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DAY by DAY

日々の出来事、覚書

10月31日-2

2023-10-31 22:00:02 | 日記

今日10月31日Part2 “マルティン・ルターの宗教改革”について

 

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1517 - マルティン・ルターが、ローマ教会の贖宥状の販売を糾弾する

95ヶ条の論題」を教会の壁に貼り出す。

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95か条の論題

1517年10月31日にマルティン・ルターが発表したとされる文書である。

 

一般的には、ルターがこの文書をヴィッテンベルクの城教会の門扉に貼りだしたのが

宗教改革の発端になったとされており、カトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を批判

したものだとされている。内容は序文と95か条の提題(テーゼン)から構成されてお

り、本来はラテン語で書かれていた。すぐに活版印刷によるドイツ語訳版がつくられ

て印刷され、ドイツ中に知れ渡ったとするのが定説である。

 

「95か条の論題」は、中近世のヨーロッパ史における重大事件である宗教改革の

契機になった文書として知られている。この文書はマルティン・ルターが1517年

10月31日に、自身が神学教授を務めているヴィッテンベルクの教会の門に貼り

だしたとされている。

 

文書は主に贖宥状の販売を糾弾する内容になっていたとされているが、実際には

ラテン語で書かれているために、一般市民には全く内容はわからないものだった。

通説では、ルターがこの掲示によって教会を批難したのは勇気ある大胆な行動で

あり、すぐさまドイツ語に印刷されて出回り、ドイツ中に大きな論争を巻き起こした

と説明される。しかし歴史家たちは、ルターがやったことは当時の学術界における

所定の手続きに則って討論会の告知を行っただけであったと指摘している。

 

この時点では、ルター自身も一般庶民に大きな影響を及ぼすことになるとは考え

ていなかっただろうというのが現代の学術界の定説である。しかも、「門扉に文書

を貼った」という伝承が歴史的事実であるかどうかも結論が出ていない。

 

にもかかわらず、この文書が、突如として宗教改革を引き起こし、カトリックとプロ

テスタントを分裂させた端緒になったというイメージは、今も一般的である。

10月31日は宗教改革記念日となっており、ドイツのプロテスタント地方では休日

になっている。

 

通説による簡単な経緯と評価

一般的に、世界史の教科書では、「宗教改革」は1517年にマルティン・ルターが

「95か条の論題」をヴィッテンベルクの城教会の門に貼りだすことで始まった、と

されている。そしてその背景として、中世以来のカトリック教会の腐敗があり、贖宥

状の販売が引き金になったと説明される。

 

往々にして、このルターの行為は、一介の聖職者の身でありながら教会の組織と

権威に敢然と挑戦した雄渾な行動であったとして描かれる。

この「ルターによる教会批判」は瞬く間にドイツ中の知るところとなり、大きな論争

を巻き起こし、1560年頃のカトリックとプロテスタントの分裂や、イングランド国教

会の独立をもたらしたとされる。

 

すなわち、「宗教改革」は1517年に始まり、1560年頃に終わった、とするのが

世界史の教科書における一般的な解説である。

 

ルターが95か条の論題を掲示した日時は、1517年10月31日の夜中とされて

いる。翌11月1日はカトリック教会の万聖節という祝日であると共に、ヴィッテン

ベルク城教会の献堂記念日でもあった。

 

歴史学上の評価

しかしながら現代の歴史家や宗教史家は、こうした通説は宗教改革にまつわる

「神話」であり、後世に作られた見方ではないかと指摘している。この指摘に

よれば、「宗教改革」という用語が使われるようになったのは17世紀以降の

ことである。

 

この術語を用いたドイツの政治家ファイト・ルートヴィヒ・フォン・ゼッケンドルフ

(1626 - 1692)は、「ルターの教会批判」「ルターの宗教改革」などと表現し、

あくまでもルター個人の行動の範囲に限定する用語として用いた。

95ヶ条の論題によって始まったのは「ドイツの」宗教改革だとする文献もある。

 

ドイツ史研究家の松田智雄は、『世界の名著23 ルター』(中央公論社)のなか

で、「どの面から言っても、これが世界史の新しい時期を開くような、はなばなし

い開幕でなかったことだけは確かである」と評している。実際にはルター以外に

も宗教改革家は大勢いて、ルターと同時代の人々は「改革」の総てをルターに

帰すようには考えていなかった。改革は多元的に発生しており、多くの人物や

都市が関わっていた。

 

教会史家のベルント・メラー(1931 - )は、ルターを「偉大な賢人」「宗教改革の

指導者」と描写する「よくある記述」は、完全に作り上げられたものであると

批判した。この見解は多くの歴史家に支持されている。

 

しかしながら「ルター生誕500周年」を迎えた1983年には、ルターを「歴史上の

英雄の一人」「宗教改革を一人で成し遂げた人物」と扱う見方が依然として広汎

に存在していることが実証されてしまった。

 

文書の内容について

多くの研究者は、この文書の具体的な中身については詳しく述べていない。

ドイツの歴史家でルターの伝記を書いたリヒャルト・フリーデンタールによれば、

95か条は全体として「教理でも、体系でもなく、また、そのようなものではありえ

なかった」。これは議論をするためのメモ書き程度のものであり、「多くの提題は

ほとんど独り言」のようなものだった。ところによっては標語のようなものであっ

たり、形になっていないものもあった。

 

ルターは、多くの民衆が言っていたことを1枚の紙にとりまとめただけであり、

その最初と最後にルターの名前があるという以外に、文書全体を貫く思想とい

えるほどのものは無かった。しかしそのことがかえって、多くの階層の様々な

人物に、自由な解釈を可能にしたとも考えられている。与えた影響として重要

だったのは、論題の中身というよりは、ルターの意図には反していたかもしれ

ないが、教会に対する批判を公言してもよいのだ、ということだった。後述す

るように問題が大きくなっていった頃には、既にこの文書の中身や文言が

問題ではなくなっており、ルターの当初の意図とは全くかけはなれた状況と

なっていったのである。

 

これとは異なる見解を示す者もいる。

松田智雄によれば、「論旨は純粋に教義の問題としてとりあげられ、論じられて

いる」。中には現実的な提題も含まれているものの、全体としては教会法や教義

を論じたもので、とくに「許し」は教会法や贖宥状では得られるものではなく神の

意志によるものだ、という考えが貫かれているとしている。

 

『宗教改革小史』の著者K.G.アッポルドは、「贖宥の商業化を真正面から攻撃」

するものだった、としている。

しかしルターは、この「95ヶ条の論題」の中では、贖宥状そのものを完全否定した

わけではなく、一定の範囲では肯定している。贖宥状を購入して贖宥を受けられ

る事自体は認めているし、教皇を批判しているわけでもない。その贖宥が適用で

きる範囲が限定的であることを確認しているだけである。

 

「95ヶ条の論題」で書かれた内容は、のちにルター自身が考えを変えたものも

少なくない。たとえば「95ヶ条の論題」では煉獄そのものは否定されておらず、

贖宥状の効果が煉獄までは及ばないとしているだけであるが、後にルターは

煉獄そのものの存在を否定するようになった。

 

