続けて観てたら、渡した時の翔くんが、ぱんちゃぱんちゃしてやがると思う。なほちゃんは、ぱんちゃぱんちゃという感じではないが、何故か当映画では、現時点では現時点をお弁当を受け取った翔くんに最大のぱんちゃぱんちゃ効果があるように思う。

ということは、現在の赤ちゃん翔くんがぱんちゃぱんちゃしやがるラストシーンがあるのだろうか。


午後5時過ぎてた。なほちゃんと仲間たちが翔くんの家族に合いにいったときのご家族は翔くんの母親なのかおばあちゃんなのか疑問と思う。

なほちゃんが、なほちゃんからのお手紙で、サッカー部に入りたい翔くんを、救うよ というのに、うるうる手前だったら、翔くんサッカー部に入ってて、なほちゃん未来を変えたということだろうかまで観る。翔くんはサッカー部を辞めることがないようにということでもあるだろうか。


だめ まで観る。キュンキュン映画でござる。キュンキュン。


翔くんが他の女の子とお付き合いになって相合い傘まで観る。

未来のなほちゃんは、翔くんがなほちゃんを好きということに、なほちゃんが翔くんの短い命の期間お付き合いを、しても後悔しなくても後悔型として、翔くんがなほちゃんが好きということを事後に知ったのではないか。なほちゃんのための手紙ではなくて、翔くんのための手紙内容型。

しかしタンキケッセンでは、翔くんはなほちゃんに承認という体裁で、そしてなほちゃんは キュンキュン返事 だめ。これは、翔くんはなほちゃんに短い命でのお付き合いをしたくてもするわけにはいかないという、なほちゃん世界型でもあるかも知れないと思わなくもない。


午後5時を一時間回る。野暮というよりタブー、嗜みでは、お手紙を最初に読破してないのか、翔くんのお母さんが自殺と他殺のりょうしきで死んじゃって、基本原理としては、死因は不明な赤ちゃんの集いの人類のような筋はどうでも、何故か脳裡に、観賞会再開時に、生まれて初めて、浴衣、着物ってのを着たことねぇなと思ったからか、例えばリョウシリキガクの一つとして、言葉として、魚類や四つ足に、ごめんなぁ、人類のためになぁ、と毎度声かけるのは、どういうことなのかというのを、翔くんがお母さんとの状態をなほちゃんに語る件で思う。全く関係ないとも言い切れないだろうが、読解力、感受性が明後日というか。もし、現在のなほちゃんがお会いした相手が翔くんのお母さんだったならば、現在も既になほちゃんの知る過去とは違うのという何らかの筋があるのかも知れないなどとも思わなくもない。そのように活字にして初めて、10年間で翔くんのお母さんはそこまで老けないだろうと思う。翔くんが亡くなった過去がまだなほちゃん出来てなくて、その悲しみによる老け込みならば頷けなくもない。


直ぐ様観賞会再開。現在シーンになり、翔くんのご家族は、おばあちゃんだったらしい。翔くんはトラックにぶち当たって、へたこいていきずに、その運動ならばうまくくたばったらしいが、トラックの運転者は、人殺しにさせんなよというか、その自筆公正自死ょの存在に翔くんはあるとしても、なほちゃんという存在がある。長くなるのは結構だが、長くなり過ぎる能書きになりそうで疲れちゃうなぁと思い観賞会再開しようと思う。


直ぐ様観賞会再開。現在も過去のようである。その筋をかけるだろうか。そこで初めてなほちゃんは、なほちゃんに私達となるなほちゃんとなほちゃんというお手紙が、なほちゃんとなほちゃんが私達としてなほちゃんになる筋だろうか。


直ぐ様観賞会再開。直ぐ様、現在も翔くんの命日に翔くんのおばあちゃんに会ってるわけで、その命日に合わせて、そのお手紙にそのシーズンには翔くんは死んでないけれども、その日付をなほちゃんは知るという手筈だろうか。続きを早速観る前にお風呂場で喫煙しようと思う。


午後5時を一時間半回った頃、お風呂場で喫煙を終え観賞会再開。スター・ウォーズで、レイア姫やらハン・ソロ、チューバッカやらで最近癖が付いたポータブルDVDプレイヤーに向かっての驚嘆のおぉぉとか、えぇぇとかが、須和くんにもお手紙が届いてた時に思わず出た。てっきり須和くんは、なほちゃんを信じるとかだとかの先走り思考の余裕を私に与えている時間差攻撃もあってか、まだ差出人まで観てないけれど、恐らくはなほちゃんが、なほちゃんと須和くんにも出した。そして、私達が飛び出したということは、友達全員に出してる可能性大だろうか。その時の須和くんもぱんちゃぱんちゃ気味ではある。早速続きを観よう。


