( 映 画 )【ネタバレ】[画像小はクリック拡大]
自殺を計り未遂に終わった主人公サチ子の母親、学校に向かっていると思いきやそちらへは行かず、ドロップアウトして図書館等で時間をつぶす中学生のサチ子(宮崎あおい)。その衝撃的シーンから始まるこの作品は、冒頭でこの両者の行動を見せることで、瞬時にそこに平凡ならぬ母娘の家庭情況を映し出す。
サチ子にからむハレンチな若者やストーカーまがいの男。心が通い始めたように思えた一人の若者とその友人。学校へ出て来るように誘うクラスメイトとの交わり。そしてサチ子のモノログによって語られる小学校元教師との手紙のやりとり。おそらく恋愛に似た感情をもってたこの二人、その両者の間で交わされた短いフレーズと当時の追想が、サチ子の揺れ動く心とその行動に一つの指針となって、辛うじて安定を保たせているかのようにもみえる。けれども、その元教師を追って急ぐサチ子の前途に立ちはだかるものは、決して平安をもたらすものではなかった。
あヽ、それにしても宮崎あおいという人は、儚げで、或いは残酷で不安定な少女の表情を、何と見事に作品中で見せてくれたことか。もちろん監督の演出手腕も素晴らしいが、それに応える充分な演技を見せている。いやゝ、充分な演技との呼称は適切ではない。これは単に演技をして生まれたものではなく、宮崎あおいという稀有な役者をして、彼女の感性が存分に輝いた“奇跡”であり、その一瞬を取り込んだ“奇跡の作品”であると言って過言ではない。
印象深いシーンが幾つかある。部屋の中で元教師に髪をとかしてもらいながらサチ子がそっと横になるシーン。ほんの一瞬の場面であるが、何とも云えぬ揺れる少女の心情が伝わって来る。机に伏せながらビー玉を転がすところも秀逸だ。或いは、クラスメイトが教室で元教師との関係に触れようとした瞬間、机を倒すシーン。その時々のサチ子の思いが確かに観るものに伝わって来る。そして、火炎瓶を友人と次々に投げていくうち、炎が家を延焼させていく場面。愉快そうな初めの表情から、段々と恐怖への表情の変化が実に見事である。
作品としてみた場合においても、特にラストは秀逸だった。元教師を追って車を次から次へ乗り継いでいくサチ子。けれども外の風景は一切描かれず不安感が疾走して行く。一個のりんごをテーブルに残し男について出て行く少女は、その若さが眩しいだけに一層痛々しくて哀しい。そしてラストにおける突然の映像の暗転。とともに、ゆっくり静かに口ずさまれる、あおいちゃんの歌声。その「帰り道」のメロディがハスキーボイスを帯びていて、より不安感の余韻を残していく・・。
この作品はけっして派手な作品ではない。けれどもこの中で、役者宮崎あおいは自らの感性に奇跡的な化学反応を生じさせ、思春期の揺れ動く少女の心理、切なさ、危うさを見事に体現してみせた。まさにその“奇跡の作品”がこの映画『害虫』である。
残念ながら私はこの作品を劇場では観ることが出来なかったが、特典付属のDVDではメイキングシーンが見られる。エッセイでも前に少し触れたが、そこでは、オフ時でのいかにも明るく愉快なあおいちゃんと、演技に入った瞬間の鋭い集中力で演じる彼女の、大きな落差を驚きをもって垣間見ることが出来る。
なお、この塩田明彦監督作品『害虫』は、制作から数年経た2006年開催のポーランドでの「日本映画祭」で、上映作品の一つに挙がっていた。これは、小津安二郎、溝口健二、黒澤明の日本を代表する御三家に、木下恵介、今村昌平の各監督作品と共に同時上映されている。主催者の確かな選択眼を私はそこにみる思いがした。
また、周知のとおりこの作品は、フランスにおける2001年「ナント三大陸映画祭」の主演女優賞、審査員特別賞を受賞している。
二年位前になるか、はっきりとは思い出せないが、ある方の文章に次のような主旨のものがあった。
“・・心に傷をもつ少女を演じて少女期の宮崎あおいほど見事にその心の傷、不安定さを表現出来た女優はいなかった。そういう心に閉ざされた闇をもつ少女を、あの少女期の頃の彼女に、もっともっとたくさん演じて欲しかった・・・”
この文に接し少なからぬショックを私は受けた。映画『ユリイカ』、そしてこの『害虫』と観続ける中で、そうだ、本当にそうだと、そのとき我が意を得たが、同時にまた一抹の寂しさが込み上げて来た。宮崎あおいという女優を知ったのが『篤姫』以降のため、これについて私は何をか云わんやだが、今更ながら本当にゝそう思った。なぜならその後、過去10年位の映像作品の中で、どんなに探しても思春期の少女を演じて宮崎あおいちゃんほど瑞々しく、心に傷をもつ少女を演じてリアルに迫ってくる表現を残し、或いはそれを超えた表現をした女優さんに、残念ながら私は未だ出遇えてはいないのだから。
(楽天に同文掲載)