ルターの著作のうち、内容面で宗教改革運動の理論に影響をあたえたのは、

のちに著した「宗教改革三大論文」と呼ばれる『ドイツ国民のキリスト教貴族に

与える』『教会のバビロン捕囚について』『キリスト者の自由』である。

 

「掲示」の意味と意義

(『世界の歴史12ルネサンス』による日本語訳(大意))
真理に対する愛から、

私は以下の箇条について
討論することを求めたい。
それに出席することができない人は
書面でもって論じてもらいたい。
我らが主イエス・キリストの聖名において、アーメン。

 

教会の門扉に掲示を行うのはよくあることだった

ルターがヴィッテンベルクの城教会の門扉に「95か条の論題」を貼りだしたのは

1517年10月31日の夜中である。翌11月1日はカトリック教会の万聖節と

城教会の献堂記念日とにあたっており、この貼り紙は祭りに集まる人々の目に

留まることになる。

 

このように、公の場で、壁新聞のように多くの人の目に触れるようなやり方で教会

を告発してみせたというのは、現代の読者には果敢な行動であるという印象を与

える。しかし実際には、これは当時としては極めて一般的な出来事だった。

 

当時のヴィッテンベルクの人口は2000人程度である。

人口規模は大きくないが、ザクセン選帝侯の本城であると共に、1502年に開設

されたばかりのヴィッテンベルク大学があった。町の西端にある選帝侯の居城に

隣接して城教会があり、その門は日常的に大学の掲示板として利用されていた。

 

ヴィッテンベルク大学の神学博士だったルターが掲示した文書は、全編にわたっ

てラテン語で書かれており、一般市民には読めないものであった。つまり、ルター

はこの文書を以って一般市民に問題提起しようという意図は全く無かった。

 

掲示板にこうした文書を貼りだすのは、当時の神学者が公開討論を申し入れる際

の所定の手続きであり、その決め事に沿った定型的な行動に過ぎない。

こうした公開討論は、当時の神学者が修練の一環として日常的に行っていたもの

で、特別なものではない。

 

討論を行いたい者は、議論のテーマをラテン語でまとめ、討論の希望日時や場所

を明記して掲示板に貼るというのが、決められた手順だった。

そしてこの手順では、討論を申し入れた者は、掲出したのと同じ文書を聖職者とし

ての上司・関係者に対して送付する義務がある。写しを複数必要とするがゆえに、

この文書は当時普及し始めたばかりの活字を用いて紙に印刷されたものだった。

ルターは手順にしたがって、この文書を当時のドイツの首座司教であるマインツ

大司教にも送っている。

 

ところが当時のマインツ大司教アルブレヒトこそ、ローマ教皇やフッガー家と結託し、

問題となっている贖宥状を売って利益をあげている張本人だった。これは偶然であ

り、ルター本人も自分が批判しようとしている贖宥状の利益がマインツ大司教アル

ブレヒトの懐に入る仕組みになっているとは知らないままに文書を送付したと考えら

れている。ルターはマインツ大司教にこの文書を送るにあたり、「私の最良の父、

私の牧者」と呼びかけている。これについて、19世紀のイギリス女王ヴィクトリアが

「アルブレヒトはさぞや面白くないことだったであろう」と評したと伝わっている。

 

宗教界は当初、あまり問題視しなかった

ルターが95か条の論題を貼りだしたのは、多くの一般市民に教会の不正を周知

する目的ではなく、学問的な討論を呼びかけたに過ぎなかった。ルターはアウグ

スティヌス修道会に属しており、ルターが討論を呼びかけた相手方はドミニコ修道

会だった。ドミニコ修道会こそ、贖宥状の販売を請け負ってドイツ中で売りさばいて

いた張本人だったからである。

 

しかしルターによる呼びかけにもかかわらず、ドミニコ修道会との討論会は実現し

なかった。当時のヴィッテンベルクの支配者であるザクセン選帝侯ヨハン・フリード

リヒは、領内での贖宥状を禁じる目的でドミニコ会修道士を領地から全員追放して

いた。ドミニコ会修道士はそもそもヴィッテンベルクに立ち入ることができなかった

のである。

 

ルターから「論題」の写しを受け取ったマインツ大司教アルブレヒトは、これをマイン

ツ大学に委ね、周囲にはこの件について一切の言及を禁じた。そのうえで自分の

上席にあたる人物、すなわちローマ教皇レオ10世へ文書を回送した。アルブレヒト

はこれによって、この件についての自己の責任を免れると考えた。そしてレオ10世

こそ問題の贖宥状の販売の総元締めである。

 

そのレオ10世は、当時の大多数の人々と同じように、これをアウグスティヌス修道

会とドミニコ修道会の小競り合いに過ぎず、「修道士どもの口喧嘩」程度のことと考え

ていた。ルターは「酔っぱらいのドイツ人」であり、しらふに戻れば違うことを言うだろ

うと評したとも伝えられている。

 

この時点でのルターの主張は要するに、誤りを犯しているドミニコ修道会に対し、

正しいカトリックの教義を説こうとしているものだった。レオ10世はアウグスティヌス

修道会のドイツの長ヨハン・フォン・シュタウピッツにこの件を委ねることにした。

シュタウピッツはルターの主張に理解を示し、1518年4月25日に開かれる修道会

の総会で議題にするように提案した。

 

そのほかの聖職者たちも、表立った反応はさし控えた。

ブランデンブルク司教のシュルツのところにもルターから文書が届いたが、シュルツ

は読みさえしなかった。それでいてルターに自筆で親切な返事を書き、ルターの主張

にはカトリックの教義に反するものは見受けられないし、贖宥状の販売は自分も嘆か

わしいと感じるが、今は口を噤んでおいたほうがいいだろう、と伝えている。

 

シュルツには、とにかくルターのいるザクセンとマインツ大司教の本拠であるブラン

デンブルクの対立に発展するのを避けたいという思いしか無かったと考えられている。

 

活版印刷術とドイツへの拡散

ところが、何者かがこの文書をドイツ語に翻訳した。

ヴィッテンベルク大学の学生の仕業だとも言われている。それがバーゼル、ニュル

ンベルク、ライプツィヒの印刷業者のもとへ持ち込まれ、当時普及し始めた活版印

刷によって複製された。これが短い間にドイツの各地に広がっていき、さらにドイツ

語以外にも翻訳されてヨーロッパ中に伝えられた。ルターはこれを「天使ご自身が

飛脚であったかのごとくに、14日間のうちに早くも全キリスト教界を一巡した」と

評した。なお、このとき3箇所で印刷されたラテン語の文書はそれぞれ300部ほ

どが出回ったと考えられているが、そのほとんどは現存しない。

 

