ちぇろりすとの独り言

http://ollec1214.blog89.fc2.com/ ←心機一転こっちへお引越しします。

やっぱり・・・

2007年02月09日 | 保守・管理
引越し先のブログでも告知いたしましたが、あえなく定住を断念しました。

次の引越し先は以下のURLになります。

http://ollec1214.blog89.fc2.com/  
<「気ままにSILENCE☆」produced by ollec1214>
 
注)HN変更いたしましたのでヨロシクお願いします。

突然ですが、

2007年01月17日 | なんでもかんでも
コチラに引越してみることにします。

作曲家のハチャトゥリアンとは綴りが違うのね・・・

2006年09月01日 | 演奏会&CD評

            BS放送(8/30)ハチャトゥリアンVN.リサイタル映像より

うう。。また風邪引いたっぽいゾ。しかも身内に移された可能性大。チッキショー

いやいや、そんなことは置いといて。


Sergey Khachatryan (1985年生まれ,アルメニア共和国)


奏法的にはいろいろと気に入らない点(振幅の細かいヴィブラートや、後押し的なボーイングのクセ、音楽の流れを停滞させかねないフレージングをとるクセ、彼の売り込み文句には“完全無欠のテクニック”なんてのを見かけるけど、左手のテクニックも右手のテクニックもまだまだ甘さがある、そして、非常に女性的で美しい音色で、音色自体は大好きだけれども、音量の伸びと発音に多少難のある楽器。。。)があっても、ときにそれを補うほどの説得力をもった演奏にでくわすことがある。

旧ソ連って、こういう前世紀の巨匠達を髣髴とさせるような逸材が、いつも忘れた頃に必ず(!)出てくるんですよね。ジュリアード製や、カーチス製、ブロン製(ザハール・ブロン(Vn))、などでは生み出せなかった才能なんじゃないかな、この人の才能は。
以前(1年前かな?)、N響とベトコン(南ベトナム解放民族戦線じゃないヨ)を共演していたときにも、かなり興味は覚えたのだけど、今回のリサイタルを聴くまでは、ここまで強烈な印象は与えられませんでした。

このヴァイオリニストからは、不思議とある種の派手さ(技巧的な面も、音色の面も全て)のようなものをまったく感じないんです。音はとんでもなく美しいけど、決して派手ではない。派手じゃないんだけど、天性の深い洞察力を持っている。IQ的な洞察力では無論なく、EQ的とでもいいましょうか。要は左脳的ではなく、右脳的で直感的な洞察力というか。
この年齢(20歳!)で、ここまで多彩で、ここまで美しい弱音を表現できるのはすごいですよ。本当の弱音の美しさを知っている人の表現だと思う。

リヒテルが、自分は「偉大なピアニストではなく、偉大な“音楽家”だと言われたほうがうれしい」と言っていたのを思い出したけど、ハチャトゥリアンも、ヴァイオリンという楽器に従属的な演奏、あるいは楽器ありきの演奏をしているのではなく、音楽そのものに深く深くシンクロしているのを感じます(楽器はあくまで道具)。彼も若くして「真の音楽家」の一員なんじゃないかって。
そんなわけで、シューマンもフランクもと~にかく聴き応えがありましたね~(シューマンの第1Vnソナタってピアノトリオ第1番と曲調が似てて自分の頭のなかでしょっちゅゴッチャになります)♪


個人的には、こういうタイプの演奏家って、いままでの旧ソ連系の巨匠といわれたヴァイオリニストたちにはあまりいなかったように思います。
完全無欠のミスター・パーフェクト、ハイフェッツとも違うし、ミルシテインの冷たく艶やかな音色と完璧性、コーガンのヒステリックなまでの攻撃性と完璧性、シェリングの完璧性と平凡の同居、クレーメルの妖気がほとばしるごとく肉感的な演奏・・・。
う~ん( ̄~ ̄) どれも違うね。彼らのほとんどが求めた完全無欠な面がハチャトゥリアンからは全然感じられない。あえて言うならば、ヴィオリストのユーリ・バシュメットに近いものを感じるかもしれない。
バシュメットの、振幅の細かいヴィブラートと、曲の本質に迫るかのような深い洞察力、そして深い深いピアニッシモ、全てのフレーズが説得力のある歌になっていること、などなど。

この人の演奏でもっともっといろんな曲を聴いてみたいっす
あ、N響と共演したベトコンの録画映像も探し出して観てみよっかな~♪

ちなみに作曲家のハチャトゥリアンのつづり(英語表記)は、
Aram Khachaturian
です。

☆☆コチラセルゲイ・ハチャトゥリアンの非公式ファンサイト。 けっこう参考になります♪ 彼の楽器も、日本音楽財団が貸与してるのかぁ、へ~ぇ。

☆☆このリサイタルの内容が王子ホールのページに載ってました。伴奏者のオネエサマのプロフィールもめっけ



マンドリン・オーケストラ聴きました

2006年08月24日 | 演奏会&CD評
先週の土曜日、生まれて初めてマンドリン・オーケストラというものをナマで聴いてきました。

マンドリン・オケというものが、果たして世の中にどの程度認知されているのか定かではないのですが、まず驚いたのが、会場が立ち見がでるほどの満員御礼だったこと。そして、オーケストラとも吹奏楽団ともまた違う、独特の“濃ゆい”ノリ(!)がスゴカッタ

