ウォーキングの愛好者グループ「奈良県歩け歩け協会」で、「京の古寺名刹を訪ねる」をテーマにした例会が、11月29(日)に予定されています。
近鉄東寺駅に9時20分に集合して 「東寺 - 島原大門 - 壬生寺 - 西本願寺 - 東本願寺 - 耳(鼻)塚 - 豊国神社・方広寺 - 泉涌寺 - 東福寺」を辿り、JR・京阪 東福寺駅へ至る約13Kmのウォークです。
例会の当日は天候他の事情により、コースが変更される場合もあります。
ウォーキングは野外を歩き自然と親しむ機会です。雨も自然ですから、原則として雨天でも例会は実施されます。
例会当日の朝7時に目的地に気象警報が発令された場合は、例会は中止されますのでご注意下さい。
コースマップ
東寺
正式名称は教王護国寺ですが、平安遷都の時、桓武天皇が羅城門・朱雀大路を挟んで対をなすかたちで東西に建てた官寺の東側なので、東寺と呼ばれるようになりました。その後、空海が真言密教の道場としたお寺です。日本最高最大の五重塔が有名です。
島原大門
島原は幕府公認の格式高い遊郭でした。新撰組もよく出入りし酒宴を催したようです。角屋もてなしの文化美術館や島原遊郭の入り口だった島原大門とさらば垣が往時の面影を残しています。
壬生寺
壬生寺は律宗の古刹で無言劇壬生狂言で有名です。江戸から京の都にやってきた浪士組(後の新撰組)が境内で隊士の調練が行われていたとのことです。暗殺された芹沢鴨の葬儀もここで行われていて、境内の壬生塚に近藤勇の胸像や隊士の墓などがあります。
西本願寺
浄土真宗本願寺派の本山で、正式には龍谷山本願寺です。桃山時代の伏見城の遺構といわれる国宝で豪華な装飾彫刻を施した唐門は見事です。
東本願寺
浄土真宗大谷派の本山で、真宗本廟といい御影堂には宗祖の親鸞聖人を、阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来が安置されています。
同じく親鸞を宗祖とする本願寺が西と東に分かれたのは、天下統一を目前にした織田信長が、現在の大阪城の場所にあった石山本願寺を攻めた石山合戦で11世法主顕如は和睦を受け入れ、本願寺を明け渡そうとしますが、長男の教如は籠城して徹底抗戦の構えでした。宗門の絶滅を恐れた顕如は、次男の准如を後継者にします。数ヶ月の戦いの後、石山本願寺は明け渡されましたが、信長の死後の天下人豊臣秀吉が、七条堀川に寺用の土地を寄進し、教如は隠居して、正式に准如が12世法主となって本願寺(現在の西本願寺)が再興されました。しかし、その跡に徳川家康が天下を取り、秀吉の遺産を徹底的につぶしたい家康は、六条烏丸に寺用の土地を寄進します。そこに、引退した教如が12世法主として復活し、東本願寺となりました。
耳(鼻)塚
この塚は16世紀末に天下統一をした豊臣秀吉の朝鮮半島出兵にかかわる遺跡です。武将は戦功のしるしに首の代わりに敵の耳や鼻をそぎ、塩漬けにして日本へ持ち帰りました。それを埋めて供養したのがこの塚と伝わります。
豊国神社
豊国(とよくに)神社は阿弥陀ヶ峰に埋葬された豊臣秀吉を祭神としていて、秀吉を祀る神社です。豊臣滅亡後取り壊されたのを明治になって復興されましたが、美しい唐門は国宝です
方広寺
方広寺に秀頼が寄進したこの鐘に文字が刻まれいますが、その中に「国家安康」「君臣豊楽」とあるのを見つけ、これは家康を二つに分け、豊臣家の繁栄を祈る呪いの言葉だという言いがかりをつけ、それを口実に攻撃をしかけます。それが、大坂の陣です。
冬と夏、2度に渡る大坂の陣で、豊臣家は滅亡し、名実ともに徳川の世となりますが、この鐘に刻まれた銘文が、呪いの言葉だという事が、豊臣に攻撃を仕掛けたい家康の言いがかりの口実である事は明白で、豊臣家は徳川家康の狙い通り滅亡しましたが、肝心の呪いの言葉が書かれた鐘は今も残っています。
泉涌寺
弘法大師がこの地に庵を結んだのが始まりとされ、後に清水が湧き出たことから、泉涌寺という名前になりました。仁治3年(1242)に第87代四条天皇(1232-42)がこの寺に葬られてからは、歴代天皇の山陵がこの地に営まれるようになり、皇室の菩提所として御寺(みてら)と称され信仰を集めています。
東福寺
摂政関白藤原家(九条家)が、奈良の東大寺と興福寺から東と福の二文字をとり、1236年より19年の歳月をかけて、九条家の菩提寺として建立された、禅宗の巨大古刹です。境内の渓谷に架かる通天橋は紅葉の名所として知られています。
最後までご覧いただきありがとうございました。
昭和61年に設立された歴史と実績のあるウォーキング愛好者のグループ「奈良県歩け歩け協会」は、歩いて健康の維持や人と人の触れ合いの場を提供することを目的に活動しています。