ニュルンベルク版は1891年にベルリンの学芸員がロンドンの古本屋で発見し、

現在はベルリンに収蔵されている。このニュルンベルク版には、冒頭部に「真理に

対する愛から、」で始まる長い題名が付けられている。バーゼル版では文書にラテ

ン語で「Disputatio pro declaratione virtutis indulgentiarum(贖宥の効力を明らか

にするための討論)」という題名が付け加えられている。各地の文書はいずれも無

記名であり、出版者は不詳である。

 

このように、新技術である活版印刷術がルターの主張の普及に重要な役割を果た

した、という見方は多くの歴史家たちが支持している。とは言っても、当時のドイツ

の識字率は平均して4パーセントから5パーセント程度だった。当時の人口とル

ターの出版物の出版数の推計から逆算すると、実際にルターの著作物を手にした

のは43人に1人程度に過ぎなかった。当時活躍したのは、図像や平易な韻文入

りの木版画によるパンフレットと、説教師である。印刷物が果たした役割はそうした

説教師を感化するところにあった。

 

各界の反応とルターの対応

この結果として、ルターの言説は大反響を巻き起こした。

しかし、純粋に学問的な討論を呼びかけたに過ぎないルターにとっては、これは

予想外のことだった。しかし肝心の神学者たちからはほとんど無視された格好に

なり、ルターが望んだ学術的討論は実現しなかった。

 

ルターが名指しで批判したドミニコ修道会だけは敏感に反応した。

ルターには関係無いのだが、ドミニコ修道会には以前から敵がいて、自分たちは

攻撃を受けて迫害されていると考えていた。そこへ新たにルターという敵が増え

たという格好になっており、深刻な事態だと受け止めたのである。



1518年1月20日、オーデル川のフランクフルトで開かれた修道士の総会で、

ドミニコ修道会士で異端審問官でもあるヨハン・テッツェルがルターに反発して

贖宥を認める論文を発表し、ルターを火刑にすべきだと気勢をあげた。

一方のアウグスティヌス修道会では4月25日の総会でルターが演説した。

この総会にはブツァーやブレンツも出席しており、ルターに感銘を受けた彼らは

のちに宗教改革の指導者となる。

 

当時の人々は、これを単なるドミニコ修道会とアウグスティヌス修道会のいつも

の小競り合いだとみなして、面白おかしく眺めていた。修道会そのものをよく思わ

ない人々は、「修道会同士の喧嘩」を煽り立て、嘲笑し、対立の火が燃え上がる

のを愉快に見物していた。

 

この間、肝心の神学者たちからほとんど反応がなかったことに立腹したルターは、

贖宥状の売り手を追撃するような小論『贖宥と恩恵とについての説教』を刊行した。

「95ヵ条の論題」と大きく違うのは、これがドイツ語で書かれたということである。

このことはこの『説教』が、「論題」のように学者向けのものではなく、一般庶民向け

に書かれたことを意味している。『説教』は20ヵ条に絞られていて、表現はより鮮

明で過激になっていた。この中でルターは、相手方を「聖書の匂いをかいだことも

ない(中略)鈍い頭脳の持ち主」と攻撃した。

この『説教』は20種類以上の版が作られたことがわかっている。

 

贖宥状批判の背景

贖宥状の歴史

一般的に贖宥状の発行は十字軍のときに遡るとされている。

当初、贖宥状の発行は、十字軍のときか、100年に1度、とかなり限定されていた。

その効能も限定的であり、「教会が定めた罰」をいくらか減免させるというものだった。

 

ところがそのうち贖宥状の発行は50年に一度、33年に一度、25年に一度というふ

うに間隔が短くなっていき、やがて頻繁に発行されるようになった。特に15世紀後

半のシクストゥス4世は、贖宥状を乱発すると同時に、その効能を現世での罰の減

免だけでなく、煉獄にいるぶんにまで対象であると拡大した。

 

こうした贖宥状を批判したのはルターが初めてではない。

14世紀にはウィクリフ、15世紀にはフスが贖宥状の販売を批判している。

 

レオ10世の贖宥状のからくり

ルターの批判の対象になったレオ10世による贖宥状は「聖ペテロ大聖堂の再建

費用を集める」という名目で発行されていた。が、実はその本当の使途は違って

いた。この贖宥状の売上は、最終的にはフッガー家という金貸しのところに入るこ

とになっていた。

 

これはローマ教皇レオ10世と、マインツ大司教アルブレヒトの借金返済のための

ものだった。ただし、当のルターはそのような仕組みは全く知らなかった。

一般庶民と同じように、「大聖堂の再建」に使われると考えていた。

 

ザクセン選帝侯と贖宥状

当時のザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、レオ10世とドミニコ修道会の贖宥状販

売には異を唱え、ザクセン領内での贖宥状の販売を禁止した。と言っても、ザクセン

選帝侯が贖宥状の販売を禁じたのはルターのような敬虔さからくる動機ではなく、

領内の経済を慮ってのことだったと考えられている。

 

ザクセン選帝侯自身、以前はさかんに贖宥状を販売していて、その売上で聖遺物を

収集していた。ザクセン選帝侯の聖遺物コレクションは当時のヨーロッパを代表する

ものであり、聖遺物を拝むことは、それだけで贖宥になるとされていたので、各地か

ら参拝のために巡礼者が集まってきていた。

 

巡礼者が領内で費やす金はザクセン選帝侯領内の経済を潤していたのだが、贖宥

状の販売はこれを妨げる危険性があった。また、領民が稼いだ金が、贖宥状の売上

としてローマに送られるということは、ザクセン選帝侯領の富がローマへ流失してい

ることにほかならなかった。当時のドイツは「ローマの雌牛」(乳を絞られる存在)と蔑

まれており、ドイツ諸侯はこれを苦々しく思っていた。

 

この贖宥状はドミニコ修道会の修道士が販売を請け負っていたので、ザクセン選帝

侯はドミニコ会の修道士を全員領内から追放したのだった。しかしテッツェルはザク

セン領地のギリギリまで行って贖宥状販売を行ったので、ザクセンの領民の中から

も数多くの者が贖宥状を買いに行った。

 

贖宥状批判を突然始めたわけではない

ルターは、アウグスティヌス修道会出身で、ヴィッテンベルク大学に招かれ、そこ

で神学博士号を取得した人物である。自身の体験に基づく一風変わった授業を

行い、ヴィッテンベルク大学の神学講義の改革を行っており、学内では有名な

人物だった。しかしこの時点ではドイツ全体としてはまだ無名の存在だった。

 

ルターは掲示を貼りだす以前から、贖宥状批判を繰り返していた。

記録の残るところでは、1516年7月27日の説教で贖宥状の有効性に疑問を呈し、

これが招く倫理の退廃を指摘している。これはちょうどテッツェル一行がザクセン領

にもっとも近づいた時期である。

 

ザクセン領を出て贖宥状を買い求めてきた庶民たちは、贖宥状売りの様子をルター

に話して聞かせた。それはルターを怒らせるものだったという。

ルターが「掲示」を行ったのは、それから1年3か月後のことである。

10月31日当日の昼間の説教でも、ルターはこの問題を発言していたという。

 

本当に「掲示」されたのか?

