every word is just a cliche

聴いた音とか観た映画についての雑文です。
全部決まりきった常套句。

Stillichimiyaのライヴを漸く観れた。日本に於ける”リアル”なヒップホップについて徒然と。

2014-11-08 | HIP HOP



<田中面舞踏会>とその次の日に催された法制大学の学園祭でStilllichimiyaのライヴを観てきた。

『死んだらどうなる』は今年リリースされた日本のヒップホップ‥アルバムの中でも何枚かに入る出来だと思うし、あの飄々として煙にまいたような内容をどうアルバムに落としこむのか…と思っていたのに先日のワンマンは見逃していたので漸くという感じ。

特に「ズンドコ節」。『死んだらどうなる』ではスキットを織り込むことによって(一旦CM!)かろうじて繋げていた世界観をどうするのだろうと思っていた。MVのようにスーツを着こむのだらうし、アンコールにもってくるのかな? とか。



Sillchimiyaは「ズンドコ節」MVのようなスーツ姿でステージングを決めた。<田中面舞踏会>だから特別なのかな? とも思ったけれど、法政大学でもスーツ姿だったから『死んだらどうなる』タイミングはスーツで決めるということなのだろう。


「ズンドコ節」は笑点・大喜利をモチーフにしている。そしてタイトルとMVはドリフへのオマージュだ。

そのことからもStillichimiyaが(大衆)芸能ということに自覚的であることが窺える。


『死んだらどうなる』の曲を中心に寸劇(Mr.麻呂はエンタテイナーだなぁ)を織り込んだステージもそういうことなのだろう。

そしてそれが山梨という地方都市でヒップホップを活動するStillichimiyaが日本でヒップホップをするということに対するひとつの回答なのだろう。

日本はヒップホップ一色ではない。東京や大阪ではそういった生活も出来るのだろうけれど、どうしようもなくドメスティックな風景や日常が飛び込んでくるし、そういったものが日々の暮らしの中心だ。

それらを無いものとする、目にはいらないかのように振る舞うこと。これが一番ダサい。"リアル"じゃない。

Stillcihimiyaのパフォーマンスを見て改めて、そう考えた。

死んだらどうなる
stillichimiya
Mary Joy Recordings
2014-07-09



前記事 → ヒップ・ホップ第五の要素はフェイシング(カオ)とは言うけれど… stillichimiya「ズンドコ節」



補足 

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日本語でラップすること=盆踊りであるのならば、それでいいんじゃないか? ということでもあります。引用Tweetの意図・ニュアンスがどういったものかは分かりかねますが。


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