自殺を計り未遂に終わった主人公サチ子の母親、学校に向かっていると思いきやそちらへは行かず、ドロップアウトして図書館等で時間をつぶす中学生のサチ子(宮崎あおい)。その衝撃的シーンから始まるこの作品は、冒頭でこの両者の行動を見せることで、瞬時にそこに平凡ならぬ母娘の家庭情況を映し出す。
サチ子にからむハレンチな若者やストーカーまがいの男。心が通い始めたように思えた一人の若者とその友人。学校へ出て来るように誘うクラスメイトとの交わり。そしてサチ子のモノログによって語られる小学校元教師との手紙のやりとり。おそらく恋愛に似た感情をもってたこの二人、その両者の間で交わされた短いフレーズと当時の追想が、サチ子の揺れ動く心とその行動に一つの指針となって、辛うじて安定を保たせているかのようにもみえる。けれども、その元教師を追って急ぐサチ子の前途に立ちはだかるものは、決して平安をもたらすものではなかった。
あヽ、それにしても宮崎あおいという人は、儚げで、或いは残酷で不安定な少女の表情を、何と見事に作品中で見せてくれたことか。もちろん監督の演出手腕も素晴らしいが、それに応える充分な演技を見せている。いやゝ、充分な演技との呼称は適切ではない。これは単に演技をして生まれたものではなく、宮崎あおいという稀有な役者をして、彼女の感性が存分に輝いた“奇跡”であり、その一瞬を取り込んだ“奇跡の作品”であると言って過言ではない。
印象深いシーンが幾つかある。部屋の中で元教師に髪をとかしてもらいながらサチ子がそっと横になるシーン。ほんの一瞬の場面であるが、何とも云えぬ揺れる少女の心情が伝わって来る。机に伏せながらビー玉を転がすところも秀逸だ。或いは、クラスメイトが教室で元教師との関係に触れようとした瞬間、机を倒すシーン。その時々のサチ子の思いが確かに観るものに伝わって来る。そして、火炎瓶を友人と次々に投げていくうち、炎が家を延焼させていく場面。愉快そうな初めの表情から、段々と恐怖への表情の変化が実に見事である。
作品としてみた場合においても、特にラストは秀逸だった。元教師を追って車を次から次へ乗り継いでいくサチ子。けれども外の風景は一切描かれず不安感が疾走して行く。一個のりんごをテーブルに残し男について出て行く少女は、その若さが眩しいだけに一層痛々しくて哀しい。そしてラストにおける突然の映像の暗転。とともに、ゆっくり静かに口ずさまれる、あおいちゃんの歌声。その「帰り道」のメロディがハスキーボイスを帯びていて、より不安感の余韻を残していく・・。
この作品はけっして派手な作品ではない。けれどもこの中で、役者宮崎あおいは自らの感性に奇跡的な化学反応を生じさせ、思春期の揺れ動く少女の心理、切なさ、危うさを見事に体現してみせた。まさにその“奇跡の作品”がこの映画『害虫』である。
残念ながら私はこの作品を劇場では観ることが出来なかったが、特典付属のDVDではメイキングシーンが見られる。エッセイでも前に少し触れたが、そこでは、オフ時でのいかにも明るく愉快なあおいちゃんと、演技に入った瞬間の鋭い集中力で演じる彼女の、大きな落差を驚きをもって垣間見ることが出来る。
なお、この塩田明彦監督作品『害虫』は、制作から数年経た2006年開催のポーランドでの「日本映画祭」で、上映作品の一つに挙がっていた。これは、小津安二郎、溝口健二、黒澤明の日本を代表する御三家に、木下恵介、今村昌平の各監督作品と共に同時上映されている。主催者の確かな選択眼を私はそこにみる思いがした。
また、周知のとおりこの作品は、フランスにおける2001年「ナント三大陸映画祭」の主演女優賞、審査員特別賞を受賞している。
二年位前になるか、はっきりとは思い出せないが、ある方の文章に次のような主旨のものがあった。
“・・心に傷をもつ少女を演じて少女期の宮崎あおいほど見事にその心の傷、不安定さを表現出来た女優はいなかった。そういう心に閉ざされた闇をもつ少女を、あの少女期の頃の彼女に、もっともっとたくさん演じて欲しかった・・・”
この文に接し少なからぬショックを私は受けた。映画『ユリイカ』、そしてこの『害虫』と観続ける中で、そうだ、本当にそうだと、そのとき我が意を得たが、同時にまた一抹の寂しさが込み上げて来た。宮崎あおいという女優を知ったのが『篤姫』以降のため、これについて私は何をか云わんやだが、今更ながら本当にゝそう思った。なぜならその後、過去10年位の映像作品の中で、どんなに探しても思春期の少女を演じて宮崎あおいちゃんほど瑞々しく、心に傷をもつ少女を演じてリアルに迫ってくる表現を残し、或いはそれを超えた表現をした女優さんに、残念ながら私は未だ出遇えてはいないのだから。
(楽天に同文掲載)
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