数百年にわたる無数の研究にもかかわらず、1517年10月31日にルターが本当

にこのような文書を掲示したのか、その事実性には論争があって解決していない。

日付が違うという説もあれば、ルター自身が自分で門に打ち付けたのか、人にやら

せたのかという議論もある。

 

同時代の史料で、この出来事を伝える唯一の情報源は、ルターの同僚だったフィリ

ップ・メランヒトン(1497-1560)によるものである。ルターが1546年2月に死去して

から3か月後に刊行されたルターの著作集第2巻(1546年)の序文の中で、メラ

ンヒトンは、ルターが門扉に95か条の論題を掲示したと述べている。

しかし他の証拠はない。

 

ルターが1517年10月31日に張り出したとされる文書が印刷されたものであった

と伝えられているが、実際にそうであったのか、手書きのものだったのかもわかって

いない。一般に当時の大学の掲示板に貼りだされる文書は、手書き、印刷どちらの

可能性もある。いずれにせよその原本も、印刷前の版も現存しない。

 

現存するのは、マインツ大司教アルブレヒトを経由してローマ教皇レオ10世に送ら

れたものだけである。ただしその中身は、1517年末にライプツィヒで印刷されたコピ

ーと同じである。

 

実際に門に貼りだしたかどうかや正確な日付はわからないが、いずれにせよこの時

期にルターがこの文書を公表したことは確からしい。

 

ルターの意図は?

上述の通り、ルターはそもそも公に教会を攻撃することを意図していたわけではなか

った。ルターは神学者との討論を呼びかけただけであり、その討論を通じて、教会の

枠内での穏やかな改革を意図していた。だから、意図とは違う形で一般庶民を中心

に大騒ぎになってしまった直後、ルターはブランデンブルク司教に対して、主張の訂

正を行い、全面的な撤回すらほのめかしている。

 

しかしルターの意図とは裏腹に、「贖宥状批判」はドイツ中に知れ渡ったとされる。

現代でも一般的には「ルターが贖宥状批判を行った」とされている。しかし、ルターが

95ヵ条の提題を通じて論じようとしたのは、純粋な神学上の教理であった。

 

95ヵ条は全体として体系的でもないし、大半はルターの「独り言」のような文言だった。

贖宥状販売の問題はその中のほんの一部にすぎなかった。

ルターが特に議論を望んだのは、贖宥状の販売そのものではなく、救済と良心の

概念についてだった。教理では、告解、悔悛の後に罰が与えられ、その罰が贖宥

されるという手順であって、告解や悔悛を省いて贖宥にたどり着くはずはない。

だからルターは贖宥状を販売する教会を批判しただけではなく、贖宥状を購入す

る民衆も批判した。

 

しかし実際には、ルター自身は贖宥状について直接見聞きしたことはなく、すべて

贖宥状を買った庶民からの又聞きでしかなかった。贖宥状を売りまわったドミニコ

会修道士テッツェルが謳い文句にしていたという「グルデン金貨がチャリンと言えば

たちまち魂は天国へポンと飛び上がる」という口上は、実際にテッツェルが言ったも

のではなく、ルターが「テッツェルはこう言っているらしい」として述べたものだった。

 

そしてルターはこの贖宥状のからくりまでは知らなかった。

マインツ大司教アルブレヒトのこともよく知らなかったし、まして教皇レオ10世のこ

とは知らず、彼らがこの贖宥状の販売を企画した張本人であることは知らなかった。

ルターは、レオ10世は善良なる聖職者であり、無垢な教皇が悪い部下に騙されて

いるのだと信じきっていた。

 

実際のところ、マインツ大司教もローマ教皇も、神学者として教理に通じた人物では

なかった。マインツ大司教アルブレヒトはホーエンツォレルン家の王子で金で地位を

買っただけであり、メディチ家の人物であるローマ教皇レオ10世は外交に長けてい

たが神学者ではなかった。

 

だから彼らのところに文書が回ってきても自力で判断することはできず、専門の神学

者に回して意見を聞くしかなかった。

当時はそもそも「贖宥」については神学の中でしっかりと位置づけられてはいなかった。

アウグスティヌス修道院でルターに神学を教えた聖職者たちも贖宥については知識

をもっていなかった。

 

「贖宥」と「免罪」

ルターは、贖宥の概念について学術的な討議を求めていた。

本来「贖宥」というのは、人が犯した「罪」に応じて、教会が人に与えた「罰」のうち、

そのいくらかを免除するというものだった。ルターの考えでは、カトリックの教理の

なかでは、贖宥によって免じられるのは「罰」であって、「罪」自体が免れるわけで

はない。しかも教会が免じることができるのは、あくまでも教会が定めた「罰」のみ

であって、神が与えた「罰」は免じることができないはずである。

 

ところが、この贖宥状を売っている連中は、ありとあらゆる罪が無くなるかのような

ことを言っており、ひどいものでは「あらかじめ贖宥状を買っておくと、そのあと悪事

を行っても大丈夫」というような売り口上すらあったという。これはカトリックの教理

に反しているはずであり、そこを議論ではっきりさせたい、というのがルターの主張

だった。

 

贖宥状の有効な対象が適切な部分に留まっているならば、それは教理に適合して

いるのであり、ルターは贖宥状が全て不適切だと批判したわけではなかった。

ただし実際問題としては、贖宥の概念についてそこまで詳しく理解している聖職者

は当時ほとんどおらず、修道会におけるルターの師はもちろん、大司教や教皇で

さえも、こうした教理を精確に知っているものはほとんどいなかった。

 

大衆は「罪」と「罰」の区別もついておらず、贖宥状売りの口上を鵜呑みにしている

だけだった。

 

その後

1518年の秋、教皇庁やザクセン選帝侯のとりなしで、カトリック教会とルターの

討論が内々で行われた(アウクスブルク審問)。

しかし両者の主張は並行のままに終わった。

 

この話し合いの後、アウグスティヌス修道会のシュタウピッツはルターを修道会

から退会させることにした。これによってアウグスティヌス修道会に対する責任

問題を回避するとともに、ルターが自由に活動できるようにしたのである。

 

翌1519年にはライプツィヒ討論が行われる。

この討論会は決裂に終わったが、カトリック側はルターを異端とする言質をとる

ことに成功した。ルターは教会批判の急先鋒とみなされるようになり、ローマ教

皇はルターを異端として破門した。この観点では、討論会はルター側の敗北と

みられたが、その後の影響を考えると、かえってルターにドイツの注目が集まる

ことになった。

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10月31日

2023-10-31 21:56:12 | 日記

今日10月31日は、年始から304日目、年末まであと61日。

 

画像は”95か条の論題”を教会の門扉に貼るマルティン・ルター(1517年)

 

以下、今日の出来事一覧と、その後にメモを記す。

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475 - 最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが即位。

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1471(文明3年9月18日) - 伯耆国守護の山名豊之が家中の謀叛

により殺害される。

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1517 - マルティン・ルターが、ローマ教会の贖宥状の販売を糾弾する