曲目は、《劇場支配人序曲》(モーツァルト)、《世界名作劇場メドレー》、《白鳥の湖》より抜粋(チャイコフスキー)、などなど。全てマンドリン・オケ編曲版と、マンドリンオケ・オリジナルの曲です。
個人的には、前半のオケメンバー自作のマンドリンオリジナル曲と、後半の《世界名作劇場メドレー》、《白鳥の湖》の演奏がよかったです。

編成は、弦楽器から、1stマンドリン、2ndマンドリン、マンドラテナー、マンドロンセロ、クラシックギター、コントラバスの弦部。
管・打は、フルート×2、ピッコロ×1、クラリネット×2、ティンパニ、ほか。
という編成でした。これがおおよそのマンドリンオーケストラの通常の形だそうです。
ヴァイオリン属(&ヴィオール属)の弦楽器の配置を少し拡大した感じですねー。変わりに管楽器の編成はかなりこぢんまりしてます。

マンドリンを弾く姿って、ヴァイオリン属やヴィオール属の弦楽器の弾き姿に比べると、アクション自体が少なく、個々の音量も小さく、全体的に見て地味ぃ~なイメージなんです。
このマンドリン奏者たちが、狭いステージに所せましと並んで、姿勢を前傾にして、ジィ~っとタクトに集中して、ピックで弦を書き鳴らす様は、なにか修行中の修行僧が念仏を唱えているような趣をかもし出していて、彼らの集中力とアツイ思いが客席のうしろまでビリビリ伝わってきたのでした。いやぁ~、この人達“青春”してるなぁ~と思いましたデスヨ 
ワタシのとなりに座ってた叔母ちゃんなんか常連らしく、ノリノリで聴いておられました(後半の白鳥湖は飽きちゃったのかコックリコックリ眠りこけてましたが(笑))。

このマンドリンオーケストラというものを聴いて、つくづく思ったのが、マンドリンの表現力はかなり制約があるということ。
弦楽器とはいえ、マンドリンは撥弦楽器だから、我々ヴァイオリン属やヴィール属のように弦を“弓”で弾かない分、演奏の大半をトレモロで表現しなければいけない。つまり、我々弦楽器奏者よりも表現のパレットがかなり限定されているのです(弦楽器は、ボーイングによる奏法のほかに、ボウを利用した特殊奏法(例えば、コルレーニョなど)、ピッツィカートで撥弦楽器の奏法もできるし、重音奏法もありますし、その他の特殊奏法もがくさんあります)。

でも、逆に表現の制約があるからこそ、奏者はその制約のなかで多彩な響きを創造して、そして、聴き手も奏者のイマジネーションに呼応して無限の想像力を膨らませるもの。これが、曲に深く没入できるというか、団員が一体になって演奏ができていた秘訣なのではないかと思いました。
社会人オケのはずなのに、まるで高校生の吹奏楽バンドの演奏を聴いているかのような、一生懸命さがヒシヒシと伝わってきましたしね
団員の方々はだいたい20代後半~40代くらいの方々が多いように見えましたが、彼らが一生懸命音楽に青春している様子は、うらやましいことだなぁと素直に思ってしまいましたよ。

ただ、ひとつ思ったのは、管楽器の編成が少し薄かったかなぁと。
いろいろと事情があるのでしょうが、欲を言えば、せめてオーボエは編成に入れて欲しかったなぁと思いました。白鳥の湖の情景のシーンでの有名なオーボエ・ソロもそうですが、他の曲でもオーボエがあるだけでかなり違うのではないかと正直思いました。

季節に逆行した音楽を奏でるのも粋ですな(笑)

2006年08月23日 | オケ・練習・合奏・本番
久々にオケの話題です。

いまマイスタージンガー(もちろんあの有名な第一幕への前奏曲ね)やってます。この暑いなか我ながらよくぞ(!)この暑苦しい曲やってます(笑)

もともと好きな曲どころか、大嫌いな曲なんですが、でも意外とやってみると楽しいのなんの(ぇ

意外にもワグナー演奏初体験だからなのか、この脳天気なわりにかなり緻密なポリフォニーを展開しているこの曲の奥ゆかしさに萌え萌えしてるからなのかは我ながら謎です(笑)

