goo blog サービス終了のお知らせ 

月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

語る人

2007年12月11日 | 思うコト


この間12月に入ったと思ったら、
あっという間に、もう月半ばで、もうすぐ年末。
どうして12月という月は全世界総出で忙しいのだろう?
12月限定バージョンの早回り時計台というのがロンドン辺りに
存在しているに違いないずら。
どこもかしこも、はいはいはいはいはいはいはい
忙しいんだから忙しくってよ、忙しすぎて何に忙しいのか
忙しすぎて忘れちゃったわ、あーこれでもかってな程忙しいのよ、
んもうっキィィーーーーーーーーーーーー!
ってなモードでキリキリモンモンすったもんだのすっとこどっこいであります。
しかしこの時期、忙しくしていないと、まるで世界から取り残されたような
気分になってしまうのは、おかしい。
自身の存在意義は周りの圧力によって左右されるべきものではない、
とソクラテスも蕎麦をすすりながら言っていたと思う。
私なんて、思わず、「年の瀬反対っ!世界に平和を火の用心!」
と叫びたくなってしまうのですだわ~。
んがしかぁし、それでもやはり忙しく動き回ってしまうのが現実の日々であり、
あ~んもうどうすりゃいいのだぁタコのふんどし~!! 
それにしてもタコのふんどしとはよく言ったもんだわ、笑わせるわね、
んふふ、あは、あっははーっ、勝負あったり! 
などとふざけている心の余裕は全くなく(←ないのかよ?)
半径3㎜周辺に黒い粉を吹きまくっている師走の私でごわす。
年の瀬ですのぉ~。

こんな時には心のホッカイロ、吉岡君。

ということでやっと夕べ、久しぶ~りに吉岡君の作品を観たであります。
会いたかったよ~ん、吉岡く~ん!はぁ~、心の安らぎだわ、吉岡くんったら、
アロマセラピーみたいやでぇ~、と、ふやけたはんぺんみたいになりながら
思ったことがあったのでありますが、
吉岡君という役者さんは、「語る人」ではないだろうか、と。
ストーリー全体を、演じる人物によって語ってくる役者さんだと。
いやこりは決して、饒舌な演技をしてまっせ、へへへ、ということではなく、
その存在自体から寡黙に話の核を語ることの出来る人、
なのだと思うわけであり、そこがこの人の凄味だと思うわけで。

以前にも書いたと思うのですが、吉岡君は、
出来事にくっついて人物描写をするのではなく、
人物描写によって、起こってくる出来事をストーリーに
映えさせることの出来る人なのだと思うでありますだ。
そりは時には地味な演技と呼ばれるものかもしりないであります。
しかし世の中に派手なアクションをするという人は、紅白歌合戦で
電飾を纏って歌っている人たちくらいなわけであって、
そんな人たちはごく稀であり、現実的ではないわけでして。

吉岡君の生み出す人物たちは、現実感があるわけで、
しかしそれは「現実味」ではなく、あくまでもシンプルに
「現実」という、視聴者に極々近い場所にいると思うわけで。
だからこそ、吉岡君が織りなす目線や呼吸などが、
自分の目線や呼吸となりえてストーリーに一緒に潜り込むことができ、
そこに流れている感情に触れることで更なる気持ちの感動を生むのでは
ないのだろうか、なんて思ったりしたわけでありますだ。
例えば、吉岡君が涙を流している姿にもらい泣きをするのではなく、
吉岡君の演じる人物が悲しいから涙を零している、その悲しみに触れて
こちらも悲しくなり泣いてしまうのだと思うわけであり。
それは吉岡君が私たちに語りかけてくる感情と融和する
自分自身の感情でもあるからなのだと。

観客の気持ちを引き出し、ストーリーに乗せ、そうすることで話自体に
深みを増すことの出来る彼は、間違いなく優れた語り部くんであり、
名優くんであると思うであります。

彼の後姿が「絵になる」とよく言われるのは、
もしかしたらそんな語りから生まれてくるものなのではないだろうか、
なんて思ったりもしたでありますだ。

気持ちという語りを、その姿全体から、寡黙に、真摯に語りかけてくる吉岡君。
優れた語り部。
カタリーベ・ヒデタカ。
洋菓子みたいな響きだわ、とにかく美味しいということには違いないずら。
ヒデちゃんったら、いつでも極上、うふっ♡

演ずるということは、相手の役者さんとのやりとりを通したり、
監督の指示で組み立てられていくのが基本の一つなのかもしれないけれど、
しかしそれはあくまでも外枠からの組み立てなのだと思うわけで、
詰めていくのはやはり役者さんの心ひとつに懸かっているのだと思うであります。
そりはとても孤独な作業なのでありまっしょい。
その孤独にどこまで対峙し、どこまで耐え、どこまで掘り出していけるのかが、
すなわち語りの深さに繋がっていくものだと思うでありますばい。

吉岡君は、外枠へと安易に逃げこんでしまう人ではないと思われ。
感情の溝をとことん掘り込んで掘り進めていくことの出来る無頼の人
なのかもしりない。
研ぎ澄まされた美的感覚、人としての美意識を持って生きている人
なのかもかもしりない。
でなければ「語る」という至難なことなど出来はしないずら。
いかすでよ~、吉岡く~ん。
師走の喧騒も黙らせるかっちょえさだわ。
惚れるでねぇか、たまらんぜよ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つづく

2007年11月27日 | 思うコト



吉岡君は、大地に凛と佇む一本の木のようだ。

と思いを馳せる今日この頃、
いかがお過ごしでございましょうか?

ここ最近に吉岡君が応えたインタビュー雑誌を読み返していて、
なんかそげなことを思ったであります。

吉岡君という人を想うとき、
そこにはいつも自分に内在する様々な感情を反映する
鏡のようなものを感じるわけでありまして。
それは誰もが生きていく上で否応なしに抱え込んでしまう
様々な思いや感情の反射鏡であり。

嬉しかったり、悲しかったり、
喜んでいたり、悩んでいたり、
混沌とした中でも希望へと向かっていたり。
吉岡君から紡ぎだされる言葉には、そういった思いが
切々と息づいていると感じられるわけで。
それは吉岡君が、色々な思いを抱えながらも、
切なくなっちゃうほどそこに生きている人だからではないだろうか、
と思ったりするわけで。
そして私達も皆、そうした思いを抱えながら
日々を過ごしているわけであり。
だからこそ、生活の中でふと迷子になりそうになった時に、
吉岡君の姿を見たり、彼の言葉に触れたりすることで、
そこに同じ温度を感じて、ふっと気持ちが救われるように感じたり、
時には、迷い込んだ思いに答えを求めていくことが
出来るのではないのかな、と思ったりもするわけであります。

一人の人として語られてくる彼の言葉たちは、
決して別世界から引き出されてくる言葉じゃなく、
確かにそこで生活し、そこに息づいている言葉たちであり、
生きている言葉であるから、心に直に響いてくるわけで、
それは飾りでもなんでもない。

そうした思いを言葉にのせてくる吉岡くんは、
いつでもどんなときでも、
潔いほど一直線で、
潔いほどに「人」でありますだ。

心を着飾らないストイックさ。
えらくかっちょええ生き様だと思う。
まいるぜ、吉岡君。すっきやで。

吉岡君という人は、無意識に、
彼のことを想う人たちにも、
または、彼が生み出す人物たちを見る人たちにも、
彼を見、思うことによってそれぞれの自己へと内省させていく力を
持っている人なのではないだろうか、
と、そんなふうに思われて仕方ない秋の夜長でございますが、
人間ってええもんだなぁ~、と彼の生きていく姿を見ていると、
そうしみじみと思うし、やんわりと元気が出てくるわけで。

吉岡君は、
切なくなるほどまっすぐで、
とても優雅にしなやかに、
その向こうの高みへと、
ゆっくりとつづいていく人のようであり、
その姿は、
例え周りの景色がどんなに変わろうと、
大風に吹かれようと、
雷に鳴り響かれようと、
大雪や、大雨に降られようと、
その幹は決して変わらない、
しっかりと地に根を張り続け、
更なる高みへと伸びていく、
大地に凛と佇む一本の木のようでありまする。

美しい人だな、と思う。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クレアからの手紙

2007年11月13日 | 思うコト



なんてかっちょええのだ、アンジェリーナ・ジョリリン。
ということを書きたかったのではないのでした。

かっこええっす、吉岡君。
これであります。

吉岡君、どこのページにいるのっかな~?
と、クレアのページをペレペレペレ~と捲っていて、

おわっ?

こりは・・・・・・・・・・・・・・・・・・?

よしおかくんったらどうしましょうったらすてきすぎちゃってほんしゃらら~~♪

だめだわ。
一旦ページを閉じて、深呼吸。

ハァ~~~~~~~~~~~~れた空ぁ~~~そぉ~よぐ風ぇ~いぇ~い。
ふっ、歌が出たでよ、余裕だわ。って、なんだかまた意味不明状態になっちゃったけど、
どれどれ、吉岡く~ん、どっからでもかかっておいで、フフっと、
ページを開いて、

きゃぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~@$#%^&$#@*&%!

やめてくれぃ~~~~~~いっ!
その、「翳りゆく秋、僕は今。」みたいな眼差しぃ~っ。
しかも超どアップときたもんだで、こっちとらあっぷっぷ~で吉岡ロケット!