「95ヶ条の論題」を教会の壁に貼り出す。

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1864 - ネバダ準州が州に昇格してアメリカ合衆国36番目の州・ネバダ州

となる。

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1884 - 秩父事件。

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1898 - 第1次大隈内閣が総辞職。

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1913 - 初のアメリカ合衆国横断自動車道路・リンカーン・ハイウェイが開通。

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1914 - 第一次世界大戦: 青島の戦いが始まる。

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1917 - 第一次世界大戦: ベエルシェバの戦い

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1924 - 西表島北北東海底火山が噴火。その後大量の軽石が漂流し、

日本各地の海岸に漂着。

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1940 - 第二次世界大戦: バトル・オブ・ブリテンが終結。

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1941 - ガットスン・ボーグラムによるラシュモア山の4つの大統領像が完成。

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1941 - 第二次世界大戦: アメリカ海軍の駆逐艦「ルーベン・ジェームズ」

がドイツのUボートの雷撃を受け沈没。115人死亡。

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1951 - 沖縄社会大衆党結成。

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1961 - ハリケーン・ハティがイギリス領ホンジュラス

(現在のベリーズ)に上陸。死者275名

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1961 - 第二次スターリン批判を受けヨシフ・スターリンの遺体が

レーニン廟から撤去。

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1964 - 国鉄関門連絡船がこの日限りで廃止。

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1967 - 日本武道館で吉田茂の国葬。戦後初の国葬。

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1968 - ベトナム戦争: リンドン・ジョンソン米大統領が翌日からの

北爆停止を言明。

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1968 - 文化大革命: 中国共産党第8期12中全会で劉少奇の中国共産党

からの永久追放と全ての職務の解任が決議される。

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1969 - 日本記者クラブ結成。

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1969 - 北海道の定山渓鉄道、滋賀県の江若鉄道がこの日限りで廃止。

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1970 - 埼玉県和光市が市制施行。

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1973 - この日限りで、日本国内の放送局は一斉免許更新(再免許)、

財団法人 日本科学技術振興財団テレビ事業本部によるテレビ放送の

運営を終了。翌日から東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に

テレビ放送事業の運営を引き継ぎ。また、琉球放送の英語放送が停波。

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1976 - 日本ビクターが世界初の家庭用VHS方式ビデオテープレコーダ

「HR-3300」を発売。

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1977 - 自然環境における天然痘の最後の感染事例が報告される。

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1979 - ウェスタン航空2605便着陸失敗事故。73人が死亡。

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1984 - インドのインディラ・ガンジー首相がシーク教徒の

警護警官により暗殺される。

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1984 - 文部省宇宙科学研究所 (ISAS) の臼田宇宙空間観測所が開設。

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1986 - 日本鉄道創業の地である汐留貨物駅(旧新橋駅)がこの日限りで廃止。

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1988 - エフエム埼玉(現・NACK5)開局。

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1989 - 三菱地所がニューヨークのロックフェラー・センターを買収。

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1992 - ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、ガリレオ・ガリレイに対する

裁判の誤りを認め、破門を解く。ガリレオの死後350年目。

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1994 - アメリカン・イーグル4184便墜落事故。68名全員死亡。

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1994 - 神奈川県平塚市で湘南自動車検査登録事務所が業務開始。

「湘南ナンバー」が誕生。

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1998 - イラク武装解除問題:

イラク革命指導評議会が国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会 (UNSCOM)

 との協力を全面的に停止することを決定。

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1999 - エジプト航空990便墜落事故。203名死亡。

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2000 - シンガポール航空006便離陸失敗事故。乗員乗客83名が死亡。

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2000 - 国際宇宙ステーションの最初の滞在者を乗せた

ソユーズTM-31が打ち上げ。

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2000 - 超党派野党、参議院に選択的夫婦別姓制度を求める民法改正案を提出。

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2001 - 神奈川県湯河原町に「西村京太郎記念館」が開館。

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2003 - マハティール・ビン・モハマドがマレーシアの首相を辞任。

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2003 - 国際連合腐敗防止条約が採択される。

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2004 - イラク日本人青年殺害事件: 

イラクの聖戦アルカーイダ組織に殺害された日本人男性の遺体が発見される。

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2005 - 第3次小泉改造内閣発足。

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2007 - 任天堂がこの日をもってファミリーコンピュータ、

スーパーファミコン、NINTENDO64などの旧世代ハードの

修理サポートを打ち切り。

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2011 - 世界人口が70億人を突破[2]

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2011 - 外国為替市場で戦後最高値の円高となる1ドル=75円31銭をつけた。

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2014 - 試験飛行中のスペースシップツー一号機「VSSエンタープライズ」

が墜落し、1名死亡。

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2017 - 神奈川県座間市のアパートで座間9人殺害事件が発覚。

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2019 - 首里城で火災が発生。正殿、北殿、南殿など7棟の建屋が焼失。

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2021 - 第49回衆議院議員総選挙の投票日。自由民主党は改選議席を15

減らしたものの絶対安定多数を確保。立憲民主党は改選議席を13減らす

など振るわなかった一方で日本維新の会が30議席伸ばす躍進となった。

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2021 - 京王線刺傷事件が発生。

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===メモ===============================

下線部分情報ソース不確定、以前の日記に記載の件は再記せず。

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475 - 最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが即位。

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ロムルス・アウグストゥルス

460年 - 511年~536年。西ローマ帝国の皇帝(在位:475年 - 476年)。

 

ロムルス・アウグストゥルスの名で知られているが、本名は『ロムルス・アウグストゥス』

アウグストゥルスは、小アウグストゥスという意味のニックネームである。

彼は西ローマ帝国最後の皇帝であるが、その名は奇しくも、伝説上の王政ローマ建国

の初代王ロムルスと帝政ローマの初代皇帝アウグストゥスの名を合わせたものだった。

 

即位と退位

ロムルス・アウグストゥルスは、父フラウィウス・オレステスによって475年10月31日

に西ローマ皇帝として擁立された。しかし、それから一年も経たない476年9月4日に

ゲルマン人の将軍オドアケルによって退位に追い込まれた。

 

ロムルス・アウグストゥルスを廃したオドアケルは、西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノ

ンに返上してローマ帝国のイタリア領主に任命され、全ローマ帝国唯一の皇帝となった

ゼノンの代理としてイタリアを統治した。 通俗的に、この出来事をもって西ローマ帝国の

「滅亡」とみなされている。しかし、すでにそれ以前から西ローマ皇帝は一切の権威を失

っており、実権はオドアケルに代表されるゲルマン人の将軍たちが握っていた。

 

西ローマ皇帝の廃止を西ローマ帝国の「滅亡」と結びつける表現については「誤解を

招く不正確で不適切な表現」として歴史学者より問題が指摘されている。

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===Part2に記載============================

