(どうしてこんなことになってしまったんだろう・・・)
篠田輝昭は最後に一本残ったタバコに火をつけて、
言葉に固めた思いを紫煙と一緒に重く吐き出した。
白く煙った吐息は吐き出された瞬間に、
よそよそしく冷えきった夜気の中へとふらりと力なく立ち消えていく。
辺りはとても静かだった。
疲れきってやつれた篠田の顔は、青灰色の月光にひっそりと照らされている。
周囲を覆う鬱蒼とした木々たちは、車のエンジン音や人のざわめきには
何一つ関心を示さない。ただ、ただ、黙って、
夜の行方の中にじっと身を置いている。
篠田は、煙草の煙をぼんやりと宙に追っていた視線を下に向けて、
すぐ目の前にある柵の向こう側を覗き込んだ。
肩の高さ程の鉄網柵の下には、暗闇が覗いている。
底のない沼のように、それは暗く深い口をあんぐりと開けていた。
篠田は柵から身体を離し、向きを変えた背中をそこに寄り掛からせた。
そして無表情なまま、タバコをまた一口大きく吸い込む。
じゅっと燃えたオレンジの火先が一瞬明るく色を強め、
そしてすぐに灰になった。
篠田の足元には、吸殻が6本、まばらに落ちている。
(どうしてこんなことになってしまったんだろう・・・)
虚ろに宙を見つめながら、篠田は同じ思いをぼんやりと繰り返した。
(どうして・・・、いや・・・)
篠田は浮かび上がった無駄な思いを頭から消し、
そしてタバコを吸い、
紫煙を深く吐き出した。
(もういい)
篠田はタバコを吸い続け、
そして紫煙を吐き出し続けた。
(勘違いだったんだ・・・)
風が少し出てきた。
ざわざわ、
と葉擦れの音が夜空に抜けていく。
(人生なんて勘違いと後悔の追いかけっこだ)
篠田の鼻先からふっと自嘲的な笑いが洩れていった。
(もういい。俺の負けだ。俺は負けたんだ)
篠田はもう一度タバコを大きく吸い込むと、
指先まで燃えた吸殻を地面に落として踏み消した。
足をどけた地面に、吸殻が泥まみれに潰れていた。
篠田は虚ろな目でその吸殻を見つめた。
さっきまで手元にあったタバコは、
今はもう泥の上に潰されたゴミ屑だった。
それは用のない、使い捨てられた、
ゴミ以外のなんでもなかった。
じっと吸殻を見つめる篠田の耳から、
木々のざわめきがすうっと消えていった。
篠田はゆっくりと後ろを振り返り、
両手が鉄の網を掴んだ。宙に浮いた片足が、
網の穴のひっかかりを探していく。
一足、二足、と身体を上げて、そしてそろそろと
腰を落とした中腰の姿勢で柵の上に乗った。
両手は柵の縁をしっかりと掴んでいる。
今からまっさかさまに飛び降りようとしているのに、
バランスを整えている自分が滑稽だった。
篠田は声を立てて笑ったが、笑い声は耳に聞こえなかった。
すうっと色を失くしていった目線を落として見た地上は底なしで、
暗くむっつりとしたまま黙りこんでいる。
そよいでいた風が完全に止まった。
すべては無音の中に沈殿している。
篠田はゆっくりと顔を上げて夜空を仰いだ。
上弦の月が、静かに地上を見下ろしている。
きれいだな・・・、とふいに篠田は思った。
子供たちの顔が脳裏に過っていく。
(昴、楓、ごめんな・・・)
閉じた瞼から月空が消え、柵の縁から両手が離れて、
ゆらりと前方に身体が揺れたとき、
ぐいっと後方から誰かに後ろへ引き戻された。
「すみません、大丈夫でしたか?」
誰かの腕の中に支えられるようにして地面に転がり落ちた篠田の耳に、
突然周囲の音が戻ってきた。
篠田は、何が起こったのか全く理解できなかった。
柵の反対側に身を投げようとした瞬間に、
気付けば茫然としたまま元いた柵のこちら側に尻餅をついていた。
目の前に、すらりとした誰かの片手が差し出されている。
篠田は呆けたような顔で暫くその手をじっと見つめていたが、