だめだわ、完敗だわ。
呼吸困難のマンボウみたいになってしまったでねぇでしか、
どうしてくれるのだっ、ありがとう。

このどアップヒデタカくんって、ほぼ原寸大?
原寸大っぽい大きさなのですが、
そうすると、これは原寸大の吉岡君のお顔ですよね?
ドサっ!
(↑床に背面から倒れ込んだ音らしい。)

美しいでありますのぉ~、吉岡どの。

これほどまでに、その姿と雰囲気と言の葉が
美しい音色を奏であっている人も珍しいずら。
全てが調和よく真摯に「そこ」に宿っている感じがするとです。

彼の持つこういった「感じ」って、
昔から少しも変わっていない気がするであります。
潔いほど己であり、
切なくなるほど直線的で、
人としての人生を尊重して生きている感じがするとです。

それは決して人生から逃げていない
姿であり、
雰囲気であり、
言葉であるわけで。
だからこそ美しい。

人の姿は、嘘をつかない、と思うわけで。
そこから他に伝わり湧き上がる直感というものは、
一つの真実であると思うわけでもあり。

吉岡くんは、美しい。
苦しみ、悲しさ、喜び、怒り、
人としてのあらゆる感情をあるがままの逞しさで、
吸い込み、吐き出し、糧にしてきた人だからこそ、
それら全てを包括しながら、更なる高みへと昇っていく強さを
持っている人なのだと思うであります。
それはとても優麗であり、廉潔としているわけであり。

吉岡君は、日々の生活から人生を学んで進化している人なのでしょう。
その進化を見ることによって、私自身も学んで進化していける。
彼は、そういった喜びも伝えてくれる人でありますだ。

そんな彼の姿を笑う奴らには、
笑わせておけばええやんか。
そんな所からは何も生まれてきやせんでぇ~。

自分を決めつけず、人を決めつけず、
あるがままの吉岡秀隆として生活の中に存在している彼は、
それこそ真の姿であり、人間であるわけで。
それはとても逞しく、なんてたってぶっちぎりでかっちょええ。

ゆっくりと、等身大のまま進化していく吉岡君。
「そこ」から「確かな」ものを、
精一杯の気持ちで、いつだってどんな時だって伝えてきてくれる吉岡君。
ずっとそれは変わらない。
彼がずっとず~っと変わらず伝えてきてくれる「気持ち」であります。

ずっとずっと大好きだよ~、吉岡君。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

色褪せない人

2007年10月31日 | 思うコト


あのねあのね吉岡君がねうっきゃっきゃでうっきっき~でうふふふらららら
てくまくまやこんあっぱれひでたかる~るるるる~でやんばらやんやんやん♪

と、面かぶりクロール100M世界記録に届く勢いで(そんな競技があるのか?)、
「最新吉岡君レポート」を日本の姉に電話で話していたところ、
「しかしよく飽きずにずっと純君のこと好きだよね~。」
と、姉から言われて、へゃ?っとそこで始めて息づきの呼吸をしたであります。
「純くんでなくて吉岡君だと口を邦衛にして何度も言ってるでましょ!」
と、とりあえずの忠告ホイッスルを鳴らしたあと、ちびっと沈思。

あ  き  る  って? 
あ  ひ  る  とは明らかに違うのだ。では、
あ  き  ら  といえばデビルマン。
一体彼は同じTシャツを何枚持ち歩いていたのだろう? 
いやそんなことはどうでもいいことだった。

「吉岡君に飽きるという思いはこの世に存在しないのだっ、ふぅわっはっはっは~!」
と黄金バッドのような高笑いと共に毎度お騒がせの電話を切った後、
再び沈思、ちびっと心にすきま風、ひゅるるるる~。

・・・・・・・・・・・・・・ふぅ。

なんか淋しくなっちゃったじゃないかぁ~。
んもうっ、飽きるっていう言葉がいけないのだでよっ。
吉岡君は人なのだから、人に対して飽きるだのあひるだのあきらだの
という言葉を使うのは、WHO条約に反していることなのだ、チッチッチッチ! 
と、もう一度国際電話して姉に告げようと思ったものの
何だかしょびーんとパワーダウンしてしまったので、
寅さんのDVDを観て元気回復、心にビタミン満男パワー。
好きやでぇええええ、みっちゃん。

ということで本題に入りまする。(って今までは何だったのだぁ?!)

吉岡君の出演作品を観る時、吉岡君の姿を観ようとして見始めても、
しかし実際見ているのは、純君であり、満男君であり、
コトー先生であり、ちゃ~さんであり、ノンポリくんであり、
ルート先生であり~の、その他大勢、省略ごめなすって。
という人物人生博覧会になるわけありまして、
こりは偉業であると思いますだ。

しかしこういった偉業のことを、ただ役に恵まれてるだけ、
とおっ猿、いや仰る方を時に目に耳にするであります。

・・・・・・・・んふ、
ふふふ、
フフフフフ(片仮名変換してみました)、
へへへへへ~
ニヤ。

って怪しい含み笑い妖怪になってしまうでなかですか。
なじぇって? 
なじぇというならっ、なじぇなのだろう、なじぇなのかっ? (しつこい・・・)
そりはズバリっ、
褒め言葉だからでぃっす、れぃでぃ~す え~んど じぇんとるめ~ん!

役に恵まれている。
という結論の出所は、そもそも一体どこからくるものなのだしょう?
ここで解りやすくチャートにしてみるとです。

① 役に恵まれている = ② くやしいけどごっつええかんじ → 
③ なんか言いたい → ④ くやしいから①に戻る→ ⑤ しかし結局②に戻る。

おぉ、これぞブーメランの法則。ヒデキ、カンゲキ。

しかも吉岡君は、生み出してきた多くの人物でもって、個別に
インディビジュアルブーメランを長年に渡って飛ばし続けているという、
Wブーメランの達人でありますだで、ヒデキまさにカンゲキ、
ブラボ~ヒデタカ。ヨ~ロレイッヒ~!

役者さんが、演じた役から伝えてくる真のインパクトというのは、
最初からお膳立てされているものから伝わってくるものではないと思うわけで。 

確かに既成品から生まれてくるインパクトというのも
あるかもしれないでありますだ。
見るからに「こいつ悪やな。」という眉墨たっぷりの悪役や、
「いい人まるだしやで。」というお買い得パックなキャラクターというのは
確かにあるであります。
でもそれはストーリー上そうでなければならない
登場人物その11、12くらいであるわけで、
それは悲しいかなそう枠組みされてしまっているキャラなわけであり。

しかしそれがメインキャラクターとなると、
ことは簡単にいかないわけであって、
「与えられた場所」から、どうその人物をどう育てていくのかは、
やはりその役者さんの実力にかかっていると思うし、
その実力なくしては、ブーメランは何度も戻ってこないと思うわけで。

吉岡君は、ふぅわいとぉ~いっぷぅわ~つっオロナミンC!
のような限定瞬発力だけを持っている人じゃ~なかとですばい。

彼には底力があると思うわけで。
長年に渡って培われてきた土壌があると思うわけで。
そこにはしっかりと深く張っている根があると思うわけで。
それは揺るがない「実力」であるわけで。

満男君、純君、コトー先生、そして茶川さん。
これだけ多くの「人物」を人々の心の中に「生み出し」「滲ませた」
役者さんは、やはり稀有であるわけで。
それは結果が残しているものであって、必要から出ているものでは、
決してないわけで。

「誰か」が「演じた人物」という表の印象を強く残す登場人物は、
多いかもしれないでぃす。
でもそれは、その「誰か」に付属している人物という枠を、
結局は抜けられないのかもしれないですだ。
そういうことを思う時、役者という仕事を持つということは、
一体どういうことなのだろう、って時に思うでありまするだ・・・。

吉岡君から生み出される人物たちは、そういった枠が全くなく、
外連味がなくて、個々に自由に呼吸をしている感じがするでありまする。

残していく、ということは、
最初から望んで生まれるものではなくて、
ただただ一心になる、ということから
生まれてくることなのかもしれないですねぃ。

一生懸命になるってかっちょええじゃんか~。
って、吉岡君の姿を見ていると、自然とそう思いますです。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

余韻の人

2007年10月26日 | 思うコト

キネ旬11月号の、吉岡君の綴じ込み写真を
暫しの間じぃーっと見ていて、
とりあえず0.8秒おきにクラ~~~~~っ
となっていたりしていたのですが、
くらり~となりがらも、なんか、吉岡君のその佇まいに、
とても感動してしまったであります。

被写体としての吉岡君の姿を目にする時は、
必ずといっていいほど毎度毎回お決まりのように、

どっしゃふへししゃしゃしゃられれれら~っはぁ~

という、「言語表現不能につきやむなく退場」
な状態になってしまう私であるのですが、
しかし場所が自宅では退場のしようがないので、
だいたいの場合は、雑誌のページをひたと閉じて暫くの間
じぃ~っと表紙を見つめた挙句に掲載文字タイトルの漢字の画数などを
数え始めたりする珍しき物体と化してしまうのが常であります。

んがしかしっ、今回の場合はそれプラスっ(←結局珍しき物体と化したらしい)、
 
よっほぉおおっ、ほおおぉ~~~~~~~~~~~~~しおかくん・・・・。

と、つくづくしみじみほれぼれはれはれららららら~~~~~っはぁ~

いや、後半の擬音は省略可でありますが、
なんというか、ほんまに、「ええ男になったな~」と、
その姿を見て思ったとです。

いやいやいや、以前だって、そりゃ~~~~~~それこそ、
じゅ~~~~~ぶんすぎるほどじゅ~~~~~~~ぶんに、
可愛かったしぃ(今もだけど)、かっちょえかったしぃ、(今もだけど)。
素敵だったしぃ(今もだけど)、きゅいぃ~~~~~んてなっちゃってぇ
よぉぉおしおかぁくぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~んっ、きゅん!
となってしまっておりましたおりましたですおりましての、
吉岡君すっきやでぃんぐ。(←現在進行形ということらしい)でありますが、
でもなんというのか、今回お出まりになった吉岡君は、