1517年 - マルティン・ルターが、ローマ教会の贖宥状の販売を糾弾する

「95ヶ条の論題」を教会の壁に貼り出す。

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1884 - 秩父事件

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秩父事件

1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の

農民と士族が政府に対して負債の延納、雑税[1]の減少などを求めて起こした

武装蜂起事件。

隣接する群馬県・長野県の町村にも波及し、数千人規模の一大騒動となった。

自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例とも

されてきた。

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1914 - 第一次世界大戦青島の戦いが始まる。

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青島の戦い

1914年(大正3年)10月31日 - 11月7日。

第一次世界大戦中の1914年に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリス

の連合軍が攻略した戦闘である。

 

日本の戦争で最初に航空機が投入された戦いであり、航空機同士の空中戦や都市へ

の爆撃も実施され、飛行機に対抗する高射砲も運用された。しかし、大量の装備の上

陸や輸送路の確保に慎重を期し、山東半島上陸から青島砲撃までに2か月もの時間

を要したものの、砲撃後1週間で決着がついた戦いは、国民に「弱いドイツ軍相手に

だらだらと時間をかけた」という誤った印象を与え、メディアなどからは「神尾の慎重作

戦」と揶揄されたが、結果的にこの戦いを短期間で決着に持ち込めたのは、補給路や

装備の十分な確保により断続的な飽和攻撃を敵に与える事が出来た事によるもので

ある。

 

この戦争で日本は満洲 - 大連 - 芝罘間通信線の所有/運用権を譲り受けた。

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1940 - 第二次世界大戦バトル・オブ・ブリテンが終結。

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バトル・オブ・ブリテン

第二次世界大戦におけるドイツ空軍とイギリス空軍の戦いのうちで、ドイツによる

イギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権の獲得のために行われた

一連の航空戦を指す。

戦略目標を達することなく独ソ戦を前にしてヒトラーによって中止された。

 

ドイツ語ではイングランド航空戦という。日本語では英国本土航空戦または、

英国の戦いなどとも表記される。

 

1940年7月10日から10月31日までイギリス上空とドーバー海峡でドイツ空軍

とイギリス空軍の間で戦われた航空戦であり、史上最大の航空戦と呼ばれる。

 

緒戦でドイツ空軍はドーバー海峡付近の輸送船や沿岸の港湾を攻撃した。

ロッテ戦術を使った戦法と軍用機の保有数において、ドイツ空軍が優位に立った。

数において劣るイギリスは、軍民一体となって空軍を支援した。

レーダーにおいて当時世界で群を抜いていたイギリスは近代的なレーダー網を活

用した要撃体制を構築し、イギリス連邦諸国から人的支援、中立国(当時)アメリカ

合衆国からは経済支援を得ることができた。

 

ドイツ空軍は7月中旬から内陸部の飛行場を狙った空襲を繰り返してイギリス空軍

に打撃を与えた。しかし、目標選定の失敗や必要な軍用機の整備不足、途中で主

要な空襲目標をロンドンに変えたことなどにより、ドイツ空軍も大きな被害を受けた。

 

10月になってイギリス空軍はドイツのイギリス上陸作戦を断念させることに成功した。

その意味でバトル・オブ・ブリテンの結果は第二次世界大戦の重大な転機となった。

イタリア空軍はドイツ空軍から航空機の派遣を少数受けたものの、効果なくイギリス

軍に撃退された。ドイツ空軍の攻撃は翌1941年5月頃まで継続された。

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1941 - 第二次世界大戦アメリカ海軍駆逐艦ルーベン・ジェームズ

がドイツのUボートの雷撃を受け沈没。115人死亡。

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Uボート

ドイツ海軍の保有する潜水艦の総称。

一般的には特に第一次世界大戦から第二次世界大戦の時期のものをいう。

 

ドイツ潜水艦隊の華々しい活躍により、Uボートの名はドイツ潜水艦の代名詞として

広く普及した。第一次大戦では約300隻が建造され、商船約5,300戦艦10

ほかを撃沈する戦果を上げたが、178隻が戦闘で失われた。

 

第二次大戦では1,131隻が建造され、終戦までに商船約3,000空母2

戦艦2を撃沈する戦果をあげた。しかし、大戦中に連合国が有効な対策を編み

出した事から849隻もの損失を出し、全ドイツ軍の他のあらゆる部隊よりも高い

死亡率であった。

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1961 - ハリケーン・ハティがイギリス領ホンジュラス

(現在のベリーズ)に上陸。死者275

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ハリケーン・ハティ

1961年の10月31日(ハロウィーン)に中央アメリカを直撃したハリケーンである。

 

勢力は一時、サファ・シンプソン・ハリケーン・スケール(SSHS)でカテゴリー5

達した。このハリケーンによって275人が犠牲となり、経済的被害は6千万ドル

(1961年当時)にのぼった。

 

ハティは中央アメリカを二度横切り、大西洋→太平洋→大西洋という、とても珍しい

経路をとったので、三つの名称(Hattieハティ、Simoneシモーネ、Ingaインガ)を

持つ唯一のハリケーンとして記録されている。

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1968文化大革命中国共産党第812中全会劉少奇中国共産党

からの永久追放と全ての職務の解任が決議される。

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少奇

リウ・シャオチー、1898年11月24日 - 1969年11月12日。

中華人民共和国の政治家。凱豊や胡服などといった別名も使用した。

 

第2代中華人民共和国主席(国家主席)などを務め、中国共産党での序列は毛沢東

党主席に次ぐ第2位であったが、文化大革命の中で失脚、非業の死を遂げた。

 

失脚

大躍進政策の失敗で影響力を喪失しつつあった毛沢東は、文化大革命を発動して

権力の奪回を図った。劉少奇は鄧小平とともに「資本主義の道を歩む実権派」の中心

とされ、毛によって打倒の標的とされた。

 

1966年8月の第8期11中全会において、毛は「司令部を砲撃せよ」と題する、実

権派の党幹部打倒を指示する論文を配布した。名指しこそされなかったが、参会者

はこの「司令部」は劉少奇を示すものと察知した。同会議では党中央政治局および

中央政治局常務委員会の改選が行われ、劉は政治局常務委員に残留したものの、

副主席の任は解かれ、党内の序列も従来の第2位から第8位に下げられた。

 

しかしこの段階では、劉はまだ自らが打倒される標的だと気づいていなかった。

同年10月の中央工作会議で名指しの批判を受けると、これに対して劉は自己批

判をおこなった。この自己批判書は事前に毛に提出され、毛は「よく書けている」と

評価したものの、その評価を隠されたままリークされ、それがさらなる批判の材料

にされた。また、会議ではこの自己批判は承認されなかった。

 

1966年末には劉を名指しで批判する大字報が北京市内に貼られた。

1967年に入ると党の内外から公然と劉を批判する文書が出回り始め、「実権派

(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者」とし

て徹底的な非難にさらされる。

 

劉も自らの置かれた立場に気づき、1月に毛沢東と会って「すべての国家と党の

役職から辞任し、国の混乱を終わらせ、農業をして暮らしたい」という意向を伝えた。

これに対して毛沢東は明確な返答を示さなかった。同じ月に、中南海の造反(文革)

派が劉の自宅の執務室に乱入するようになる。劉は造反派に屈することはなく、

論戦を吹っかけてきた彼らに対しその論理の矛盾をついて黙らせるなどしたが、

造反派はその後執務室の電話線を切断した。

 

