原題/邦題
※邦題が原題の読み方ままであれば無表記。
QUEEN/戦慄の王女
【Side A】
KEEP YOURSELF ALIVE/炎のロックンロール
DOING ALL RIGHT
GREAT KING RAT
MY FAIRY KING
【Side B】
LIAR
MODERN TIMES ROCK 'N' ROLL
SON AND DAUGHTER
JESUS
SEVEN SEAS OF RHYE…/輝ける7つの海(インストゥルメンタル)
国/発売日/最高位
英/1973年07月13日/24位
日/1974年03月25日/52位
produced by John Anthony,Roy Baker,Queen
Recorded at Trident Studios
Freddie Mercury〔vo,p〕
Brian May〔g,p,vo〕
Deacon John〔b〕
Roger Talyor〔perc,vo〕
クイーン以前にブライアンとロジャーは、
ティム・スタッフウェルというコテコテの英国人と「スマイル」というバンドでデビューしていました。
ティムとアートスクールの同窓生であるファルーク・バルサラ、
後のフレディー・マーキュリーはティムを通じブライアンとロジャーの親友になっていました。
ロジャーとフレディーは特に仲がよく、ハイストリート・ケンジントンにあるケンジントン・マーケットに共同出資でアンティークショップを出店、お店は次回作発売直前まで続きました。
英米でシングルデビューを果たしたスマイルは、あらゆる面の中途半端さが原因で解散。
ティムは脱退、音楽の道を諦めテレビ業界に進み、残されたブライアンとロジャーと同時期にフリーだったフレディーが必然的にバンドを組みました。
様々なバンド名が候補にあがりました。
ロジャー→グランド・ダンス
ブライアン→リッチ・キッズ
しかしフレディーの出したバンド名にブライアンもロジャーも渋々了承、
1970年4月「QUEEN」が誕生しました。
難航したのがベーシスト探し。
良いなと思えば何らかの理由で脱退、
これを繰り返し伝説によれば七人目
本当は四人目、それがジョン・ディーコンでした。
ジョンは機械工作に明るく、ブライアン自作ギターに欠かせない1Wアンプ「ディーキー・アンプ」を製作。
殆どのQUEEN及びブライアン作品にこのアンプが使用される事になります。
ライブ営業を繰り返していた彼らに最初のチャンスが訪れたのが71年夏の終わり、
ウェンブリーに出来た真新しいデ・レーン・リー・スタジオの機材テストにQUEENがコネで抜擢され、彼らは最新の環境で好きなだけデモテープを制作出来るチャンスを得ました。
そして伝説によると彼等のデビューシングルとなったKEEP YOURSELF ALIVE/炎のロックンロール録音中、
スマイル時代からのメンバーの盟友、ジョン・アンソニーが共に真新しいスタジオを視察すべく連れてきたロイ・トーマス・ベイカー
〔QUEEN初期のプロデューサーであり、第五のQUEENメンバーと評された男〕と、
スタジオの視察のつもりがクイーンの斬新なサウンドに一聴惚れ。
アンソニーとベイカーは共に籍を置く会社トライデントにQUEENと契約する事を進言。
出版権、マネージメント、プロダクションそれぞれ別々という新人にしては法外な契約を要求するバンド側に対し、
トライデントは自社で発売せず、制作した作品をレコード会社に売り込む事で合意。
アンソニーとベイカー、そしてクイーンプロデュースによりQUEENのファーストアルバム制作がソーホーのその名もトライデントスタジオにて始まりましたが、その過程は散々でした。
時間帯は他のバンドとバンドの空き時間を利用しなければならず、
真夜中だったり早朝だったり夕方だったりマチマチ。
ベイカーとの対立。
そして何よりメンバーを苦しめたのがアルバムを買取るレコード会社が全く名乗り出なかったこと。
そこでトライデントはバンド売り込みの為に太いパイプを持つジャック・ネルソンを雇い、EMIとの契約に漕ぎ着けますが、
又しても関門、契約には在学中であったロジャーとジョンの卒業を待つ必要がありました。
そんなこんなで制作開始から14ヵ月。
ダグラス・パディフッドによる特殊なエフェクトのかけられたフレディーのステージ姿をジャケ写として施されたデビューアルバム、QUEEN/戦慄の嬢王は「誰もシンセサイザーは弾いていません」という謳い文句と共に1973年7月13日店頭に並びました。
この大切なデビューアルバムのタイトルも幾つかの候補があがりました。
ロジャー→Top Fax,Pix,and Iofo
ベイカー→Deary Me
沢山の苦労と腹一杯の野心を秘めたデビューアルバムはしかし、一部の反応は得たもののセールスも評価も散々、
しかし苦々しい経験がメンバー4人をより経験豊かにし、世界を土俵に活躍するトップバンドの礎となったことは、
幸福な出来事と捉える事が出来るかもしれませんね。
次回より曲毎に語れたらと思います。