一味違う。

もっと、その素敵さの層が増したというか、その深みが増したというか、
熟成醗酵している感じというか、なんかそんな感じでありもうす。

垢にまみれていない潔白さは全く失われてないようなのに、
しかし人としての人間味は人一倍持っている。
そんな相反する魅力を同時に併せ持っている不思議な雰囲気がするわけで。

吉岡君という人は、とても余韻のあるお人ですばい。
画面や紙面から直接に受ける印象はもちろん大きいけれども、
でも、そこから離れてみてもなお残っている余韻のほうが、
もっとずっと深く長く心象として残っていくお人のような気がするでぃす。

静か~に漂ってくるその余韻は、幾重にも幾重にも重なっていて、
なんというか、これまた不思議なくらいに、
「ひとつじゃない」感じがするわけで。
すっと静まっているのに、ぐっと動いている感じというか。
なんかそんな感じがするですばい。

以前、一矢くんは中也の詩のような印象だと書いたことがありましたが、
でも吉岡君本人から感じる印象は、それとはやはり異なるものであり、
彼からは、例えば中也の詩から感じるような
哀切で切り取ってしまったような世界感はしなくて、
もっとこう、例えば、光太郎や宮沢賢治から感じられるような、
日常の流れに感じ入るような繊細さと、
それでもしっかりと自分の道を自分の足で歩いていく人生に対する力強さ、
というような二つの大きな核みたいなものを、
その心に持ち続けているお人なのではないだろうか、
という気がしたりなんかするわけで。

自分自身が歩いてきた道を、決して大げさに脚色せず、
それをあるがままに受け止めていく実直な逞しさみたいなものを、
吉岡君からは感じるでありますだ。

赤の他人の私などからは想像でしか計り知れないことだけれど、
吉岡君の歩んできた道は、
二宮金次郎さんだって蒔を投げたし逃げ出したくなるような事が沢山あった、
のかもしりないし、
「そんなんじゃ~ねぇんだぜぇ、オレはよっ!」と、
富士山頂から叫び出したくなるようなことも沢山あった、
のかもしりないし、
もしかしたら人生ゲームのキャッチコピーような
山アリ谷アリモハメッドアリの人生を歩んできている、
のかもしりないし、
でも、「そんなの生きてりゃ~誰にだってあることだよな。」
と、そういった出来事を咀嚼しながら生きていくことが出来る人、
なのかもしりない。

しりないけど、それはわからない。
吉岡君しかわからないことでありますでぃす。

でも一つだけいえることは、
咲ちゃんではないですが、

吉岡君、どんどんいい顔になってる。

ますますいい顔になっていく。


その顔が語るその人生なのかもしりない。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人と寅さん

2007年10月18日 | 思うコト



ロスアンジェルスから成田までの飛行時間は約11時間。
ナガイの海苔ですナガイさんもお手上げの長さだと思う。

私は飛行機にもすこぶる弱いであります。
できることなら、飛行機とは交際をお断りしたい。
できることなら、ひみつのアッコちゃんのパパが乗るような
外洋客船などに乗ってゆっくりと祖国日本に帰りたい。
いや贅沢はいわない。遠洋漁業船だっていい。
ついでにマグロ漁を手伝ってもいい。とにかく飛行機はいや~ん。

なぜなら、飛行機ほど納得のいかない乗り物はないと思うわけで。

もうなんてったって、あの座席空間の狭さには、オオマイガッドで神よ仏よ
なんまいだ~あ~めんや~れんそ~らんそ~らんそ~らんはいはいっ!
と思わず逃げだして踊り出したくなるほどのヒューマンネィチャー最小限
スペースだと思われるわけで。
何故に高度10000M上であんな固定椅子四の字固めのような理不尽アワーを
過ごさなければならないのだろう?
あんな苦渋に満ちた時間はインド人だってターバンを投げ捨て辟易すると思う。
しかしだからこれが何故にどうして吉岡くんのことと関係があるというのだろう?
いや、あるようでないようでないようであるのかもしれないけどどうなのだろう、
ないのかもしれない。(断言できないらしい・・・。)


飛行機内での私の崩壊寸前土偶状態を少しでも緩和してくれるのが、
機内上映映画であります。
当たり外れが多い福引袋のような機内上映のリストの中に、
「男はつらいよ」が入っているかいないかで、その状態は、
陽気な旅人か荒野に佇むモアイ像かにはっきりと明暗が分かれるわけで。

運良く「男はつらいよ」(特に27作以降)が上映リストに入っている時は、
それこそエンドレスラブでひたすら満男くんをうふふ~とリピート上映している
突き抜けちゃった陽気な旅人の私なのでありますが、そんな私に感化されたのか、
不思議に思ったのか、たぶん後者だと思われるのですが、あるフライト時に、
私の旦那さんも一緒に「男はつらいよ」を鑑賞した時があったでごわす。

旦那さんに限らず、機内で寅さんを観始める西洋人の方たちは
意外と多いでありますばい。意外と多いのでありますが、
しかしよくよくそういう方たちを観察してみると、大方の方たちが、
すごぉく興味津々でぇす→興味ありまぁすね~→興味どこいったでぇすかぁ~
→チャンネルチェンジ→007、ジェームス・ボンド。
いや、007とは限らないのですが、でも皆さん大体こんな感じの
リアクションをしているような気がするであります。
なんてこったいウェスタン。

かくいう私の旦那さんも、寅さん映画を鑑賞をしたときは、
それこそ、寅さんが矢切の渡しに乗って登場する冒頭場面から、

旦:ここはどこなの?トーキョー、キョート?
私:トーキョーじゃよ。
旦:トーキョーに筏があるのっ?
私:筏じゃないのだ、小船じゃよ。
旦:どこが違うの?
私:(・・・)トムソーヤが乗っているのが筏じゃ。
旦:これはどこで乗れるの?
私:(うるさい奴・・・)トーキョーじゃといったろう、アメリカンよ。
旦:あっ、これはなに? ジャパネーズカフェ?
私:(まったくもってうるさい奴・・・)そうそう、カへだよカヘ。
旦:なに作ってるの?
私:(お主、しつこいぞ。)団子じゃよ。
旦:団子ってなに?
私:(えぇ~いっ、黙っとらんかいなっ)団子は団子で餅の親戚じゃっ!

と、とにかくWHY? WHY? ワイワイうるさくて、
作品に集中できないじゃないのよぉ、ちょっと黙って観てて頂戴っ。
解説はあとでしてあげてよ。
と、ピシャっと窓口相談の戸を閉めて、私は作品に集中。
いや~懐かしいわぁ~うんうんそうそうこの場面あったよな~
あけみちゃんが出てるわぁ~いい味出してるわぁ~、やっぱり
寅さん映画は最高だ~フフフアハハハフフフおっ満男く~~~~んっ
待ってたよ~ふふふ~♪可愛いぞぉ、満男くんったら、あのね、
この人が私の好きなみつ・・・

って寝てんじゃねぇ~ぞぉ~~~~~っ!

横を見ると、旦那さんは大口開けての爆睡状態・・・。
きさま~、満男くん登場の場面でアホ面して寝ているとはっ、
喧嘩売っとるのかっ?!
思わずムッとして、うりゃ~っと人差し指と中指を旦那さんの
鼻の穴に入れて無理やり起こしたら、「なにするのっ?!」と旦那さん。
「加トちゃんぺだよ、ぺ。」とクールに答えた私。決めたぜ。

私:寝てたね、キミ?
旦:寝てないよ~。ちょっと目を瞑ってただけ~。
私:大口あけて目を瞑るの、キミは? カバみたいだったよ。
旦:カバは大口あけて寝ないよ~、口は閉じて寝るよ、カバは。
私:(なんじゃと?)そういうのを理屈が屁をこくっていうのだ。
  キミは寝てたのだ、確かに。
旦:寝てない寝てない。
私:(ムッ)じゃ~ここまでの映画の感想いってみて。
旦:あのね~、筏にのった男の人がジャパネーズカフェにやってきて、
  病院に行って大騒ぎして反省して団子カフェを手伝ったんだよね。
私:うんうんそうそうその通りってそれは感想じゃなくてあらすじだっ!
  それに筏じゃないと言ったろうがぁ~。
旦:だって感想といわれても・・・・。
私:言われても、なに?
旦:何も起こらないんだよね。
私:起こってるでしょ、ちゃんと。
旦:何が?
私:色々、モロモロ、エトセトラ。
旦:よくわからないんだよね~。
私:(フッ、こりだからウェスタンはよ・・・)これはね、詫び寂びという
  日本人の心を描く名作喜劇なのだよ~。
旦:そうなの?
私:そうなのですわよ、うえすたん。
旦:団子カフェじゃないの?
私:団子カヘだよ。だから何なの?
旦:だってワサビなんでしょ?
私:そうね~ワサビは練りでもいいけどやっぱり生を擂ったほうがって
  ち~が~うっ!

こいつ倒したるっ!

なんで高度10000M上昇してまで日米対抗オモロイ夫婦にならなければ
ならないのだっ。こりだから飛行機はいやなのよぉ~もぉ~~~~~~~~。

と、嘆きの、いや嘆きのジャパニーズとなりかけて、
ふと思ったことなのでありますが、日本人の心ってなんなのだろう?
侘び寂びっていうけど、それってワサビじゃないことは確かだけれど、
でも一体なんなのでましょ?