うちには今までなぜか一枚しかワグナーの序曲集アルバムがなくて(アバド&BPOのディスク。これが最高に素晴らしい!!タンホイザー最高!、パルジファル最高!!、トリスタン最高っ!!!!)、しかしながらそれにはなぜかマイスターが入ってないという、なんともけしからんCD!(爆)
そんなわけで、前々回のオケ帰りにCDショップで何枚か試聴した末に選んだのがヤンソンス&オスロフィルのアルバム。
ま、カラヤン&BPOでも、バレンボイム&CSOも最終選考には入っていたんですが、残暑厳しいこの暑さを吹き飛ばすには、ヤンソンスがもってこいだと、そのときの自分はきっと思ったのでしょう!(笑) カラヤンもバレンボイムもかなりオレ様的おしつけがましさ全開で暑苦しいことこの上ないですからね

マリス・ヤンソンス=とっても楷書体で縦の線をきっちり合わせるアーティキュレーションを好む、ある意味几帳面、ある意味神経質な演奏をするひと、それでいてあまり質量感を感じさせないソフトな響きへの嗜好、そして妙にオケにドライヴ感をもとめる指揮者で、彼の生み出す音を“線”で表すと、細い直線みたいな感じで、“間”や“遊び”部分が足りない、あまり奥行きの感じられないうすっぺらい音楽に感じてしまうきらいがあります。
この印象の“総体”がワタシのヤンソンス像で、ワタシにとってこの指揮者は好きでも嫌いでもない部類の指揮者だったのですが、このCDを試聴した限りでは「おー、これなかなかいいじゃん」でした。

妙にワグナーっぽくないところがまたおもしろいのですが、その正体は、やはりちょっと風変わりなアーティキュレーションにあるようです。アーティキュレーションを作為的に変えて、つまり、スタッカートや、スピッカートなどの短い発音は極端に短く発音し、テヌート気味の発音は極端に眺めの発音をすることで、響きのヴァリエーションを出したかなり作為的な音作りなため、一見アッサリ味で、実はケレン味たっぷりのひねりの効いている演奏のように思います。ワグナーでこのやり方がはたして意味のあるものなのかは、いまだ謎(笑)
しかも、《トリスタンとイゾルデ》のようなデモーニッシュなソノリティが求められる音楽に、ヤンソンス流のうすっぺらいソフトな響きは、やっぱり合わないなぁと、しみじみ感じてしまいます。この人には、テンポのいい曲しかいまのところそこそこ納得できる演奏がない。
ただ、《マイスタージンガー》のショッパナのC-durのトニックがズドーン!!と鳴り響くところの開放感たるや、素晴らしいのひと言に尽きます。この人ならではの開放的なソノリティだと思うからです。
ただ、この指揮者を手放しでいいと思ったのは、未だに個人的には今年のVPOのニューイヤーぐらいのものです。この人のショスタコの演奏も聴いてないくせになにを言うてまんねん!って言われること必死ですけど

いやぁ~しかし、このクソ暑いのにマイスタージンガーって、真夏におでん食ってるようなもんですよねぇ。
あち゛ぃ~よぉ~(ノ゜o゜)ノ



<CDデータ>
【演奏】マリス・ヤンソンス指揮 オスロ・フィルハーモニー管弦楽団
【曲目】・楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲
    ・楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死
    ・楽劇「神々の黄昏」よりジークフリートの葬送行進曲
    ・楽劇「ワルキューレ」よりワルキューレの騎行
    ・歌劇「ローエングリン」より第3幕への前奏曲
    ・歌劇「リエンツィ」より序曲
【録音】1991年
【レーベル】EMI
【品番】TOCE-13192

♪♪このディスクはココで試聴可能です★☆



ジャン・ワンのエルガー

2006年08月22日 | 演奏会&CD評

    《ジャン・ワン(Vc)&アシュケナージ指揮N響の演奏会のBS放送分より》

久々にエルガーのチェロ協奏曲を聴きました。

ジャン・ワン(Vc)の音楽は若いですねー(〃ー〃) 持ち前の素直な音楽的アプローチと、日本人好みのコブシのはいった歌いっぷりと、美しく伸びやかな音、丁寧な発音。
エルガーの晩年の作品で、コンチェルトのわりに地味で濃厚なロマン的情緒たっぷりのこの曲を、嘆きの歌みたく狂おしい表情付けに執心せず(とくに第4楽章の最後の部分など)、意外とすっきりした表現にまとめてくれたことに関心

演奏後のN響の楽団員を見ていたら、同じアジア人としてのシンパシーを彼の演奏に感じたのか、我先にといっせいに拍手を送っている様子が見えてなんだか微笑ましかったです(笑) 実際、オケはいいサポートをしていたと思いますよ(^-^)
最近、N響を聴いていて、以前よりもさらにダイナミックレンジが広くなってよりダイナミックなソノリティを聴かせるようになってきた気がするし、以前はどうかな?と思っていた、アシュケナージとのコンビも徐々に歩調が合ってきている気がします。

