昨日ふとしたことで公の建物に行った。そしたらさぼど高くはないが、七夕の飾りつけを目にした。その笹の葉に吊るされた短冊には幼い字で、コロナや他の願い事が様々に書かれていた。
私はそれを見て、すぐ唱歌の「たなばたさま」のメロディーを思い浮かべた。そう、あの「ささの葉さらさら・・・」である。
この歌は昭和16年3月発行の小学校二年生の教科書に文部省唱歌として載ったのが最初らしい。権藤はなよ作詞、林柳波補作詞、下総皖一作曲によるものだが、文部省唱歌としては、その採用審査に一度落選している。資料によると、この詞は付曲しづらいというのが原因だったらしい。
ところが、その編集委員の一人であった林氏が再度提案し、唱歌として了承を得られたとのこと。
最初の発表の時は、その林氏と権藤さんの名は、作曲者とともに伏せられていたが、昭和30年代の教科書には林・権藤の名が連名になっている。その当時はたぶん補作詞という表示はまだ存在してなかったのであろう。同時に歌の題名も「たなばた」と変更になっている。
五しきのたんざく
わたしがかいた
お星さまきらきら
空からみてる
これは2番の歌詞だが、私はこの部分の詞も好きだ。子供の心を見事にとらえ、1番の歌詞と同様、それぞれの言葉が生きている。
そして、さらに良いと思うのは、詞と曲がマッチし、すべての音符ごとに言葉があてはまっているということである、とこの文章を書いていて強く感じた。つまり、同音の言葉が、他の音符にかからない。 うまく言えぬが、一文字一音符ということであり、これは幼い子らが歌うにはまことに都合のよい、歌いやすい歌だと思う。
権藤さんは、かの有名な野口雨情の愛弟子であり、そのご主人は雨情のよき協力者であった。一方、林氏も夫人が雨情の新作童謡の「振り付け」をしていたことから、自身も雨情との面識はあったらしい。
つまり、雨情を中心に林・権藤ご夫妻との五人のつながりは以前からあったようだ。
作曲者の下総氏がさいたま市にある、当時の埼玉師範学校で学んだ関係から、その跡地には「たなばた」の歌碑が建っている。何度もその歌碑へは私も足を運んでいるが、今年も9月にはまた行ってみようと思う。
しかし、彼が私の住んでいる町のすぐ隣町で生まれ育ち、「たなばたさま」を作曲したというのは20数年前までは知らなかった。だから、彼の作曲した「花火」や「野菊」などの唱歌も、その隣接市で作曲したというのもその時併せて知ったのである。
その下総氏が亡くなると、現在また「たなばたさま」に歌のタイトルが変わってしまっている。
仙台や平塚に代表される「七夕まつり」は今や日本の代表的な祭りの一つとなっている。子供ばかりでなく、大人でさえ夢のあるこの祭りはわが国の伝統行事として大切にいつまでも残し続けていってほしいと思う。
天の川での一年に一度の織姫と彦星の再会を、ぜひ後世の子供たちへ語り伝えてほしいと、世のお母さん方に願うばかりです。
「童謡唱歌歌謡曲など(6)たなばたさま」