例えば、秋の夕暮れに、ゴーンと鳴り響くお寺の鐘の音を聞いて
秋の深みを感じたり、
冴え渡った冬空にキーンと浮かぶ月を見上げて、
冬の色を感じとったり。
そういった余韻のさざ波みたいなものを五感で感じ取れるのが
侘び寂びの美しさなのかな・・・?

う~ん、よくわからない。
でも、言葉で説明できないのが詫び寂びの極意なのかもしれない。


移ろい変わりゆく季節の美しさや自然美と自分達の生活とが、
互いに深く密接してきた日本人だからこそ感じ取れる
微細な美意識というものは、私たちを形成する心の一部分となって、
私達の体の中に確かに深く流れているものだとは思うわけで。

そういった「とてもささやかなこと」に敬意を持ち、
それを深く感じとれる日本文化は、やはりとても素晴らしいものだと
思うでありますばい。

「男はつらいよ」は、
四角い顔したおじさんが、綺麗な女性に叶わぬ恋をして、
親戚ご近所巻き込んでのお話だよジ・エンド。

あらすじにしてしまえば、60字以内に収まってしまう話かもしれないですばい。
でもそこには、文字には表しきれない程のささやかな人情の機微が
散りばめられているわけで。
そしてその人情に触れることが「男はつらいよ」の真打ちであり、
この作品が長い間愛され続けてきた名作喜劇たる所以の一つだと思うわけで。

人が生きていくということは、人と接していくということだから、
時にはこんがらがってしまったり、行き詰まっちゃったり、
袋小路に迷い込んじゃったりするけど、でもそういうことはもしかしたら、
自分が考えているほど大げさなことではないのかもしれないねぇ。
笑ったり、泣いたりしていれば、いつかはすっと何処かにいってしまう
わだかまりなのかもしれないよ。 なんといったって、
人と人とのふれあいが人生の醍醐味ってやつじゃ~ねぇかい、おいちゃん?

というような「悲喜こもごもの人のやさしさ」が、
「男はつらいよ」の世界の根底には、静かに流れていると思うとです。

四角い顔したおじさんが、綺麗な女性に叶わぬ恋をして、
親戚ご近所巻き込んでのお話に、心から笑ったり、泣いたり、怒ったりしながら
その人情の機微に共鳴することができる日本人でほんとによかったな~、と
つくづく思うでありますだ。


「三丁目の夕日」の舞台挨拶などで、
吉岡君が「日本人」を強調していたのを思い出して、
なんかそげなことを思ったりなんかしたとです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そこにある、確かな気持ち

2007年10月16日 | 思うコト




「続・三丁目の夕日」の完成披露試写会が昨日行われたようで、
今日はその模様での最新吉岡君がワイドショーで見られるらしいのですが
しかし私は見れないらしいので悲しいらしい。泣けてくる・・・。

でも、作品も吉岡くんも、とてもとても評判がいいみたいですね。

ふふふ~♪

やっと役者・吉岡君が見れるっ!

いや私は見れないのだけれど、でも日本中の方たちが
名役者・吉岡君を見るのだっ、おぉっ、これはまったく、
ふふふふふ~♪

しかし長い日々じゃった・・・。

追いわき山で三味線を弾き鳴らしながら「帰ってこ~いよ~」と
何度唄おうと思ったことか・・・・・いやそれは事実ではないですが、
でもこの時をず~っと待ち焦がれていたのだよ~、吉岡く~ん。
満男くんっ子のあたしとしちゃ~、やっぱりチミのお姿は
銀幕で観るのがいちばん好きじゃよ~。
観たいぞぉっ、銀幕の君っ!

そうなのだ。(え?)
吉岡君は、銀幕に映える。
とっても映える。
なんといっても映える。
役者・吉岡の醍醐味ここにあり、という感触が
銀幕からズバンと180Km/hで伝わってくるようでありますけん、
魔球じゃの、星君、いや、伴君、いや、花形君、しつこいわねっ、吉岡君じゃっ。
(↑久々の一人ツッコミであります。)

役者・吉岡君の醍醐味。

そりは、やはり、

感情を直にズバッと心に受け取れられるということ。

ではなかでしょうか。

ブラウン管からも、それはもちろんグングン伝わってくるけど、
けれど銀幕からはその感情周波数が、スーパーワイドな振幅で、

ど~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん

と劇場全体を圧し包むような迫力で伝わってくるので、
たまりませんじゃよ、自発3Dみたいですだば、吉岡くんったら底なしブラボ~。


帰国時と公開時が運良く重なって劇場で吉岡くんの出演作を
観れたのは、三丁目の夕日と、四日間の奇蹟。
人生で(最近)このふたつ。

三丁目の感想は以前に書いてしまったので
ここでは割愛いたしまするが、
四日間の奇蹟については、運良く帰国時に劇場で鑑賞した時、

「千織ちゃんに演技をさせてピアノを弾かせているあなたは
詐欺師じゃないんですかっ、え、どうなのまったくかっこいいじゃないの
あなたってばクラ~っなのよっ、早く月光弾いてちょうだいっ!」

いや、後半の台詞は全てフィクションでありますが、
前半のきっつ~い言葉で看護婦さんに詰問されてしまう場面の
吉岡くんの演技ときたら・・・・・・・・・・
全身鳥肌もんでござんした。

スクリーンを通して、如月氏の心の奥に潜む嫉妬、悲哀、憂き身、
それら全てが混沌とした複雑な感情が、
彼のその無言に佇む姿からスクリーンを飛び越して、
びびびわ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~んっ
と体全体を巻き込むように伝わってきて、
それは怖いくらいだったとです。

吉岡くんは、台詞と表情がきちんとワンパックになっているですだ。
台詞だけ、とか、表情だけ、のどちらか一方だけが
画面上に先走ってないでありまする。
ちゃんと言葉と気持ちが一体化しているというか、
気持ちの奥深くからぐぃ~っとくみ上げられてきている感情が
その表情、言葉になって現れている、という感じでありますばい。

そして台詞がないときでも、そこに「無言の言葉」があるわけで。
表情、というか、体全体から彼の気持ちが無言の言葉の粒子となって
拡散され語られている、という感じですばい。
んもうっ、さすがじゃ吉岡くんったら、男は黙って心で語るぜ、惚れるでよ。

一つの感情では語らない。

静にして動。

阿修羅像みたいじゃ、吉岡くん。
君の存在こそ奇蹟なのだ。たまらんぜなもし。


いやいやしかしですね、もちろんブラウン管の吉岡君だって、
そりゃ~もう~~~~~
「あぁもうっ吉岡ばんざ~いっ!」
とお手上げになってしまうほどの素晴らしさでありますだ。

なんてたって「お茶の間の勝手にご近所さん」浸透率は横綱級。
そんな神業級の存在感をもっているのは、私は吉岡くんと
サザエさんしか知らない。

演じる役を通して、まったく別個の「ご近所さん」な人たちを
作り上げて浸透させてしまう吉岡くんはやはり只者でねぇですだ。
何者なのだ、吉岡くんよ。

なので、
銀幕の吉岡くんと、ブラウン管の吉岡君、どっちが好き?
というのは、結局は、これはもう、なんというか、

リンリンとランランはどっちが可愛い?

という質問に答えるのと同じくらいの難易度でありますね。
詰まるところ、やはりやっぱり吉岡くんは名優だぁっ、
惚れちゃったんだよぉ~ん、ということでありまするだぁ。
ふふ。


銀幕からにしろ、ブラウン管からにしろ、吉岡くんの演技からは、
役者欲というメッキコーティングみたいなものが
まったく見受けられないですばい。

しかし欲を消し去るってとっても難儀なことだと思うわけで。

しかしそうする影の努力の匂いまで消し去る消しゴム忍法ごときなものまで
使いこなしてしまう吉岡くんはやはり只者でねぇ。ほんとに何者なのだぁ~
吉岡く~ん? サスケですか?

彼の生み出す人物たちは、
役者の力量を見せるために生み出された看板人形ではなく、
その役の人物の気持ちに自分自身全てを委ねている、
という感じというか、
吉岡秀隆という浄化フィルターで濾過して生み出してくる
混じりっけなしのありのままの「そこにいる人物たち」、
という感じがするですだ。

色んな重みを抱えて生活しているのが人間であり、
そしてその重みを躊躇なく曝け出してくる吉岡くんだからこそ、
「そこに人が生きている」となるわけだと思うわけで。

吉岡君の生み出す人物達は、ブラウン管や銀幕の中だけに生きている
お人形さんでは決してなく、人々の心の中に、人々と同じレベルで
確かに「生きている」人物としての人生という重みを、
永遠に近い高さで創り出しているのだと思うでありますだ。


それが吉岡くんという役者さんの「名優」たる所以であると思うわけであり、
それが吉岡くんという役者さんに「すっきゃでぇっ~♡」となる所以の一つと
なるわけで。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

形のないかたち

2007年09月25日 | 思うコト







吉岡くんという役者さんは、
深く湧き出でる泉のよう。



と、いきなり書いてお久しぶりでございます。


昨晩真夜中、眠れぬ夜に見た一昔前の吉岡くんの映像を見ていて、
なんかそげなことをボンヤ~と思っておった私でありまするが、
みなさま、その後いかがお過ごしでございましょうか?

