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月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

夢で逢いましょう

2008年12月05日 | 思うコト




あっという間に師走でごぜいます。
日々寒さは増して行き、吉岡君は
本格的に冬眠してしまった・・・。

と思いきや、

今年はナレーションの仕事をしているのだった!
おぉっ、た~ま~や~! 
吉岡君の声が毎週毎週聴けるなんてお耳お歳暮パラダイスなのかしらん、
これぞ耳冥利につきるってものですぜい、まるで夢のようだわぁ~~、
やったぜパパ、明日はホームランだーっ、いやっほぉ~~いっ!!!
って私は聴けないのだったわ。やっぱりまるで夢のようだったずら・・・。
ぶひぃっ

吉岡く~ん、恋しいよぉ~。
愛しのチミは今頃何をしているのでしか?
あ、だから仕事してるんだっつーの。
長年の習慣でついつい冬眠してるのでは、と思っちゃうのだわよ。
ごめんよ~、吉岡く~ん。

もとい、
そういえば今はヤマサのCMのカボチャ篇が放送されてもいるし、
吉岡君の姿は私でさえPC画面で拝めることができるのだった。
それにしてもあのヤマ夫くんったらほんまに・・うきゃぁ~っ、んも~~うっ、
出番が短かいぞ!!! 
ぱっと出てぱっと引っ込んでしまうなんざ、
マギー四郎のハト出しマジックみたいでございますね。
ハッ いや、贅沢を言ってはいけないのだ。
なんといっても吉岡君がなさったお仕事であるのだ。
そこに敬意を払って感謝しなくてはいかんよ、おっしょうさん。
ありがたや~、吉岡く~ん。

そりにしてもこのCMの吉岡くんってば、
ほんまにええ顔しちょる。
なんか彼は年をとるごとに余分なものがどんどん取れていって、
なんつーか円熟しながら澄みきっていく潔さみたいなものが
ごっつう感じられるでございますですだ。そりは、
気品の質ってやつなのかもしりないですだのぉ。
かっちょええ。。。
ほんまに。。。
最高っす。
すっきやで。

こんなに好きなのに、しかし吉岡君は遠い人だ~。
いけずよね~。。。。
せめて夢の中でも吉岡君に会いたいのぉ~。
しかし吉岡君は私の夢の中には出てきてくれないのだ。
何故になの? 
あ、でもそういえば以前一度吉岡くんは
私の夢に出てきてくれたことがあったけど、しかし
その時の彼はやっぱりブラウン管の中の人であり、
ついでに頭にブリの被り物を載せていたりして、
意外と似合っていたのよね、これが。ふふ。
ってち~~が~~~う、どぉ~してぇ~っ? 
なんでブリなの? あっ、でもそれは、
「カボチャ篇でカボチャ~ズが出てくるよ~♪」
という予知夢だったのかもしれない。
ということで丸く納めるとしよう。

しかしですね、ファンとしちゃ~、
やっぱりちゃんとした吉岡君の夢が見たい。
この際贅沢は言わないよ、だから夢の中では
恋人同士であるべきだ。
そして「あのね、吉岡君、」あ、恋人同士だから
「吉岡君、」なんて呼びかけるのは堅苦しいわよね、
それじゃ、「あのね、よしおかひでたか、」
と呼び捨てで呼ぶのも思い切った一計かもしれない。
なんてな事を思ったりしてるから思考がショートして、
夢の中では吉岡くん回避現象が起きてしてしまうのだ。

吉岡くんの大ファンであるお友達は、
よく吉岡君の夢をみるらしい。しかも聞くと、
彼女の見る夢はとても現実的なストーリー性を持っていて、
その中で彼女と吉岡くんは「きちんと」且つ
「ふつ~に」会話をしているというので私としては
大層うらやましいのでございます。
どうすればそのお友達がみるような吉岡君の夢を
私もみることができるのだろう? やはりこうなったらもう、

気合だ。

気合さえあれば勢いで何とかなるものなのだ。 
ロッキーだって気合で6作まで作っちゃったしね。
よぉ~し、気合を入れて夢で吉岡君に会うぞぉ!
と決心したのがかれこれ一週間前ほど。

決心したその晩、布団に入ってからすぐさま
気合を入れることに気合を入れた気合の入りすぎた私。
頭の中はロッキーのテーマがエンドレスで流れており、
順調な気合っぷりだ。
いいぞぉ~、頑張って気合を入れ続けるのだぁ、
気合だ、ロッキーだ、気合なのだよ、うりゃぁっ!
と念じながら眠りについたらきゃぁ~~っ出てきてくれた~~っ、
ロッキーが。
それはオリンピック長距離マラソン真っ最中の夢であり、
世界各国代表の選手一人一人が、みんなロッキー。
ロッキー1~ロッキー100くらいまでのロッキー軍団が、
あの有名なロッキーのテーマ曲に乗って、
ジャブジャブッ、とか、アッパーッ、とかの
シャドーイングをしながら永遠と走っており、
ようやくその夢から目覚めた時はげっそりしすぎて
体重が3キロくらいは軽く減ってしまったような気がしたけど、
ベッドから起きて鏡を見たらやはりそれは気のせいだった。
あっ、でも今これを書いていて思ったけど、
もしかしたらあのロッキー御一行様軍団の中に、
吉岡君がちょいんと何気に紛れ込んでいたかもしれないっ。
ロッキーたちの迫力に気圧されて
吉岡君を見落としてしまったのかもっ!
なんてこったぁ~、せっかくのチャンスを逃してしまった~。
ロッキー一味のばかぁ~~~~~~!!!

やっぱり気合だけじゃだめなのね。

ならば次は神頼みだ!

ちびっ子の頃、好きな子の写真を
枕の下に入れて寝ると、その晩その人の夢が見られる
というおまじないがあったずらぜよ。
よぉ~し他力本願、望むところだっ、頼むぜ、神さんっ!
お正月の初詣の時とこんな時だけ頼りにしてすんません。

しかし吉岡君のお気に入りの写真といってもねぇ、
全部お気に入りっすよ。
それにしても改めて数々の写真を眺めてみると、
吉岡くんったらほんまに美しい。
きちんと自分の色彩を保ちながら、
しかしそれを決して周囲に押し付けたりせずに、
ひっそりとその光沢を放っていて、
とても静謐とした落ち着きをもっている。

気概という燐光を内面に静かに宿らせ、
ストイックに生きている品格の美しさが、
その外面に自然と湧き出ている感じがするですだ。

吉岡君は、「実り」という言葉が
とてもよく当てはまる人だと思う。

はぁ~好きや~吉岡く~ん。。。

ってことより写真を選ばねば。

写真で見る満男くん、純くん、コトー先生は、
どれもみな吉岡君であるけど、
でもどれもみな吉岡君じゃない。
彼らは吉岡君に息吹を吹き込んでもらった人物たちであり、
それぞれ別個の呼吸をしている。

茶川センセなんて、
色が白くて黒縁メガネかけてて細身だなんて一歩間違えたら
「元気はつらつオロナミンC」なのに、
しかしそこは一歩も間違わないのが吉岡君でありますのぉ~。
あんなに強い個性をもった茶川先生であるのに、
吉岡君は決して「既成枠」からその人格を固めずに、
あくまでも皮膚の内側からその人格を滲み出させているわけで、
けれどもやっぱり吉岡君自身の自我はそこには露ほどにも
見受けられないわけでありますので、
天才だ。

吉岡君は、与えられた脚本の中の人物を、
紙の上から引っ張り出して自分色に形造っていくのではなく、
脚本の中に埋まっているその人生を、丁寧に掘り出しながら
そこに息を吹き込ませてあげているのかもしりないですねぃ。。。

ということで話から大分とんでしまったでありますが、
結局そんな想いもあり~ので、おまじないに選んだ写真は
吉岡君自身が写っているキネ旬の表紙。パンパカパ~ン、
ゲッツ! (ゲッツ元気かな~?)

さてさてその晩は、大切に大切にキネ旬を
枕の下に入れていざ目を閉じた私。気合はいれんぞぉっ!
という思いについつい気合を入れてしまった。。。
いかんいかん、冷静にならんとね。
出てきておくれでないかい、吉岡く~ん。頼んますよ~。
いや今夜こそ大丈夫のはすだ。だっておまじないしてるもんね~。
なんてたってこの枕の下に吉岡君の写真が・・・吉岡君が枕の下に・・・
吉岡くんが・・・ 吉岡くんがぁ・・・・・あの眼差しでぇ・・・・・・
と思ってたら緊張して一睡もできなかった・・・。

結局次の日はひどい寝不足で、
フララララ~~としながらソファに座ったら
いつのまにかうたた寝をしてしまっていたらしく。
んがなんとその時垣間見た夢の中に吉岡君がぁっ!
よよよよよよよよよよよよよしおかくんが、
にっこりと私に笑いかけてくれていて、
「よよよよよよよよよしおかく~~~んっ!」
って呼びかけたらそこでパッと目が醒めてしまった。。。

短かったけど、一瞬だったけど、でも、でも、でも、
吉岡君が夢に出てきてくれたぁ~~~うわぁ~~~~いっ! 
やったぁ~~~~~っ! 神様ありがとーーーーーーー!!!


でもどうして吉岡君はモヒカンヘアーだったんだろう?