早速続きを観たら、須和くんがお手紙を須和くんに出してる。キュンキュン映画なので、余計に驚いた。早速続きを観よう。


午後5時を二時間も回った頃。リレーメンバー選出会議で涙ぐむ。他の三人はお手紙なかったようだったが、リレーメンバーをお友達で固める作戦らしいと思う。

他者にとっては、ポコチンの一種だが。


午後5時を二時間半も過ぎた頃。翔くんの御褒美まで観る。お父さん、お母さんはいっていないが、赤ちゃん時代にちゅうちゅうしてる奴等も多いけれども、リレーでの翔くんの伝言リレーが一人一人伝言というより、独自性になってたのかと思ったが、翔に伝言ではうるうるした。その伝言が一貫していて、尚且つその一言が号泣してしまうかも知れないと思った。リレーでのその伝言が最後になほちゃんから翔くんへの伝言というのも難しいだろうか。須和くんからで、最後になほちゃんだから、好きだとかでもあったかも知れないけれども、みんな翔をというのは既にリレーメンバーが翔くんのお友達のみの独占リレーメンバー主義の確立でもあるのは翔くんほどそのインフラの独自性は強かろうと思う。糸電話が控えているのだろうか。


午前9時半まで少し眠る。ウィキペディアで調べる。なほちゃんは広瀬すずちゃんではなくて土屋太鳳ちゃんという人らしい。ラストシーンで道路の真ん中でみんなで抱き合うのは、トラックが通り過ぎたとはいえ、早く道路の真ん中からみんな離れた方がいいと思った。野暮の部類だろう。

原作は漫画のようである。漫画を読んでみたいと思う。読まないだろうとも思う。

本日は「ピーチガール」観賞会予定。


午前11時過ぎ。にっちゅうさめっぱだちゃんの営みの特に46年間を思ってたら、

第二次世界大戦なれのはてなちゃんょ♪

という、それなりにそれは市民権インフラも大昔からあるわけだけれども、例えば

神は神を創造した。

二人の神は、神に尋ねた。

神よ。私達が神ならば、何故生き物にホラ、ヌスミ、コロシをつみかさねつづけて、それを糞に作り替える、そして何となくですが、躓くようになったり、体の節々が痛くもなってきたり、遠くが見えなくなってきているようにしか思えません。

神曰く。我は神。そなたらも神である。神になるべく神として神になる神として神になるのに少なくても1億万年はかかるように思うかも知れぬが、それではそなたらのような神が神ではないというのは愚問である。既に神のそなたらは、数十年であの世いきなのだから。

こういうことは、もう少しでもいい位に思うかも知れない程度にちょいと思って改めて活字にしようかしまいか。たぶん書かないし、意味もない。




2024.10 わたしの幸せな結婚→ハルチカ→エクストリーム・ジョブ→ピーチガール→トガニ→交換ウソ日記→なのに、千輝くんが甘すぎる。→僕らのごはんは明日で待ってる→幸福な食卓 感想5

2025-06-13 10:47:12 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

午前4時前。ほぼぴったり30年間程度頭痛と生きてただけでもあったが、初期というか15才位から、鼻糞が詰まってると呼吸がしづらくなって脳ミソに酸素が供給しづらいからかと自己流の個人的な完全に決め付けというか調べるとかいう思考がないから鼻糞はこまめにとっとかないと頭痛になっちゃうということもあるけれど、裏付けだとか知識なしでの個人的思考回路で頭痛になる前に鼻糞をとっとかないととずっと実践してきたが、鼻糞が多めなのではないかと先程思う。耳糞も多めというか、最近は今まで多めということはなかった目糞も多めになりつつもあり、何やら糞の話しか、てめぇ自身の、しかも状態の、しかも思っていることのみで書くべきことが、最近もないかも知れないと思う。鼻糞をとっとかないとと書くと、鼻糞そのものを保存してるかのごとき革命的趣味があると読めなくもないと思う。革命的活動家の多様性では、鼻糞の命を喪失させると読んでも革命的趣味ではあると思う。鼻糞を保存しても、鼻糞を殺生しても、どちらでも革命的趣味ではある。しかし鼻糞はお鼻から独立、分離したら鼻糞の命はないのではないか。お鼻とともに生きてる鼻糞というか。正式名称が鼻糞にもあるんだろうが、角質なのか排泄に近いのか。それとも皮膚の一種だろうか。皮膚のない部分からと呼ぶのか、それならば水分、汗は皮膚からか。水分の不純物がお外に出たがっている、体内の何らかの生存力の働きか要請によって、押し出されるというのか。例えば毒キノコをお口に運ぶ場合、歯糞とは呼ばないけれども、なんらかの糞が分泌されて毒キノコをお口に受け付けないというような糞でもないようにも思う。ヒルルクは毒キノコでも死ななかったので、人によっては毒キノコで死ななかったわけか。ヒルルクは毒キノコで死ななかったという筋がそのヒルルクの筋だったな。チョッパーの最初の医術だろう。平和主義の論理。今初めて思ったが、チョッパーは隠れる時とか誉められてる時に毒キノコの筋と同じように反対派があると思う。転生したらスライムだった件の狼の尻尾と同じ筋。名前がいよいよ出てこない。ロアルド・ダールのカテーナだったかの拳の中に一つの筋はあると同じ筋。戦闘機乗り側が、その時涙を流していたかという物語、絵空事、めでてぇにもほどがあるがたで筋をかますと、その戦闘機乗り。