「奈良県歩け歩け協会」では新規会員を募集しています。例会に体験参加(無料)や入会を希望される方は、例会当日に集合場所に直接お越し頂くか<yakuoji@gmail.com>までメールして下さい。
近鉄東寺駅に9時20分に集合して 「東寺 - 島原大門 - 壬生寺 - 西本願寺 - 東本願寺 - 耳(鼻)塚 - 豊国神社・方広寺 - 泉涌寺 - 東福寺」を辿り、JR・京阪 東福寺駅へ至る約13Kmのウォークです。
例会の当日は天候他の事情により、コースが変更される場合もあります。
ウォーキングは野外を歩き自然と親しむ機会です。雨も自然ですから、原則として雨天でも例会は実施されます。
例会当日の朝7時に目的地に気象警報が発令された場合は、例会は中止されますのでご注意下さい。
コースマップ
東寺
正式名称は教王護国寺ですが、平安遷都の時、桓武天皇が羅城門・朱雀大路を挟んで対をなすかたちで東西に建てた官寺の東側なので、東寺と呼ばれるようになりました。その後、空海が真言密教の道場としたお寺です。日本最高最大の五重塔が有名です。
島原大門
島原は幕府公認の格式高い遊郭でした。新撰組もよく出入りし酒宴を催したようです。角屋もてなしの文化美術館や島原遊郭の入り口だった島原大門とさらば垣が往時の面影を残しています。
壬生寺
壬生寺は律宗の古刹で無言劇壬生狂言で有名です。江戸から京の都にやってきた浪士組(後の新撰組)が境内で隊士の調練が行われていたとのことです。暗殺された芹沢鴨の葬儀もここで行われていて、境内の壬生塚に近藤勇の胸像や隊士の墓などがあります。
西本願寺
浄土真宗本願寺派の本山で、正式には龍谷山本願寺です。桃山時代の伏見城の遺構といわれる国宝で豪華な装飾彫刻を施した唐門は見事です。
東本願寺
浄土真宗大谷派の本山で、真宗本廟といい御影堂には宗祖の親鸞聖人を、阿弥陀堂には本尊の阿弥陀如来が安置されています。
同じく親鸞を宗祖とする本願寺が西と東に分かれたのは、天下統一を目前にした織田信長が、現在の大阪城の場所にあった石山本願寺を攻めた石山合戦で11世法主顕如は和睦を受け入れ、本願寺を明け渡そうとしますが、長男の教如は籠城して徹底抗戦の構えでした。宗門の絶滅を恐れた顕如は、次男の准如を後継者にします。数ヶ月の戦いの後、石山本願寺は明け渡されましたが、信長の死後の天下人豊臣秀吉が、七条堀川に寺用の土地を寄進し、教如は隠居して、正式に准如が12世法主となって本願寺(現在の西本願寺)が再興されました。しかし、その跡に徳川家康が天下を取り、秀吉の遺産を徹底的につぶしたい家康は、六条烏丸に寺用の土地を寄進します。そこに、引退した教如が12世法主として復活し、東本願寺となりました。
耳(鼻)塚
この塚は16世紀末に天下統一をした豊臣秀吉の朝鮮半島出兵にかかわる遺跡です。武将は戦功のしるしに首の代わりに敵の耳や鼻をそぎ、塩漬けにして日本へ持ち帰りました。それを埋めて供養したのがこの塚と伝わります。
豊国神社
豊国(とよくに)神社は阿弥陀ヶ峰に埋葬された豊臣秀吉を祭神としていて、秀吉を祀る神社です。豊臣滅亡後取り壊されたのを明治になって復興されましたが、美しい唐門は国宝です
方広寺
方広寺に秀頼が寄進したこの鐘に文字が刻まれいますが、その中に「国家安康」「君臣豊楽」とあるのを見つけ、これは家康を二つに分け、豊臣家の繁栄を祈る呪いの言葉だという言いがかりをつけ、それを口実に攻撃をしかけます。それが、大坂の陣です。
冬と夏、2度に渡る大坂の陣で、豊臣家は滅亡し、名実ともに徳川の世となりますが、この鐘に刻まれた銘文が、呪いの言葉だという事が、豊臣に攻撃を仕掛けたい家康の言いがかりの口実である事は明白で、豊臣家は徳川家康の狙い通り滅亡しましたが、肝心の呪いの言葉が書かれた鐘は今も残っています。
泉涌寺
弘法大師がこの地に庵を結んだのが始まりとされ、後に清水が湧き出たことから、泉涌寺という名前になりました。仁治3年(1242)に第87代四条天皇(1232-42)がこの寺に葬られてからは、歴代天皇の山陵がこの地に営まれるようになり、皇室の菩提所として御寺(みてら)と称され信仰を集めています。
東福寺
摂政関白藤原家(九条家)が、奈良の東大寺と興福寺から東と福の二文字をとり、1236年より19年の歳月をかけて、九条家の菩提寺として建立された、禅宗の巨大古刹です。境内の渓谷に架かる通天橋は紅葉の名所として知られています。
最後までご覧いただきありがとうございました。
昭和61年に設立された歴史と実績のあるウォーキング愛好者のグループ「奈良県歩け歩け協会」は、歩いて健康の維持や人と人の触れ合いの場を提供することを目的に活動しています。
「奈良県歩け歩け協会」では新規会員を募集しています。例会に体験参加(無料)や入会を希望される方は、例会当日に集合場所に直接お越し頂くか<yakuoji@gmail.com>までメールして下さい。