コメント (6)
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飛んじゃう話

2008年11月07日 | 思うコト


どういうわけか、
私の友にはお酒の強い人が多いであります。

お酒が縁で友情が深まった人や、
人生の辛酸を肴に飲んでいたら
いつの間にか酒が強くなっていた
という人たちも中にはいるけれど、でも友の多くは、
「飲んでみたら酒が強かった。」
という、酒の大相撲部屋ナチュラル番付、
みたいな人たちばかりであり、
ちなみに幼馴染である親友の二人も
やはり酒が強い。

かくいう私もお酒は強いので、
従って日本に帰国している間は、
自然とお酒を飲む機会が増えるわけで。

学生の頃のメンバーと集まって飲むと、
決まって話題に上る話の種が、
今日書こうと思っている
「飛んじゃう話」であります。

「事実は小説より奇なり」
などという言葉をよく耳にいたしますが、
なるほどそれはよく言った言葉でありまして、
云われてみれば、実際に周りで起きている物事などを
よくよく観察、考察なぞしてみますと、確かに、
現実に起こっている話に比べてみれば、
所詮小説の話などというものはまったくもって、
やっぱり「奇」だと思う。 だって、

登山途中でめっけた河童の後をつけてみたら
いつのまにか河童王国へ入り込んじゃった。

とか、

朝起きたら自分の体がへんちくりんな
ムシムシ君になってたの。

とか、

手塩にかけて育てた娘が実は宇宙人だったんだけど、
そもそも竹から生まれてきた時点で変じゃないか、
気付けよっ、爺ちゃんっ!

とかですね、

こういった「ぶっとんだ話」の小説を挙げだしたら、
それはもう枚挙にいとまがないのでありまして、
でもまぁいってみれば小説とは、
その「ぶっとび度合い」もテーマの一つでありますだば、
それでいいのだ。
とバカボンのパパも鼻毛を伸ばして納得しているのだと思う。

現実の世界にはここまでの「ぶっとんじまう話」は
存在しないでございます。けれども、
「ぶっとんじゃう」とまではいかないけれど、
でもじゅうぶんに「飛んじまう話」、要するに、
「飛びます、飛びます、二郎さんチック」
な話というのは、別に要しなくても
結構巷に転がっているものでごぜいますだ。

ひっそりと、目立たずに、敢えて言えば、
動物園の敷地の一番奥に追いやられた
アルマジロのように暮らしてきた私の人生にさえ、
この「飛んじゃう話」というものは存在しているわけあり、
数少ないそれらのことを今思い返してみると、
「謎の転校生事件」とか、
「謎の発炎筒を消火せよ」とか、
「謎の吸血女危機一髪!」とか、
「謎のカーネルサンダースよどこへ行く?」とかって
書き切れないわ、
てんこ盛りずら。

しかしこうして過去に起こった出来事を
羅列してみて気付いたけど、
こういった出来事たちはどうしてみな
「謎シリーズ」になっているのかしら?

ハッ 

こ、これはもしやっ、もしやこりはっ
「私はミステリアスな女」
ということなのだろうか? とすると私は
ニッポンのミステリアスの鏡である
「萬田 久子のような女」であり、即ち
「私は久子ちゃん」だと? 
そうだったのか・・・知らなかった、
私はミステリアスな女・久子だったのだ、
アクエリアスならよく飲んでたけど
ミステリアスだったとは気分は既にアンニュイだわ、
しかしならばどうして友たちは私のことを
「無限大にわかり易い。」
って形容するのかしら? 

謎だわね。

ということで、(←なにが?)
前回の帰国の際に皆で寄って集まって飲んだ際にも、
この「飛んじゃう話」が持ち上がったわけで、
その手の話は集まるごとに新作の目白押しであり、
話題が切れることは決してないわけで、
ということはこの手の出来事は、
日々どこかで常に起こっている出来事なわけであって、
やはり「事実は小説より時にはプチ奇である(かもよ~)」
ということなのかもしれないですだの。

で、今日はこの「飛んじゃうシリーズ」の小噺集から
いくつかピックアップして書いてみたいと思うのですが、
まずは、「浜辺はサマーだ事件」。

これは、友その1が小学生六年生の時に行った臨海学校先で、
「お菓子持込禁止」という、花のプチギャルッ子達には
「鬼の規則じゃでぇ~」という状況下のもとに起こった
ある出来事であります。

夕食も終わり、その日の課題を済ませた後、
就寝時間までの自由時間に、
寝泊りしている畳敷きの大部屋に集まって
みんなでわいわい丸座になって話をしていると、

「あれ、○美ちゃんがいないよ?」

と、ふいに一人の子が発言。
皆で皆の顔を見回すと、そういえば
いつもはクラスの中で立っている存在の○美ちゃんの姿が
輪の中のどこにも見あたらない。

「ほんとだ、○美ちゃんどこいっちゃったんだろう?」

「トイレかもよ。」

「トイレはさっき部屋に入る前に行ってたよ。」

「どうしよう、○美ちゃんがいなくなっちゃったよ!」

「一人で家に帰っちゃったのかな?」

次々に放たれる言葉と共に、
不安分子はざわわ~~~っと一気に拡大急上昇。
先程誰かがしていた怪談話の名残にも再び火が点き、
「やっぱりトイレに行って・・・・きゃぁ~~!!!」
とその場はプチパニック状態に。
それを宥めるべく、さすがの学級委員だった子が、
「先生に言って来る!」
と部屋のドアに向かって踵を返したその先に、
○美ちゃんの丸まった背中が部屋の奥の片隅に、
ポツリ。

「○美ちゃんっ!?」

と一斉に皆が叫んだその言葉に
ビックリ仰天して振り向いた○美ちゃんは、

口一杯にキュウリを頬張っていた。

○美ちゃんは一体どこでそのキュウリを手に入れたのか?

という謎は未だに謎のままらしく。

という前菜話付きでありますだ。
で、本話なのですが、
こっちの話はその「キュウリビックリ事件」の
次の日に起こったことらしく、
海辺での自由遊泳時間でのこと。

海なし県で育った人ならわかっていただけると思うのですが、
山に囲まれた土地で生まれ育つ者の宿命として、
「海を見ると以上に興奮してしまう。」
という無条件反応がありまするだ。

これは、「海」という言葉を聞いただけでも、
血湧き肉踊ってしまって時には知恵熱まで出してしまう、
という悲しいサガであり、
実際に肉眼で海を目の前に見てしまったりすれば、
「うぉ~~~っ」と無闇に海に向かって走っていったり、
「青春のバカヤロー!」と水平線に向かって石を投げたり、
海中で逆立ちをして「犬神家の一族~~!」なんてしてみたり、
挙句の果てにその後40度の熱を出して、
「こんな時期には地元のもんでも泳がねぇ。」
と旅館のおやじさんに説教されてしまったりの4月の久米島、
となってしまったりですね、
「そんなバカはあんただけだ。」
と反論する人が大多数かもしれないですが、とにかく、
多少の差はあれ、海なし県人には誰でも皆、少なからずの、
「海への渇望習性」があるのは確かですたい。

だからこんな習性を持ったちびっこ達が
海辺に大集合となれば、そりゃ~もう
盆暮れ正月一気にきちゃった!
みたいな大騒ぎであり、まさに現場は
サマーふぇすてぃばる。
海もさぞかし満足したに違いない。

そんなてんやわんやの状態の中、
一人の男子生徒が浜辺で何か見たこともない
「石」のようなものを発見。
それはほぼ完璧なボール状の円を形作っており、
大きさは直径2㎝ほど。色は褪せたような茶色で、
よく見てみるとボール状になっていると思っていた
直線を結ぶ先に位置している二箇所が、
心なしか少し尖がっている。

「これなんだろう?」

と隣にいる友達に聞いても、それが何なのか、
その子もまるで見当がつかない。

「先生に聞いてみよう。」

担任の先生の所に行ってそれを見せてみると、
先生もそれが何なのか全くわからない。
なので今度はその担任の先生が
他のクラス担当の先生の所にいき、
「それ」を見せると、
理科専門であるはずの物知り先生も
それが何かまったくわからないという。

そうこうしている内に、その
「夏のなんだろうフェスティバル」は
次第に波状に広がっていき、
ついには校長先生を巻き込んでの大騒ぎ。
しかし校長先生もその「謎の物体X」が何であるのか
全くわからない。

「超小型隕石かもしれない。」

とついに校長先生は言った。

「こんなものは今まで一度も見たことがない。
これはもしかしたらすごい発見かもしれないぞ。」

という校長先生の言葉に、全生徒、教師たちは
鼻の穴をサブちゃんサイズにして色めき立ったらしい。
「校長先生がそう言うならそうに違いない。だって、
校長先生なんだから。」
と私の友もサブちゃん鼻でそう確信したらしく。

「標本にしてしかるべき所に提出しよう。」

と決定を下した校長先生は、しかし一応念のために、
近くの浜辺で何かの作業をしていた地元のおじいさんに
「超小型隕石に違いないもの」を見せた。

「これはなんでしょうか?」

と緊張の面持ちで質問した校長先生を筆頭に、
おじいさんににじり寄る教師たち&全学年生徒たち。

じっ、と「それ」を見つめるおじいさん。

固唾を呑む学校陣。

「これは・・・」

と、おじいさんは眉間の皺を更に深く刻みながら口を開き、

「梅干の種だで。」

の言葉に一同 

その瞬間、校長先生の姿が一気に縮んで見えて
友は何故だか無償に悲しくなってしまったという。。。


他にも、友その2の中学の時の同級生が、
18歳でめでたく車の免許を取り、晴れて念願であった
新車のスポーツカーを購入して、もう嬉しくて嬉しくて
う~れしくって嬉しさ余って車のエンジンを空吹かししすぎて

車を炎上させてしまった。

車が爆発しなかったのは不幸中の幸いだったけど、
しかし車は廃車されてしまい、
後には車のローンだけが残ったらしい。
五年間もの。

というまるで4こま漫画の実写版みたいな話しもあったりして、
やっぱり事実は小説と同じくらい奇なりかも。


でもこの手の話をすることって、やっぱり
「今だから話せるんだけど~」という、
「気持ちの仮釈放」が必須ですたいね。
もしもこの「目測を誤ってはならない時間の流れ」を
蔑ろにしてしまうと、それは色々な所にひび割れを
作ってしまうですば~い。
話の掟とは、重要な鉄則でごわすだす。んだんだ。

しかし物事には多面性があるものだから、
ちびっと目線を変えてみてみれば、それは
「時」というものは、
「事」ということを、
「緩和」させてくれる力を持っている、
「宝」なのだ、
ということであるのかもしれないですだば~。

頭を丸めて出家したくなってしまうようなことが起こっても、
たとえ茨に囲まれてしまっているような現在にいるとしても、
時はいつかきっとその棘の痛みを癒し、
やがてはその茨全体を「飛んじゃう」話へと
ゆっくりとではあるけれど変化させてくれるかもしれないですのぉ。

棘も、痛みも、傷口も、
いつかは必ず、どこか心の落ち着く場所へと行き着くんだね、
ということなのかもしれず、
焦らずに生きていくということは、
時という宝の恩寵を授かって生きていく、
ということなのかもしれないですだば。。。


どんなに急いで遠くへ行ったって、
見上げる空はみな同じだよ。


そんなことなのかもしれないっすね。

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ens

2008年10月04日 | 思うコト


2006シリーズのコトー先生は、
とりわけその最終回を締めくくるラスト30分での、
島を往診するそのお姿ときたら、それはそれは
大層美くしゅうございますので、吉岡君、
ごっつぁんです!