鼻糞というと、芥川龍之介の鼻は皮膚、ゴーゴリの鼻は鼻糞ではなくて鼻が独立、分離。ゴーゴリの場合は鼻としたと呼ぶべきとしか思うような知識が私はないけれども、鼻糞そのものを例えば短編小説として、その鼻糞とは何ぞやというのを、何種類も書けなくはないのではないかと思う。題名に魅力が悲しいけれど鼻糞にはないと言うべきだと思うけれども。

鼻糞よ、さようなら

いつも一緒にいようね はなくそ

鼻糞の微笑み

鼻糞の思いを思うならば

鼻糞殺し

鼻糞の飼い方

鼻糞と生きるとは

鼻糞を長生きさせる術

鼻糞であなたも健康に

鼻糞との別れ方

鼻糞と別れる派?鼻糞と別れない派?

目糞が教えてくれる鼻糞との付き合い方

もしも鼻糞がほにゃららだったら

鼻糞物語

鼻糞学

鼻糞は行く

昨日の鼻糞より今日の鼻糞

100年後の鼻糞

鼻糞に最も良いあなたとの活動とは

鼻糞に向いている職業


午前五時前。私は鼻孔から指先へ、その体の大地を移動した。

午前五時前。私は鼻孔から指先へ、鼻糞が指先で生きられもせず、鼻孔に誕生した時点で鼻糞が生きていたとも思えず、ティッシュで丸めた。正確には丸めてティッシュに丸めた。

それでも午前五時前。私は分離と統合、拡張と圧縮の数秒が、何時間にも思われたが、丸くなって初めて衣裳を、しかも純白の衣裳を身に纏うことになった。

それでも午前五時前。私はティッシュをとっておくべきか、とっておくべきか。

それでも午前五時前。私は生まれて初めてのその経験に感動という二文字が脳裡を支配したが、何故か頭がぼんやりしてきた。体もなんだか窮屈だ。

午前五時になった。

私は映画観賞会感想に戻ろうと思う。


午前五時を二時間近く回った頃。「エクストリーム・ジョブ」観賞会開始。

昨日初めて購入した餃子の王将と似てるのか違うのか大阪王将という餃子を食べて包装米飯は悩んだ末に大切に保管し、発泡酒と共に観る。コメンタリー版を書いたという行為があるからか、ロードオブドッグタウン、どうしてもローズオブドックタウンだと、日本語として、お忙しいクソガキどもとインテリどもの視認性に悪いその王道の日本語題名、それが日本語題名というか英語そのままの題名そのものを日本語訳にしてあるという代物だが、コメンタリー版はザ・エージェントに負けずとも劣らぬ傑作だと個人的に思う。大阪王将餃子は、塩が付いてて、餃子をお塩で食べるというのは初めての情報だが、一つお塩で食べて、美味しくはない、ある意味では美味しいと言えるけれども、餃子のたれで食べる方が美味しいと思ったので、餃子のたれで食べることにした。


22時迄寝てて起きた。もう直ぐ明日で「エクストリーム・ジョブ」観賞会開始。

野球部は笑った。


2024.10.9を30分回って観賞会終了。動物園が出てこないと思ってたら、それはシークレットジョブらしい。次は「オレンジ」観賞会予定。


午前1時前。映画紹介観賞会終了。メニュー画面を観る。恐らくは事後の五人(赤ちゃんらしきを含めると六人)、事前、メインの六人というのに、キュンキュンしたくないけどキュンキュン型だろうか。

泣けるラブストーリーという四月は君の嘘というような題名の映画も観れたら観たいと少し思うある。


直ぐ様おしっこしたくてトイレでおしっこしながら日めくり日米開戦・終戦を読む。何故かポツダムの場合日本ということでは宣言が過半数で会議はお目にかからないが、ポツダム会議中を読む。

ウエムラマリア様のロジックを少し思う。

これもたった一つのロジックだが、ディープインパクトにダイニクラッチの家族は困難である。ディープインパクトにその能力があまりにも無さすぎるというか、ディープインパクトの家族は多けれども、家族と愛を育むだとかいう暇はディープインパクトにあることはなかっただろう。ディープインパクトだと家族としての人間から人参すら与えられる触れあいすらなかったのではないか。ほとんどポコチンであるというか。ポコチンになれた名馬というか。

名前でいうと、ディープインパクトというのは当初特に馬体が小さいわけだから、もっと小さいわけで、それでその名前というのはすげぇと思う。サイレンススズカというのは恐らくは当初からの目玉というか、何かちょっぱや馬だったのだろうか。しかし名馬は、割合と難があるというか、シンボリルドルフというようなお名前をとても付けられないというのが多いように思う。シンボリルドルフ以外は。

日めくり日米開戦・終戦で、クレーターの写真を拝見してたこともあり、艦砲とはちと違うのか、概ね空襲だと、特に木造建築群では空中分解での焼夷弾が多めということよりも超多めのようでも、例えばクレーターの場合、恐竜は大変だったわけらしいが、恐竜は陸海空の恐竜で、人間は哺乳類、恐竜のカテを哺乳類カテでも、陸でもサイズにせよ、移動の早さ、時間にせよとか哺乳類以外、要するに絶滅危惧種が、種としては強いというロジックでは人間は哺乳類ではその生存力とか繁殖力とかいうのは、人間以外のためにあるという基本というのは、いったいそうなる論理、基本という時空間だとどういうことなのかと思う。