このエルガーのコンチェルトを聴くたびに、エルガーはよくここまでチェロという楽器が歌いやすいように作曲してくれたというか、よくぞここまでチェロ的な音楽を書いてくれたものだと関心します。
まるで洪水のようにエルガー節の泣きのはいったメロディーが流れてきて、そのメロディーはどれもあまりに人間臭く、そして誇り高く、しかも哀愁に満ちている。
特に第4楽章の再現部で、ソリストと低弦がユニゾンでテーマを奏でるところで、チェロ弾きが感じる感慨は、チェロ弾きにしかわからない、全体主義性というか、チェロ的ファシズム(わけわかんねーネーミング)のようなものを感じてしまうのですよ(笑)

シューマンのチェロ協奏曲に、ソリスト(旋律)とチェロトップ(オブリガート)の掛け合いがあるけど、この場合のようなふたりだけのアンサンブルと違って、ソリストと低弦全体の、しかもユニゾン(!)なんてのは、他に聴いたことがない。エルガーがこんなベタなサービスをチェロ弾きのためにしてくれたことに対して、感謝しきり☆

この曲は、デュプレの2つの録音が圧倒的な名盤として認知されているけど(事実、自分も彼女のこの曲の演奏は好きだけど)、それと並ぶような良質な演奏がもっともっと出てくるべきだと思う。デュ・プレと同じイギリス人とはいえ、イッサーリスの録音は、音楽性の違いというか、イッサーリスのエルガーとの距離感のようなものを感じるばかりで、個人的にはさほど感銘を受けなかった。この曲はイッサーリス向きの曲ではないのかもしれないなー。


たかが0.5mm、されど0.5mm

2006年08月20日 | チェロのこと・音楽のこと
一ヶ月ほど前になりますか。

行き着けのもうひとつの弦楽器工房にたまたま弦を買いに寄り道したときのこと。

工房の主人に、ちょっと楽器見してみぃ と言われて見せてみたところ、表板が0・5mmほど弦の張力(&駒の圧力)に負けて下がってるねぇと言われて、ちとショックでした

まぁ、このドイツ製の大量生産楽器が、失敗の買い物だったことはもうだいぶ前から認識してはいたのですが、あらためて言われるとそれはそれでショックですなー
新作の楽器でまだ製造から10年にも満たないのにこんな有様では、オールドと呼ばれる楽器になる前に寿命がくるのは火を見るより明らか。これも悲しい現実です(T-T)
誰でも初めに楽器を買うときは、壊れてもいいような安物を買いますが、二度目の買い物ではこういうミスを他の方にはしてほしくないですね。

いまの楽器には、できるだけの手術は既に施してしまったので、あとこれ以上のポテンシャルを望むならば、新しい楽器を購入するしかありません。

あー、オールド欲しいよー。
せめてうちのコンマスと張れるだけの楽器がほしいー なんて

セヴラックはココロとカラダの弛緩剤

2006年08月19日 | おすすめクラシック

                 東田子の浦の海岸にて(06・8・13)

いやぁ~、昨日は暑かった もともと顔の自律神経が失調気味(要するに顔面限定汗っかき)のワタシにとってこの暑さはホントにつらいです。しかし、この暑さのなかでも食欲旺盛・夏バテ知らずなのが唯一の救い(ベスト体重保ってるし)。

このつらい暑さを忘れるために、セヴラックのピアノ曲のCDを取り出してました。
自分のなかでセヴラックは、“実りの秋”のイメージが強いですが、この暑さのため、一足先に秋を先取りしたくなったのは言うまでもありません。

というか、ここまで暑いと、聴きたいと思う音楽もかなり限定されてきます(笑) 
最初はシベ4シベ7あたりで“絶対零度の世界”を満喫しようと思ったのですが、どーもそういうんじゃない・・・オーケストラの音ではダメなんですよ。ピアノじゃないと

セヴラックの音楽を聴いていて思うのは、セヴラックは、自然と、田舎の人がつくづく好きだったんだなぁと思うこと。
プーランクの都会っ子的な人懐っこさを、田舎風味に味付けしたのが、セヴラックという気もします。

ワタシがこの2枚のディスクに収められた曲集のなかで特に好きなのが、Disc-2にまとめて収められた《休暇の日々から》(全11曲)

これらの小品につけられた、ネーミングを見てみると、

【第1集】
・シューマンへの祈り
・お祖母様が撫でてくれる
・小さなお隣さんたちが訪ねてくる
・教会のスイス人に扮装したトト
・ミミは侯爵夫人の扮装をする
・公園でのロンド
・古いオルゴールが聴こえるとき
・ロマンティックなワルツ
【第2集】
・ショパンの泉
・鳩たちの水盤
・二人の騎兵