吉岡君の出演作には必ず1つや2つの、
「おぉっ、シャバダバダッ!」、
巷で言うところの「ぉバッ!ポイント」、
というものがあるでございますが、
上記の「コトー先生往診する」の場面は、
もうなんというか冷静にいうと、
「ォババババババババビバノンノンッ!」
でありまして、更に例えて書けば、
ベルマーク3万枚。
みたいな感じでごぜいやす。

ついでにラストソングの稲葉一矢くんでも
このポイント例を挙げると、

秋の俳句 その1 

朝霧に 佇む君は 硝子の詩篇

とか、

秋の俳句 その2  

シュウちゃんに 羽交い絞めだよ はらりんぱ~

とか、

秋の俳句 その928 

なんたって ギター弾いてる 弾いてるぜーっ! 

とかですね、
羅列しだしたら書ききれないので、
それはそれは諸々テクマクマヤコンえとせとら~んで、
ヤンバラヤンヤンヤン。

しかもこのポイントくんたちは普段、
ほんげぇ~としている時などにいきなり
吉岡ですッ!
と脳裏に出現してくる突然突発現象であり、
うっかりしていると、
その突然脳内吉岡くん映像によって我が顔は、
「へら
と恥らい微笑むなまはげの如きなフェイスに変貌してしまい、
よって家族のものを恐怖のどん底に突き落としかねないので
要注意なのでありますが、しかしだってぇ~まったくぅ~
吉岡くんなんだからしょうがないのよ、ええじゃないかい、
素晴らしいったらあ~りゃしないのよ~、吉岡君ったら宝の山だわ、
巡る巡るよわ~んだほ~吉岡くんったらわ~んだほ~、って
ラブラブ走馬灯ですかい?

と一人ツッコミまで披露しておまけにそこら辺を
スキップらんらん♪とかまでしちゃったりするので
重症かもしれない。
でもいいのだ。
だって秋だしねーっ。

ということで文頭に戻って、
コトー先生のことでございます。

ついつい当たり前のことのように見てしまうのですが、
よく考えると、いやもしかしたらもしかせずによく考えなくとも、
コトー先生って奇跡の人に近いと思うですだ。

普段はまるで濃縮還元ヘタレ100%愛媛みかんジュース、
みたいな人なのに、いざ病人を目の前にすると
ブラックジャックばりの敏腕外科医に
スーパーチェンジするその大魔神のような変貌振り。
キリっとキリキリッ!と上京オペした後に、
全身脱力してますので魂は蒸発寸前なのだよ憂愁の君。
となってしまうその豹変ぶりなどはまさに前代未聞の
陽炎消之助くんでございますだ。
こんな様子を文面だけ読むとですね、まるで五島君は、
「トランスフォーマーですかい?」
と捉われがちになってしまうのですが、しか~し、
そう安々と劇画チックに流してしまわないのが、
吉岡くんですだば。
名優じゃけんのぉ~。
んふ。
んっふっふ~。
ふふふふふぅわぁ~はっっはっはー! 
また来週―!

なんて書いている場合じゃないのだったわよ。
元い。

2004の時も感じたことなのですが、
2006では殊更に、コトー先生は
半透明っぽい。
なんつーか、全体的に、その在り方が、
どこかひっそりと人知れず、
天に吸い込まれている。
みたいな雰囲気がそこはかとなくするですばい。

診療所の屋上へと一人で階段を登っていく姿を見るたびに、
もしかしたら五島くんの本当の居場所は、
切ないくらい澄みきったあの空に近いところにあるのではないだろうか?
なんて思ってしまってこっちも切なくなってしまうのどすえ。。。
ぶひっ。(←泣いているらしい。秋なので。)

んが、こんな儚き君な印象を全体的に与える人である一方、
しかしコトー先生の心はしっかりと島民の一人一人と繋がっているですだ。

ここでぃす。
ここなのでぃす。
こりが吉岡味じゃでたまらんっす~シャバダバダ~。
と、私なんぞは思うわけであり。

透明なのに、その存在感には厚みがあり、
とても儚そうなのに、えらく侠気がある。

この対極を成す要素が吉岡君の生み出す感情作用によって
無理なくコトー先生の核へと符合されているのだと思うわけで、
まったくこれだから吉岡君ったら・・・フッ。
たまらんぜよ。

コトー先生の医者としての腕は、超人ハルク並ですだば。
そしてコトー先生の人柄も、ナイチンゲール級なのだと思われ。
でも五島くん自身は、超人でも聖人でもないわけで、
あくまでも人間でありますだ。
決して既成の鋳型へとその人物像を流し込まない吉岡君。
わ~んだほ~なのだべり~まっち。

人間であるということを演じることは、もしかしたら
超人や聖人を演じることより断然難しいことであるのかも
しれないですねぃ。
人間だから排斥できない様々な自感情が
その内面に渦巻いているわけで、人間だから、
人間としての我意に葛藤し、しかしそれを
決してないがしろにせずに内包し咀嚼しながら、しかし
対する人へと解放する感情は芯から真っ白であり続ける五島くん。
苦悩、懊悩しながらも、すっと遥かに透き通り、
透き通りながらも島民一人一人の心の中にその存在をしっかりと
宿らさせてしまえる五島くんはやはり、
奇跡な人なのだと思うわけであり、
そうした人物を生み出す吉岡くんという人は、そうだわ、
そうよねそうなのだからそうなのよーっ、
奇跡なのだ。
極上やで、吉岡く~ん。

吉岡君は「宿る」ことのできる役者さんなのかも
しれないですたいね。

演じるその人物に宿る。
その作品に宿る。
その作品を観る人の心に宿る。

ハッ、こりはもしやっ?!
北の宿からの法則なのか?
あなた変わりはないですか? 
日ごと寒さがつのるのよ~吉岡く~ん
元気ですかーっ?! って、いやちょっと待てよ、
吉岡君は南の宿もどんどこいなのだ。とすると彼は、
「ニッポン全国ずずずい~っとどんとこい」、略して
ポンず君だったのねーっ。
どうりで素材に味を効かせる人だと思ったのだ。
まいったねぇ~。惚れるじゃねぃですかい、吉岡く~ん、
んきゃ


もちろんコトー先生に限っていうことではないけれど、
吉岡くんの演じる人物には、
そこに徹底したその人個人の体温が宿っているですね。
だからどの角度から切り込んでいっても、
その人物の核は絶対に揺るがないのだと思うし、
その礎が観客に安心感を与え、そしてその安心感が
彼の安定した演技力と相俟ってストーリー全体を
ひっぱっていくのだと思うです。

映画やドラマは観る人一人一人のものであり、
その意味意義は多様性に富んでいるものだから、
そこに役者さんがやたら滅法に色を塗りたくって
「見たれぃ。」と高みから押し付けるのでは、
それは確かにインパクトにかけては効果大やね、
とはなるかもしれないけれど、しかしそこには
観客と同じ目線で見渡す地平線はないと思うし、
そうなると結局、その作品はやがて記憶の中へと埋没していく
「過去の産物の一つ」へと化していってしまうのだと思うです。

吉岡君は、観客と同じ呼吸音で「そこ」にいてくれるですだ。
人は生きている限り呼吸をしていく生き物であるわけで。

彼の演じる人物には普遍性が宿っており、
それは微かに振動している共鳴波であり、押し付けず、
呼吸する空間を与えてくれるその器の部分に、
観客は感知し、響応し、安心しながら各々の気持ちを委ねられ、
そうした相乗作用によって、その作品は
高みに上がっていくのだと思うでぃす。

観る者を裏切らない役者さんとは、
こういう人のことをいうのだと思うし、
それが真の主役、即ち真のストーリーテラー
なのだと思うでありますです。
これが真の牽引者というものなのだわ。
頼もしいじゃねぇですかい、吉岡くんってばよぉ~、
はぁ~もうほんとに・・・・・
べらぼうにかっちょええぜぃっ!!!