これにより、劉は外部との連絡を絶たれてしまう。

ある日、毛派に指示された紅衛兵が劉の自宅に乱入し、劉とその家族に暴行を加え

たとき、劉は中華人民共和国憲法を手にして「私はこの憲法に書いてある国家主席

だ。あなたたちは今、国を侮辱している」と叫んだが、リンチから逃れることはできな

かった。

 

1967年4月1日、中央文化革命小組の戚本禹が共産党の理論誌『紅旗』1966年

第5期号に発表した評論「愛国主義か売国主義か? - 歴史映画『清宮秘史』を評す」

が、『人民日報』に掲載された。この評論では劉を「中国のフルシチョフ」とそれとわか

るかたちで非難、これをきっかけに劉に対する攻撃が激化し、大衆の前での批判大

会に連れ出され、夫人とともに何度も執拗な吊し上げを受けた。

 

同年7月18日には、中南海の自宅が造反派に襲撃される。

表に連れ出された劉は、造反派の批判大会で2時間余りにわたって暴行を受け、

批判を浴びた(この批判大会は戚本禹が主催したものであった)。

7月18日の批判大会の後、夫人とは別の部屋に隔離され、事実上幽閉された状態

になった。9月には夫人が逮捕され、子供も自宅から追い出されて、劉一人が自宅

に取り残された。

 

この頃、劉が国民党との闘争期に逮捕されながら法廷闘争で出獄したことや抗日戦

争の時期に指揮した「偽装転向による党員の釈放」(六十一人叛徒集団事件)などが

スパイ行為であるという罪状がでっち上げられた。これらに基づき、1968年10月に

開催された第8期拡大12中全会において、劉を「党内に潜んでいた敵の回し者、

裏切り者、労働貴族」として永久に中国共産党から除名し、党内外の一切の職務を

解任する処分が決議され、劉は失脚した。

 

最期

自宅監禁状態であった劉は病の床に就くが、散髪、入浴ともに許されず、警備員から

も執拗な暴行や暴言を受けた。劉の部屋には劉を非難するスローガンを記した紙が

壁中に貼り付けられた。治療する医師からは、病状の回復のためにはがす提案もさ

れたが受け入れられなかった。上記の党からの除名は劉の誕生日にラジオで放送さ

れ、劉はそれを聞くことを強要された。

 

それ以降、劉は言葉を発しなくなった。

過去の病歴のため劉はいくつかの薬を常用していたが、それも取り上げられた。

多くの歯は抜け落ち、食事や服を着るのにも非常に長い時間がかかった。

1968年夏に高熱を発した後はベッドに横たわる状態となったが、身のまわりの

世話をする者はなく、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態であった。

 

1969年10月17日、河南省開封市に移送。

寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの

倉庫部屋に幽閉された。受け持った地元の医師が求めた高度な治療に対し、

上部機関は「ありふれた肺炎治療薬」のみを投与するよう指示した。

 

限られた治療の中で病状は悪化し、11月12日に没した。享年70。

白布で全身を包まれた遺体は、開封の火葬場にて「劇症伝染病患者」という扱い

で、死の約2日後の深夜に火葬に付された。遺骨は火葬場の納骨堂に保管され、

その保管証には死亡者氏名「劉衛黄」(この名前は劉少奇の幼名だったという)と

記されていた。

 

劉の死は当初は高級幹部以外の国民や国外にはほぼ秘匿され、外部からは生死

不明の状態が続いた。その間、生存説が海外のメディアで報じられたこともあった。

 

名誉回復

毛沢東の死後、鄧小平が実権を掌握していた1980年2月、第11期5中全会に

おいて除名処分が取り消され、名誉回復を果たした。劉が1969年に開封で病死

していた事実はこのとき初めて内外に広く知られることになった。

 

四人組逮捕後になされた文革期の迫害者に対する名誉回復としては遅い部類に

属する。かつてきわめて激しい断罪とともになされた党からの永久追放・除名処分

の取り消しには時間を要したためである。

 

同年5月に追悼大会が開催された。この席で鄧小平は追悼の辞を述べたが、その

中には「劉少奇同志も活動において若干の欠点と誤りがあった」という一節が含まれ、

その真意が議論を呼んだ。しかし、詳しい説明はなされなかった。

この追悼大会後、遺言(1967年4月、夫人の王光美が批判大会に連行される前日

に家族に伝えた)に従い、王光美らによって遺骨は中国海軍の艦艇から海に散骨

された。

 

文革前後の劉少奇

批判の渦中にあった1967年1月、憔悴しきった劉少奇は毛沢東に面会し、辞職し

て隠遁したいと申し出た。毛は終始同情的な態度で接し、ゆっくり休んで自身を再

教育せよ。ヘーゲルともう一人の本を読んではどうかと答えた。その直後、毛は劉

が迫害されている報を受けたが、黙殺した。さらに、劉が最悪の環境の中で病に

倒れると「政治的に一線を画すとも、生活水準を下げてはならぬ。」と厳命し、寛大

さを示して自身が迫害に関係していないポーズをとろうとした。

  

幽閉中の劉は病気となり、家族に会うことも叶わず、手足も不自由となり着替えや

食堂に移動するのにも1時間近くかかるほど衰弱していた。それにも関わらず、

監視する兵士は助けようとしなかった。やがて劉は危篤に陥ったが、党中央は迅速

に対応して治療を行ったため、一命を取り留めた。だがそれは、生きているうちに

劉少奇を党から除名して、恥辱を与えよという江青の指示によるものであった。

 

その他

2016年2月、NHKの海外放送でNHKスペシャル「新・映像の世紀」が放映され

たが、中国国内では劉少奇が映った場面などで突然と画面が真っ暗になり音声も

聞こえなくなるなど番組が断続的に中断される事象が発生した。

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1977 - 自然環境における天然痘の最後の感染事例が報告される。

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天然痘

天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。

疱瘡痘瘡ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。

 

疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の

医師の文書が初出である。ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱

を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢

痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。

 

1980年、世界保健機関(WHO)により根絶が宣言された。

人類史上初にして唯一、根絶に成功した感染症の例である。

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1984 - インドのインディラ・ガンジー首相がシーク教徒

警護警官により暗殺される。

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インディラ・プリヤダルシニー・ガンディー

1917年11月19日 - 1984年10月31日。

インドの政治家で第5代、8代首相。日本語ではガンジーとも表記される。

インド初の女性首相。

 

父はインドの初代首相であるジャワハルラール・ネルー。

息子に第9代首相を務めたラジーヴ・ガンディー、及びサンジャイ・ガンディーが

おり、この政治家一族は「ネルー・ガンディー王朝」と呼ばれるようになった。

なお、マハトマ・ガンディーとの血縁関係はない。

 

下野

ジャナタ党政権が発足すると一時は政界引退を表明したが、1978年10月にカル

ナータカ州チッカマガルール県で行われた下院補欠選挙に立候補するなど、政権

時代に政策面で優遇した南インドを基盤に復権を目指した。

 