やがてゆっくりと視線を動かして、指、腕、肩、喉元、と目線を上げていき、
そして穏やかな瞳と目が合った。物静かで慈愛のこもった眼差しが、
そっと見守るように篠田を見つめている。篠田は呆けたまま、
見知らぬその顔をじっと眺め返した。
「吉岡といいます。篠田さんですよね?」
周囲の空気を温めるような声が篠田の身体を包み込んでいった。
「申し訳ありません、車の免許証を見せていただきました」
篠田は吉岡と名乗った男の姿をぼんやりと眺め上げつづけた。
月明かりの下でそっと手を差し伸べながら静かに佇んでいるその姿は、
物腰の柔らかい雰囲気の中に、凛とした誠実な気質がすっとまっすぐに
体の中に通っている、そんな印象を篠田に与えた。
(そうか・・・昴が・・・)
唖然とした表情が徐々に薄れていき、やつれきった篠田の顔に、
合点した表情が薄く浮かんでいった。
身体全体の力がへなへなと抜けていく感覚を覚えながら、
篠田は吉岡から視線を逸らして、地面についていた両手を、
軽く折り曲げていた膝の上に置いて俯いた。
「やっぱりわかっちゃったんだな・・・」
ぽつん、と言った呟き声が膝の中でくぐもった。それからふと、
大丈夫かと問いかけた吉岡の言葉を思い出して、
「大丈夫じゃ、ないですよ・・・。飛び降りられなかったんだから・・・」
と言って卑屈に笑った。喉が、痛いくらいに乾いていた。
「死ぬことも満足にできやしない・・・」
ぎゅっと膝頭のズボンを握りしめた篠田の横に、
吉岡が静かに座る気配がした。
説教でも垂れる気かと篠田はうなだれながら身構えたが、
しかし吉岡は何も言わなかった。何も言わずに、
横にそっと座っているだけだった。
二人の頭上で、
木々が夜風に歌っていた。
さわさわと、
さわさわと、
夜風の孤独に葉擦れが揺れ動いている。
篠田は、一人にしてくれ、と何故か言葉に出して言うことが出来なかった。
永遠に一人きりになるためにこの場所に来たはずなのに、
今は何故か隣の温もりから離れたくなかった。一人には、
なりたくなかった。
「きれいですね・・・」
やわらかな声が耳に聞こえてきて、
篠田は膝に埋めていた顔をゆっくりと上げて隣を見た。
吉岡は月空を見上げている。
冴え渡った銀の光が、その横顔を静かにひっそりと照らしている。
ぼんやりとした視線を向けている篠田に吉岡はふっと振り向き、
そしてにこりと笑った。それはふいの新緑の風に吹かれたような、
そんな感覚のする笑顔だった。
(なんて清潔な笑顔なんだろう・・・)
そう無意識に胸のうちで呟いてしまったくらいに、
それは粋然とした笑みだった。
吉岡は篠田に微笑んだだけであとは別に何も言わず、
また静かに夜空を見上げていった。
篠田はその横顔から伏し目がちに視線を外して地面へと向きかけ、
そこでふと何かに気付いたように目線を持ち上げ直して、
吉岡の右腕に視線を止めた。よく見ると、その腕の片側全体に、
スライドしたときにつくような泥が真新しくこすりついている。
篠田は自分の服を見回した。地面に転がり落ちたはずの自分の服には、
しかしどこにも泥がついていない。
篠田は改めて吉岡の横顔を見つめなおした。
それは、あるがままにそこにきちんと存在できている優しさ、
純粋な強さからくる逞しさが自然とにじみ出ているような、
そんな横顔だった。
篠田は、昴がどうして大勢の人の中から吉岡一人を選んで頼ったのか、
そのとき頭ではなく、心ではっきりと理解できたような気がした。
(昴はきっと・・・この人の持つ確かな強さと信頼感を、
本能的に嗅ぎ取ったんだ・・・)
そう思いながら地面に目線を落とした篠田の視界が、
ぐわりと一気に涙で歪んでいった。それは、どうしようもなく
情けない涙だった。
(情けない・・・。おれは情けない・・・)