なんだかタイトルを見ているだけでも、いろいろと想像の輪がふくらんで楽しくなってきます。
《小さなお隣さんたちが訪ねてくる》なんてのは、隣の子供達が、「セヴラック~♪いっしょに遊ぼうよー☆」ってなついてくるみたいですよね。きっと彼は、近所の子供達に好かれる気の優しいいいおじちゃんだったんじゃないでしょうか(〃ー〃)
このあとに続く《教会のスイス人に扮装したトト》や、《ミミは侯爵夫人の扮装をする》などは、教会という村のコミュニティに集まる大人たちの真似をして遊ぶ子供達の無邪気な姿を思い浮かべることができて、微笑ましいですね。
第1集、第2集のはじめに、まるで過去の偉大な作曲家へのオマージュとでも言っているかのように、シューマンショパンの名がそれぞれ挙げられているのがとても興味深いです
どれも大好きで仕方ないのですが、この11曲のなかで特にワタシが気に入っているのが第2集の2曲目、《鳩たちの水盤》
この曲の序奏部分の透明感や、装飾音符が特徴的な主部のソフトなリズム感が、たまらなくワタシを弛緩させてくれます。装飾音がからみ合うさまは、まさに鳩たちの愉しげな会話を聞いているよう。重力にさからわない、自然な和声進行も好きだなぁ。南仏に流れる午後のひとときを日本に居ながらにして満喫できます。

館野泉のピアノはセヴラックと見事にシンクロしているというか、実に自然なソノリティで無限のイマジネーションをこちらに喚起してくれます。こちらはその美しい調べにただただ身を任せるだけで、体感温度を5度は下げることができる(〃ー〃)

☆★以前紹介したセウラックに関するエントリーです。



<CDデータ>
【演奏】館野泉(Pf)
【曲目】
 <CD-1>
   ・《大地の歌》(全7曲)
   ・《ラングドック地方にて》(全5曲)
   ・《水の精と不謹慎な牧神「ダンス・ノクターン」》
   ・《日向で水浴びする女たち》
 <CD-2>
   ・《セルダーニャ》5つの絵画的習作
   ・《休暇の日々から》第1集(全8曲)
   ・《休暇の日々から》第2週(全3曲)
   ・《ポンパドゥール夫人へのスタンス》 (以上、セヴラック)
【録音】2001年6月
【レーベル】FINLANDIA
【品番】WPCS-11028/9 



アンネ=ゾフィ・フォン・オッター

2006年08月18日 | チェロのこと・音楽のこと

Anne-Sofie von Otter (1955年~ スウェーデン)

先日オッターのドキュメンタリー番組(「歌とともに生きる」8/4、BS11放送)を見て驚いたのは、この人がいわゆる早熟な歌い手ではなく、意外にもレイトスターターだったということ。
なにしろ、一般の大学を中退して、いったんOLをやったあと、音大(王立ストックホルム音楽大学、ギルドホール音楽演劇学校)に入学という、かなり大きな回り道をしている。
ただ、このストックホルム音楽大学でかの有名なエリック・エリクソンの合唱指導を受け、その後、ギルドホール音楽演劇学校でヴェラ・ロージャの指導を受けて、オッターという唯一無二の才能が初めて開花したのだということを聞き、やはりどんな才能を秘めていても、それを引き出す名教師の存在というが必要不可欠なのだと納得したのでした。
この二人の名教師がいなければ、いまのオッターの才能は埋もれていたかもしれないのだから。

しかし、よくよく考えてみると、バーバラ・ボニーだって、今をときめくルネ・フレミングだって、意外と苦労して現在の地位を築いていることを思えば、クラシック界における歌手にとって、そう簡単に輝かしいプリ・マドンナの道が目の前に開けているわけではないのかもしれない。
さらに、チャイコフスキー・コンクールの優勝者である諏訪内晶子や、幼くして才能を開花させた五嶋みどりなど、彼女たちのように、早くして音楽的才能を世に開花させてから、他分野の学問を大学で修める人たちも一方でいる。
皆それぞれたどった順序は異なるけれど、どれも彼女達にとって必要な回り道であったのには違いない。それにしても、オッター本人は大学で学んだことはまるで憶えていないというのを聞いて、思わず吹き出してしまったが


この歌い手で忘れられないのは、多くの人がそうであるように、『バラの騎士』(R.シュトラウス)のオクタヴィアン役。
このときのキャスティングも、指揮者(クライバー)もオケ(VPO)もまさに最高の組み合わせだった。もうオクタヴィアンがゾフィに銀のバラを手渡すところの2重唱など、ここの部分だけ何百回聴きまわしたかわからない。これぞ夢の共演!いつぞやの3大テノールなぞより、よほどワタシにとっては夢の共演でしたよ。
たいていはこのオペラで一番有名なフィナーレの3重唱が好きというのが普通だけど、ワタシはこの2重唱が数段好きですな( ̄~ ̄)
いや、ホントこの頃のオッターはスゴカッタ☆ さすがに今はこの最盛期の透明感ときめ細かさはないけど