インディラは次男のサンジャイ・ガンディーとともに逮捕されてしまうが、インディラ

に対する同情心を生むことになった。また、ジャナタ党政権は「反・インディラ」の旗

印だけで団結していたため、政権運営が続くにつれ党が分裂し、政権が崩壊した。

これらの要因はインディラにとって追い風となり、1980年の総選挙でインド国民

会議は政権を奪還し、インディラは再び首相に就任した。

 

暗殺

1984年6月、インディラはシク教分離主義者の殲滅を目的とするブルースター作

戦の実行を軍に指令し、シク教の聖地、黄金寺院を攻撃させた。この攻撃ではシク

教分離主義運動の指導者であるジャルネイル・シン・ビンドランワレが死亡し、作戦

は成功裏に終わったが、シク教徒からの激しい反発を招くことになった。

 

同年10月31日、インディラは俳優のピーター・ユスティノフからインタビューを受け

ながら歩いている途中、2人のシク教徒の警護警官により銃撃を受け、病院に搬送

される途中で死亡し暗殺された。犯人のうち一人はその場で射殺され、もう一人は

逮捕されて共犯者と共に1989年に絞首刑に処されている。

 

インディラの死後、インド国民会議の政治家の煽動によって反シク教暴動が発生し

ている。インディラの後任の首相には長男のラジーヴが就いたが、彼もまた1991

年に暗殺されたため、「ガンディー家の悲劇」と呼ばれた。

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1989 - 三菱地所ニューヨークロックフェラー・センターを買収。

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ロックフェラー・センター

アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ミッドタウンマンハッタンの

5番街および6番街にある超高層ビルを含む複数のビルからなる複合施設。

設計はレイモンド・フッドほかによる。

 

三菱地所による買収劇

1989年10月、三菱地所はロックフェラーセンターを所有するロックフェラーグル

ープ(RGI)の株式51%を取得しておよそ8億4600万ドル(当時のレートで日本

円にして約1200億円)で買収した。これはバブル期の成金的な「ジャパンマネー」

による海外資産買いあさりの象徴的な例であり、アメリカ国民、特にニューヨーク

市民の大きな反感を買い、ジャパン・バッシングの火に油を注いだ。

 

しかし、後に不動産不況(バブル崩壊)で莫大な赤字を出すことになり、1995年

5月に連邦倒産法第11章を申請し、運営会社は破産。三菱地所が買収した

14棟のうち12棟は売却され、現在は「タイムライフ・ビル」と「マグロウ=ヒル・

ビル」の2棟のみが三菱地所の所有となっている。

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2017 - 神奈川県座間市のアパートで座間9人殺害事件が発覚。

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座間9人殺害事件

2017年(平成29年)10月30日に行方不明になっていた女性(当時23歳)を捜査

する過程で発覚し、翌31日までに9人の遺体が見つかった死体遺棄事件であり、

その後、犯人のS(逮捕当時27歳)の逮捕後尋問にてSが単独実行したことが

発覚した連続殺人事件である。

 

報道などでは座間9遺体事件座間アパート9遺体事件座間9人遺体事件

座間アパート9遺体事件座間事件などと呼称される場合もある。

 

Sが住んでいた神奈川県座間市緑ケ丘六丁目のアパート室内で、若い女性8人・

男性1人の計9人の遺体が発見された。殺害、遺体損壊を行った期間は8月22

日から10月30日までの期間で、全て遺体が発見された室内で行われたとみられ

ている。

 

2017年10月31日にSは逮捕され、以降、S自身の供述および司法解剖の結果、

さらに複数人の殺人・死体遺棄容疑で再逮捕された後、9人に対する強盗・強制性

交等罪、強盗殺人罪、死体損壊・遺棄罪で起訴された。そして刑事裁判では、被害

者9人全員への承諾なき殺害行為(女性8人への強盗・強制性交等殺人罪+男

性1人への強盗殺人罪)などが認定され、被告人Sは2020年(令和2年)12月

15日に東京地方裁判所立川支部で死刑判決を受けた。

 

いったんはSの弁護人が控訴したが、Sは自ら控訴を取り下げたため、控訴期限

が切れた2021年(令和3年)1月5日に死刑が確定した。

事件は日本国政府の関係閣僚会議や海外メディアにも大きな影響を与えた。

事件に利用されたSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス) のTwitter(ツイ

ッター)では事件後に利用規約変更がなされた。

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2021京王線刺傷事件が発生。

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京王線刺傷事件

2021年(令和3年)10月31日に東京都調布市を走行中の京王電鉄京王線車内

で発生した殺人未遂事件。

 

2021年10月31日20時頃、東京都調布市を走行中の特急列車の車内で、乗客

の24歳の男が刃物で他の乗客を切りつけた上、液体を撒いて放火し、18人が重

軽傷を負った。刺された1名は、一時意識不明の重体に陥ったがのちに回復した。

 

16名は、火災による煙を吸って喉の痛みを訴えた。その後、1名が負傷者に追加

された。犯人の男は殺人未遂で警視庁に現行犯逮捕された。

男は、2021年8月6日に発生した小田急線刺傷事件を参考にしたと供述している。

 

これら一連の事件を受け、国土交通省は鉄道事業者に対し、新規の全車両におい

て防犯カメラの設置を義務付け、既存の車両についても追加で設置することを推奨

する方針を固めた。

 

事件の余波・対策

国土交通省は2021年11月2日に、JR各社や大手私鉄の安全統括管理者との

緊急会議をオンラインで開催し、再発防止対策を話し合った。会議では「車内で複数

の非常通報装置が作動した場合は、通話なしでも最寄り駅などで停車する」「列車の

ドアとホームドアの位置にずれがあっても、緊急時はドアを開けて乗客の避難誘導を

する」ことなどの原則が示された。

 

警備の強化

本事件を受けて京王電鉄は、「京王ライナー」で警備員1人を配置して、巡回に当た

ることとした。また、小田急電鉄やJR東日本、ゆりかもめなどでは防刃手袋や盾の

車内配備を急ぐこととし、社員や警備会社の警備員による警戒強化に取り組むこと

が明らかにされた。手荷物検査の導入も検討されたが、乗車までに時間がかかって

しまうことから見送られた。

 

また犯人がハロウィンの夜に仮装をして起こした事件であったことを踏まえ、翌年

10月にコスプレ乗車を控えるよう乗客に求めた。

また、京成電鉄についても事件が相次いでいることを鑑みて、テロ対策も兼ねる形

で特急「スカイライナー」「モーニング・イブニングライナー」に警備員を常備すること

を決定、人件費の関係で特別料金が1250円から1300円に値上がりした。

 

併結編成の廃止

京王電鉄は非貫通編成を2026年度までに全廃する方針を固めた。

これに伴い、5000系の増備を進め、非貫通部分のある7000系を順次廃車する

方針である。

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2023年、今日。

眠い。8時間は寝ているにも関わらず、昼間非常に眠い。

春みたいだ。秋なのに。