2024.10 わたしの幸せな結婚→ハルチカ→エクストリーム・ジョブ→ピーチガール→トガニ→交換ウソ日記→なのに、千輝くんが甘すぎる。→僕らのごはんは明日で待ってる→幸福な食卓 感想4

2025-06-13 10:46:13 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

観賞会再開。イケメン先生は、早くも作曲完了。コンクールに出場らしい。

学校力という側面、その社会定義としては、吹奏楽部があるのかないのかも、雲泥の差はあるだろう。しかし、恐らくは、当映画は高校だろうか、高校とかで、先生、先生方といってもいいが、彼ら彼女らは出場しないというのはどういう了見か。

勿論基本は学問を伝えていく、吹奏楽部とかでもだろうが、社会性、高校で社会性を主眼にした吹奏楽部ということはなかろうが、吹奏楽そのものの社会性そのものもそれなりに社会性、楽譜という強烈無比なる社会性に依存されるはずであるから、世界史に楽譜がないということではある。世界史が吹奏楽にはならないはずだが、楽譜に食事が欠落、排泄も欠落、楽譜そのものにそれらの存在がなければないほど楽譜にとってはよろしいわけで、音そのものが栄養になるならない抽象、意味としてというより、食事の音がどうしてもその論理では早い。

キュンキュンも、平和主義のカテゴリーだと思うと、例えばインテリとクソガキが、インテリとクソガキに向かって、「お腹すいたよぉ」とか、もっととどめは、「お腹すいたね」とか、それでキュンキュンしないときとばあいは人類あるわけだが、それはキュンキュンではないのかも知れないけれども、私が最近覚えた、そして個人的に相当に好きな言語キュンキュンを人並み程度に思い込み、合算で30分以上に及ぶ思想的格闘においては、キュンキュンの発生率も0を目指すべきではあるはずだが、キュンキュンの権利というか、キュンキュンを望むというか、それでも人類はキュンキュンを諦めないという論理展開だと、キュンキュン撲滅がキュンキュンなのだが、キュンキュンのために、平和主義


どうやら書いてた途中で止めたような前記の能書きに最早興味もないので、観賞会再開して、書こうとしたことは、ぱんちゃぱんちゃ橋本環奈ちゃんのバッグは、今の学生鞄というのは、こういう鞄もあるのかと思ってて、知ってるふりはしてないが、知らなかったという意識を強く持つほどでもなかったからかで、どうやらフルート専用のバッグらしい。しかしそのように思い始めつつあることを書くと、それは学生鞄で単にフルートの練習をしていたとしたら、それはやはり昨今の学生鞄トレンド、しかしあれでは教科書とかノートは入らないので不良学生だから、フルート専用鞄だと改めて思う。


観賞会再開。

音楽室定番の、ベートーベンとか特にベートーベンとか、バッハとかモーツァルトの肖像画が、私は小学生の時と中学年の時、怖かったのを思い出した。


ぱんちゃぱんちゃ橋本環奈ちゃんは、フルートが得意では今のところないので、ぱんちゃぱんちゃ橋本環奈ちゃん以外での緊急集会になった恐らくは終盤まで観る。

勿論ぱんちゃぱんちゃ橋本環奈ちゃんがフルート得意ではないということの新しい発見としての緊急集会というか、人類初の試み、体験といってもいいけれども、これのキモは、ぱんちゃぱんちゃ橋本環奈ちゃんが吹奏楽部の存在を実現したということにあると思えなくもない。緊急集会そのものも、善悪というより、若者への民主制の思考の、もっと書くとぱんちゃぱんちゃ橋本環奈ちゃんが吹奏楽部の存在を実現したということが、ガチガチのそれこそ筋金入りのエリート集団的吹奏楽部、練習内容で小便チビること間違いない吹奏楽部では、ぱんちゃぱんちゃ橋本環奈ちゃんの存在が、はなからないか、その時点でないと言っても過言でもないときとばあいはある。はずであるときとばあいもあるように思えなくもない。


直ぐ様観賞会再開。バス中イケメンが倒れる急展開に直ぐになった。イケメン先生が、私も音楽を辞めなければならない時がありましたとの切り口も急展開だと思う。


部員が9人達成で、もっと増えましたシーンと同じ轍か、意味がさっぱり分からない楽譜をいっぱいいる部員が何やら読みふけってるところの最中まで観る。その時別のシーンを思った。誰が為に鐘は鳴るのキスシーンと(比べることではないでしょう(吹奏楽部緊急集会での発言参考。というほどの日本語でもないけども。))絶対的に、双璧だとか匹敵だとかではないけれど、ぱんちゃぱんちゃ橋本環奈ちゃんが音楽室に最初に入ったときのキスシーンというのは、心に残らなくてもいいとさえ思えなくもないけれど、心に残るキスシーンベスト1000にはランクイン出来るほどのキスシーンだと思う。