音楽って・・・

2006年08月17日 | おすすめクラシック

■《グレン・グールド(Pf) ゴールドベルク変奏曲(J.S.バッハ) 1981年録音》

時間芸術なのに、その“時間”の存在を全く感じさせない、あるいは、時間の存在を超越しているかのような感覚にさせられてしまうのが、このCD。
演奏時間の50分中、まるで時間が止まっているかのような不思議な感覚に陥ってしまう。彼のデビュー録音ではそのように感じることはまったくなかった。
たいていのゴールドベルク変奏曲の演奏時間よりもこの録音の演奏時間が長いから、という理由でも、この曲がカイザーリンク伯爵の不眠を和らげるために子守唄がわりに演奏された逸話があるから、という理由でも、無論ない。
徹底的にドライブ感やナマ演奏的な高揚感などが排除されていて、まるでコンピュータに自動演奏させているのを聴いているかのような感覚にもなるのだが、同時にどこか、あまりにも人間的な何かを感じてしまう。矛盾の総体としてのグールドの魅力が最大限に詰まっているのがこの演奏なのかもしれない。
かつて、著名な音楽評論家ハロルド・ショーンバーグは、コンサート・ドロップアウトしたグールドの演奏を聴いて、「あんなの音楽じゃない」みたいなことを言っていたのを今思い出したが、たしかにこの言は、グールドの演奏芸術の一面を見事に言い当てていると思う。ただ一面だけだが。グールドが嫌いな人は、まさにこの1点を付いてくるひとが多いですからね。
グールドのピアニズムは既存の演奏芸術の枠を逸脱していることは間違いない。でも、だからこそ、不滅の名盤なんじゃないのなー。ある意味非人間的な要素を追い求めながら、実際はあまりに人間的な音楽を生産したグールドの矛盾した魅力はやはり不滅なのだと。
どの録音もどの演奏もそうなのだが、特にこの録音は、聴くときの体調、シチュエーション、感覚などによって、いろんな自分の感情のリアクションが楽しめる。
久々にこの演奏を聴いてそう思ったのでした(〃ー〃)


♪♪過去のグールドについてのエントリー(コチラコチラ)です



<CDデータ>
【演奏】グレン・グールド(Pf)
【曲目】ゴールドベルク変奏曲(J.S.バッハ)
【録音】1981年
【レーベル】ソニークラシカル


モクゴと花火

2006年08月17日 | なんでもかんでも
13、14日と、身延一泊二日の旅行を満喫した翌日(15日)は、有志の木管五重奏にワタクシのちぇろっぴめを加えてもらい(Fg未加入のため)、小組曲やら(ドビュッシー)、ホルストの五重奏曲やら、魔笛やら(モーツァルト)、セビリアの理髪士やら(プッチーニ)、カルメンファンタジーやら、あれやこれややりまくってました(〃ー〃) 
全部初見だったので疲れた疲れた みな同じっぽかったけど(笑)
管楽器の人たちのノリは弦のまったりしたノリとは違って、やっぱ違いますねぇ。イケイケでもないんだけど、やっぱノリが若いのかなぁ なんかサクサクしてますです
9月の合宿が楽しみっす


で。

16日に入ったのが神宮の花火。

暑かった。花火もはじけてた。人生で一番汗かいたっす(笑) 
なんせ、浴衣着て花火見に行ったのはじめてだったんで
そしてなぜかプレイベントでは、マツケンサンバもあり

それにしても、この夏は浴衣をよく着ました。日本男児してました

浴衣といえば、あんまり関心しないのが最近のジンベエ流行り。
あれって基本的には、自分は部屋着使用にしか考えてないのですが、どーもアパレル業界はこのパジャマ代わりの部屋着にいろいろファッション性やらデザイン性やらをもたせて、若者達にさかんに売り込んでますよね。これにすんなりノせられてる連中がはっきり言って多すぎですよ。
電車の中や、街中でこのジンベエ着てる連中を見てると、パジャマ姿で街中を堂々と歩いているようにしか見えませんわ(笑) よく恥ずかしくないなぁと関心するんだよねー。
特に我らが神奈川県内では多く見かけましたねぇ。都内ではさすがに、ジンベエ組はチラホラぐらいしか見かけることがなかったので、さすがトキオは違う!と思いましたが
自分もやっとこの一ヶ月で「貝の口」をうまく結べるようになって、やっと着付けができるようになったばかりの初心者のクセに何でかい口たたいてんだ!って感じですが(笑)、いや、しかし、マジでなんとかしてほしいものです、ジンベエのにいちゃん、ねえちゃん


2006/08/14 (ケータイから初投稿)

2006年08月14日 | なんでもかんでも
身延山久遠寺、心臓破りの287段階段登頂! 一段の大きさが半端じゃないっ!
さすがは日蓮宗総本山っ!