篠田の目から涙が溢れ出し、一度こぼれた涙は、後を絶たずに流れ続けた。
体裁など構う余裕もなく、篠田はただ思いのままに泣き続けた。
吉岡は、そんな篠田の横に黙って静かに寄り添っている。
それはとても温かく、そっと肩を包み込んでくるような優しい沈黙だった。
篠田は泣き続け、そして不様な姿で思い切り泣けることに、
心のどこかでありがたささえ感じていた。
「金が尽きてしまって・・・」
発作のような涙がようやく治まったところで、
篠田は顔を宙に向けてぽつりと話しを切り出した。
「ガソリンが切れてしまって、それで給油しようとこのサービスエリアに
立ち寄ったんですが、財布を開けたら空でね。それを見た途端に、
なんだか急に何もかもが馬鹿らしく思えてしまって・・・。
死んでしまおうかな、なんて思ったんですよ、突然に。もういいやってね。
別れた妻の実家がここから遠くない場所にあるので携帯で連絡をして、
子供たちが佐野のサービスエリアに居るから今すぐ迎えにいってやってくれと。
それから自分は一人でこの場所に来て・・・」
篠田はぼんやりとした眼差しを金網柵へと向けた。
その向こう側には墨で塗られたような暗闇があるだけで、
その先には何も見えなかった。篠田は視線を宙に戻した。
「金が、どうしても稼げなかったんですよ・・・」
黙って静かに耳を傾けていてくれている吉岡に、
篠田はさらに切れ切れに話を続けていった。
「でもね、以前はこんなんじゃなかった・・・。前はきちんと・・・」
途切れがちな言葉はそこでまた止まり、
篠田は夜空を仰ぎながら深く息を吸った。
それから何かのしこりを吐き出すように重く息を吐き出していく。
「前科があるんですよ、わたし・・・」
そう云って自嘲するように鼻で笑って、篠田は吉岡を見た。
「そんな奴がする話、まともには聞きたくないでしょうけど・・・」
吉岡は篠田の目を見つめながらそっと首を横に振った。
「そんなことありません」
篠田は口を開きかけたまま、吸い込まれたように吉岡の顔を見つめた。
穏やかだが芯の通った心を映し出している瞳が、
まっすぐに篠田の顔を見つめ返している。
開きかけたまま止まっていた篠田の口が、再び動き出していった。
「汚職だったんですよ。架空の秘書の給与を選挙運動に回したっていう罪で。
一年半の実刑を受けました。執行猶予はなしです。よくある話ですよ」
篠田は口元だけで寂しく笑って、視線を宙に定めた。
「貯めていた貯金は弁護士への費用で殆どなくなってしまいました。
保身の為に払った裁判の費用で保身を崩してしまったんです。笑い種ですよね。
妻には刑務所から離婚届を出しました。まだ彼女は再婚可能な年だったし、
子供が二人もいては再婚の邪魔になるだろうから、子供はわたしが出所するまで
わたしの実家で育てると伝えました。わたしには出来すぎた人だったから、
せめてもの罪滅ぼしのつもりでした。妻は離婚しないと書いた手紙と一緒に
離婚届を何度も送り返してきましたが、やがて諦めたのか、妻からの手紙は
止まって、わたしの母親から、妻が実家を出て行ったとある日の面会で
告げられました。離婚届には判を押さずに出て行ったそうです。
それから今日まで、妻とは一切連絡を取ってませんでした・・・」
宙を見つめる篠田の目が、ふっと遠くへ向けられていく。
「出所後は、何でもできるって思ってたんですけどね、子供たちの為なら。
でも実際はそんなに甘くなかった。職を見つけて働き出すと、どういうわけか
すぐにわかってしまうんですよ、周囲に、前科のことがね。
噂はすぐに広まりますから、それで上からもっともらしい理由をつけられて
翌日解雇です。仮釈放の保護期間が終わったあとは、県外にも出ました。
だけどどこにいてもやっぱり同じことの繰り返しでね、結局、子供たちには
六回も転校させてしまいました。二年で六回もです。
そのうちにわたしの母親がぽっくり逝ってしまいまして、どうせどこにいても
同じ辛い思いをするのなら、昴が好きな山に囲まれた場所で頑張ろうと、
母親の葬式をきっかけに地元に腰を下ろそうとしたんですけどね、
故郷の人たちの風はどこよりも厳しい。それでも頑張って職を転々としながら
今日までなんとかやってきたんですけど。今日は楓・・・、娘のことですが、
あの子の誕生日でね、前からディズニーランドに連れて行くって約束していた
ものだから、なけなしの金を使ってレンタカーを借りましてね、一日三人で
思い切り遊んできました。それで帰りにガゾリンがなくなってしまって・・・」
篠田はまた金網の柵に目を向けて、そしてポツリと言い足した。
「楓の誕生日だったのにな・・・・・」
途方に暮れきったような篠田の顔が、月の光の下に青白く照らされていた。
吉岡の瞳がそっと伏せられていく。
「私なりにね、今までずっと頑張ってきたんですけど。家族はもちろん、
市のため、町のためにってね、でもね、良かれと思って蒔いてきた種は、
芽が出たら全部雑草でした。ずっと間違った種を蒔いていたんですよ。
気付いたときには周り中雑草だらけでね・・・。人生なんて・・・、」
そこでふっと途切れた言葉に、吉岡は目線を上げて篠田を見た。
篠田は、どこか彼方をじっと見据えている。
「人生なんて、こんなもんですよね。勘違いと後悔の繰り返しですよ」
そう言ってまた自嘲的に笑いながら吉岡の顔に向けた篠田の目の奥には、
同意を求める気持ちと、しかしそれを跳ね除けてほしいと願うような、
複雑な感情の色が綯い交ぜに浮かんでいた。
「一瞬先はほんとに闇なんだ。欺瞞に満ちた闇だけですよ。
未来なんてまやかしにすぎない。あなたはそう思いませんか?」
問いを請う篠田の気持ちを受け止めながら、
吉岡は自分の思いを手繰り寄せるように遠くを見つめた。
それから少し間を置いて篠田に顔を向けなおし、
微かにためらうような表情をその目に浮かべながら、そっと口を開いた。
「人生の一瞬先が闇なのかは・・・・わかりません。でも、
人生は一瞬一瞬の積み重ねなんだと、僕は思います。
自分の投げかけたほんの一瞬は、周りの人にとっては
永遠の一部分になってしまうかもしれないですよね。
それは光の粒にもなるし、闇の棘にもなってしまうものなんだと思います」
吉岡はそこまで言ってほんの少し微笑み、
一瞬微かに伏せた睫毛を上げ戻して、また静かに言葉を続けた。
「人生は確かに、勘違いと後悔の繰り返しなのかもしれません。
でもそれだけじゃ・・・ないですよね。
過去におかしてしまったことは、消えないかもしれない。
ずっと背負っていかなければならないことも、たくさんあると思います。
その重みを感じながら生きることが罪滅ぼしの一つなのかもしれません」
吉岡の長い指が風に揺れた髪をそっと梳き、瞳が夜空へと澄んでいく。
「過去は変えられません。でも、過去は未来を作っていってくれますよね。
人生は・・・過去で括られてしまうものではなくて、過去から学び、
そして学んだものを未来へと繋げていくものなんだと僕は思います。
一瞬一瞬の命が続く限り、人は学び、向上していくものなんだと。そこに、
限界はないと思います」
吉岡は篠田に視線を戻すと、穏やかな眼差しでそっと微笑んだ。
「篠田さんは、これまでずっと頑張ってこられましたよね。
本当に頑張ってこられたと思います。そしてそれも篠田さんの過去です。
それは確かな足取りですよね。すばる君もかえでちゃんも、
頑張ってきた篠田さんの姿をちゃんとしっかり見てきています」
篠田の顔がぐっと泣き顔に崩れていった。吉岡の言葉が静かに続く。
「未来は未定です。だからこそ素晴らしいものだと思うんです。
そこに、希望は必ずあると思います」
吉岡はそう云って、深く微笑んだ。その笑みを見つめる篠田の頬に、
再び涙が零れ落ちてくる。しかしそれは、情けない涙だとは、
篠田はもう思わなかった。
「もう帰らないと・・・。子供たちが待ってるから」
涙にぬれた顔をぐっと上げて、篠田は言った。
サービスエリアの上下線を結ぶ通路階段を篠田が一歩踏み降りたとき、
遠くから昴の呼ぶ叫び声が聞こえてきた。
おとうさーん!と何度も大声で呼びかけながら、
小さな体が駐車場を通路階段に向かって駆けて来る。
篠田も急いで階段を降りていき、駐車場の中を息子に向かって走っていった。
互いに走りよって抱き合った親子の姿を、
吉岡は降りきった通路階段の横に佇みながら静かにそっと見守っていた。
その姿に気付いた昴が、吉岡に向かって駆けてくる。
その身体はまだ、吉岡のハーフコートに包まれていた。
「おとうさんを見つけてくれてありがとう!」
弾丸のような勢いで吉岡の胸に飛びこんできた昴は、満面の笑顔で言った。
「いいえ」
吉岡もにっこりと笑って答える。
「ぼく怖くなかったし、ずっとあたたかかったよ、これ着てたから」
昴は不器用そうに、しかし大事そうにハーフコートを脱いで、
それを吉岡に返した。ありがとう、と言って吉岡は、
笑顔を深めて昴の手からハーフコートを受け取る。
「あのね見て、おかあさんも来てくれたんだよ!」
昴は後ろに振り返って、駐車場の端に停めてあるプリウスの方を指差した。
その指先を辿っていった吉岡の視界に、楓を腕に抱き上げている女性が、
車の前に立って篠田の方を見つめている姿が目に入ってきた。
吉岡は昴に視線を戻し、
「よかったね」
と云って嬉しそうに微笑んだ。
「うん」
昴も嬉しそうに微笑んで大きく頷き、それから、
「よしおかさんのおさいふ、ここに入ってるよ」
と言って吉岡が手に持っているハーフコートのポケットを指差した。
「にてたけどよく見たらおとうさんのじゃなかったから。
だいじょうぶ、いっせんもつかってないよ」
吉岡は愛しそうにクスっと笑って、うん、と頷いた。
「ありがとう。お父さんのはもう返しておいたから、安心してね」
昴もうん、と頷いて、それから急に真面目な顔になって、
「どうもありがとうございました」
といって改まって吉岡に頭を下げた。その小さな姿を見つめる吉岡の目元に、
切なそうな愛しそうな表情が深く浮かんでいく。
吉岡は腰をかがめて、目線を昴の頭の位置に合わせた。
「すばる君、元気でね」
昴は顔を上げなかった。じっと頭を下げたままぽろぽろと涙を零している。
吉岡は両手を伸ばして、その背中をそっと大きく包み込んだ。
小さな昴の手がぎゅっと吉岡の背を掴んで強く抱き返してくる。
しばらく昴はじっとそのまま吉岡に抱きついていたが、
やがてすっと離れると、父親の方に向かって勢いよく走っていった。
そして途中でくるっと後方に振り返り、吉岡に向かって力一杯に右手を大きく振った。
その後ろで、篠田が吉岡に向かって頭を下げている。
吉岡も昴に大きく手を振り返して、そして篠田に向かって深く頭を下げた。
「どこいってたんだよ、ヒデ」
ボルボの後部座席を開けた瞬間、萩原の声が助手席から飛んできた。
「外の空気吸いにいくって、吸いすぎだろうが」
運転席から筒井の声が続く。
「ごめん、ちょっと・・・」
吉岡はそういいながら後部座席に乗り込んだ。
ヒーターの効いた車内は暖かかった。
「ちょっとって、お前のちょっとは人の三年分なのかよ」
萩原の言葉に吉岡は明るく笑って、
「どれにしようか迷ちゃって」
と言って、ハーフコートの両ポケットから温かい缶コーヒーを二つ取り出し、
それを筒井と萩原に手渡した。
つづく