あっちぃ~ぜなぁ~っ。
と叫んでいるうちに、気付けばもうすぐ神無月・・・・。
残暑厳しい秋の夜長でありますが、
秋の夜長といえば、吉岡くんでございます・・・・・・・・・んふふ。


私が吉岡くんの映像を見る時は、そりゃ~もう決まって、
うふふふふふ~♡ 
と顔の筋肉全てが焼酎を飲みすぎたハゼドンのような
弛緩状態になるのは必須なのでありますが、
しかしそこはさすがの吉岡殿、ブラウン管を見ている私の顔を
ただの弛緩しまくった酔っ払いハゼドン状態には
止まらせないわけであり。

うふふ♡ついでにうきゃ♡、っとハゼドンにさせながらも、
同時に、うむむぅもう一丁うむ、ってな、カレーを食べる
千葉真一のような顔にさせてしまうほどの唸らせ演技で
ぐいぐい魅せてくるので、あたしゃ~それこそ
ウフうむ大魔神のごとし、さすがの百面相術・吉岡流。
シビレルゼ~。


しかし世の中、もちろんウフうむ大魔神ばかりではないらしい。


役者吉岡くんを批評する人たちの中には、
彼の滑舌のスピードや、鮮明度、及びに音量調節に対してまで
なんたらかんたらそれやっとこどっこいほいっさっさっさ~♪
と批判しまくっている人を時には目にするわけであり。




フッ。




いやいや拙者、それ自体のことに対しては、
大人げなく反論したりはせぬぞぃ。
そりゃ~人の見る目聴く耳感じる心は千差万別でありもうすので、
こういった批判に対しても、平静安泰心はニシキ、
ふふ~ん、なるほど、ほうほう、そうなのでござるか、ほっほぉ~、
さすが越後屋ぬかりはないのぉ~、いやいやお代官様には負けますよぉ、
ところで助さんと格さんは一体どっちが助さんでどっちが格さんなのじゃ?
ってそんなことはどうでもええのじゃ、とにかく8時45分までわしらは安泰じゃの、
ウワッハッハッハッハッー! 



ってちょいと待たれぃそこの小僧、洟が垂れとるぞ!



聞き捨てならんのだっ、お主たち! 
こんなことに「大人げ」を出しても吉岡ファンの名がすたるだけ。
見ざ~る聞かざ~る言わざ~るのレッツゴー三猿で、
じっと我慢のしとしとぴっちゃん大五郎となったまま、
お主たちを斬り捨て御免のまま立ち去らせはしないぞな、おんどりゃ~っ!


お主たち、吉岡くんの台詞の言い回しなどなどエトセトラ、
なんたらかんたらびびでばびでぶーと斬りつけているようじゃが、
そんな秋祭りの屋台で売っている「ぼくの忍者カタナ」みたいな
ちゃんちゃらおかしい名前が黄色地に赤字で書いてあるよな
おもちゃのカタナじゃ~、
斬れるもんも斬れんぜよ、そち。


チミたちぃ、よく周りを見回してごらんよぉ~。
一体全体どこに「東京特許許可局」と3・2秒以内に
三回ハッキリ明瞭に言える人がいるというのだ、え?

滑舌の良し悪しだ~の、そんなことを批判しだしたら、そりじゃ~世の中、
二億四千万日本全国NHKアナウンサー大国になってしまうでないかっ。
ヒロミ・ゴーだって「億千万」を「お~くせんめ~ん!」と、
わけらからん剣道の気合のような日本語シャウトをしながら
フリフリダンスで唄って踊っていたのだ。
ヒロミ・ゴーは許されて、吉岡くんは許されねぇとでも言うのかい、あんさんよぉ。
って話の筋がずれてきちゃったでねぇですか。

私の周りには、はっきりすっきりおはよう日本で話す友や、
親、親族、ご近所さんなど、どこを見回してもおらんぞぃ。
みんなそれぞれ癖のある話し方っつぅ~もんがあるでねぃですか。
富良野には唾をとばしながら話している人もおるのだっ。


大体ですね~、チミたちゃ~、彼の仕草や姿勢に対してまで、
まるで鬼の首をとったかようにビービーブバブバ言っておられるようだが、
そりでは君たちの周りの人は皆が皆、普段どんな時も、
日販のテレビショッピングで買ったような背筋強制ベルトを随時装着して、
土俵に上がった高見盛のように背筋まっすぐピッキリ君だとでもいうのですかい?
まったくぅ、そんなこんなのあーだーこーだのちんちくりんになっているから
総理大臣が早期辞任をしてしまうのだっ、安倍君っ、おだいじに。


人間の思考から派生する、仕草、表情などには、
「人間正統行動による正統感情表現理論マニュアル」
などというものは存在しないわけで。

そもそも人を「勝ち組」とか「負け組み」とか「チューリップ組」とか
「たぬきさんチーム」とかに型分けしてみたり、
名刺にのっかっている文字だけでその人となりのランク付けをしちゃったり、
ちびっと落ち込んだだけで「プチ鬱じゃの」とか判断しちゃったりですね、
人の生き様、行動を、一つの言葉の枠にはめ込んで事務処理をしてしまうのは
チャンチャラおかしい屁のつっぱりなのではねぇでしょうか。


と、なにやら私は思ったりするらしい。


だから余計に、吉岡くんが織り成す仕草や物言いの演技に対して
難癖をつけてくる越後屋さんたちには、ムクムクリンっと反発心が
湧き上がってくるわけであり。


だって、

そもそも、

吉岡くんは、

別に、

上手く演技をしようとしているのではないのだと思うわけで。


あくまでも「その人物」として生きている「だけ」なのだと思われ。


しかしこの「だけ」が「すっごい」のじゃ、越後屋よ。


「自」であることに
「無」になることの
難しさ哉 天高く馬肥ゆる秋         

字余りすぎ。


と、また一句詠んでしまったではないか。


越後屋くんたちよ、チミたちゃ、
土産の饅頭の箱の底に詰まった
十両金にばっかり目がいっているのではないのですかい?
そんなレレレのおじさんのような思考じゃ、
いつまでたっても、越後屋は越後屋のままだじぇよぉ。


吉岡くんという役者さんは、与えられた平面見取り図を、
お手本どおりに綺麗になぞっているだけの演技をしているのでは
ないのだと思われ。

彼は、どうすればその人物の「心」に近づけるのか?
ということに全身全霊で入り込んでいく人、
なのかもしれない。

こうしたら格好よく見える、とか、
こう演じたら見栄えがいい、とか、
このキメ台詞はバシっと決めてやるぜぃ、とか、
ここでこうしたら感動的な絵になるぜぃオレってばよぉ、とか、
そんなスチャラカタンなことには全く興味がない、
のかもしれない。

自分に与えられた役は、
役者としてのステイタスを上げていくための用途ではなく、
あくまでもその作品の中で生きていく「人」を生み出すことなんだ。
ということを心にしっかと根付かせている人なのかもしれんとですばい。
と、彼の演じる姿を見ていると、
そう思わずにはいられないわけであり。


自分が演じる人物の心をまず確かに掴んで、
そしてそこから、
ぐっと深く深くその心の奥底に食い込んでいく逞しさが
吉岡くんにはあると思う。


だから彼の作り出す人物達は、とっても奥が深いし、
立体的なのだと思うわけであり。

だから彼から発せられる台詞は、
それが一つ一つ彼の心に染み込んだ時点で、
それはもう台詞ではなく、「言葉」になっているのだと思われ。

だからそういった奥深さ、多面性、言葉の響きが、
一人の人間の息吹となって、見る者の心に、
深く鮮やかな残照として、永く永く人々の心の中に
残っていくのだと。


吉岡くんという役者さんは、
型にはめていくのではなく、型を作っていく人だと思う。

こうでなければならない、とか、
こういうときに人はこうする、とか、
そんな狭っくるしい演技は絶対にしない。

感情についてくる言動じゃなかですか。
そんなものにマニュアルなんてないのだ。

吉岡くんは、その演じる人物に、自分自身の心を
解き放ってあげられる強さを持っている人なのかもしれんですばい。



吉岡くんよ・・・・・・・・なんてかっちょええのだ。


惚れちゃうのだよ、どこまでも。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変わっていく君と、変わらない君と

2007年08月31日 | 思うコト




「不器用ですから、どうぞよろしく。」
とその昔、高倉健さんは言っていた。

これは、
「そうか、不器用というのは、よろしくなんだな、
やっぱり健さんはかっちょええ。」
と、ニッポン全国ぶきっちょ同好会の皆さんに希望の光を
与えたという伝説のよろしく語であるらしい・・・。


やっぱり健さんはかっちょええ。


かっちょええといえば、「遥かなる山の呼び声」での健さんは、
馬にハイヤーッ!と乗っていたり、
武志くんのお母さんを助けるために、だんご三兄弟を
とぅりゃ~~~~~~!
と三四郎の如く背負い投げしていたりなんかして、
「じぇんじぇん不器用じゃないけど、やっぱりかっちょええ。」
とこれまたニッポン全国不器用ファンクラブの皆様を ♡ ♡ とさせていた、
「不器用であり不器用でないけど健さんだから健さんでおぉっ!」
という納得矛盾法則を無理なく自然に打ち立てていたでありまする。


やっぱり健さんはかっちょええ。


この、不器用よろしく生き伝説である健さんと一緒に、
日本映画史上に残る名作を作り出してくれたのが、
かつての癒しのちびっこ大将、そして今現在の名を、
癒しの生き伝説・吉岡ヒデタカ。