※邦題が原題の読み方ままであれば無表記。
QUEEN/戦慄の王女
【Side A】
KEEP YOURSELF ALIVE/炎のロックンロール
DOING ALL RIGHT
GREAT KING RAT
MY FAIRY KING
【Side B】
LIAR
MODERN TIMES ROCK 'N' ROLL
SON AND DAUGHTER
JESUS
SEVEN SEAS OF RHYE…/輝ける7つの海(インストゥルメンタル)
国/発売日/最高位
英/1973年07月13日/24位
日/1974年03月25日/52位
produced by John Anthony,Roy Baker,Queen
Recorded at Trident Studios
Freddie Mercury〔vo,p〕
Brian May〔g,p,vo〕
Deacon John〔b〕
Roger Talyor〔perc,vo〕
クイーン以前にブライアンとロジャーは、
ティム・スタッフウェルというコテコテの英国人と「スマイル」というバンドでデビューしていました。
ティムとアートスクールの同窓生であるファルーク・バルサラ、
後のフレディー・マーキュリーはティムを通じブライアンとロジャーの親友になっていました。
ロジャーとフレディーは特に仲がよく、ハイストリート・ケンジントンにあるケンジントン・マーケットに共同出資でアンティークショップを出店、お店は次回作発売直前まで続きました。
英米でシングルデビューを果たしたスマイルは、あらゆる面の中途半端さが原因で解散。
ティムは脱退、音楽の道を諦めテレビ業界に進み、残されたブライアンとロジャーと同時期にフリーだったフレディーが必然的にバンドを組みました。
様々なバンド名が候補にあがりました。
ロジャー→グランド・ダンス
ブライアン→リッチ・キッズ
しかしフレディーの出したバンド名にブライアンもロジャーも渋々了承、
1970年4月「QUEEN」が誕生しました。
難航したのがベーシスト探し。
良いなと思えば何らかの理由で脱退、
これを繰り返し伝説によれば七人目
本当は四人目、それがジョン・ディーコンでした。
ジョンは機械工作に明るく、ブライアン自作ギターに欠かせない1Wアンプ「ディーキー・アンプ」を製作。
殆どのQUEEN及びブライアン作品にこのアンプが使用される事になります。
ライブ営業を繰り返していた彼らに最初のチャンスが訪れたのが71年夏の終わり、
ウェンブリーに出来た真新しいデ・レーン・リー・スタジオの機材テストにQUEENがコネで抜擢され、彼らは最新の環境で好きなだけデモテープを制作出来るチャンスを得ました。
そして伝説によると彼等のデビューシングルとなったKEEP YOURSELF ALIVE/炎のロックンロール録音中、
スマイル時代からのメンバーの盟友、ジョン・アンソニーが共に真新しいスタジオを視察すべく連れてきたロイ・トーマス・ベイカー
〔QUEEN初期のプロデューサーであり、第五のQUEENメンバーと評された男〕と、
スタジオの視察のつもりがクイーンの斬新なサウンドに一聴惚れ。
アンソニーとベイカーは共に籍を置く会社トライデントにQUEENと契約する事を進言。
出版権、マネージメント、プロダクションそれぞれ別々という新人にしては法外な契約を要求するバンド側に対し、
トライデントは自社で発売せず、制作した作品をレコード会社に売り込む事で合意。
アンソニーとベイカー、そしてクイーンプロデュースによりQUEENのファーストアルバム制作がソーホーのその名もトライデントスタジオにて始まりましたが、その過程は散々でした。
時間帯は他のバンドとバンドの空き時間を利用しなければならず、
真夜中だったり早朝だったり夕方だったりマチマチ。
ベイカーとの対立。
そして何よりメンバーを苦しめたのがアルバムを買取るレコード会社が全く名乗り出なかったこと。
そこでトライデントはバンド売り込みの為に太いパイプを持つジャック・ネルソンを雇い、EMIとの契約に漕ぎ着けますが、
又しても関門、契約には在学中であったロジャーとジョンの卒業を待つ必要がありました。
そんなこんなで制作開始から14ヵ月。
ダグラス・パディフッドによる特殊なエフェクトのかけられたフレディーのステージ姿をジャケ写として施されたデビューアルバム、QUEEN/戦慄の嬢王は「誰もシンセサイザーは弾いていません」という謳い文句と共に1973年7月13日店頭に並びました。
この大切なデビューアルバムのタイトルも幾つかの候補があがりました。
ロジャー→Top Fax,Pix,and Iofo
ベイカー→Deary Me
沢山の苦労と腹一杯の野心を秘めたデビューアルバムはしかし、一部の反応は得たもののセールスも評価も散々、
しかし苦々しい経験がメンバー4人をより経験豊かにし、世界を土俵に活躍するトップバンドの礎となったことは、
幸福な出来事と捉える事が出来るかもしれませんね。
次回より曲毎に語れたらと思います。