遠くで祭り囃子の音が鳴っていた。
僕は小さな手足をめいいっぱいに上下させながら、
乾いたアスファルトの上を懸命に走っていた。
早く早く!
走りながら叫んで振り返った先には、
父さんと母さんが少し遅れながら
秋の日差しの中をゆっくりと歩いていた。
二人の少し手前には制服姿の姉さんもいる。
父さんも母さんも姉さんも笑っていた。
みんな若くて楽しそうでそして、
とても幸せそうだった。
早くしないとお祭りが終わっちゃうよ!
僕は前方に向き直った。もっともっと早く走る。
神社の鳥居が徐々に近づいてきた。
聞こえてくるお囃子の音もどんどん大きくなってくる。
銀杏の木々が覆い茂る社殿の上には、
水彩画の水入れの中に青色の絵の具を
ぽとんと一滴だけ落としたような、
薄青い透明な空がどこまでも高く広がっていた。
僕は息を大きく吸いこんだ。
髪に頬に降り注ぐ秋の日はやわらかな金色に輝いていて、
引き締まった秋の空気は吸い込む胸に心地よかった。
僕はそのまま走るスピードを更に上げて、
境内への石段を一気に駆け上がっていった。
最上段の石畳の上にジャンプして着地したとき、
そこで突然暗闇が辺りを包んだ。
頭上に光り輝いていた秋の日差しのゆらめきや、
風に乗って聞こえてきていた祭り囃子の喧騒は、
テレビの電源を引き抜いたように、
いきなりぷつりと目の前から消えてしまった。
驚いて後方を振り返ると、先ほどまで僕の後ろで
楽しそうに笑っていた父さんや母さんや姉さんの姿は
暗闇の中に埋もれてどこにも見えなかった。
家族の名を呼ぼうと口元へ持っていった僕の両手は、
気付くともう子供の時分のそれではなく、
見ると腕も足も頬骨もいつのまにか
成長し終えた大人の骨格のものへと変わっていた。
唖然としている僕を、無言の闇が押し包んだ。
降り積もる雪のような疲労感が急に襲ってきて、
僕はその場に蹲りそうになった。
ダメだよ、起きるんだ。
自分を叱咤しながら無理矢理引き起こした身体を引き摺って、
僕は登ってきた石段を降りようとした。
けれどもすぐ足の先にあったはずの石段には、
歩いても歩いてもどうしても辿り着かない。
目の前にはただ暗く不透明な靄が立ち込めているばかりで、
自分は今どこにいるのか、これからどこへ向かえばいいのか、
やがて僕は途方に暮れたまま暗闇の中に立ちつくしてしまった。
・・・だろう・・・
ぼんやりと佇む僕の耳に誰かの声が掠めていった。
・・・あのさ・・・
別の声がその後に続く。僕はじっと耳を澄ました。
・・・・ってた?・・・
・・・てたよ・・・
ラジオの周波数を探し当てるように、僕の意識の焦点は
その声の響きへと重なり合っていく。
僕はゆっくりと身体を回して前方へと向きなおった。
永遠に果てしなく続くかのような暗闇の先に、
トンネルの出口を指し示すような一筋の白い光が、
まっすぐこちらに向かって差し込んでいるのが目に入った。
声はそこから聞こえていた。
(そうだ・・・)
僕は心に呟きながら前へと歩き出した。
前方に灯る光は、不確かでおぼつかない暗闇の足元を
揺らぎなくしっかりと照らしてくれている。
(僕には・・・)
光の出口が近づくにつれて、微かに聞こえてきていた声の響きも
次第に大きく確かなものになっていく。
・・・がだよ・・?
・・・がだよ・・
耳に届いてくる会話に、ふっと自然に笑みがこぼれた。
(そうなんだ僕にはいつも・・・)
そう思いかけた瞬間、目の前の光が閃光のように眩しく輝いて、
僕はその光の中へと身体ごと包みこまれていった。
白い靄に覆われた視界の中に、ゆっくりと周りの景色が戻ってきた。
横たわっていた身体をシートの上に起こすと、
目の前には見慣れた風景が広がっていた。
筒井が運転席でハンドルを握り、
その横の助手席にはハギが座っている。
それはいつもとまるで変わらない、
変わらずにいてくれる、
心に馴染んだ風景だった。
「ハギ、オレはな、腹がへってんだよ。人の話をちゃんと聞けよ」
「お前に言われたくないよ」
西日の落ちきったフロントガラスの向こうには、
それぞれの家路へと向かう渋滞のライトが、
赤く黄色く連なりながら路上に瞬たいていた。
そっか、もう日が暮れたんだね。
「この先にコンビニがあるよ」
筒井とハギが同時に後ろに振り返った。
そうなんだ僕には、
いつも彼らがいてくれる。
つづく