粋な生き伝説コンビネーションでごぜいやす。


この映画の感想如きなものについては、
以前にこのブログで既に書いてしまっているので、
ここでは割愛させていただきますです。

吉岡少年についても、以前ブログに書いたので、敢えてここでは、
可愛すぎちゃってんもうっチキチキバンバンっ、とか、
ア~イアイア~イアイア~イ愛って、その愛だよ愛、とか、
声が少年児童合唱団で心は泣かせのブル~スじゃっ、とか、
まさしく君こそキング・オブ・神童でござるでバザールって、
私はすっかりオブラァディ~オブラァダァ~ぱっぱぱ~~~やぁっ!
って、やっぱり割愛できないっ、やるなお主はちびっ子ジゴロ。

歴史は語るさすがっぷりじゃよ~、吉岡くん。


昨夜、久々にこの映画を観て、ビュンビュン丸の弟の如く、
ビィエェエエエエエィ~~~~~っ、
と大号泣しながら思ったのでありますが、

吉岡くんの演技って、余分なものが全くないであります。

今も昔も、それは演技というより、潔いほどの直情の現れ、
という感じがするでありますだ。


吉岡くんだって人として成長しているから、
その演技の表し方も変わってきていると思いまする。

でもそれは、人間が生きていく上で、
成長するにつれその都度変化していく、
等身大の感情変化の表現変化なのだと思われ。

そしてその演技の根っこの根っこの部分は、
まっすぐなままシンプルに保たれているような気がするですばい。

武志がくんがラストで、「ねぇ、おじさん、どこいくの?」と泣く演技と、
五島君が、「柏木先生がね・・・・」という母の声に泣く演技は、
その根底にあるまっすぐなほどにまっすぐな直情さの部分が、
少しも変わっていないように感じられるのでありまする。

化学調味料なんかで味付けされていない、
心の素材が生きている演技、
という感じでありますけん、素晴らしか~。

その場に生まれてくる感情を、その場に寄せてくる大波のように
グワ~っと押し出してくる容赦ない直情だから、
時にはそれが無様にも見えるし、
みっともないくらいに情けなく見えちゃったりするわけで。


しかしそりが人間ってぇもんじゃねぇですかい、旦那。


吉岡くんは、役を演じているのではなく、
人間を生み出しているのだわっ、おぉっヒデタカくんったら
惚れるなっていったって惚れるぜよっ!


外見の可愛さだけじゃマッチに火は点かないんだぜ。


と、遠い昔にアンデルセンさんもそう言っていたのだ。(と思うらしい。)



ロックだぜぃ、ヒデタカ。


やっぱり吉岡くんはかっちょええ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

波と波の間

2007年08月16日 | 思うコト



残暑お見舞い申し上げます。

日本はほんとに暑いようですが、
皆様、夏バテには十分お気をつけくださいませ。



私のほうはといいますと、HPを作るに及んで、
久々に頭の中身を大車輪運動させたのがいけなかったのか、
脳がオーバーヒートして、知恵熱を出してしまったとです。

ただでさえ真夏の灼熱暑さだというのに、
熱をだして更に暑さ倍増~。

もうその暑さったら、
ギュウギュウ満員電車の乗客が全員お相撲さんだったぁ、どっひゃ~っ!
で、思わずジャイアント馬場も裸足の十六文で逃げ出しちゃうわよ、
あっち~ったらありゃしないっ!

というくらいの、わけわからん暑さであります。

こんなときは、コトー先生に治癒してもらうのが一番じゃのぉ~、
と思いコトー2003を見始めたものの余計にヒート炸裂、
あぁ私は全身サウナで脱力アメ~バ~・・・。


という治癒法をこちらの友達に話していたところ、
横にいたその友達の友達が、すかさず横から発言、
「コトー先生って、あれでしょ、純君が南の島に行って
お医者さんになったんだよね~、あっはっは~っ!」。





なにが「あっはっは~っ!」なのでしか?




とは聞けないまま、しかし今時、コトー先生に対して、
純君がお医者さんになったんだよね、なんて、
邪馬台国から発掘されたような考えを持っている人がいたのかっ?!
と、思わず私もその場で土偶化してしまったであります。


久々目の当たりにした、
「純くん=吉岡くん」直球ストレート。

なってこったいオリーブ。
こんなことじゃ日本の夜明けはまだまだ遠いぞっ、安倍くんっ!


こういった、始め人間ギャートルズのような太古感覚を
吉岡くんに対して抱いてしまっている人たちを、
21世紀へと軌道修正するのは難しいであります。

例えば、上記のギャートルちゃんに反撃を挑んだ私は
こうでありました。


ギャ「コトー先生見てたよ~、私も。」

私 「いいよね~、コトー先生~。」

ギャ「ね~、純君立派になったよね~。」

私 「(ちゃうちゃう) 純君は、富良野にいるよ~。」

ギャ「でも純君だよね、コトー先生。」

私 「(ちゃうでぇ~っ) 全然別だと思うんだけどな~。」

ギャ「そうそう、別だよね。」

私 「(おっ?!) そうそう、全く別だよね~。(ふふ)」

ギャ「場所が北と南で全然別だよね~。」

私 「(違うって言ってるだろぉがぁあああっ) はぇっ?!」

ギャ「あっはっは~!」

私 「・・・・・・・・・・。」


なにが「あっはっはっ~!」 なのでしかぁっ?!


ドテチンもお手上げの彼女の固定観念に、
あちしは人知れずチベットの風に吹かれてみたくなった
悲しみの土偶でありもうした、うぅ。


純くんと吉岡くんは別人。


とはわかっているものの、
しかし、吉岡くんというお鍋でくつくつ煮込まれた
役の人物たちを、結局は、無意識に、
純君という蓋でひたっと閉じてしまう人は
未だに少なくないのかもしれないですだ・・・。

これは、それだけ純君という人物が、
吉岡くんという役者を通りこして、人々の心の中に
深く浸潤してしまっているということでもあるので、
おぉブラボ~ヒデタカッ! うふふ~ん♡
とはしかしならないのだ、なぜなら吉岡くんは純じゃねぇぞぉ!


「純くん=吉岡くん」固定観念撲滅キャンペーン北米支部代表の私としては、
(↑勝手に作っている・・・)
屈辱の敗北のまま終わるわけにはいかんのでありもうすっ!


んがしかしっ、
こういった、2月を過ぎてもまだ部屋の片隅に飾られている
かがみ餅みたいなカチンコチンの固定観念を持っている人たちを、
正しい吉岡道へと導くのには、
一体どうしたらええのでしょうか?

その頑強な固定観念に、大リーグ強制ベルトを
装着させて、柱の影からそっと涙を拭いながら様子を伺っていたら
いつかは行け行け飛雄馬どんと行けとなるのでしょうか?
ってだからそれがどうなるっていうのかしらアホだわ私ったら・・・。


だめだぁ~、また知恵熱が出てきちゃいそうだぁ~・・・。



役と役の波間にいる吉岡くん。

彼自身の姿は波の狭間にいるから、
その姿はとても見えにくい。
けれども、その波の形を作っているのは
吉岡くんという役者さんなのであり、
他の誰でもないわけで。。。。

彼は、自分の役者としてのステイタスより、
作品の中での自分の役の存在意義に全てを
掛ける人なのかもしれないですだ。

だからこそ彼は、
演じる役の人物より、演じている自分自身を
強く前に圧し出すタイプの役者さんでは決してなくて、
あくまでも演じる「人物」を徹底的に鮮烈に
前面に立たせることの出来る人なのだと思われ。

根っからの職人役者さんなのだと思いまする。

こりが真のかっちょよさってやつだのぉ、たまらんねぇ~。



純君は富良野だか東京だかで今も暮らしているし、
コトー先生は今日も自転車に乗って志木那島を往診している。


それでいいじゃねぇか、
って、もしかしたら吉岡くん自身は
どこかの空の下でそう思っているのかもしれない・・・。




吉岡くん、
シビレルゼ~。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お誕生日おめでとう

2007年08月12日 | 思うコト



Happy Birthday 吉岡くん!

いつもいつも
素敵な姿で素晴らしいお仕事を
届けてくださって、どうもありがとう!

あなたの才能、美しさを見る喜びは
私の人生の糧であります。





文字にすると20年以上、とても長く
彼のファンをしているように思えるけれど、
実際感じる想いの長さは、
ある意味とても短いように感じます。

なぜなら彼は、
いつも真新しい。

作品ごとに、全く違った魅力で全く新鮮な感情を
湧き上がらせてしまう、
老舗リセットお届け効果をお持ちな人なのだ。

だから、彼には、時の流れの倦怠感というものを、
私は一度も感じたことはないわけで。


度々、このブログでも書いていることだけれど、
吉岡くんという人は、とても奥深い。

とてもシンプルなのに、
とても奥が深く、
そしてその深さは泉のようであって
とても測りようがないのだけれど、
でもとても静かにピュアに澄んでいる感じ。

そのピュア感は、
真っ青な空のもと、すくっとその存在を
大地にしっかりと根を張りながら息吹かせている、
まっさらな綿の木みたいな感じであり、
とてもすがすがしくて、とても潔く、
芯が一本しっかりと通っている強さを感じるわけで。
そしてどことなくちょっぴり切なくて、
そしてとこまでもどこまでも、果てしなく
高みへと続いている、そんな感じのピュア。


これは、少しも変わっていない。
私が彼のファンになってから、
ずっとずっと彼から変わることなく感じている
ピュアさであります。


だから私にとっての彼は、いつまでもどこまでも
「吉岡くん」なのであるわけで・・・。
そしていつまでたっても「吉岡くん」でいて欲しい。




吉岡くん、
君は、芯からかっこいい人なのだ。
揺るぎのない美しさをその心に持っている人だと思う。


いつもいつも、幸せを運んでくれてありがとう。


この一年も、吉岡くんにとって、
素晴らしい、幸せな一年となりますように・・・。


君の幸せを願うためなら、
私はドーバー海峡をお百度参りしてもかまわなくってよーっ!