って話が横に逸れてしまったですばい。

吉岡君の生み出す人物からは、
両端から中心へと向かって放散していく
エネルギーみたいなものがあると思うとです。
それが一番顕著に現れていると思ったのが、
話題があっちゃこっちゃ飛んで申し訳ないのですが、
「続・三」での、茶川さんが酔っ払って
自宅に帰ってきてからの一連の演技でぃした。
あれは崩壊ギリギリの限界感と、そこを掠めていく
緩んでほぐれてしまいたい気持ちのその対感情が、
それぞれの感情の両端から、茶川さんの核の中心へと
ぐぐ~っと引き寄せられてやがて孤独へと終局していく様が
も~う観ていて痛いほどひりひりりんと伝わってきて、
えらく切なかったとです。
でも切ないけどちびっと笑えてしまえるわけで、
笑えちゃうけど、胸がしめつけられるわけで、
切なさと滑稽さの重さと軽みが絶妙な兼合いでもって
脈打っているのでございますので、おぉっ、
これぞ吉岡っ!!! 

と心底思ったです。
くはぁ。
唸らせるね~吉岡く~ん。ちょっと言っていい?
好き。 (←控えめに言っているらしい。)

両極に対峙する複雑な感情を、
自然の成り行きの一つとして表現できる吉岡君は、
いやそれはもう「表現」という枠などからはとっくに
逸脱しているものなのかもしれないですねぃ。
一つの吐息も、一つの眼差しも、
それらは確かに彼の体の中に流れる血に宿っている
一つの真心なのかもしれないですだばぁ。

なんてなまとまりのない想いを巡らせていた
今日この頃の私でありまする。

秋だわ。
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メチエ 

2008年08月23日 | 思うコト


満男くんは別格として、
ルート先生は歴代Made in 吉岡の中でも、
パンパカパ~ンとファンファーレ、カパッとクス玉割れて
「素晴らしすぎるで賞」
という垂れ幕がひらり~んと頭上に舞い降りてくるよな
そりゃ~もうワ~ンダホ~でっせ~そこの奥さん、うきゃぁ~ん!
な人物だと至極個人的に思うとります昨今、
残暑お見舞い申し上げまする。

いや~、それにしてもまだまだ暑いですねぇ。
こうも暑いと暑さしのぎにちょっくら怪談の一つでも
読んでみたい気にもなりますわね。
怪談といえばちびっ子の頃、友から「絶対読んでっ、怖いから!」
という熱意の言葉に負けて読んだ「水木しげる・妖怪事典」みたいな
タイトルの本の中に「あずきばばあ」という妖怪が載っていて、
その妖怪はどんなものかとその本にあった解説通りに説明すると、
夜遅くに川辺を歩いているとどこからともなく
シャカシャカチャカチャカチャカカ~ンだよ、シャウトだベイベ~! 
ってアメリカンシンガーの名前になっちゃった。
そうではなくてですね、どこからともなく、
シャカシャカシャカシャカと音がするので、
恐る恐るその音が聞こえてくる方角に行ってみるとそこには、
川辺でシャカシャカあずきを洗っている老婆の後ろ姿が。(おぉ)
シャカシャカシャカシャカと一心不乱にあずきを磨ぎ続ける老婆。(おわぁ~)
とその老婆は急に後ろを振り返って、(ひょは~っ)
「一生シャカシャカ。」
と言うんだそうな。 完。
完なのね。
なるほど。
怖いのだろうか、これ?
自分の読解力が欠けているのかもしれないと思い
更にその後5回も読み返したもののやはり
おぉ→おわぁ~→ひょは~っ→なるほど。 
となってしまう。これは同じ「かいだん」でも怪談というより
階段落ちに似たギャグ落としなのではないのだろうか?
というかこれのどこが妖怪なのだろう?
もしかしたらそれはその川の近所に住んでいる、
夜中にあずきを洗うのが好きな働き者の
小豆とぐさん89歳とかかもしれないじゃん。
などと思っていたあの頃の自分の記憶が蘇ってきたでございます。
可愛くないちびっ子だった。。。。。
というより、はて私は何を書こうとしていたのかしらん?
あ、そだ、ルート先生は素晴らしいよね、そうだよね!
ということを今日は書こうと思っていたのでぃした。ふふ~♪
何故に今頃またルート先生の話題なの?
と思われる方もいらっしゃるかもしりません。なので理由を説明すると、
ただの発作。ということでありますだ~。
だってルート先生ってば「とことんぶらぼ~てんこ盛り~」、
略して「とことん盛りだぜ一丁ありぃ~~!」でごぜいますだ。
(↑略すどころか追加字されているのは何故なのだろう?)

とにかくなんてたって私にとっての「数学」とは、
もうその言葉を耳にしただけで、
思わずその場で頭を丸めて出家したくなってしまうほど、
できれば結婚を前提にしなくとも交際をお断りしたい! 
というサブジェクトにもかかわらず、
私にとってのルート先生は、もうその言葉を耳にしただけで、
思わずその場で「きゃぃ~ん!」と叫ばせながら
そこらにある壁に向かって突っ張りを繰し返し、
「とうとうイカれてしまった・・・。」
と家族を本気で心配させてしまうほどの魅力の持ち主。むふ。

なんてたって「ルート」という名前だぜよ、ハレル~ヤ。
これがもうぴったんこずら。
これ以外の名前は考えられないほど
全身ルート使用でごぜいますだば、吉岡くん。
もしこれが、
「君は今日からシグマくんだ。」
とか
「君は今日から部分積分くんだ。」
とかだったら話もネグセもだいぶ違ってきたのだろうけど
そんなことはどうでもよいのだったわ、とにかくルート先生は、
ほんまにずずずい~っとどこからどこまでも、
ルート。
名前に全く無理がな~い。
のは、
演技に全く無理がな~い。
それは、
吉岡くんったら名優だわ!
ヨ~ロヨ~ロヨ~ロヨ~ロヨ~ロレイッヒー♪
だからなのだと思う。
まいっちゃうわね、ヒデちゃんったら、申し分なくてよ、うふふん。
それに、
形状記憶合金成分が配合されているのではないだろうか?
と思われる程に強力な勢いで撥ねている
あの前代未聞のネグセヘアーはきっと、
「ニッポン全国ねぐせお悩み協会」の人々に
希望の光を与えたと思うし、
ルート先生は洋服のサイズの選び方を知らないのだわ、
と母性本能をくすぐりまくって、
うふ、うふふふ、うふふふ~ん、ジョワッ!
とさせてしまうあのブカブカブレザー姿はやはり、
「ニッポン全国ブカブカ連合会」のみなさんに
明日への指針を与えたと思う。
そういえばその昔、一矢くんはシャツの着方を知らなかったけど、
やはりブカブカ~ンなサイズのシャツを着用してはだけていたわ。
ごっつぁんです。
それに純君も大きめのシャツを好んで着ていたような記憶があるし、
茶川さんなんてブカブカ~なスーツを着て果てしなくヨレヨレ~ンとなっていた。
ということは、吉岡君はブカブカっち~、要するにぶっち~くんなのだろうか? 
ブッチャーなら知ってるけど、ぶっち~とは初耳だ。いやまてよ、
コトー先生の上京キメキメスーツは細身のきっちりスーツだったわ。
あの姿はほんまに何度見ても・・・・・・・・・吉岡君ばんざーーいっ!!!
あ、話がズレてしもうた。そうそうということはですね、吉岡君はまぎれもなく
ぱんぱかぱ~ん、カパッ!
「なんでもござれいで賞」
垂れ幕ヒラ~リ。
なのだわ、すごいで賞! んもうこれだから吉岡君ったら、
魅力に切れ間がないのよ~。たまらんじぇ。むはぁで賞。

以前にも書いたかもしれないけれど(←覚えてないらしい)
このルート先生役は、ほんっとーに難しかったと思うです。

なんてたって数学という材料でのほぼ一人芝居でもって
観客をひっぱっていかねばならんという、星飛雄馬も
大リーグ矯正ベルトを投げ出して逃げ出してしまうこと
間違いなしの大試練の道。
しかしそれを立派に歩き抜いてくれたのが吉岡くんなのだ。
さすがだぜよ、吉岡くん。
吉岡ルート先生がいなければ、この映画は成り立たなかった
といっても過言ではないと思うでありまするだ。
結果で勝負のヒデタカ。
くぅ、たまらんでねぇですかい。
惚れるじゃねぇ~かぁ~、吉岡く~んよぉ~。
惚れれるけどぉ、とことん。

この大人になったルート先生の存在が、そのまま博士と母親、
そしてチビルートくんの辿ってきた人生の集大成なのであり、
それらすべての要素が吉岡君の演じるルート先生の一つ一つの
仕草に、表情に、気配に詩的なくらいに反映されているから、
この話がはじめて美しく成立してくるのだと、そう思うでありますだ。

ルート先生は紛れもなくこの話の語り部であり、
軽やかなリズムでストーリーに色彩を与えている指揮者であり、
隠れた宝石を沢山内包している真の宝箱なのであり、そして
観客を対岸の川岸まで無事に届ける立派な船頭さんなのだと思うわけで。

「数学の授業」という無味乾燥になりがちな題材で、
カメラアングルはほぼ正面撮りのほぼ一人芝居だけで、
あくまでも出すぎず、絶妙なバランスを維持しながら
最初から最後まで完璧なストーリーテラーとして
見事にルート先生をスクリーンに生み出した吉岡君は、
もう文句なしに素晴らしいと思うでありまするだ。

「ありえないくらい緊張した。」
とこの撮影について後述していた吉岡君だけれど、
しかしそんな緊張感は見ているこちら側には
微塵も伝わってこないでありまする。
おおらかに、のびやかに、まるで夏空のように晴れ渡ったルート先生。
まっさらに、嫌味なく、数学をいう世界を通して
真の愛情とは何なのかを生き生きと伝えてくるルート先生。
そんなルート先生だからこそ観客は「安心して」
自分の気持ちをストレートにルート先生に託せるわけで、
そして「小難しい数学」という枠をすっぽり外して彼の持つ世界、
すなわちこの映画の世界の中にすっと入り込んでいけるのではないのかと。

これが名優の為せる業ってやつでごわすわね、マドモゼ~ル。

素晴らしい。
何て素晴らしき世界なのだ、吉岡君よっ。
金メダルを1ダース箱に詰めてお中元の熨斗をつけてお送りしたい!
忘れないうちに金メダル1ダース箱に詰めたお歳暮も一緒に送って、
ついでに福引券もつけておこう。
んもうっ、吉岡君ったら、と~~~れびあ~~~~~~~~ん!

吉岡君の演じている姿を見るとき決まって何時も、
「吉岡くんは流れを組んでいるんだな~。」と、
そう思うであります。
幼少の頃から身近に見て共に演じてきた名役者さんたちの
流れを受け継いでいる、という感じがすごくするです。
それは技術的なことというよりも、伝えていく意志というものを
しっかりと受け継いでいる、という強さが感じられるとですばい。
もしかしたら吉岡くんはその意志を継いでいく使命を持って
この世に生まれてきたのかな。いやその意志を担うように生まれてきた人は
他にも沢山いたのかもしれない。でもそれを背負っていけたのが
吉岡くんだけだったのかもしれないですだ。
役者であるということは、人生を真摯に生きること。
という名役者さんたちの意志の流れをしっかりと
受け継いでいるような気がとてもするとです。

吉岡くんは決して「流行」でも「現象」でもなく、
一人の役者なんだということ。
今、ドラマや映画でよく見かける他の俳優さんたちの存在に比べると、
吉岡君にはどこか「ズレ」を感じる人もいるかもしれないですだ。
でもその「ズレ」の感覚は一体どこからくるのだろう?
もしかしたらそのズレは、
私生活を切り売りしながら芸能界に生きている人と、
普通の生活を大切に守りながら生きている吉岡君との間に感じる
「ズレ」なのかもしれない。
でもそれってどちらがズレているんだろう?
どちらが私たちの生活からズレているのだろう? 
そんなことに答えなんかきっとないのだろうけど、
でもきっと想像もつかないくらいの辛い時期を
逃げずにしっかりと受け止めてきたからこそ存在している
現在の吉岡くんだからこそ、
その彼が求めて決める選択だからこそ、
これからもそれを支持していきたいな~と思うでごわすです。

人生は大げさなものではないということ。
大げさではないけれど、一つ一つが大切なんだということ。
彼の姿を見ているといつもそう感じるし、
だからこそその姿を見ることで、
心が癒され、そして元気が出てくるでありますです。

よく周りの人から
「吉岡くんのファンになったきっかけって何なの?」
と聞かれるのでありますが、
その一瞬のきっかけは確かにあったとです。
でもよくよく想いを馳せればそのはじまりは、

そこに吉岡くんがいたからだと。
スクリーンの中に吉岡くんがいたから。
ただそれだけだったのだと。

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柳は緑 花は紅

2008年07月26日 | 思うコト


はぁ~~~~~~~。

と最近、ため息ばかりついている私であります。

本のページを開けば、はぁ~~~~。
空を見上げては、はぁ~~~~~~。
夏だわ、と思えば、はぁ~~~~。
三度の食事を前にしてとりあえず全部食べてから、はぁ~~~~~。
北島のサブちゃんを見れば、はぁ~~~~~~~~~~~るばる来たで、函館。
と歌ってしまうかもしれない。なんて思ったりしただけで、やっぱり
はぁ~~~~~~。
と、乙女はため息のお年頃。(←乙女なのかよっ?!)

そうなのでぃす。
恋する乙女は恋煩い。ため息ついて三千里。
いやいやいかん、いかんぞこのままじゃ。
つくのはため息じゃなくて、お餅に限る。そうだ、お餅。
気合を入れてお餅に意識を集中しよう。人生詰まるところは気合だ!
ってアントニオ猪木も言っていたかもしれないじゃないの、燃える闘魂よね。
って、そんなことはどうでもいいのだった。お餅よ。お餅、お餅、お餅、お餅、
お餅といえばよもぎ団子よね。よもぎ団子といえばくるまやだわ。
くるまやといえば寅さん。寅さんといえば、満男ぉ~、元気でやってるかぁ? 
おいちゃんは恋しいぞぉ~、満男く~~~~~~~~んっ、すっきやでぇっ!
って、だぁーーっそうじゃな~い!お餅よ、お餅~!お餅、お餅、お餅っていえば、
コトー先生はいったんもめんのようになりながらお餅をついていたわ。
どっちがお餅だかわからないくらい白かったわね、まったく五島くんったら、フフッ。
そういえば重さんから手移しで餅食ってたよな~。なんで?なんでなの?
仲良しカップルみたいじゃないか、うらやましいぞぉっ、重さんになりたかった!
って、そうでな~~いっ!お餅よ、お餅ぃ~。餅っ、餅っ、餅なのよっ。餅といえば
ランニング姿の茶川さんはなんだか餅肌っぽい。サトウの切り餅みたいずら。
あもっちぃも~ちもちもちぃ~♪ ってかい? 

ダメだ・・・・。 
恋煩いのお百度参りをしているみたいだ。。。
どうしてくれるのだ、吉岡君よ。
はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~。
なんだか、 ~  が長くなってきているように思える。。。
しょうがないから一句詠んでみよう。

吉岡くん 吉岡くんったら 吉岡くんだよっ 全員集合! 

何か違う気がする。。。 
もう一度、詠みなおし。

吉岡くん 吉岡くんったら 秀隆なのよね バロロロロ~ン

だめだぁ・・・・・・。アホさ加減がグレードアップしてしまった。。。
はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。
切ないわぁ~。
吉岡く~~~~~~ん。

君って人は、現れたかと思えば、さっと退場しちゃうのよ。
ズバッと参上、ササっとおさらば。うつぼマジックですか?
もうっ、ずるいじゃないかぁっ、惚れさせズバット君!
それとも君は恋のジプシージゴロなのか? もしくはギャランドゥ?
そもそもギャランドゥって何語なのっ?!そんなことより、
うわぁ~~~~~~~~~んっ、どないせばええのじゃ、
この亜熱帯高気圧のような熱き想い。


そもそもどうして何故に私が
第685期・吉岡恋わずらいの病に陥ったのかと申しますと、
そりはズバリ、ヤマサくんのせいであります。
ヤマサ公式トップでフラッシュ登場するあの愛しの君。
あの吉岡君がぁ・・・・・・・・・・・・・おじょびゃばばぁ~!

この上文の後半部分である原始の叫びを現代語訳にするとですね、
「え?吉岡君なの?吉岡君よねこれ?そうよ吉岡君だわ、吉岡君なのよっ、
きゃぁ~~~~~~っ、でもなんとなく吉岡君じゃないような気もするのよぉ~
ではこれはニューバージョンの吉岡くんなのかしら?でもやっぱり
上から読んでも吉岡君、下から読んだら君岡吉って謎の中華料理店みたいだわ
ってふざけちゃったわ、そうよこれは紛れもなく吉岡君なのだわ、吉岡君なのよっ、
なんてこったいっ、クラ~っとしたぜよ、吉岡君ったらどうしまほー?!」 
ということでありますだ。(←だからどういうことやねん?)

おまけにこのフラッシュ・ヒデタカときたら、
なんと斜めからのヒデちんアングルときたもんだで、必殺だぜよっ!
おぉっ、神よ仏よなんまいだー! どんまいだー! どんたくだー!
ドドンパドンッ! 日本の夏、キンチョーの夏。た~まや~♪
フッ、興奮しすぎて我を失ってしまったわ、あたくしとしたことが。
そこまでして私をノックアウトさせたいとは、吉岡君よ、
そう簡単にはそうさせてしまったじゃないか。
悔しくはないが君の勝ちだ。
完敗してしまってよ。
なんていうか文字にするとこういう気分なのよね、
うきゃぃ~~~~~んっ!すっきやでぇ。ぼわっ  絵文字つき。

ということで、上記した現代語訳のポイント部分に
蛍光ペンでハイライトをつけるとするとですね、
「これはニューバージョンの吉岡君なのかしら?」
ここだけでありますです。すんません。

このヤマサ公式トップの吉岡君でありますが、なんというか、
違う。
どこかが素敵に違っている、という感じであり、
とても「大人」。
いや、以前からだって彼は立派な大人だったでありますが、
でもこの吉岡君は、なんかちょっと違うぞなもしぃ。
なんともいえない「大人の男」の香りが漂っているのだけれど、
でもそれは成熟とか、熟成とか、豊穣しているっていう
言葉からは微妙に一線を画しているというか、
とても落ち着いているのだけれど、でも同時に、
在りし日の心は全く失っていない。
といったような独特のフェロモンが、
五月の風のようにその体全体からさらっと発散されており、
その「さらっと」がえらく粋なのであって、べらぼうに素敵だわっ、
吉岡君ったら、文句なしに素敵ぃん!
という感じでございましたので、わたくし乙女は
イチコロリンであったのでごぜいます。(←あくまでも乙女で通している。。。)

この「さらっとしている。」って、実はとっても難しいと思うとです。
何故なら人間には自己顕示欲というやっかいなバリバリ自感情があるわけで、
しかしその感情は、ある程度の尺度で持っていないと、この世知辛い世の中、
生き抜いていくのは難しいことなのだと思うですだぁ。
でもだからといって、そういった感情を野放しにしてしまうと、
それはムクムクリンと徐々に頭角を現し、やがてはその人の体全体に
おらおらぁ~!というオーラとなって滲み出て、
おい、君、ざらっとしてるね? となってしまうのだと思われ。

大切なのは、バランスをとることなのかもしれない。
でもバランスをとりつづけるのは難しい。

だからこそ、いともさらっとまっさらなまま、さり気なく、
自分自身でいられる吉岡くんは、
やはりとても芯の通った人なのだと思うであります。 
揺るがない逞しさを外連味なく持っている男なんだぜよ、
と。 

吉岡君は、遥か大地に聳え立つ山のようであり、
草木をやわらかくそよがせる風のようでもありますだ。
大人の品格の中に少年の本質を見失わずに持ち続けている彼は、
もしかしたらその心に雑草があまり生えていない人なのではないだろうか? 
雑草の芽が出た時点ですぐにそれを摘みとれる人なのではないだろうか? 
などとそう思ったりするでありまする。

他と流れを共にしながらも、しかし他に流されることなく、
その流れを濁らすこともなく、己の世界を温雅に構築できてしまう吉岡君。 
気負わず、在るがままに、心をふわっと開放しながら
他に寄り添っていくことができる、そんな余裕と逞しさを
バランスよく心に持ち合わせている人なのかもしれないですねぃ。。。


度々書いていることではありますが、
吉岡くんという人は、とてもさり気ない。

さり気なく天才であり、
さり気なく努力を惜しまず、
さり気なく人生に一途であり、
そしてさりげなくどこまでも美しい。

さり気ないって、えらいかっこええ。
かっこええぞぉ、吉岡君。

はぁ~~~~。すっきやでぇ
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光の断片

2008年06月25日 | 思うコト

最近私はおかしい。
いやこれにはちょっと語弊があるかもしれない。
もっと正確に書くと、
最近私は更におかしい。
こっちの方がぴったしかんかん。
何故そうなのかといいますと、
それは改まってここに書くまでもないことですので、
吉岡君です。書いてしまった。

そうです、そうなのだ、吉岡君よ、
チミが素敵すぎて素晴らしすぎて勢い余って
シコを踏んじゃうほどかっちょええから、
こっちとら茶川文学氏を見て、
おはぁ~~~~~~~~~~~~~~~~っ!
と叫んだり、ヤマサのCMを見て、
うきゃ~~~~~~~~~~~~~~~んっ!
と両手を両頬にあてたり、青木くんを見て、
えぇええええええでぇ~~~~~~~~~~~っ!
とガッツポーズをとったり、公式トップの写真を見て、
んばばばばばぁ~~~~~~~~~~~~~~っ!
と擬音大祭りになったかと思えば、カパッ!と頭上でクス玉が割れて、
「捜査官」
という垂れ幕までお出ましになったので、
のわぁ~~~~~~~~~~~~~~もう~~~~~~~っ
どないしよーーーーーーーーーーーー吉岡く~~~~~んっ!!!
てな高揚しすぎた気持ちを抑えるために犬の散歩に出かけた後、
部屋に戻りソファーに座って一息「んばっ
っとか小声で控えめに言ったりしているので、
やはりこれは大変におかしいのかもしれない。
まったく吉岡くんったら、惚れさせホームラン王。
巨人軍と吉岡君は永遠に不滅なのだ。まいっちゃうね~。
んきゃっ

ずっと以前にも書いたことなのでありますが、
吉岡君という人は、とても余韻のあるお方だな~っと
つくづくそう思うでありますです。

その全体の姿や、そこから発する言葉、そして笑い声。
それらを見たり聞いたりする時、
それは自分自身の持つ感情と相俟って、
同心円を描きながら、静かに心に余韻を残していくですばい。

彼の笑い声や、笑顔を思い出すと、
心がふわっと柔かくなる感じがするであります。
柔かくなって、心がすっと広がっていく感じ。
そうなるのはきっと、彼の姿に暮らしが宿っているからだと思うわけで。
人の暮らしは、人の心に温もりを与えるわけであり。
自分の暮らしを通して見る彼のその姿に、
心がふわっと調和していくのかもしれないですだ。

昔、寅さんが、「労働者諸君、あいかわらずバカか?」
と言っていた言葉に、日本全国の労働者諸君である観客は
声を出して笑っていたでありますが、
それは人としての酸いも甘いも知り尽くしている寅さんの言葉だから、
みな笑うことが出来たのだと思うわけで、
これがもし小沢幹事長の言葉だったら、日本各地で内乱がぼっ発し、
ガソリン価格が1リッター1980円プラス消費税に高騰してしまうと思う。
人の暮らしは言葉だけでも、結果だけでもなく、その歩みだ。

吉岡君の役者としての天質は、とても稀有なものだけど、
でも「吉岡君はそこにいる。」と感じさせてくれる
絶対的な暮らしの温度を、彼は静かに内包しているのだと思う。
更なる高みへと登っていく人であるけれど、
しかし決して高みから人を見下ろさない。
同じ目線を持っている。同じ目線で生きている。
そんなある種、達観しているような人生観を、
彼は持っているのかもしれない。
それが吉岡君という人の骨格なのかな?

私達が見る吉岡君の姿や笑顔は、
彼のほんの一つの断片にすぎないし、
その小さな破片は、いつかどこかに
吹き去っていってしまうものなのかもしれない。
でも心の奥底に静かに沈んでいったその残影は、
いつまでもそこに残り、
そしてやがて新しい息吹を与えてくれるのだと。

きっと吉岡君は、
ずっと吉岡君のままだ。

そんな感じ。
そんな感じが、吉岡君。

大好きやで。

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その向こう側

2008年06月18日 | 思うコト


なんとなく解せない。
といった出来事は日常生活につきものでありますだ。

例えば、温泉に入ったらその湯が根性入ったぬるま湯で、
なんだか納得出来ないままふと横の壁を見ると
「ぬるま湯 注意」
と赤サインペンで書かれた紙が貼ってあった。
・・・・・・・・・。
だから?
だからどうすればええのですか? もしやこの湯が、
「ぬるいんだよぉ~~~ぬるぬるるぅ~~~~~~。どう?」
とか話しかけてくるので注意してね♪ とでもいうとですか? 
怖いじゃないかぁ~。
とか、
はたまた昔、小学校の夏休み明けに、
休み中に東京に遊びに行った友達からもらったお土産が、




という漢字二文字のキーホルダーだった。
① 嬉しいんだけど悲しい気もする。
② 人知れず複雑な沈黙に浸ってしまうかもしれない。
③ 秋近し。
とか、こうなんちゅ~か、悲しんだらいいのか、喜べばいいのか、
怒ったらいいのか、笑ってしまえばいいのか、いっそのこと
ドカ食いしてしまえばいいのか、リンダまったく困っちゃう。
みたいな感情の渦のちゃんこ鍋、みたいな感じでありますだぁ。 

この「なんか解せないうやむやん感情」が、
怒涛のように押し寄せた日が、昔、むか~し、その昔、
乙女だったあたくしがまだテラノザウルスと共存していた白亜紀に、
立て続けに起こったことがあったのでございますので、
この事について今日は書きたいと思いますです。

そりはある晴れた日のことじゃった。
学生時代のミニ同窓会へ向かう為に、最寄りの駅へと向かっていた私は、
駅改札口まであと36歩という早歩きゴール直前地点で、
「あなたの幸せのために祈らせてくださ~い。」
と、どこからともなく蜃気楼のように正面に沸いて出てきた女の人に
話しかけられてしまい、しかし電車の発車時間が押し迫っているので、
「あ、あの~、急いでいますので。。。」
と丁寧に断りを入れた矢先にダッシュでその場を去り、
あと12歩で改札口突破、やったぜ武蔵、遅れはしなかった!
と思った矢先の目の前にその女の人が再び立ちはだかっていた。
弁慶ですか? と呆然としていると、
そのどこからともなく蜃気楼のように湧いて出てきた女子、略して
蜃気湧子さんは、その場ですばやく、すぃ、と右手を私の額にかざし、
「目を瞑ってください。光が見えますよね?」
と有無を言わさぬ問いをかけてきたので、
「そうですね、光る光る東芝、回る回る東芝、走る走る東芝、東芝のマーク。」
などとおちゃらけてしまった勇気は無論なく、
「ぇ・・・・・いえぇ・・・。」
と10㍉くらい縮こまって答えると、すかさず蜃気湧子さんは、
「あなたは変だ。」
と無表情のままヒシっと断言を下し、
「幸せとはなんですか?」
と無表情のままビシッと疑問まで投げつけてきたので私は思わず
ツタンカーメンの様にその場に凝り固まってしまったのですだ。
はぁ~~~~~~~~、やれやれ。。。。
ハッ、そんなことより電車の時間がぁ~っ。
気付くと電車の発車時間まであと3分。どわぁーーーーーっ。
どうにかこうにか蜃気湧子さんのレクチャーらしきものから逃れて、
発車のベルが鳴り響くホームへと猛ダッシュしたものの、
プシュ~~~~~。
ドアは非情に目の前で閉まり、私は荒野に佇むモアイ像。

何故なのでしか?

何故に見ず知らずの人に「変」呼ばわりされ、
電車に乗り遅れまいと般若のような形相でホームへとダッシュし、
そのためせっかく2時間くらいかけて作り上げた
「髪だけいっぱし白鳥麗子」ヘアーが、一瞬にして
ライオネル・リッチーにチェンジしてしまったのだろう? 
どうしてどうしてライオネルのヅラを被ったモアイ像と化して
走り去る電車を見送っているのかしらあたしったらぁっ?
どうしてなのぉおおおっ? こりはよく考えてみてもみなくても
解せないぞなもしぃっ!!!
「幸せとはなんですか?」
なんて一休さんだって全日本とんち協会の理事長だって解けないような
人類普遍の問いを吹っかけてくるなんて何なのですかぁ?!
そんなもんはどう答えたって「そのとぉーーーーーーりっ!」と
パネルクイズアタック25の児玉清さんが叫ぶような正解キューは聞けずに
エールフランスで行くパリ旅行券を逃して東レのカーペットを手にし、
「いったいこれどうやって持って帰ったらいいのかしら?」なんて
余計な心配までして途方に暮れちゃったりするかもしれない。
そもそも幸せとは考えるものではなく感じるものであり、
先回りも後回りもない現在進行形のものであると思うわけで、
答えも解説書もマニュアルも必要ないのでねぃでしょうか?あ、でも
これも一つの青年の主張だわ、だとしたら蜃気湧子さんの信念と私の意見の
違いはアラスカサーモンと北海鮭の違いくらいなものなのかもしれないわ。
ちなみに一休さんのお友達の新右ヱ門さんの顎とニコちゃん大王の頭部は
似ていると思うっ!ってそんなことより遅刻じゃないかぁ~、ばかぁ~ん!
絶対遅刻しまいと、じゅーぶんすぎる程じゅーぶんに余裕をみて
家を出たのにぃ~~~~~~~~~っ、キィ~~~~~~~~~~ッ、
結局遅刻かよ、武蔵。
その後、40分も遅れて会場に到着した私に、
「その髪、冗談だよね?ぶはぁっ!」
と開口一番笑って言ってのけた初恋の君。
君の腹周りこそ冗談だろう?

解せないのだ。

とにかくその日は「なんか解せない。」
とふるふるしてしまう出来事のフルコースでありまして、
同窓会から自宅に帰る電車の中では、
「スーツごと泥酔してます。」
みたいなサラリーマンのおっさんが、リングに出てくる貞子も絶句して
TVの中に逆戻りしてしまいそうな妖怪状態になりながら、
「そこのねぇ~・・(2秒沈黙)・・ぅいっく・・・ちゃんよぉ~~~~、」
とぶつぶつ言いながら接近してきたと思うや否や、
「けしょーがまだらなんだよぉ~~~~~、ぃひっく~。」
とメイク批評をおっぱじめ、更にその後に乗ったタクシーの運ちゃんには
「若い娘がこんな時間までほっつき歩いているなんてツッパリかっ?!」
といくらなんたって時代錯誤な化石語で説教までされてしまい、
そんなこんなのまるで達磨落としのような連続撃沈に
陸に上がりすぎた河童みたいにカビカビンになりがならも、
やっとのことで自宅に辿りついて気分直しに冷蔵庫を開たら、
楽しみにとっておいたコージーコーナーのシュークリームが
忽然と姿を消していた。 という驚愕の事実に、
ドラゴンキックを炸裂する8秒前のブルース・リーみたいな顔に
なってしまった経験の持ち主はなにも私だけじゃないと思う。(と思う。)

はぁ~~~~~思い出しただけでも疲れちったぁ~。
読んでくださってありがとうございました。

とにかくこういうことって結構キリなく椀子蕎麦のように
ホイサッホイサッと日々起こってくるわけで。
なのでこういった出来事に一々眉を顰めていたらそれこそ胃が
キリキリすったもんだになってしまっておまけに眉間に深い皺まで
刻まれてしまうので、あまりキリキリしない方が健康にもお肌にも
いいのかもしりない。んだんだ。んだども、わかっちゃいるけど
すったもんだぁ~。でありますばい。。。はぁ~どっこいしょぉ~。

この「なんか解せない感じって感じぃ?」は、
とても「うやむや」な感情でありますので、うやむやなだけに
それはうやむやに感情のベクトルを変えていくわけで、
なのでこれは時にうやむや~んになったり、
うやむ~やん、になったり、う~~~~やむやんになったり、
まったくもってタイ料理みたいな響きになってしまう
わけわからん感情のごった煮なのですだ、おかみさん。

日々の生活って、なんか絵の具のパレットみたいだなぁ~、って
時々思うであります。
様々な色の感情がパレットにのっていて、
様々に起こる出来事によって、それに反応した色が、
増えたり混ざったり新しい色を生んでいったり。
けれども色を選ぶ筆を持っているのは
自分自身の心であるわけで、その選択によってパレットは
どんな色にも変わっていくと思うでありますです。

日々起こる事は複雑で、状況を変えていくのは
もしかしたら難しいことなのかもしれないですだぁ。
でも日々起こる事から派生する自分の感情を変えていくのは、
もしかしたらそんなに難しいことではないのかもしりないですねぃ。。。
筆は何を見つめ、そしてどの色を選ぶのか。
ちびっと目線を変えてみれば、新たに描き出される風景は
日々趣きを変えていくのだと。

幸せって、やっぱり日々生きていくことから生まれる
とてもささいなことに彩られているのかもしりないですばい。
そのささいな色を「感じられる」ということが幸せなのかもしりないなぁ~、
なぁんて思ったりするでありますです。。。

例えば、吉岡君が聴いて感動したという歌を、
自分も聴いて心を打たれたということは、
そこに空間的な気持ちの繋りがあるのだと思うでぃす。
それは確かに感じる喜びであると思うし、幸せの一つなのだと。
もしそういった気持ちを「かっこ悪い。」とかなんとか
そういった類の言葉の鋳型にはめこんで揶揄する人がいるとしたら、
私は別にかっこ悪くてもええよ~。
幸せに通信簿なんてなかとですけんそれでよか。

その向こうへと思いを寄せる、ということ。
遥か彼方に見渡す山々の向こう側には、
またそれぞれの人々の生活が広がっているわけで。

風はどちらの方向にも吹いていくですね。
窓を開けて、
今日も一日がんばっていきまっしょい!


そんなことを思ったりしていた今日の私でありました~。 
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木漏れ日

2008年05月16日 | 思うコト


私の名は時にハッスルマン。
いや正確に書くと一応私は女性なので、
ハッスルウーマン。
略してハッスルマン。(←ウーしか略してないらしい。)

しかしこのハッスルマンは普段、
秘密地下組織に身を潜めているので、
そう滅多には地上に姿を現さないエナジーセイバーであります。
なので大抵の日々は「かったりぃ~なぁ~。」というモードに
身を隠して生活しているカッタリーナちゃんなのでありますだ。
そりはなぜかって? 
フフ。なぜなら人間、力みすぎると肩こり頭痛筋肉痛になってしまい、
時には大失敗をおかしかねないからなのでありますだ。
ちなみに私の父親で例を挙げると、彼はその昔、
私の結婚披露宴での「涙の父親スピーチ」にさきがけ、
その六ヶ月も前から、
「娘の一世一代の晴れ舞台。
父として真面目にやり通さなければいけない。
笑いをかましてはいけない。
ちゃんとせねばぁっ!」
と側から見れば「何かの祈祷念仏なのだろうか?」
と思えなくもない力みモードで毎日そう唱え続けたものの、
しかし肝心の当日当場面、
緊張の面持ちで舞台に上がった途端、
「オヤジーっ、がんばれよおっ、ヒィックッ」
「パピィ~、がんばってぇ~ん! ウィ~」
などなどのすっかり出来上がってしまった酔客達からの
激励コールに度肝を抜かれて我を失ってしまい、
「ただいまご紹介に預かりましたオヤジのパピーです。」
と開口一番言い放って一同驚愕の笑いを意に反してかましてしまった。
という伝説クリエーターであります。
やはり人間何事もバランスが大事でありますのぉ~。 

人間哉無理禁物是健康第一飲均衡ポカリスエット

と李白も言っていたと思う。

しかしいくら中国4千年の歴史がこのように諭しているとはいえ、
時にバランス軌道修正が制御不能になってしまうのがハッスルマン。
そうなのであります。わたくしハッスルマンは、
体脂肪と吉岡君に弱い。
吉岡君と聞くだけでアドレナリンが異常沸騰されて、
本人から半径23.5㎝以内の気象温度が赤道直下型に変動するらしく、
更に所かまわず踊ったり歌ったり思い出したようにシコを踏んだりするので、
こういった症状が出た場合には、家族の者達は私に対して、
「むやみに近づいてはいけない。」
という暗黙のご法度を発行するらしいであります。
吉岡熱射病でありますだ。
治らなくてもええでがんす。

しかしこんなにも乙女な想いを寄せている吉岡君本人は、
なんかとてもバランス感覚の優れた人のように思えるでありまするだ。
いや吉岡君だってハッスルマン・ヒデになるときはあると思う。
「隠し剣―」の製作発表の席上では、
「永瀬さんの親友役を頂けて、本当にすごく嬉しかったです。」と、
さら~~~~~~~~~~~~~~~っと流れる水之如し。
の如くに述べていたので、
あれは吉岡流忍びハッスルに違いない。
はらたいらに3000点賭けてもいい。

多分、推測するに、仕事真っ最中の時の吉岡君は、
彼流の力みを抱いているのだと思うのですが、
しかし同時に、その力みに服従されない冷静さも
保っていられる人なのではないのだろうか、
とも思うであります。
なんというか、さらりんとした強さを持っていて、
肩が全く凝っていない人、というか、
とても率直的なバランス感覚を持っており、
無理強いしていない透徹さの持ち主というか、
なんかそんな感じがするでごぜいます。

吉岡君という人は、
押し付けがましいところが全くないわけで。
押し付けがましくないから、
押し付けられていない印象があるわけであり。
我を押し付けず、他に押し付けられずに、
ただ真っ直ぐに自分自身であり続けていられる。
くはぁっ。
たまらんねぇ~。粋じゃねぇですかい。
ぶっちぎりでかっちょええぞっ。
こりが真の男ってやつでっせぃ、せにょ~る。
上等の男の色気ってこういうことをいうんだわ。
ハイクオリティーなセクシー。略してハイシー。 
恵みなお人だ。
すっきやでぇっ、さいっこぉ~だぁっ、
吉岡くーーーーーーんっ!!!
あ、またハッスルマンが・・・。

