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月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

遠い記憶と現在と

2007年06月19日 | 思うコト


父親が大の「男はつらいよ」のファンであったため、
盆といえば寅さん、正月といっても寅さん、結構年がら年中寅さん、
という環境設定が物心ついた時には自動セットされており、
なのでそれこそいつの間にか自分自身も、
盆といえば満男くん、正月といっても満男くん、結構年がら年中満男くん、
と自然状況設定されていた私でごじゃります。

幼少の頃の時分は、毎夏毎冬、父親に連れられて足を運んでいた映画館の中で、
自分の周りの座席に座っていた、いかめっつら顔したオジサン達が、
寅さんを観ながら大声で笑っていたり、いつの間にかすすり泣いたりしている姿を
目にすることのほうが、映画本編を観るということより、印象深いことであった
記憶が残っているのですね。

その頃は、映画を観ていたというより、状況に紛れ込んでいた、
という感じでありました。


それが、たぶん小学校高学年の夏だったと思うのだけれど、
スクリーンに映しだされた満男くんが、
「縮小漂白されてラブリーになっている・・・・」
という突然変異を起こしていたので、
当時えらくびっくらこいた記憶が残っているのであります。

これが吉岡満男くんだったわけでありますだ。

この満男チェンジが、私の「男はつらいよ」の鑑賞チェンジを起こさせた
起点でござりもうした。

いや~、それにしても小学生の私にしてみたら、
衝撃の満男スーパーチェンジだったですば~い。

考えてみたら、これが私にとって、一番最初の
山田発ツボツボ攻撃第一弾だったのだ・・・。

しかしえらく可愛かった・・・・ちびっ子満男くん。
今でも可愛いけど・・・。

いきなり雪の中からヒョインッて顔をだした
白イタチくんみたいだったよん、甥っ子くん。

一気にお目めが ♡♡ ってロボコンみたいになっちゃったもの、
いわゆる「一目惚れ」ってやつですな、ちびっこジゴロくんでありすだば。


そんな「男はつらいよ」の父方環境設定の一方で、
これまたご丁寧に母親が「北の国から」の大ファンであったという
母方環境設定までも揃っていたので、これまた私の周囲では、
週に一度、夜の10時は富良野In、
という状況がお茶の間セットされており、従ってこの時期以降、
銀幕観たらとらやのみなさん、ブラウン管には黒板家だよ全員集合、
という周期的吉岡道完全リセット機能が、自然スタンバイしていたのでありましただ。


ファンになるなっていう方が
無理な話だったでごじゃりますだよ、おっかさん。



初期吉岡道を歩んでいた頃ですね、
私の狭っちい脳みそ活動範囲内では、

「満男くん&純くん=同一人物が演じております。」

という、バカボンでさえ一目で分かりそうな単純公式が、
なぜかど~しても頭の中で繋がらなかった、という
脳みそギャラクシー現象が起こっちゃっていたのであります。

「男はつらいよ」を観れば、彼は絶対的に、満男く~ん♡ であったし、
「北の国から」を見れば、これまた彼は決定的に、じゅ~んルルル~ 
以外の何者でもなかったという、本家二刀流でござるな、五右衛門どの。

満男くんと純くんって、同一人物が演じているんだよな~、
ということは理解はしていたのだけれども、しかし実際その二人は、
私の頭の中では、点と点が線で結ばれていなくて、
点と点だけになっちゃってる感覚であり、そしてその二点は
吉岡くんという子役の中継点を素通りしちゃっている全く個別の存在、
という感じだったですばい。

それはきっと、ちびっ子吉岡くんの中に、
「上手く演技してまっせ」、というメッキコーティングが
まるっきり見えなかったからなのかもしれないですだ、セニョ~ル。

観客や視聴者に、上手いよね~、と感じさせる隙を与えず、
何の違和感もなく、見る者の心にスィ~っと自然に入り込んでしまっていた
「そこにいる少年」満男くんと純くんは、しかし実際には確かに、
ヨシオカヒデタカという少年によって「演じられていた」わけで。

そんな少年ヒデタカくんは、なんと言うのですか、こういった場合、
そうですぜ、旦那、これですぜ、「神童」ってやつですな、ごめんなすって。

上手く演じる、というのと、自然に演じちゃうっていうのとでは、
常磐ハワイアンセンターと憧れのハワイ諸島くらいの差があると思うですばい。

あの頃の記憶の中で、今でも鮮明に覚えているのが、
満男スーパーチェンジを観た後、映画館の外で
「満男くんのこと、大好きになっちゃたよ。」と言った私の言葉を受けて、
「味のある子だね~」
と感慨深そうに答えていたその父親の言葉と、
北の国からを毎回涙しながら見終わった後で、
「心に響く子ね~。」
としみじみ言っていた母親の言葉でありますだ。

それは、あれから二十五年以上経た今現在も、変わらず、
役者吉岡くんに向けて言い続けている私の両親の言葉であるわけで。

そして私自身も、あの頃から少しも変わらず、
ずっと大好きなままの吉岡くんでありますだ。

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粋なお人

2007年06月15日 | 思うコト

お侍さん姿の吉岡くんを見ていて、つくづく思ったであります。

吉岡くんって、
ほんっとに着物が似合う~~~~ワォッ!

胸板の広さが、着物によってうつくしゅ~強調されて、
それに合わせてスッと伸ばした背筋とともに端然と佇む
その立ち姿が流れるような美しさで、そりゃ~こっちはまいっちまうぜよ。

着物に身を包むことによって、な~んとも形容しがたい、
艶と気品とストイックさみたいなものが、彼からほどよく
湧き上がりながら粛然として放散されている、みたいな感じだす。

着物の艶と彼の艶がぴったりマッチしちゃうのだすね~。

「隠し剣鬼の爪」のワンシーンで、
左門殿がきえの嫁ぎ先である商家の上がり框横で、
スッと背筋を伸ばして立っている姿は、もうすっごく美しかった~。

気品があって、お侍さんとしてのプライドもその立ち姿からヒシと
感じられてきて、さすがじゃの~と映画館で思ったですよ~。
やっぱり君の姿は、銀幕で見るのがええよ~。

この、粋だねぇヒデタカく~ん、がてんこ盛りで見れるのが
「海は見ていた」の天然サムライ房乃助殿でありますだ。

房乃助殿は、あっぱれ天然サムライくんでありますが、
その美しさもあっぱれしておりまする。

以前にもしつこく書いちゃっていることでありますが、
この天然サムライくんは、も~う・・・・・・・・・・・・・
思わずバンザ~イって両手を挙げて降参しちゃうほどの、
天然ジゴロくんであります。

びっくりしちゃうほど、美しいのでありますだよ、セニョリ~タ。

なにからなにまでずずずい~っと、いやんなっちゃうくらい
ビューテホー。

お新ちゃんの助言に促されて、着物を着替える場面がありますが、
その所作がもう美しいのなんのって、そんでもってその所作から
お坊ちゃま侍くんとしての生活感もきちんと出ていたりして、
んもうっ、さいこーだぁーっ、あんたって人は。

お侍さん役を演じているんだからそんなもん当たり前やんけ、
って言われちゃうとですね、元も子もないのでありますが、
だってだってぇ、台詞を言いながら、サッサッと手際よく
着替えていく所作が、いちいち品があって自然で様になって
いるのでありますのだ~。

彼は着物に「着られてない」と思うのですばいっ。
ちゃんと着物を「着て」いるのでごじゃりますだ~。
そういう彼の細かさにも感動しちゃったりするのでありますだよ、そうです
あちしは彼の大ファンでありますだば。

吉岡くんは、お侍さんの役しか演じたことはない(と思う)けれど、
もし伊達な江戸っ子の役なんか演じちゃったら、それこそえらく
艶っぽい粋な人になるのだろうな~、と思われ。

見てみたい・・・・・・すごく。

粋でチャキチャキな艶出し吉岡くんって、
実際見たらどんな感じなんだろ~?

見たいぞぉっ!


そだ、着物とはちと違う浴衣姿だけれど、
信州に旅した時のサントリとっておき君は、
なんだかとっても色っぽかった・・・・・・・・。

旅館の窓辺に立って、紅葉がはら~っと舞い散る景色をやんわりと
眺めている浴衣姿のとっておき君は、なぜだかえらく色香ほんのり。
温泉湯上りの香りが画面からほわ~っと香ってくるようでござる。

舞い散る紅葉としっとりヒデタカくん・・・・・絵になりすぎる・・・。

あんなに旅館の浴衣が似合ってしまう殿方もめずらしいずら。

湯上り美人とは君のことだ、吉岡くん。
うらやましいぞ。

平山工務店の涼くん(もしかしたら「亮」だったっけか?)も
浴衣姿になってたですね~。
あの浴衣姿もええ感じでありましただ~。
なんてたってこの涼(亮?)くんは、全面的にかっこえくって
可愛くっておまけにえっらい色っぽい。

この頃の吉岡くんは、沸き立つ色香が封印限界、
という雰囲気全開だったような気がするですばい。

そんなユラユラ色香雰囲気を漂わせながら浴衣着ちゃってるから、モ~ッ、
モウモウモウモウモウモウモウモウモウモウってあちしったら牛かいなっ、
ってなくらいモウモウ言っちゃうほどモウほんっとにびっくりしちゃうくらい
色っぽいったらありゃしないじゃないのっ、チミってばっモウッ!
あ、またモウって言っちゃったわっ、モウッ! 

そういえば、満男くんも旅館の浴衣姿で、なぜかちびまるこちゃんの歌を、
アソレソレ~ぴ~ひゃらぴ~ひゃら~タッタタラタァ~♪
と突き抜けちゃった人まる出しで歌って踊っていた時がある・・・・。

いいよ、君なら。
なぜなら君は満男くんだからだ。


しかしええもんですな~、着物の似合う殿方というのは。
すご~く粋な色香を感じますわ。


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想いへの思い

2007年06月13日 | 思うコト


私の周りでは最近、、

① 吉岡くんって癒し系だよね~。
② 吉岡くんってちょっといいかも~。      ♡
③ 吉岡くん好き、ウキャ。             ♡♡    
④ 吉岡くん大好きぃ、ウフフ~ン。        ♡♡♡
⑤ 吉岡くん・・・うわぁ~~~~~~んっ!  ♡♡♡♡+∞


⑤はまぎれもなく私自身のことでありますが、
この①~④の吉岡くんハート4段階進化図を体現化している4人の友がおりまする。

♡の数がいくつであれ、みな吉岡くんを静観することができる人たちなので、
ヒデタカバミューダトライアングルにはまってしまった今の私としては、
冷静状態でいられる友人たちが羨ましく感じられる時も無きにしも非ずに非ず・・・。(←どっちなんだい・・・)

しかし思い起こせば白亜紀時代、少女だった頃の私はこの③期を長い間、
結構冷静に過ごしていたわけで。

んが、その吉岡沈着冷静期も、「初恋」で一気に崩壊し④期に突入、
その後「優駿」で④期大噴火となり、そして「1970ぼくたちの青春」で
⑤期に突入、その後はカズヤにコトーにルートにええいその他諸々
周期的にビッグバ~ン!、となったという、やれやれほんとに困ったもんだよ
あちしったら・・・・・・・・ふぅ。

と思わず自分で自分にツッコみを入れてしまう程の
吉岡ラブラブ変遷期を遂げているわけでありまするだ。


と、こう書くと、あたしの人生吉岡くんでまっしぐら!
みたいに捉われがちなのだけれど、いやいやそういうことでは
決してなくてですね、吉岡くんへの♡と共にうふふ♪となっていた
役者さん達もその道その都度結構いたわけでありますだ。

しかしけれどもそうした想いたちは、だいたい平均すると
748日くらいでフェードアウト、というものが殆どであったでござんす。

フェードアウト・・・・・・・。

これがどぉ~~~~しても出来ないのでごわすよっ、手強いツワモノ、ヒデタカくんっ!


たとえ彼への想いがスス~ンっと休火山になりかけたとしても、
すぐにまたドッカ~ンッ!と襲ってくる大噴火によって、
ヒャ~~~~~っと再び吉岡マグマゾーンへと巻き込まれてしまうのですな~。

この、活火山から休火山になれない要因はなんなのか?

そりは、吉岡くん自体がゆっくりゆったり美進化している人
だからなのだと思われますだ、モグタン。

悲しいほどに退化しちまう殿方が多いなかで、彼はどんどん美化していくという、
貴重な生物でありますですよ、おとっつぁん。

幼虫→サナギ→冬眠→モンシロ蝶→またまた冬眠→驚愕のアゲハ蝶→
どこまでも冬眠→いきなりヨシオカヒデタカ単一美生物→まただよ冬眠→つづく・・・

ダーウィンもオドロキな進化ぶりであります。

露出の少なさが彼に魅かれている理由の一つであるのは確かなことだけれど、
この冬眠ブランクが、外野側から眺めているこっちにしてみると、
ある日突然のオドロキ美進化を遂げているように見えてしまうわけですばい。

魔性じゃのぉ~、ヒデタカくんよ。

更にこの人は、ビックラ美進化くんで再登場してくるたびに、
人の♡をグワシっと鷲摑みにし、そしてそのまま「それじゃ~サラバだっ!」
とさっさとまたまた姿を消してしまうという怪傑ズバットみたいな人なので、
こっちとら、それこそヒヤヒヤドキンチョのモ~グタンなのでありますよ、
ロングおじさん。(←古すぎるっつーの・・・)

なんてニクイやつ・・・・・オレンジ色だったら夕刊フジのキャッチフレーズみたいじゃないか。(←???)


吉岡くんは、もともと自然素材の人だったけれど、その成長とともに、更に
どんどん余計なものが削ぎ落とされていっているように思えるだであります。

なんというか、人生っちゅ~大理石を本質っていうノミで
削り落としながらヨシオカヒデタカという人間を彫り出している
みたいな感じずら。

なんともいえない美質みたいなものが、彼からは感じられるとですね~。
まぁ、その「感じ」はあくまでも彼のファンとして読んだり見たり聞いたりした
彼の応えた数々のインタビューなどを通しての、自分の心にスイッと
湧き上がってくる「感じ」なのだけれども。

でもそういう、心にスイッと湧き上がってくる「感じ」が、
直感というものなのかもしれんぞなもし。

直感は大事じゃ、だいじゃえもん。

けれども直感は逃げ足の速いやつなので、きぃつけとらんとすぐに
どっかへ行ってしまうものでありますだよ~。
すぐにわけわからん化学調味料みたいな他感情によって
別な感情へと味付けし直されてしまうのですな~、ふむふむ。

しかしこのまじりっけのない直感感覚を、ストラ~~~~~~~~イクッ! 
な大リーグ魔球で常にストーンと人の心に投げ込み続ける吉岡くんという人は、
やはり彼自身の中に「何かとても美質なもの」を持っているに違いないのだ、
とそう思わずにはいられないのだよ、星君。


シンプルな直感を、人の心に、ずっと変わることなく湧き上がらせてしまう君は、
一体どんな模様を心に描いている人なのだろう、ヒデタカくん?


などと思ったりしている今日の私でありました。

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理由の理由

2007年05月16日 | 思うコト

先日姉と電話で話をしていた折に、「どうして純君が好きなの?」と
聞かれて、はてふ~む、と、純じゃないよ~ヒデタカくんっていうんだよ~
と訂正するのも忘れて返答に詰まってしまったであります。

「どうして?」と聞かれても、「好きだからなの。」
とその時はそう答えるしかなかったのだけれど、
その後電話を切ってからしばし、ロダンの考える人と化してしまったですよ。

いやそもそも理由がないから「好き♡」となるのが「好き~ん!」
なのだと究極に突き詰めればそう思うけど、
しかし理由というのは心の鎮静剤でもあるわけで、
一旦考え出してしまうと、その理由が欲しくなってしまって
にっちもさっちもどうにもブルドックわぉ、な状態になってしまうのでござります。

以前に、彼の透明な存在感が好きと書いたけれども、
その理由も突き詰めて考えれば出てくる理由であり、
しかしそれならば、突き詰めなければ理由はないのかい、一休さんよ、
とついつい一人突っ込みをいれてしまうわけで。

けれども究極という言葉に拘れば、上記したように、
「好き」についてくる理由なんて影法師みたいなものであり、
好きという気持ちはもとを辿れば多分それは動物的直感によって
突き動かされている感情なのだと思うけれど、しかしまてよ、
と考え直せばやはりそこに理由はあるわけで、
そうでなければ私が書いているブログの内容は矛盾してきてしまうわけで、
いやしかし、人生は矛盾の隙間を縫いこんでいくものであり、
そう考えるとすべての理由はその意味をもってくるわけであり、
それじゃ~あんさんどっちなんだい、どりゃ~~~~っ!!
なんて考えだしちゃったら考え込みすぎて思わず冬眠したくなっちゃう
けれども季節は初夏であり、ならばこれ以上考えると思わず出家したくなるので、
家内安泰交通安全の為にも考えすぎはよくないわよ、志賀直哉もいっていたわ、
ということで思考ストップをかけましただ。


はぁ~、一体なにが書きたいのか、私ってば。



吉岡くんの魅力ってなんなのだろう?
と考えるとですね、
「あの役者さんのどこが好きなの?」と聞かれて、
「顔」とか「演技」とかの単一単語を使って単純に即答できない
ところに彼の魅力の深さがあるのだと思われ。

彼はまるごと彼である、という魅力なのかな、と。

パーツ売りされている魅力ではなくて、
もうなんてたって君なんだから好きなんじゃ、うりゃ♡
という最大公約数系の魅力を持っていると思うのでありますね。

これが彼が広く長く愛されている魅力の一つなのではないのかな、
とも思うわけで。

つかめるようでいてつかみどころのない丸ごとワンパックな魅力って
奥がふか~いでありますよ。

私なんてどんどんどんどん深みにはまっちゃって、
抜け出せなくなっちゃって、どうしたものやら底抜け大作戦脱出不能の
ミッションインポッシブルでございます。

しかしその彼の深遠さの奥の奥底には私たちと同じ地面がある、
ということを感じさせてくれる安定感のある深みでもあるのではないのかな、
とも思うわけであり。

そこが彼の演技の呼びよせる共鳴感や癒しの根源でもあるのかな~、
なんて思ってみたりもするわけで。


なんてなことを書いたら「な~に言ってんだか」ってサントリーさんちの
とっておき君の彼女にシャララ~ンと言われてしまいそうだけど、


お?


あの彼女さんは、なんだかいつも幸せそうじゃったでごじゃる。


そうだ・・・・、
そうなのじゃよ、
吉岡くんはまるごととっておき君なのだ。

遠く離れた土地からいつもいつも色々な便りを寄越してくれて、
そして私たちを至極幸せにしてくれるとっておき君であったのでありますね、
ニャンコ先生~。

そして、嬉しかったり、悲しかったり、切なかったり、憤っちゃったりっていう感情を、
彼の心の底から吐き出す感情演技で共鳴できちゃうやまびこさん便りでもあるのですね。


ありがてぇ~こってす、ほんまに。


これから先、どんな便りがくるのかな~。
楽しみでござりまするよ、吉岡君。

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その存在感

2007年05月03日 | 思うコト


私は満男くんっ子だったのでありますが、
もちろん純君も大好きであり、
コトー先生も溺愛しております。


吉岡くんファンには、多分大まかに分けて、
満男くん育ち。
純くん育ち。
そしてコトー先生育ちの、
三タイプファンに分かれるのではないでしょうか?


これってば、すごい。
スーパーバイオロジカルだってばよ、ヒデタカくん。


彼は演じたそれぞれの役の人物たちを通して、
「日本人の友達、息子、孫、医者及びご近所さんどれでもおまかせ代表部一同」
として私たちの心に存在してしまうという、
何気な顔してババンバ~ンなつわものであります。


そして、始まりが誰であれ、その人物を起点にして未来に行ったり過去に行ったり
自由自在にトリップしながら愛情循環できてしまうという、
これまた究極のリサイクラーであったりもするのだね、君って人は。


たまらんじゃないか、え、ヒデタカくんよ。


君は実はスゴイ人であるのに、しかしそんなスゴサを普段はまるで感じさせない、
という寡黙なスゴサを持っているのだ、惚れるじゃね~か、やめてくれい。



でもですね、彼のことをズンズンずずずい~と深く突きつめて考えていくと、
結局は彼の持つ存在感に想いは帰結していくのだと思うとです、おいどんの場合。



ふと夜空に浮かぶ月を見上げた時に、これは彼も見ている月なんだなぁ、とか、
波打ち際に立てば、これは彼も時々は耳にする波の音なんだなぁ、とか、
ふっと吹いていく風に、彼もいつか吹かれた風なんだろうなぁ、とか
そういったことをふと自然に感じとらせる存在感を持っている人なのだと
思うのであります。



その存在感は今も昔も変わっていないわけで。

今も昔も決して変わらない、彼が持ち続ける透明な存在感なのであります。



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満男くんと純くん

2007年04月19日 | 思うコト

吉岡くんの演技を評価する人は多い。
しかし、もちろん批判する人も少なくない。
それは一向に構わないことでがんす。
批判がなければ、評価も生まれてこないでごじゃる。
しかし、屁理屈と批判を混同している人は、許せんぞ、三四郎。
そういう人たちにはですな、常套句があるのだ。それは、
「純はなにをしても純だな。」という、
まるで創造性のその字もない言葉でR。
まったくなんてこったい、オリーブ。
君たちはだね、さいた さいた さくらが□□□。 ←この□に入る言葉を書きなさい、
の問いに、「さいた」としか言葉を入れられんのかっ?
そんな考えじゃ、「ばかものっ!」と吹き出し付きで波平さんに一喝されてしまうぞっ。

いいかい、それは、「さいた さいた さくらが さいた」ではなくても
ええのじゃ。

さいた さいた さくらが ちった であっても、
さいた さいた さくらが きれい であっても、
さいた さいた さくらが ぴんく であっても、
さいた さいた さくらが だんご であっても、

それはみ~んなそうなのだから、そうであって、それでいいのだっ!

純はなにをやっても純。
こういうことを九官鳥のように繰り返し言う人たちはですね、
純=純という漬物石みたいな先入観で頭がカチンコチンになっているから、
そこに融通無碍な見解は、ま~ったく見られないのだよ、アミ~ゴ。

チッチッチッチ。
いいかい、よく見るのだ、九官鳥くんたちよ。

①「純は」←(吉岡くんなのだ。)
②「なにをしても」←(ほ~う。)
③「純だな。」←①に戻る。

( )がないと、全くもって非生産的。
君たちは、ケロンパと一緒にカチンコチン体操に励むべきである。

一番いけないことはですね、こういう漬物石な人たちに限って、
純くんも満男くんもコトー先生も、きちんと見ていない人が多いということ。
まったくもう、わかったようなわからんことを言ってないで、堂々と
「なんか嫌い。」と正直にいえばええのじゃ。
私なんて、「好きなんだから好きなんじゃ~っ!」と街頭で叫んで
おまわりさんに職務質問されたってかまわないぞいっ。
潔くしようじゃねぇ~か、兄さんよぉ。

満男くんと純くん、この二人は、
どこにでもいる人・青年部代表です、ども。
みたいな人物たちなのだすよ。
それを同時に、ヒデタカくんは20年近くにわたって演じてきたのだぜ。
それぞれの作品をきちんと見れば、おのずとこの二人は
全然違う人物であることがよ~くわかるのでがんすよ。
声の出し方、笑い方、歩き方、箸のはこび方、泣き方までも、それはそれは
繊細に演じ分けているのだ。
その繊細さがわからんのかぁ~、どりゃ~っ!

きっと、漬物いっし~な人たちは、凶悪犯とか常軌を逸した役などに見られる、
ひぇひぇひぇっ~とか、ギンラギラ~とか、ジョワッ、とかにみられる
「音量大」みたいな演技に感謝するタイプなのかもしれない。
それはそれでいいんだよん。でも、屁理屈はいかんじゃないかぁ、
と二宮金次郎さんも薪を背負いながら言っていたではないかっ!(ほんとか?)
純くんはちょん髷、満男くんはアフロヘアーにしていたら、
君たちの意見もち~っとは変わっていたというのか、小次郎よ。

満男くんと純くんを演じるにあたってですね、この
「えぇ、あっしは、まったくもって普通でしてね、へへへ。」
という二人のキャラを、長年にわたり、
その外見は全く変えることなく演じ分け続けたヒデタカ君に、
私は感謝の気持ちをもって、表彰状並びに伊香保温泉宿泊券を差し上げたい。
お帰りの際には、温泉饅頭をつけてもいい。

そしてもう一つ、聞き捨てならない言葉について。
「純は、ほんとに作品に恵まれているな。」←これ。
なんなのだ、その文学崩れの現国教師成れの果て、みたいな
鼻持ちならない言い方はっ?
もう、これだから本ばっかり読んでないで、少しは外の空気を吸ってきなさいって
言っているのよ、お母さんはっ。
外に出てみるのだ、君たちよ。
そして、ちょっと周りを見渡してごらんよ、セニョ~ル。
木漏れ日が、青葉を通して柔らかく綺麗に揺れているだろう?
そよ風が、木々の葉をそよがせて、優しい音を奏でているだろう?
それは、単に、「木」だけがもたらせる現象ではないのだぞ。

物事はね、多面性をもつものなのだ~。
それを頭で解釈するのと、心で探知するのとは
大きな違いなのだと思うぞ、おやっさん。

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職人気質

2007年04月18日 | 思うコト

もるつ君と大家のスーちゃんとの映像を見ていて、
つくづく思ったことがありましたです。
吉岡くんは、誰とでも、ほんっとによく融和してしまうお人である、と。

いや、融和と言う言葉は語弊があるぞなもし。
なんというか、こう、カメレオンみたいなんですな。
相手に合わせて、色を変えるけれども、
しかしカメレオンはカメレオンであり、
自分本体を変えることはなく、そこにきちんと存在している。
そんな感じですたいね。

まぁ、それは対象が役者さんだけということに限らず、
彼がそこに立つ場所であったりもするわけだけれど。

シルクロードでの青空市場の場面なんて、
一瞬「ウォーリーをさがせ!」の絵本を見ているのではっ?
と錯覚しちゃった程、あの風景に調和していたですね~。

そういえば、ルート先生も、黒板とよくマッチしていたでがんす。

自己主張の全くない、存在感。
これ、すごいことだよ~。
すごく奥深い。
なんか一種の伝統芸能みたいずら。

彼が主役を演じているときも、
主役=俺(私)の作品 
という驕りが、見ているほうには感じられない。マ~ベラス。

主役とは、目立つだけのものではない、という美学。
主役とは、周りを包括し、惹き立てる存在のものでもあって、
そうすることによって、主役も生きてくる、という美学。
しかしけれども、決して自分であることは失わず、
確かにしっかりとそこに存在している、という美学。

そんな心念みたいなものが、彼の演技からは感じられるとですよ。
2006でのコトー先生を見ていて、特にそう思ったですばい。

出番の量を気にする役者さんがよくいるけど、
そんなことは彼には関係ないのだろうな~。
主役であれ、脇であれ、ただただ真摯に、その役に命を吹き込む、
その役の人生を生きる、ということに全てのエネルギーを注ぐのだよね。
作品とはなんなのか、という原点に、いつも目を向けられる人なのだろう、
と思うぞな。

しかしこれってよっぽど強い心念がなければ出来ない技じゃよ~。
だって、彼ほどの才能があれば、いつだってどこだって作品の中で
「跳び出ちゃう」ことは出来るはず。

けれどおそらく、それは彼の美学が許さないことなのだろう。
そんな事をするのは、全くの愚の骨頂であり、
チャンチャラおかしくてやってられないぜ、と思っているのかもしれない。
彼の姿を見ていると、なんかそう感じられてくるのですよ。

よく、「主役を食う演技」って言葉は、たいそうな褒め言葉として
形容されるけど、私は全然そうは思わないですたい。
以前に、自分の別のブログにも書いたことなのだけれども(その後すぐに消しちゃったけど)、
だいたい主役を食うなんていうのは、その食っちゃった役者さんが、
自分の役の立ち位置を、その作品の中で全然理解していないゆえに
起きることなのではないのだろうか、と私なぞは思うでありますよ。
まぁ、主役がど~しようもないくらいヘッチャラケな演技を
してしまっているのなら、必然的に脇が沸きあがってきてしまう、
というケースも確かにある。しかしそうでなはくて、
作品全体が非常に調和良く保たれているのにもかかわらず、
そんな中で「主役を食っちゃう」というのは、いわば、
全員一致団結して優雅にクラシックバレーを踊っている中で、
一人ブレイクダンスなんか踊っちゃって悦に入っている勘違い野郎、
みたいな感じに見えちゃうんでやんす。
それは上手い演技、というのではなくて、自己顕示欲な演技以外の
何者でもない、と私は思うでごわすよ。

吉岡くんには、その演技に役者エゴというものが全く見られない。
松竹で育てられてきた、ということがそこに大きく影響しているのかもしれない。
彼が周りの名優さん達から受けてきた影響というのは、
第三者の私なんて計り知れない程の大きさがあるのだろう。

真の影響というのは、受け手が受けとる皿を自ら持って
初めて成立するものなのだと思う。そして彼は、上等な皿を持っている。
やはり、彼には名優となる心の資質が、幼少の頃から備わっていたのだろうと
私には思えてしかたがない。

ヒデタカくんは、匠の人なのだと思われ。
自分独自の美学を持ち、その道を歩み続ける。
紆余曲折であれども、やはり歩んでいく。
それは、誰にも邪魔することはできないことなのだろう。

美しいな、と思う。


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響く、声

2007年04月10日 | 思うコト

吉岡くんはその声にも色気がある。

艶のある広い声域も武器に持つ男であ~る。

わたしゃ何度その色声にハートを射抜かれたかわからんとですよ。
なんせいきなりドッキュ~ンと射抜ってくるし、
その射撃率は100%。 

ハンターヒデタカ。 
彼は隠れた名マタギかもしれない。

一番最初に彼の色声に射抜かれたのは一体いつだったのだろう?
多分ちっさい頃から無意識の内にばっきゅーんばっきゅーん
撃ち抜かれていたのかもしれないな~。

後年、それをはっきりと、最初に自分の中で意識したのは、
2003のコトー先生の二話で、コトー先生が内さんに言う
「内さん、診療所に・・帰りましょ。」←これ。

あの時は、撃ちぬかれたっていうより、なんか上手く言えないんだけれど、
すこーん、と心を裸にされた感じがしたのですよ。
これを言葉になぞらえるとですね、「心の琴線に触れた」なんてな
お決まりの言葉で片付けられちゃうのだろうけど、
そういう簡要なことじゃなくて、もっと原始的な感情っていうのかなぁ、
そんな感じになったとですね。

色声射撃最新版は、コトー先生2006の最終回でのこと。
彩花さんのオペ中、必死で患部を止血するときのコトー先生の声。

「ペアンください。」って連呼するあの四番目の「ペアン!」。

瞬間、白旗あげましたですとよ。
完璧な無条件降伏だよ、君。
あの声、体の奥底までズッキュ~ンって入ってきたですよ。

コトー先生の焦燥感が、その声に、濃縮還元100%愛媛みかんジュースです、
っていうくらいギュッと詰まってたですよ。

あのシーンは、手元も映さなくちゃだから、
顔のクローズアップにはできなかったんでしょうな、
だから声にすべてを表した。

これにしびれずに、なににしびれるのか、諸君。


彼の声には旋律がある。

美しく響くときもあれば、悲しく響くときもあり。
楽しく響くときもあれば、怒りに触れるときもある。

そんなもん誰にだってあるやんけ、と思われる人もいるかもしれないけど、
声にトーンがあるのと、旋律をもつのは違くってよ、セニョ~ル。

人間が生まれながらに持ち合わせる要素は、多分みな同じなんだと思う。
ただ、個人個人、どの要素が強く表面に出ているか否かの差だけなのではないのかと。

彼の発する声が、息吹をもってすっと人の心に入り込むとき、
それぞれ個人の奥底に眠っている、自分の普段意識することのない要素が揺さぶられて、
時には懐かしくなったり、泣きたくなったり、
またはざわついて落ち着かなくなったりするのだと思う。

そういった旋律を奏でる人って、私は彼以外には知らない。


すごいぜよ、マタギ・ヒデタカ。


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