お誕生日おめでとう。

あなたの生き方が大好きです。







大好だよ~、吉岡くん。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美しさ七変化

2007年08月07日 | 思うコト


吉岡くんは、
役によって顔が変化する。

演じる役が変わることによって、
「雰囲気」が変化する役者さんは多くいるけど、
「顔付き」そのものが大きく変化してしまう人というのは、
珍しいと思う。


例えば、
コトー先生を演じている時の彼の顔は、
なんとなくクリスタル。

しかし、
左門殿を演じていた時の彼の顔は、
なんとなくキューピーマヨネーズ。



吉岡くんよ、一体どうすれば、



   
  ① ↑こりが、





  ② ↑こうなるのはわかる。


しかし、何故に①が



     
  ③ ↑こうなるのだろうか?



丁髷効果なのですか?
しかし同じちょまげ~房乃助殿は、
スキットさわやかスプライト!
キュ~ピ~くんとは別種でありますだ。


不思議すぎる。


どうしたらどこがどうやって、
①と②が①に戻って③に変化するのでありますか?


恥ずかしがりやの①が、②と握手して、③になるのだろうか?
オイラーもびっくりの吉岡公式かもしれない。
そんなチミにルート先生も寝癖が更に増えちゃうくらい
ビックリに違いないずら。

って、ルート先生も実は①と②と③と同一人物なのだったぁ~っ!

繋がっているのに繋がっていないような
錯覚を起こさせる美しさと可愛さ。
マジックミラーのような美しさでねぃですか、吉岡くんったら
たまんないねーっ!!!!!!!


しかしなぜに顔が変わるのか?
吉岡くん、君はもしやその表情筋に
変則ギアーチェンジを搭載しているのですか?

普段そのギアはニュートラルに入っているけど、
いったん役に入り込むと、そりは
クリスタルギアに入ったり、
キューピーギアに入ったり、
きのこの山ギアに入ったり、
永遠の夏休みギアに入ったりしちゃうのかもしれない。

と、なにやら私はそう思うらしい。


吉岡くんはとても美しい人であります。
彼の美しさは、内面から湧き出る美しさが、
外面の美しさを柔らかく包み込んで豊穣させているような、
そりゃ~とっておきな美しさでありますだ。
だから、年を経ていくごとに、
彼は更に美しくなっているのだと思う。

しかし彼が役を演じる時、
彼は決して外見の美しさを起点にして
役を作り上げたりはしないのだと思われ。
外堀から固めていくのではなくて、
内面から土台を作っていくから、
顔つきそのものが変わっていくのかもしれないですだ。


吉岡くんという人は、
もしやとっても潔い人なのではなかろうか、
と、その真摯なお姿を見るたびに、
私なんぞは切に感じてしまうわけであり。

役を演じることによって、とてもとても
悩んで苦しんでしまう人なのだろうけど、
しかしその悩みや苦しみの向こう側には、
なんとも潔い、雪原みたいなものが
遥かに広がっている人のように思われて仕方ないわけであり。

悩みながら見渡すその雪原は、
世俗といったこだわりも、しがらみもない
まっさらな世界なのではないだろうか、
と思われるわけであり。

そういった潔さを持っている人は、
他にも沢山いるのかもしれない。
けれど、実際にその潔さに足を踏み込んでいける人というのは、
少ないんじゃないかと思うわけで。

彼にはその潔さに踏み込んでいける強い心があるから、
だからこそ、
悩み悩んで作り上げる役を演じている彼の姿からは、
役者の自我欲というしがらみも、こだわりも何も感じられない
役の人物そのものになりえてしまえるのじゃなかでしょうか、
と思うわけであり。

吉岡くん・・・・・・・名優じゃ。
おぃちゃんは、うれしいぞぉっ!


そしてそんなあっぱれな潔さを
心に強く持っているだろう吉岡くんが、

ごっつぅかっちょええんじゃ大好きでっせ~旦那ぁ!

と天を仰いで叫んでしまう私なわけで・・・。


大好きじゃよ~、ほんまにもう・・・。
吉岡く~ん。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元気の風

2007年07月06日 | 思うコト



吉岡くんが・・・・・・・・


冬眠から目覚めたぁっ!!!!!!



って大文字絶叫マシーンになっちゃったぞな、ぃやったぁ~~~~~~~~っぃ!
さいっこぉ~だぁ~、吉岡く~ん!
目ざめてくれてありがとぉ~おぉぉおおいおいおいっ。(←泣いている・・・)
お陰でこっちも脳細胞が目ざめたぜよぉ。ありがたや~。

※ って済みません、「一体なんのことを書いておるのだぁっ!?」
と、ご指摘があったので、補足しますであります。
これは、続・三丁目の「クランクアップ記者会見」? 
そりとも「中間報告」? どっちにしても私自身もよくわからんのですが、
とにかく吉岡君が最新でこの日付辺りにお出まりもうしたっ! 
という最新吉岡くんについてでありますだ。
わかりづらい文章ですみません・・・。



最新情報を教えてくださったお友達、
ありがとうございましたぁ~、感謝感謝でいっぱいですっ。



最新吉岡くんったら、
やっぱしかっこえくなってるぞぉおぉぉぉ~。
感涙でごわすっ。

さすがのバージョンアップでございますねぇ。
眠りから覚めるたびに美しさを増していくなんて、
眠りの森の姫みたいでねぃですかい。

ちょっと顔がシャープになったのかな?
しかしいつもと同じシャツ着てるところが、エコロジーだわぁ。
地球にも優しいのね~、ヒデタカくんったら、たまらんのぉ~。

それにしても相変わらず、
細いっ、白いっ、ってなんか
そうめんみたいな響になっちゃったでないかい、
でもそうめんよりはるかにコシがあるっ!
感動だぁ~。

黒系の服着ている時の吉岡くんって、
そのかっこえさが増すみたいですわ。
肩幅の広さと体全体の細さのバランスが
「完璧ですのでどうぞよろしく」
ってくらいに美しくブレンドされて、
そんでもってそこにきて更に黒系のスーツ色が
彼本来の肌の透明感とそこから薫る色香を倍増演出、おぉまるであなたは
白さと香りのニュ~ビ~ズ。おいしすぎる。

言葉少ない挨拶も、チミらしくってええよぉ。
なんてたって男は寡黙に結果でみせろ、って感じがするでよ~。
くぅっ、もうっどないしてくれよう、ヒデタカくんったらっ!
ってどうにもできないのだった・・・悲しい。

でも、一気に元気でちゃったですね~、
元気そうな吉岡くんの姿が見れただけで。

私はいつもこうやって吉岡くんから
元気をもらっていたりするわけでありますが、
先日友達と話していた折に、
「ショビ~ンとしちゃった時に元気が出る素はなに?」
というお題になりまして、
「そりゃ~吉岡くんだよん、美しいですからね~」
と即答した私に対して、その友は「え?」と驚いたので
「え?」と驚き返した私に、
またまた友は「え?」、でもって私も「え?」の
「え?」
「え?」
オオトリケイスケでごぜいやす、
ってな感じになっちゃったのですが、
しかしなんで「え?」なのだっ、え?!
いや、美しさは押し売りできるものではねぃです、
ってことはわかっておりやすだ・・・。

ちなみにその友達はキアヌ・リーブスの大ファンだそうで。

なぁ~んだぁ、キアヌくんのファンなのねぇ~そっかぁ~ふふ、って
くっ・・・・・・・比べるなよぉおぉぉ~、仇討ちじゃなかですかぁ。(←ってどこがやねんな?)

いや確かにキアヌくんは美しい。それは
奈良の大仏様を動かすより動かしがたい事実でありますだ。
私だって「キアヌくんったらこの世のものとは思えぬ美しさ!」
とオリンピックまたはうるう年周期で思ってしまうことはあるし、
ついでにプリズン・ブレイクのウェントワース・ミラーくんなんかにも
「なんだかやたらと覚えにくい名前なのになんだかやたらとかっちょええ!」
とこれまたお中元お歳暮時期に天を仰いでしまうこともしばしば・・・
というどこまでも困ったチャンな私でありもうす。

しかし吉岡くんが放つ美しさというのは、
他の役者さんたちに対して感じる美しさとは、
基本的に決定的に絶対的に、
「なんか違う」
と思うのでありますだ。

吉岡くんは美しいと思う。
とっても美しいお人であると。

しかし彼の持つ美しさって、
感覚的な美しさが、視覚的な美しさを
ふわ~っと追い抜いてしまうタイプの人なのだと
あちしは思うのでありますだ。

もちろん彼は視覚的にも美しいであります。
でもそれはそこで起承転結してしまっている美しさではなくて、
もっと、ず~~~~~~~~~~~~~~~っと、

深い、

深かかぁ~、

深けすと、

なのだと思われ。


そこにある美しい花をみて
「きれいねぇ~」
とストレートにそれだけ思う美しさとは違って、
そこに漂う花の放つ香りによせられて
「あぁきれいだなぁ~」
とふわ~っと引き寄せられて感じていく美しさ、
みたいっていうか、もっと言葉を変えて言えば、
実り多くじっくりと豊穣していく穀物の美しさ、
みたいな美感覚でもあるわけで。

そういった美しさを彼の姿全体から感じるときに、
なんかさわ~っとそよ風が吹いていくように
自然と元気が出てくるのでありまする。


彼の美しさって、

余分なものがなく素朴で、とても潔い感じ。
とても潔くて、とても質実としている感じ。
質実としていて、そこに凛呼と佇む感じ。
凛呼と佇んでいて、優麗としている感じ。
優麗としていてそして、
どこまでも遥かに続いていく感じ。


なんかそんな感じです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いつかの日まで

2007年06月29日 | 思うコト


以前、「隠し剣鬼の爪」をDVDで鑑賞していた時に、
あるシーンをたまたま目にしたうちの旦那さんが、
「この役者さんは、感情がぐるぐる彼の中で動いているのが、
よく伝わってきて切なくなっちゃうね~。いい役者さんだね~。」
と言ったことがあったので、妻は思わずびっくりかんど~っ
しちゃったことがあったのですね。

「この役者さん」というのは、
もちろん吉岡くんのことであったのですが、
旦那さんは私が吉岡くんの大ファンということはまるで知らず、
何の先入観もなく、たまたま目にした場面で、
吉岡くんの演技に関心をもって感心までしてしまった、
ということだったのであります。

で、なんでびっくらかんど~っ
したんじゃ、われ?