後数分で2024.10.8になる頃「ハルチカ」観賞会終了。コンクールでのぱんちゃぱんちゃが素晴らしい演奏というハルタくんの感情だと思っていて、最後のフラッシュモブの始まってぱんちゃぱんちゃは演奏に関わる時間があるということはということで、コンクールのぱんちゃぱんちゃがよくなかったことで、ハルタくんはぱんちゃぱんちゃの思い付きを実行して、何度でもぱんちゃぱんちゃの演奏が良くなることというフラッシュモブのフィナーレということだろうか。

キュンという文字はたぶんパッケージにあったように記憶してたが、キュンキュンしそうな映画のように思ったからだろうか、キュンキュンまだかなと思い続けてたので、個人的に第九のフラッシュモブは最初にYouTubeで10年前だろうか見たときは、それから五年間位は思い付けば何度も何度も観てたものの、吹奏楽ならばというか、フラッシュモブを吹奏楽というのは、感動、猛烈に感動したという程度に感動したし、その時のナチュラル市民のリアクションがこれまた感動的で、その感動に感動してたけれども、フラッシュモブをぱんちゃぱんちゃの完全な演奏をフィナーレということで、さまざまなフラッシュモブの感動をという筋だろうか。キュンキュンというか、ぱんちゃぱんちゃとハルタくんが恋か愛のような、より社会性がある意味において欠落したその恋か愛であるキュンキュンだという先入観を少し思って観賞会したから、そのような筋がないからキュンキュンしなかった。

書いてたら2024.10.8になる。次は「エクストリーム・ジョブ」観賞会予定。今回は「なのに、千輝くんが甘すぎる。」が最もキュンキュン映画のような先入観を持っているので、それを最後に観る予定。


ほどなくして、ウィキペディアで調べる。「ハルチカ」は推理小説が原作らしいことを知る。昨日インターネットで調査した「僕らのごはんは明日で待ってる」のDVDの初回限定版はコメンタリー音声があるので、観れたら超観たいと思う。「ザ・エージェント」のコメンタリーが主要俳優揃い踏みそして監督、そしてその映像というコメンタリーのしふくがしふくでしふくと思えば思う私がそのように思う。コメンタリーが無いということというか、映画そのものの独立というか孤独というかを重んじるべきは観なければよろしいということでもコメンタリーというのは任意、或いは映画館とかレンタルDVDだとかでの観賞会からもう一丁人類主義のサイクルスポーツセンターとしてDVDの購入面の付加価値としての動機と動機でも、人気映画にその意味がそれほど無いわけだが、不人気映画にその意味がそれほど無いことの基本原理が真逆であるから、メッセージに着目、パフォーマンスに着目というようなコメンタリー版が思想にあるのかも知れない。「ザ・エージェント」の場合、主要俳優揃い踏みと監督ならば、何をくっちゃべってても観てる分には楽しい、当然その四名も映画観賞会でくっちゃべってるわけで、それ以外のことをその四名でくっちゃべっててもそれほど楽しいわけでもないだろう。極論では、四名で第一次世界大戦をくっちゃべってても当人もだが、観てる側も楽しいという問題でもない。ある意味では、そのような枠組みの多様性の人々に、全く異なる特にその何人もその二時間程度とか書き始めると超高飛車になりつつあるから一旦思考停止。「ゴッドファーザー」とか「七人の侍」とか「バックトゥザフューチャー」、「第三の男」で、コメンタリー版あったらと思う。「第三の男」はDVDの種類が豊富だが、ブルーレイだけだったか、オーソン・ウェルズとジョセフ・コットンという最高級コメンタリー版は不可能ながら、撮影監督だろうかコメンタリー版の存在を最近知ったので、観れたら観たいと思う。たぶん観ない。

「ひまわり」のマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンのコメンタリー版を観れたら強く観たいとこの瞬間は思う。「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンコメンタリー版とか。「十戒」をジョン・フォードと黒澤明と小津安二郎とヒッチコックコメンタリー版とか、ヘミングウェイとスタインベックとトウェインとポーとフォークナーとかのコメンタリー版とか、「スラムダンク」を中学年のどこのだれだか知らないのがコメンタリー版とか、「ワンピース」特にチョッパーの件を小学生のどこのだれだか分からないけれどもコメンタリー版とか。チョッパーがここで初めて登場した時、だれだれちゃんと見ててだれだれちゃん寝ちゃったのとか、ドクタークレハの名前は思い出せるものの、ドクターヒルルクだ!その毒キノコの件で、だれだれくん一緒に観ててねぇ、出ていっちゃったんだよぉ。そこでだれだれくんのお友達コメンタリー。

だれだれくんは、そこで泣いちゃったんだ。だれだれちゃんに泣いてる姿を見せたくなかったんだよきっと。

ふーん。

だれだれちゃんは泣かなかったの?

うーん、よくわからなかったぁ。

まだ五歳だからだよきっと。小学生になったら毒キノコの意味がわかるさきっと。

ねぇなんで毒キノコで泣くの?毒キノコってなぁに?


午前3時。キュンキュン思い込んでたら「ハルチカ」では、眼鏡をかけたオナゴが初登場場面での眼鏡を定位置に戻す仕草はキュン度はあるように思う。いい役だと思う。




2024.10 わたしの幸せな結婚→ハルチカ→エクストリーム・ジョブ→ピーチガール→トガニ→交換ウソ日記→なのに、千輝くんが甘すぎる。→僕らのごはんは明日で待ってる→幸福な食卓 感想3

2025-06-13 10:45:22 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

夜観賞会終了。

ごはんを映画上むらでは、最後の晩餐だったけれども、最初に米袋リレーだったかと思う。ごはんの収束力を語ってた時に、冷奴を食べてた私は、豆腐のそれがはるかにすげぇなとか思いながら観る。ウエムラサンはモデルさんだろうか。観賞会後、主題歌のケツメイシ「僕らのなんとかのような題名」をYouTubeで観賞会。双眼鏡で、米袋リレーでのキュンキュンワードを語ってたウエムラサンから始まったので、ミュージックビデオ用に映画と別、ある意味において、葉山くん不在でのミュージックビデオ上ムラサンだったようで、「トモダチ」は当時頗る好きな曲だった私は、主題歌のその曲もいい曲だなと思った。

次は「ハルチカ」観賞会予定。


再び曲をYouTubeで聴く。

再びカーネルおじさん抱き抱え激走も観る。泣かなかったけれども、観賞会再開時の経過時間カウントだったのかで、実際はやはりその大技はほぼラストシーンに近く、改めてその最初期を観ても、観客は泣きながら観ているだろうという流れのように見えた。

僕らのごはんは明日を待ってるは、僕らの。より、僕らのごはんは。明日を待ってる。と読めなくもないと思う。

フライドチキンテイクアウトとかではなくて、カーネルおじさん移動型で泣けたのは、どうやったらカーネルおじさんで人々が感動、それは基本的にフライドチキンだが、そういうコペルニクス的転回、逆算で筋立てたのだろうか。題名にごはんがあることで、カーネルおじさんノーマーク、鋭いのは最初の米袋リレーで何らかを思うだろうことを使用してでの筋だとしても、こっちは全く米袋リレーと題名のごはんを結び付けなかったので、カーネルおじさんのお手々がそれなりに不自然ではないウエムラマリア様の人物像として、ポカリだとか、米袋リレーでの誓いと近いというか、そして、屋上での涙の意外さ、観客とともに葉山いえす様は激走。観客とともにカーネルおじさんを移動させたと。観客一体型のラストシーンだろうか。カーネルおじさんの出番ではあるんだろうが、それは根本的な解決の分野ではないから、やはりカーネルおじさんいえす様ではあるはずである。

二度そのシーンを見て初めて、カーネルおじさんのステッキは一体型なのかと思った。

映画の最後に、たくさんの人々のお名前の時に写真が出てたので、ずっと観てたら、特別協力だったかで、ケンタッキーフライドチキンの社名があったのに、少し笑った。カーネルおじさん、超いい役。葉山いえす様が、ウエムラマリア様にフライドチキンでベトベトお手々というのは、葉山いえす様の人格権の問題だろうか。ベトベトお手々での抱擁そのものに、葉山いえす様は、その瞬間に、ウエムラマリア様にそれがお手々であるということはどういうことかのジアイドウという論理もあるんだろうか。或いは繊細に触れなければならない状態に既にあったと書くとそれまでは繊細に触れなくてもよいということになる論理はあるが、葉山いえす様はフライドチキンを通じて、そのベトベトお手々ならば、その時のウエムラマリア様に触れられるお手々であるということか。


ウィキペディアで調べる。簡潔に過ぎる。

カーネルおじさん泣けるよと言いたいところだし、カーネルおじさんで泣けると書きさえすれば、どういうことだろうということで観るということでの基本原理的ジレンマだから、カーネルおじさんとのお手々の触れあいの新鮮組の皆様、そして驚天動地のカーネルおじさん移動でのお手々の触れあいの新鮮組の皆様としての皆様が観客でないと下手うちどころか、オテテロもありえる。

これは即ち、当映画だけではないだろうし、多様性半端じゃねぇ地球でも、カーネルおじさん(泣けるよ。それを共通語として守り続けるという観賞後一粒か。)白衣で良かったと言うべきか。


お風呂場で喫煙とか、トイレで日めくり日米開戦・終戦読書とか、布団でスマホのプロスピで合宿所が足りなくなってきた最近は、12球団でSランクカードが当たったらなるべくチョウゴウキンに出来るように思ってしかいなかったから、それならば、どちらかのリーグで、超大当たりの別リーグでも特訓要員としてとか、1球団でまっとうならばとかなら合宿所の意味になるなとか思ってたら、トロフィーもそれなりに獲得出来たし、覇王に何度もなれたからとかで、映画観賞会でちょっと忙しいこともあり、自動試合中心タップ活動、そしてYouTube動画にあった「僕らのごはんは明日を待ってる」観賞会しかしてない1日をまもなく1日が終え明日を待ってる私は、幸せな食卓と、後一つ瀬尾まいこさん原作の映画がYouTubeで観れるようなので、観れたら観ようと思う。