ずっとずっと、ハイドン☆

2006年08月11日 | おすすめクラシック

ハイドンという作曲家は、我々聴き手に、良質で健康的な知的・音楽的快楽を満たしてくれることのできる、最も有力な作曲家だと思います。
自分にとって、昔はハイドンと言えば、ブルックナーやシューベルトと並んで、退屈な作曲家の筆頭に上げていた作曲家だったけど、いやいや、そんなのいつの話ですか?ってくらい、今は大好きです(以前のエントリー

ハイドンの音楽から常に感じるのは、徹底的に“生”肯定型であるということこと。
モーツァルトにしろ、ベートーヴェンにしろ、シューベルトにしろ、ショパンにしろ、シューマンにしろ、ブルックナーにしろ、マーラーにしろ、どこか、決定的に“死”の匂いがする曲が多い、あるいは、死と向き合わざるをえない作曲家が多かったのに比べて、ハイドンという作曲家の曲には不思議と“死”の匂いや、“刹那的な一瞬”、あるいは“病的な何か”のようなものを感じない。
彼は、精神的には非常に健康的というか、頑健といっていいほどの、健全な芸術家だったように思う。この健全な精神から、いくつものアイデア、ユーモアが生み出されたところに、この作曲家のおもしろさがあるのではないかと思う。

この作曲家をだんだんと聴きなれていくにつれて、一見優等生的な退屈さに満ち満ちているように思えるハイドンの音楽も、実はアイデア、ユーモアの宝庫であることに気付く。
それは、曲じゅうにちりばめられている、チャーミングで人間味溢れる美しいメロディ、溢れんばかりのユーモア、劇的でダイナミックで思いがけない展開の数々(劇的な転調、ベートーヴェンを予感させる極端なダイナミクス、唐突なゲネラルパウゼ、等)にみられるように、これほど興味深い作曲家はいない。しかも、彼のやっていることは天才的であるにも関わらず、いかにも“天才”のやっていることという嫌味さが微塵もない。真に素晴らしいテクニックを備えた演奏家が、テクニシャンなどと、陳腐なレッテルを貼られないのと同じ。

アンドレアス・シュタイアーフライブルク・バロック・オーケストラの演奏は、最近の新しいピリオドスタイルの傾向である、平坦なフレージングを全面に出した(メッサ・ディ・ヴォーチェの発音をあまり意識させない)、ソフトなアプローチに終始しているが、自分達のパーソナリティよりも、ハイドンという作曲家のパーソナリティを全面に押し出した、非常に謙虚な演奏が聴ける点で非常に好感がもてる。フォルテピアノ演奏(1785年、アントン・ウ゛ァルター製作;ウィーン)がシュタイアーということもあって、もう少し、アグレッシヴな演奏を期待してしまうところもあったのだが、聴いているうちにそんなことはどうでもよくなっていた。シュタイアーが丁寧に紡ぎ出すフォルテピアノの一音一音に自然と耳が吸い寄せられるのです。とにかく気持ちがいい 
ただ、フライブルク・バロック・オーケストラの低弦のヘヴィな響きだけ、少しばかり自分がこの楽団の響きにいまひとつ馴染めないものを感じたけど。
3曲納められている中で、やはり有名なニ長調のコンチェルトが秀逸☆ 聴けば聴くほど味がでる曲とはこのことかも。
「ハイドンはこんなスゲーやつなんだぞーっ!!」というよりは、
「ハイドン君とお友達になろう~♪♪」っていう演奏ですよ、ハイ。




<CDデータ>
【演奏】アンドレアス・シュタイアー(Fp)
    ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ(指)
    フライブルク・バロックオーケストラ
【曲目】・クラヴィーア協奏曲 ト長調 Hob.XVIII-4
    ・クラヴィーアとヴァイオリンのための協奏曲 ヘ長調 Hob.XVIII-6
    ・クラヴィーア協奏曲 ニ長調 Hob.XVIII-11
【録音】2004年3月、ベルリン
【レーベル】 harmonia mundi
【品番】HMC901854
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このヒトいい♪

2006年08月07日 | おすすめクラシック

                 フランク・マルタン(1890-1974 スイス)

このおじちゃんが好きデス


和声がとんでもなく美しいんです

一目惚れです(笑)


このCDばかり聴いてますっ



<CDデータ>
【演奏】ジェイムズ・オドネル(指揮、オルガン)
    ウェストミュンスター大聖堂合唱団
【曲目】・二重唱のためのミサ(マルタン)
    ・オルガンのためのパッサカリア(マルタン)
    ・レクイエム(ピツェッティ)
    ・DE PROFUNDIS(ピツェッティ)
【録音】1997年7月、ロンドン ウェストミュンスター大聖堂
【レーベル】Hyperion
【品番】CDA67017

♪♪このディスクはココで試聴可能です☆★



ちなみに・・・、こないだミューザ行ったときにいただいてきたコンサートカレンダーのパンフを見ていたら、こんな公演を発見してしましましたっ!!
デュリュフレですっ!!REQUIEMですっ!!!絶対聴きに行きますっ!!!! 
湘南のデュリュフレDEATH!!!!