ということでありますが、
私の旦那さんは日本語がまったくちんぷんかんぷんの
思いきりアメリカ~ンな人なのでありますが、
英語字幕もなしに、その心情をその表情演技でもって
ビビ~~ンと伝えてしまった吉岡くんに対してびっくりかんど~っ大、
中々わかっておるなお主、の旦那さんに対してびっくりかんど~っ小、
というびっくり格差反応を出した自分に対してびっくり・・・・・・、
なわけでござったのでございます。

ま、この、小、・・・・、は横に置いといてですね、

表情だけで感情を伝えるって、
ドラマ映画には誰にでもよくある演技だし、
別段驚くことじゃないとは思うのですが、

悲しそうな表情をみて、あぁ悲しいんだな、とわからせるのと、
悲しそうな表情をみて、あぁ悲しいんだね、と感じ取らせるのは
そこに大きな違いがあるのだと思われるわけで。

私の旦那さんは、たまたま目にしたその吉岡くんの演技に、
確かに「切ないな~」と「感じた」わけであって、
それはわかったのとは違うと思うわけであり、そこの部分に
あちしはなんかビックリしてついでにカンド~
しちゃったわけでありまする。

お面を上手に被ったみたいな表情演技と、
じわじわと湧き上がってくる泉みたいな感情演技
みたいな違いなのかもしれんですね。

吉岡くんという人は、
役に寄り添っていくタイプの役者さんだって
ある映画監督さんがおっしゃってたけれど、
それって、感情を役にはめて形作っていくことではなくて、
役の中に潜って感情を吐き出すっていうことなのかな?

彼の演技を見ていると、確かに
「削り落とした感情が湧き上がっちゃっているんだろうな・・・」
っていつも感じるけれど、
やっぱりどっと疲れちゃうのかもしれないな、そうやって
感情を削り出すお仕事しちゃってると・・・。
私だったらヘベヘベになっちゃうと思う。

今は、淋しいよぉ~吉岡く~んっ、て
ついついなっちゃう私だけれど、
やっぱり吉岡くんにはゆっくりお休みしてもらうのが
ええのですよね・・・・・・・・・・・・・・・んだんだ。


いつも絶対素敵な姿で帰ってきてくれる人だから、
そりまでは我慢我慢の子であろう、と思いながら
時に満男くんに元気をもらったりしている私であります。

そして今日も良い天気でありますだ。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薫る人

2007年06月21日 | 思うコト



いわずもがな、吉岡くんはとても色気のあるお人でありますだ。

しかし彼の色気というのは、
蒸し蒸しムンムンッ人工スチームでムンワ~、みたいな
「ちょびっと暑苦しくってよ、あんさん。」
という感じは決してしなくて、
それは確かに男の色気なのだけれども、
でもただ単にそれだけじゃなくて、なんというか、
うす~い霧が仄かにス~ッと木立の中に沈殿していたり
たゆたっていたりしているような感じがあるとでもいうか、
なんかそんな清逸な感じがするのでありますだ。

しかしその霧っていうのは、
一旦その中にスィ~っと迷い込んでしまうと、
なかなかそこから出られないぜ気をつけなよチキータちゃん、
というような魔性の奥深さを内包している気配も確かに
そこに感じられるわけでして。

そして、普段はそこにひっそりとほのかに漂っている彼の色気は、
しかし一旦発動スイッチが入ると、
突然濃霧注意報と供に襲ってくる異常気象に変化するので、
油断は全く出来ないのでありますだよ、やんぼうまんぼう天気予報くん。

この異常濃霧注意報は、
彼の役を通して突然襲ってくるものでありますが、
例えばコトー先生の場合を例に挙げれば、
特にしゅじゅちゅ後3分以内に異常発生するものなので
気を付けたいのでござ~る、バザ~ルくん。

特に特に最終回のしゅじゅちゅ後には
要注意でありますだヨ~。
どうも、大学病院とインテリ外科医のコンビネーション物質が、
五島くんの色気濃霧を異常密度発生させる大きな要因の一つに
なっているらしいですな、教授。

2003の時も2006の時も、大学病院での手術の後、
まるで波打ち際に抜け落ちた小さな小鳥の羽のように
廊下のベンチに座っていた彼の姿から、
シュワ~っと静かに放散されていたあの色気は
なんともすごいものがあったっす・・・。

気だるさとやるせなさと憂いと哀しみが濃艶の塊を作り出して、
儚くユラユラと揺れてるオーラになっちゃってた感じですばい。

あれはそんじょそこらの女優さんじゃ太刀打ちできない
色気なんだと思われますぜ、不二子ちゃん。

しかしこういったフェロモンモンモン色気オーラってぇ~のは、
いったい何所から湧き上がってくるものなのでちゅか、吉岡くん?

教えてくれぃっ、分けて欲しいぞ、その色気っ!

吉岡くんが、時に役を通して突然濃霧にしてしまう
その色気フェロモンは、しかし普段は、
ほのかな霧のようなものとして
彼の周りにス~ッと漂っているだけに見えるわけで。

不思議だわ・・・・・・。

もしかしたら、君の体の中には、
色気フェロモンコントロール制御基盤でも搭載されているのですか、ヒデタカくん? 
ロボットみたいじゃないか、それじゃ。
それともフェロモン大王なのでありますか?

一体全体いつからそんなキューティーハニーもびっくりな
色気を放つようになったのでせうか?

ふむ、いつだったのだろう、それがはっきりと表に芽を出したのは? 
どこで芽が出て、どこで花が咲いたのだろう?
やっぱり一矢で一気に十尺玉花火が上がっちゃったのだろうか?

う~~~~ん・・・・・・わからん。

権ちゃん侍はそのフェロモンも初々しくなりを潜めていたけど、
テトラの友達祐介くんは、やけに艶かしいフェロモン未来人だったっす。

天然サムライくん房乃助殿はそのフェロモンも天然級なのに、
しかし阿弥陀堂中村先生のフェロモンは、それ自体を白衣の下に
封印しちゃったみたいなきちっとくんでありもうした。

しかし時代の時の純くんは、すでに富良野フェロモン大使だったよ~。
平山工務店のご長男も、フェロモン青年部葛飾代表みたいだったけど、
でも遺言の時の純くんは、そのフェロモンが雪に埋もれて
ほぼ除雪されていたような気がしないでもない・・・。

満男くんはといえば、確かに47作目からの彼はとてもとても
艶っぽかったけど、しかし振り返ればもしかしたら43作のときには、
すでに色気の芽がちょびっと顔を出していたのかもしれない・・・。

しかしぼくの伯父さんの頃は、確かにまだサナギだったぞ、甥っ子君よ。
けれどその時から過去に遡ってのオラシオンに全てを捧げた誠くんは、
少年独特の色気があったような気がする。
んだども、魔術な守くんはやっぱりサナギランナーだった・・・。

一矢は言わずと知れた強烈フェロモンマグナムだったけど、
北川くんは強烈ヘタレマグナムであったし・・・。

って、バイオリズムですか、君の色気は?

やっぱり役によって色気コントロール制御しているのかもしれん。
魔性だわ・・・。


しかしよくよく考えれてみれば、そこにははっきりとした
「いつ」も「どこ」もなくて、
きっと、雪がしんしんと草原に降り積もるように、
その色気も彼の中でしんしんと静かに降り積もっていったものなのかも
しれんですばい・・・。

それにしてもなんにしても、こっちはいつも
そのモグラたたきみたいに出たり引っ込んだりする
チミの色気攻撃にはドキドキドッキリものなのじゃよ、吉岡くん。

彼のその色気濃霧は、強烈な一発カウンターパンチものでありますが、
しかし普段ほのかに漂い薫っている彼の「色香」というものには、
こっちは万年ノックアウトされているわけで。

ハッ、っと思わず絵文字使用でございますが、
この色香が彼の放つ色気を、唯の男の色気にとどまらせていない
所以なのかもしれんですばいっ、コペルニクスくんっ!


色気と色香。
人生でこの二つ。


これじゃよ、このコンビネーションが吉岡フェロモンなのかも~。
たまらんじぇ~、ヒデタカくんよ。

彼の持つ色香は必殺技でごじゃりまするだ~。
とても品よくストイックに薫る人、
って感じがするのでありますだ、このお方は。

それは吉岡くん自身が独特に放っている
薫り高き色香なのだと思われるわけで・・・。

これにはほんっとにいつもまいっちゃうのでありますよ~、ヒデタカくん。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする