暗い井戸の中を覗き込むような顔で、
萩原はじっと自分の膝の上を見下ろしていた。
抗議する筒井の声を無視してステレオのスイッチを消したおかげで、
ベスト・オブ・堀ちえみの歌声はめでたく消失し、
ボルボの車内は今、平和に静まり返っていた。
しかしその勝利にもかかわらず、萩原の目には
うんざりとした表情が浮かんでいる。
背中にどんよりとスダレを纏っている萩原の横で、
筒井が黙々と弁当の中身を頬張っていた。
萩原は運転席に向けようとした顔を途中で思い直して
また元の場所に戻した。膝の上には、蓋を開けたまま
一度も箸をつけていない幕の内弁当が置いてある。
ブラックホールに吸い込まれたように、
萩原の視線は弁当箱の中の一点に集中していく。
「知らなかったよ・・・弁当にシューマイが入ってたなんて・・・」
萩原はおぞましそうにため息をつくと、
虚ろな視線を宙に漂わせた。
「俺は高ニの冬からずっとシューマイ恐怖症なんだよ。
シューマイって言葉を聞いただけで全身鳥肌ものになっちゃうのに、
なんでシューマイ入り弁当なんて買ってきちゃったんだよ、俺・・・。
カンベンしてくれよ~、どうしたらいいんだよこのシューマイな気分・・・」
「食えよ」
然らぬ顔で筒井は言うと、缶入り緑茶をごくりと喉に流し込んだ。
「食えねぇから困ってるんだろ」
旨そうに弁当を頬張り続けている筒井の横顔を、
萩原はうらめしそうな顔で見据えた。
「お前よく食えるよな、シューマイ・・・」
「もう20年以上前のことじゃねぇかよ。
過去とトイレは水洗にするのが一番なんだぞ」
「過去とは忘れない記憶のことなんだよ。忘れない記憶ってことは即ち
現在の脳の中に生きている感情ということなんだ。だから過去とはそれを
定義するだけの便宜的な名称であって、実際には今この瞬間に存在する
現在進行形の産物ってことなんだぜ」
筒井がステレオのスイッチを入れた。堀ちえみの歌声が流れ出し、
萩原が皿目でスイッチを切った。
「最悪気分に相乗音響効果を入れないでくれよ。ああもう
思い出しちゃったじゃないかよ、あのバイトのこと・・・」
「そんなこといったって結局一日しか働かなかっただろう」
最後の一口に頬張った卵焼きを飲み込んでから筒井が言った。
「それにあれはお前の近所のおばさんだかなんだかの経由で持ってきた
バイトだったじゃねぇかよ。割のいい冬休みのバイトを見つけたって
無理矢理お前に引っ張られた挙句に割りを食わされたのは俺とヒデだよ」
「知らなかったんだよ、シューマイ工場のバイトだっていうから
てっきり出来上がったシューマイの箱をダンボールに箱詰めする
仕事だと思ってたんだ。まさか朝の四時から七時まで
三時間ぶっとおしでベルトコンベアーの前につったったまま、
永遠に流れ続けてくるシューマイの上に
一つ一つグリーンピースをのせていく仕事だなんて誰が想像するよ?
ああ思い出しただけで体脂肪が70%減少したよ」
萩原はげんなりとした顔を筒井の横顔から離し、
「最悪だったよな、あのバイト・・・」
と脱力しきった表情を夜冬の駐車場に向けた。
「確かにシューマイの悪夢だったよ、あれは」
筒井はそう言って、冷めきってしまった缶の緑茶をぐいっと飲み干した。
「悪夢どころじゃなくてシューマイ地獄だったよ、あれはマジで。
次の日即効みんなで辞められてよかったよ」
萩原の言葉を横顔で聞きながら、筒井は綺麗に食べ終わった
空の弁当箱とお茶の缶を、足元に置いてあるビニール袋の中に戻した。
それから運転席の背もたれに身体を沈めると、
フロントガラス越しに冬の夜空を眺め上げて、
そしてゆっくりと口を開いた。
「辞めてなかったらしいぞ、ヒデは」
しん、と車内の空気が静まり返った。
「え?」
ポカンとした顔で運転席に振り向いた萩原の手元の割り箸から、
唐揚げがポトリと弁当箱の中に落ちた。
「・・・え?」
少し間を置いてから萩原は同じ言葉を筒井に投げかけた。
筒井は黙ったまま夜空を仰いでいる。
萩原は呆気に取られたまま、言葉にならない言葉を口の中で持て余した後、
「・・・なんのことだよ?」
とやっと出てきた声で筒井の横顔に問い直した。
「だから辞めてなかったんだよ、ヒデは」
筒井もさっきと同じ言葉を繰り返した。萩原は口を継ぐんで前方を向き、
少し間を置いてからまた口を開いた。
「なんのことだよ、だってさ、ヒデも、あそこを辞めたあと
お前が替わりに見つけてきたチャリ速達便のバイトを
俺たちと一緒にしてたよな、夜の蕎麦屋のバイト時間まで?」
「シューマイ地獄のあとにしてたんだろ、チャリ配のバイトは」
遠方のレストランの明かりに視線を落としながら筒井が言った。
萩原は信じられないといった表情をその横顔に向けた。
「・・・そんなこと」
「知らなかったよ俺だって、大学出るまで」
駐車場の右端付近で、大型トラックがエンジンを入れた。
走行音を周囲に轟かせながらサービスエリアの出口方面へと向かっていく、
そのトラックの月影を路面の上へと暫く目で追っていた筒井は、
エンジン音が高速道路に消えてなくなるまで何か考え込むように
じっと黙っていたが、やがてやっと重い口を開いて話をし始めた。
「大学病院で働く前に、ちょっと親父のところを手伝ってた時があるだろ、
そこにある日、昔シューマイ工場でパートしてたっていうおばさんが
患者として診察を受けに来たんだよ。一日だけしか働かなかったのに
俺の顔を覚えてたみたいでさ、あら懐かしいわねぇ、なんつって話し始めて、
それでヒデの話が出たんだ、その時」
筒井はそこで視線を夜空へと戻した。
見上げた上弦の月は周囲に蒼白い光を放ち、
星は月明かりの夜空に姿を消していた。
萩原は黙って筒井の次の言葉を待った。
暫くしてから筒井がまた口を開く。
「そんでそのパートしてたっていうおばさんがさ、
あんたはもう一人いた子と勝手にさっさと辞めちゃったけど、
でも一人だけきちんと残ったあの色の白い可愛い子は、
最後までよく頑張って偉かったわよねぇ、なんていきなり
話し出したもんだからさ、俺だってびっくりしたよ」
そこで筒井はまた話を一旦区切って、ヘッドレストに頭を乗せた。
微かな疲労感が、その横顔に滲んでいる。
萩原は筒井の横顔から顔を逸らして、
自分の手元にある弁当箱に視線を落とした。
その耳元に、筒井の声がまた届いてくる。
「人手不足だから急に辞められたら困るって工場長が言ってたよな、
次の日三人で辞めるって言いにいったとき。三人一気に辞めちゃったら
それこそ工場のほうで後の補充員の調達に困っただろうし、
あの気の弱そうな工場長の泣きっ面を見たら、
辞めるに辞められなくなっちゃったんだろうよ、ヒデとしては。
それにさ、」
筒井はシートの背もたれに寄りかからせていた背筋を僅かに伸ばした。
「お前の近所のおばさんとやらへの手前の義理もあったんだろう、きっと」
萩原は手に持っていた割り箸を弁当箱の上に置き戻した。
「その話の後でヒデに聞いたよ、シューマイ工場のバイトのこと。
俺らと一緒に辞めてなかったんだなって」
「・・・なんて言ってた、ヒデ?」
「うんって言って笑っただけだったよ」
萩原は弁当箱の中のシューマイをじっと見つめた。
「・・・・ヒデだよな」
「どうしようもないくらいにヒデだろう」
そこでふと二人は黙りこんだ。
高速道路を飛ばしてくるバイクの走行音が近づいてきて、
そしてすぐに遠方へと小さく消えていった。
駐車場を大きく迂回してきた車のヘッドライトが、
サーチライトの光のように、二人の顔を照らし出していった。
一瞬の眩しい光のあとに、色を深めた暗闇が車内に戻ってくる。
「シューマイさ、俺もあれから食えなかったんだよ」
暫くして筒井が口を開いた。ぼんやりと宙を見つめていた萩原が、
ゆっくりと運転席に顔を向けた。筒井は言葉を継いでいく。
「いつだったかさ、もう高校出た後だったけど、
ヒデとどっかに出かけた先でシューマイの入った弁当を
知らずに間違って買っちゃったことがあったんだよな。
俺、蓋開けた瞬間に嗅いだシューマイの匂いだけで
もう食えなくなっちゃってさ、その弁当。今夜のお前みたいな状態だよ。
で、横で弁当食ってるヒデに言ったんだ、
お前よく食えるな、シューマイが入ってんのにって。
そしたらヒデ、いつものように明るく笑ってさ、
箸でひょいってシューマイ摘み上げて、
シューマイってさ、今こうして見てるだけのシューマイじゃないよね、
って言ったんだよ、あの調子で」
意味を把握しかねている萩原の視線を横顔に受け取りながら、
筒井は話を続けていく。
「つまりさ、俺たちは出来上がったシューマイの姿だけを
シューマイとして見てるけど、でも実はそのシューマイの背景には
養豚業者がいたり、たまねきを育てた農家の人がいたり、
それを運んだトラックの運転手や、ワンタンの皮だかなんだかを作った人や、
肉詰めした人だとか、その上にグリーンピースをのっけてたりする人がいてさ、
だからそれはただのシューマイじゃなくて、そこには人生が詰まってんだよな、
ってことをヒデは言ったんだよ。シューマイは一つの喩えだったんだろうけどさ、
一つの物には様々な人の思いがその中にたくさん詰まっているんだってことを、
ヒデは伝えてきたんだ。だからな、」
「食うよ」
萩原は割り箸に挟んだシューマイを口に入れた。
20年ぶりに食べたシューマイは、記憶の中にあったその味より、
はるかに美味しい気がした。
萩原はそのまま弁当の中身を頬張った。
頬張りながら胸にこみ上げてきた切ないようなやるせないような
どうしようもない気持ちを、手に取った缶のお茶で腹の底へと流し戻した。
筒井は何も言わずに、シートの中に身を埋めている。
ふと明るい笑い声が車内に聞こえてきて、
萩原は動かしていた箸を止めて目線を前方に向けた。
食事を終えたらしい学生グループが、レストランの中から
遊舗道へと出てくる姿が遠方に見えていた。
彼らのたてる大きな笑い声が、静まり返ったボルボの車内にまで
賑やかに聞こえてくる。
萩原はその光景を、じっと遠めに眺めた。
楽しそうに笑い合っている彼らの姿の中に、
懐かしさという言葉で括った昔の姿を見出してしまうほど、
自分たちは彼らのもつ輝きから遠く離れてしまったわけではない。
けれども・・・、
としかし萩原はその光景を眺めながら思わずにはいられなかった。
けれども、何かが確実に失われつつある焦燥感は、
岩清水のように押さえようもなく心の壁からにじみ出てくる。
何かが、
大切な、
とても大切なものが、
自分たちの中から失われてしまう。
それはもうすぐ、
確実に、
光を消してしまう・・・。
萩原は弁当箱へと視線を落とした。
ニンジンの煮物がふと目に入る。
可南子姉ちゃんの得意料理だった、
ヒデの好きな食べ物だ。
遊びに行くと、いつも夕飯にでてきていた
可南子姉ちゃんのにんじんの煮物。
おいしいって笑いながらよく食べてたよな、ヒデ・・・。
なのに・・・
「俺、ヒデのことよく知ってるって思ってたよ・・・」
萩原はぽそりと言った。零れ出てきた言葉は数珠繋ぎとなって、
胸の中に散らばっていた思いを一つの輪に繋いでいく。
「あの公園のことだって・・・、なんつったっけ、
前にあそこに住んでたっていう面白いおっさん・・・」
「チワワみたいな顔したおっさんか?」
隣で筒井が答える。
「そう、そのチワワのおっさんのことにしたってさ、
全然知らなかったよ、俺・・・」
「俺だって知らなかったよ、ついこの間まで」
前方を見つめながら筒井は低く言った。
「知らないことが沢山あるよな・・・」
ポツリと言い落とした萩原の声が、
夜の波間に浮かぶ難波船のように、
静まり返った車内にゆらりと漂い残っていった。
筒井は黙ったまままっすぐに前方を見つめ続けている。
萩原は止めていた箸を再び動かして、
掴みあげたにんじんを口に入れた。
後部座席の空間を背中に感じ取りながら、
二人の気持ちは重い沈黙の中に沈んでいく。
誰もいない後部座席には、半分飲み残したスポーツドリンクが、
ぽつんと取り残されたように置いてあった。
嘔吐感がようやく胃の中で治まると、
吉岡は静かに水道の水で口の中をすすいで、
両の手で洗面台の縁を掴んで身体を支えながら、
俯いていた顔をゆっくりと上げて目の前の鏡を見た。
天井からひっそりと人工光を落としている蛍光灯の明かりの下に、
憔悴しきったような顔が、じっと自分を見つめ返している。
吉岡はそっと目を閉じて、襲ってきた目眩をやり過ごそうとした。
足元がふらついて、瞼の奥が熱かった。
大丈夫・・・
大丈夫・・・
自分にそう言い聞かせながら、吉岡は閉じていた目を開いた。
顔の皮膚が、陶器のように蒼白く透き通っている。
大丈夫・・・
吉岡はもう一度心の中で呟くと、掴んでいた洗面台の縁から
ぐっと身を押し出すようにしてそこを離れ、
公衆洗面所の出口へと歩いていった。
立ち並ぶ簡易レストランの前に敷かれた舗道は、
道中の空腹に呼ばれた家族連れや学生グループたちで
案外に賑っていた。
行きかう人の波の邪魔にならぬよう舗道の端を選んで、
吉岡はレストランの建物が途切れた先に見えている、
自動販売機のコーナーへと足を運んでいった。
筒井と萩原に温かい缶コーヒーを買っていこうと、
数台並んでいる中の一番手前の自動販売機の前に立って、
ジーンズの後ろポケットに入った財布に手を伸ばしかけたとき、
ふいに着ていたハーフコートの裾が後ろに引っ張られた。
驚いて後ろを振り向くと、すぐ背後に
7、8歳くらいの小さな男の子が一人、
縋るような目でじっと吉岡の顔を見上げていた。
つづく