ピアニッシモー!!!!

2006年08月05日 | 演奏会&CD評
《東京交響楽団演奏会inミューザ川崎シンフォニーホール(06・8・4)》
●指揮:飯森範親
●ソプラノ:カトリオーナ・スミス 
●メゾ・ソプラノ:ヘレーン・ラナーダ
●合唱:東響コーラス(合唱指揮:飯森範親)
◇マーラー:交響曲第2番ハ短調 「復活」



いやー・・・この演奏会、正直まともに感想書く気になれません 
演奏が終わる否や即座に席を後にし、帰りの電車の中で連れと悪態ツキツキ帰ってきてしまったので、一度書き出すとエンドレス悪態フォ~になりそーでコワイですわ


いや、でもせっかくだから少し書こうかな


まず。これだけは言わして。


演奏中、何度心の中で

「そこピアニッシモー!!!!」

と叫んだことか。

この曲にピアニッシモなぞ存在しないとでもいいたげな演奏でしたよ。

指揮者?それともオケの耳が悪いの??

第1楽章の展開部の入りの低弦の葬送行進曲のキザミ、最終楽章の合唱の入り、SPが初めてその声をあらわにするところで寄り添うFlのSPをかき消すほどのデカイ音量、そして音量どころか音色までもに配慮をかくトランペットとホルン、がんばりすぎなティンパニ、そしてバンダがバンダに聴こえないほどのデカイ音量(とくにペット)、ベルのショボイ音、等々。
飯森さんの、わけのわからない浪花節系のフレージング(自然な流れを常にせき止めようとするフレージング)や、第3楽章までの極端に遅いテンポ設定にも辟易


しかし、わずかな時間ですが、この悪い流れが断ち切られた時間は存在しました。

第4楽章「原光」のあまりに素晴らしかったMSの歌唱、そして、このMSの素晴らしい歌唱に導かれるようにして、凄まじい集中度と凝縮力を展開してくれた第5楽章の「怒りの日」のフーガ終了時点くらいまでのオーケストラ。
ここまでは、わずかの時間ではあったけど、ユメミゴコチでした 一瞬でも音楽を蘇らせてくれたMSに感謝。
あと、ダイナミクスは全然納得いかなかったけど(とくに入りの部分。たぶん指揮者の解釈なのでしょう。)、ハーモニーと発音が格別に素晴らしかった東響コーラスの合唱にもあげちゃう


しかし悲しいことに、それも全体の印象を変えるほどのものではなく。。。 う。


いやー、それにしても、東響ってこんなにひどい演奏をするところでしたっけ?
ひどくダイナミックレンジのせまい、というか厚ぼったく吹きすぎで、後押しも目立って、旋律をかき消すくらいひどい吹き方をしていた1stフルートに、ひどく自信なさげで音程も不確かなオーボエ(第4楽章の自信のなさげっぷりときたらもうたよりなさスギ・・・MSカワイソウ・・・)、高速タンギング(ダブルタンギングかな?)もまともに成功しない、音量デカすぎ音程決まらないホルン、やっちゃったテヌートにやはり音量デカすぎ音程不確かなトランペット、たたきすぎなティンパニ、楽器の音は素晴らしかったけど、ぎこちないコンマスソロ、等々。。。
ホーン・セクションでまともに思えたのは、クラと、2ndフルート、ピッコロ、イングリッシュホルン、そして逆にもう少し存在感が欲しかったけどバスクラ、あたりかなぁ。

連れとさんざん話ていたんですが、なんで日本のオケってこんな吹奏楽的な音の出し方しかできない管楽器奏者が多いんでしょうね。
これは吹奏楽団ではなくて、オーケストラですよっ!!
弦楽器との音色の同調性や、ピアニッシモに対する鋭敏な感覚はいったい何処へ!?そんなものハナから存在しないかのような吹き方ですがな┐(´ー`)┌
東響の厳しい実情は少々耳にしていますが・・・、でもねー。

個人的には、チェロトップが、ボーマンさんじゃなかったのが残念だったなー。

あと、この曲ってどうしても第2、第3楽章でだれる傾向がありますが、今回の演奏もその傾向がテキメン。
自分が2年前この曲を演奏したときにも、やはり第2、第3楽章がどうしてもお粗末になってしまった記憶があります。
途切れやすいんですよ、集中が。長いだけに。
両端楽章は誰でも理解しやすく集中しやすい音楽だけに。指揮者の音楽作りにも大いに起因してると思うし。
プロでもアマと同じ傾向が出るのは、同じ人間だからやむを得ないことですかねー。

いやー。今日はN響だから、もう少しマシな演奏聴けるかなー。


すいませんね。悪態ばかりついて。

ブーレーズ&VPOといい、今回といい、最近『復活』にご縁のないya-ya-でしたっ