2024.10.7

(午前1時過ぎ、味の素)から揚げが大好きだからです。(NHKラジオ講座で、英語を覚えずに、その日本語を覚えた。)

から揚げと発泡酒で、ハルチカ観賞会開始。珍しく映画紹介が一切ない。メニュー画面で流れる音楽は、キュンキュンな印象を受ける。


インターネットでお名前の拝見は覚えている、その橋本環奈ちゃんだと思うけれども、橋本環奈ちゃんというのは、輝いている、思わず心の中で、ぱんちゃぱんちゃと呟く。吹奏楽部の勧誘活動のはしりまで観る。恐らくはキュンキュンは橋本環奈ちゃんと、バスに乗って頭をぶつけてて、どうやら幼なじみのイケメンとだと思う。吹奏楽部の先生もイケメンだが、春のなんたらという作曲をしてるらしいけれども、先生という立場で、橋本環奈ちゃんのような別嬪さんに、君は社会で、とても堅気の仕事は全て跳ねられる、なるべく早くにいいイケメンか、いいクソガキと結婚して、タンキケッセンのサイクルをもっと人類として早める活動を背負うべきだとか言わないだろうし、先生になるようなのは、そういうのに途中でそういうことクリトリスがいるとしても、


夕方、川岸のベンチのシーンまで観る。橋本環奈ちゃんは、一般的数千年の日本人、完全な黄色人種以外の人種があるように思う。部員集めが後二人だが、今の段階では、キュンしない。今の段階まででのこれからでもキュンしないように思う。「僕らのごはんは明日で待ってる」もカーネルおじさん移動までは、泣けない映画だと思ったから、意外とキュン、もしかしてキュンキュンかも知れない。


観賞会再開。校長先生だったかと会話中まで観る。ぱんちゃぱんちゃ橋本環奈ちゃんは、モノクロだとぼやけてんのライトが強いのかだけども、実際に北北西のフォンテーンだとかのように、ぱんちゃぱんちゃの技術が施されているのだろうかと思った。実際そのようなテクニックが一切なければ、まじりっけなしでぱんちゃぱんちゃするほど人間というのは変わりつつあるのかと思った。

でも、昔から、目的意識、私個人的な利益不利益はどちらでも、そういうのがある人間というのはぱんちゃぱんちゃに見えなくもない。「ハルチカ」で私個人のために橋本環奈ちゃんは、ぱんちゃぱんちゃではないと。建前と本音楽しい当映画のぱんちゃぱんちゃ橋本環奈ちゃんは、そのぱんちゃぱんちゃで、人民に何らか楽しさをというタンキケッセンに無我夢中という論理だろうか。

体感が長いと思う。撮り方だろうけども、優しい時間感覚のテクニシャン映画人の輩と思う。

少しずつ高飛車な観賞会感想になりつつあるので、続きを観ようと思う。


9人揃い、直ぐにとっても増えてた、これからのような時間まで観る。

担任のイケメン先生の作曲が控えているとしても、何のために9人集めるかというのか、吹奏楽部の存続に絞られていることと、部員が多くなりましたシーンで、何となく小学生が、特に私が小学生(私だったら小学中学年までは、当映画を観ても全く意味がない。独りでこっそり、ガンバとかハッチ、マーヤだったかを夕方恐らくは小学高学年前に、なんで大人って、こんなに面白いテレビ観ないんだろうと疑問によく思ったことを思い出した。恐らくはそれほど面白いテレビも、数える程度しか観てないほど、続きがどうだとか、前回観てないとか知らないとかすら意味がなかったように思う。内容が楽しかったわけではない、内容はある意味ではあぶないお話がどうしてもあることでも、テレビにしか居ない動く物体などへの視覚的な楽しさというようなものだろうか。人間以外が重要というか。男の子でいうロボットとか、女の子でいう女の子って成長早めが過半数だから、テクマクマヤコン?)だったら、里見八犬伝並みに繰り返して観るかも知れないと思った。同時代の特にアンダーの人々の過半数に見せられるというより、見てもらいたいという志しの高めな人々の知識の高い映画だろうか。




2024.10 わたしの幸せな結婚→ハルチカ→エクストリーム・ジョブ→ピーチガール→トガニ→交換ウソ日記→なのに、千輝くんが甘すぎる。→僕らのごはんは明日で待ってる→幸福な食卓 感想2

2025-06-13 10:43:47 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

夕方過ぎ観賞会終了。

続きがあるような映画らしい。

私の記憶では「ハルチカ」の能書きはキュンがあったはずなので、次は「ハルチカ」観賞会予定。


ウィキペディアで少し観る。みおちゃんではなくて、みよちゃんらしい。

僕らのごはんは明日で待ってるがYouTubeで観れそうなので、僕らのごはんは明日で待ってる観賞会をしようと思う。

日本語の変質だから、題名に余程の自信か内容の後付けとして題名の納得という無頼か。キュンキュン映画だといいが。


観賞会開始。米袋ジャンプを繰り出す辺り前は、オナゴのロジック全開。オナゴがキュンキュンキュンだろうか。正義論が、キュンキュンで組み立てられる部分があるかも知れないというキュンキュンのみの正義論。人様はまだまだキュンキュン知らねぇんだよ、だまって観とけよとかもありつつとか。


観賞会再開。米袋ジャンプの本番間近まで観る。男の子の独白が無理矢理なのがよろしいということにしてあるならば、野郎の思い込みに然程というかオナゴはほぼ細部は興味が全く眼中にない或いはその気はない、ポカリとか浅見とかコナンとかの会話をオナゴは繰り出す、パンが出てたが、明日で待ってる、流石に手渡しで、ご飯をお兄さんはそれが寿司だったら笑えるがそこで笑ったら人間失格のトラッパンと少し思わなくもない。


2024.10.6

夕方頃まで、断片的に観賞会し、葉山くんが、カーネルおじさんを外して運搬激走は、涙が出て駄目だ。

こういう映画で泣けねぇなぁとか、泣ける映画らしいので、どこで泣けるかという見方だったから尚更だったので、複数形、題名は僕らの、映画でのその時期では俺たちというのは、うめぇ手口だと感心した。観ながらの思い出を思い出すと。


直ぐ様お風呂場へ喫煙のために、冷蔵庫から先ず水を飲み、コーヒーを取り出すも、カーネルおじさん抱き抱え激走を思い出し、涙ぐむ。

葉山くんが、カーネルおじさんを通り過ぎた時に閃くわけだが、私はその時に、葉山くんはフライドチキンを買っていくのかと思ったことが、より一層葉山くんの革命的活動に、お手々ロでござったかということに、お風呂場で、うめぇ手口だなとひとりごちる。


YouTubeのその画面で静止したので、何となく経過時間を見たら、ほとんどラストシーンなのかと思い込んでた無自覚で、まだ後40分程度の上映時間があることに少し驚く。

家族だろうか。

葉山くんとオナゴの、僕らの何らかの家族としての、岡田さん理論だと、葉山くんとオナゴの蜜月期、葉山くんとオナゴの分離独立期、そして葉山くんとオナゴの家族期或いは家族までのかていをいきるという家庭だろうか。


当映画を少し思い込み始めつつある段階だと、葉山くんは、いえすくんだから、カーネルおじさんも、それなりにお手々がいえすらしいと思えなくもないと思い始める。

カーネルおじさんが十字架しょとるのは不味すぎるわけで、いえす様が、カーネルおじさん抱き抱えゴルゴダの平地を激走、いえす様のお手々ロか。カーネルおじさんのお手々ロとお手々ロから、それからのオナゴにとってのお手々ロは、いぃつまでもぉ、かわるぅことなくぅ、葉山くん♥️のようなキュンキュン。葉山くんのお手々ロが、ごはんを生み出す。永遠の明日としたら、それは永遠にないということになるけども。当日のごはんが、僕らにないということだろうか。葉山くんとオナゴのごはんは、ケンタッキーフライドチキンになっちゃって、ごはんはいつでもどこでもだれとでも、明日型。葉山くんとオナゴという僕らの。二人だけの言語。相当な専門用語。句読点の有無に無頓着だったので、たぶん句読点はない題名のはずだが、僕らの。ごはんは明日で。待ってる。ごはん派という下らん言語はかまさんはずなので、オナゴの生死があるかも知れない。オナゴは二人のいえす様を生み出したマリア様以上でも以下でもないと。二人のマリア様か。双眼鏡はマリア様抱えるどころか、ぶっちぎれないから、人間とは違うマリア様、偶像崇拝とは思われず物語として遣り過ごす力業ならば、マリア様にヘビーメタファーはかからないとも思えなくもない。屋上でのマリア様が、その状態が、いえす様ならば、三人のいえす様が、一同に会するということだろうか。

よく思考が分からなくなってきたので、一時期停止して、思い煩う前に観賞会終了しようと思う。

葉山いえす様は、マリアいえす様のお手々ロこそがと書くとカーネルおじさんが寂しがっちゃうから書かんで続きを観ようと思う。


直ぐ様お風呂場で喫煙して思い始めつつある。

マリアいえす様に、二人のいえす様が会えない筋。カーネルおじさんは、無言で、そして双眼鏡で観たマリアいえす様も、無言で、葉山いえす様の二人のいえす様はマリアいえす様と書くとカーネルおじさんいえす様はすねちゃうから、書くのはよそう。いえす様になりたい人間はいないと思ってるタイプだが。

じったいむたようせいか。

葉山くんは、映画版永野鉄男くんとは違うから、絵本を持ったいかした野郎と、そこにはじめてのお友達オナゴちゃんがパブリック能力の高さを発揮しても、お手々ロはかすまないというか葉山くんはその能力も、それ以外の能力もないというより意味はない。

マリアいえす様は、屋上で、人々のために涙を流してるわけでも、血の涙という汗とかということでもない。人類の一員として生きていく意識というか意志が健全な部類の輩として、タンキケッセンのピースフルカレッジだと、後40分程度の映画の内容はマリアいえす様不在で、三部構成では、最後は葉山いえす様とカーネルおじさんいえす様の二人の営みという革命だろうか。