吉岡君のファンをしていて、
彼から学ぶことはとても多いでありますです。
そりは例えて書くと、
ふっと見上げてみると、木々の葉の間に、
午後の柔らかな光がキラキラと揺れている。
っていう感覚に近いですばい。

力まずに流れる、というバランス感覚。
決して他流にのみ込ませず、
己でいるという思慮深さ、意志の強さが、
吉岡君という人の持つ、大きな魅力の中の
一つなのだと思うでありまする。

ファンをしていてほんまにえがったよぉ~。
泣けるぜぃ、ヒデタカ。
ふぅわんたすてぃっく!
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葉影

2008年04月15日 | 思うコト


予告もなしに、彼女は再び現れた。
その名はギャートル。
本名ではなくリング名であります。
24時間闘えるかどうかは謎なのですが、
16時間くらいは闘えるに違いない、と思わせるほどの
熱血ファイター、ギャートル・リゲイン、カンバック。
しかし彼女が闘うリングは限定されており、
それはどこかというと、
何故か私を軸にして半径163cm以内。
エコノミーファイターであります。

思えば一年前、位。コトー先生のことを、
「純がお医者さんになったんだよね、あはは~」
などという一億三千二百三十一万年前に落下した隕石のような
「吉岡=純」思考でもって、
私をアンドロメダに着陸させたギャートル嬢。
それは仁義なきハブとマングースの戦いでありました。くっ。
あの衝撃の出会いから一年、位。(←覚えていないらしい)
再び会した彼女は、
全く変わっていなかった。

「んもぉ~太陽が328m地球に接近したに違いないわっ!」
と思われる程の猛暑であった先日の日曜日。
友人宅でのバーベキューパ~テ~にお呼ばれしてもらい、
「ハッ ハッ ハ~ッ びゅりほ~ さぁ~んで~♪」
状態で友たちと話している最中に、何やら横から人影が。
ン? と思って横を向くとそこにはギャートル。
シェーーーーーーーーーーーーーーーーッ?!
とポーズを取る余裕もなく、
ササッ、と横に移動。すると彼女もササっと接近。
ササっと移動。ササっと接近。ササっと移動でササッと接近。
ササッ、ササッ、サササッ、サササササッ、
ってあたしゃやどかりかいっ?!

「そういえばコトー先生のファンだったよね~」
と逃げ切れなかった私に向かって
突然のトピック投下をするギャートル嬢。
お? ちょっと待って、プレーバック。
確かに今“コトー先生”と言ったですわよね? 
ということは、
純 → コトー先生 
ネアンデルタール人 → クロマニヨン人
という進化を彼女は遂げたのかもしれないっ。
おぉっ、ヨ~ロレイッヒ~!
「コトー先生って、なにを演じてもいつも同じだよね。」

どぉ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ん。

隕石投下。
ね、ミミィ~にシミーズ。
要するに「寝耳に水」なのだっ。

私 :「(こやつーっ)どうしてそう思うの?」
ギャ:「だって三丁目の夕日とかでも同じでしょ?」
私 :「(成敗してくれるっ!)そうかな~?」
ギャ:「そうだよ。」
私 :「三丁目の夕日、両方とも観たの?」
ギャ:「観てないよ。」
私 :「エ? じゃ~どうしてそう思うの?」
ギャ:「だって日本の友達の友達がそう言ってたもん。」

↑ここです。
これは試験に出すのでよぉ~く覚えておくように、ギャートルよ。

友達の友達は皆友達だから私と吉岡くんは友達なのねっ、
きゃぁああああ~~~~人類みな兄弟一日一善っ、
生きてて良かったっ、おかぁ~さぁ~んっ!!!!
とは単純にならないのが世の中なのだ。

友達の友達が言ったからなんじゃと言うのだ?
そりじゃ~なにかい、
「あの北極熊はどうやら登別出身らしいよ。」と人から聞かされれば、
そうなってああ~なってこうなって結局南極放送局でコマ~シャル♪
ってぇ~のかいっ?
ってこっちのほうがふざけてしまったでねぇですかっ、あんさんよ~。
自分の目、耳で確かめてもいないのに、吹聴だけで判断するなんて、
フッ、

ふざけるのは、やめてくれぃ。

伝言ゲームというのをご存知ですか、ギャートルよ。
最初に発っする伝言は、人から人へと伝わるごとに
それは全く別の意味へと変化していくのだ。
そこんとこヨロシク。
と矢沢の永ちゃんも口をひょっとこみたいにして言っているではないか。

吉岡君は、つくしんぼうのように、
あ、春だ、こんにちは♪
などと突然ニョキリンとどこからともなく現れたのではないのだ。
彼には万里の長城の如く、
長~くつづく歴史の壁があるのだ。うりゃ。

吉岡君が、何故これほどまでに長く
人に支持されているかというのは、
それはもう理由云々の問題じゃないのだと。
そこに確固たる何かを感じ、受け取るものがあるからこそ、
吉岡君は多くの人から支持されているのだと思う。
それはもう屁をこく理由ではなく、純粋に伝わってくる
「人としての魅力なるもの」がそこにあるからであり。

吉岡君から受け取る「確かな何か」は、
とてつもなく多くの人に伝わっているわけで、
それは即ち、確かなる「真実」であるのだと。
私はそう思うであります。

私が吉岡君に惹かれる一番の理由は、
彼は決して職業人にならない。
ということでありますです。
大人になるとどうしても、
「自分は誰であるのか。」ということより、
「自分はこれをしているのだ。」ということに
固執してしまう人が多いと思うわけで。
けれども吉岡君はあくまでも、
「自分は何なのだろう?」
という原点に帰っていける人なのだと、
そう思うわけであり。

人が人の心に惹かれるというのは、
惹かれる人の心に確かな「核」があるからであり、
沢山の人が惹かれるものだからこそ、
そこには決して偽りはないのだと。
それが即ち「核心」というものなのだと思うわけで。

「信じる」という源は一体どこからくるのか?
と思いを馳せる時、吉岡君には、
そこに絶対的な安心感が宿っているわけで。
それはずっと変わらない。
吉岡君の核は変わっていない。
だから吉岡君は、とても魅力的なのだ。
と思うわけであり。


吉岡君、好っきやで。
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ヒーローは誰ですか?

2008年03月05日 | 思うコト


「300」という映画はスゴイ。
という話を友たちから散々聞いていたので、
先日DVDをレンタルして鑑賞した私であります。
確かにこれはスゴかった。
何がスゴかったのかと申しますと、
登場人物がヒーロー達でありまして、スパルタン達であります。
スパルタン達でありますので、全員揃いも揃って仮面ライダーみたいな
もこもこ~んなお腹を所有しているマッチョメンであり、
おまけに made in ジャンボ鶴田 みたいな勝負パンツを穿いて、
そのうえ何故か赤マントまで羽織ってブッチャーみたいな敵に
次々と戦いを挑んでいく怒りのチョーーーーップ! という、
これはもしや世界プロレス協会のプロモーションビデオなのだろうか・・・・?
こんばんは、ラッシャー木村です。
などとTVの画面に向かって呟いてしまった相変わらずの私でござろう、
思い知ったか小次郎。
と、やっとこ鑑賞した映画にひょっとこみたいな顔になってしまったという
お手上げスゴサ満載のアクション映画でありました。

誤解を招いてしまうかもしれないので書いておきまするが、
私自身、映画は東西南北ジャンルを問わずに好きであります。
DVDコレクションなども、和洋折衷とにかく何でも出しとけぃっ!
といった結婚披露宴の料理のようなバラエティーでありまして、
したがってアクション映画も大好きであります。

アクション映画に出てくるヒーロー達の登場歴史は長いでありますね。
古くを辿れば中大兄皇子などがおりますが、(←なにか勘違いしているらしい。)
とにかく彼らに共通して言えることは、「タフガイ」だということでありまして、
これは「タフマン」とはちょっと違うらしく、「タクアン」とは決定的に違うらしい。
話が横道に逸れてしまいました。

本物のヒーローってなんだろう?

人生にきちんと向き合える人は、とても強い人なわけで、
間違いなくヒーローなのだと思うであります。
だからあなたのヒーローは誰ですか?
と聞かれれば、私は迷うことなく
「吉岡君です。」
と答えると思う。

ちびっ子の頃から、彼の演じる人物達を通して、
いつもその姿に勇気づけられてきた私でありますが、
彼のその笑顔、涙の透明度は、何十年経った今現在でも
まったく変わっていないと思うわけで。

迷ったり、悩んだり試行錯誤するのは、
人生を逃げていないからこそ浮かび上がる試金石であって、
だからこそそこから結果として派生し得る喜びは、
より大きく光り輝くものになるのだと、そんなことを
吉岡君の姿は今でもさり気なく教え続けてくれるわけであり。

色々あるのが人生で、色々なければ
それは無意味に減価償却されてしまっている人生と
なってしまうでありますばい。
吉岡君は、そこから逃げるのでもなく、
無闇に追いかけるのでもなく、あるがままの姿で
あるがままに己の道を歩き続けることが出来る人なのだと。
そんなのは生きてりゃ~当たり前の事やんけ、と思うそこの貴兄、
当たり前のことを当たり前のようにこなすのは意外と難しいのだ。
だからこそそれを当たり前のようにこなしてしまう吉岡君という人は、
べらぼーにかっちょええ。モーレツにわんだほー。

普通であることの重要さ、大切さを、吉岡君は伝えてくれる。
人生は、特別な存在である必要はなく、
そんなことに真価は問われない。
自分であることが大切であり、
そこから更に高みに上っていくのが人生の本質なのだと、
その生き様から伝え続けてくれる人なわけであり。
それは真の強さ逞しさから生まれてくる人格なのだと、
そう思ったりするとです。

生き様で語る人。

吉岡君、
君はずっと私のヒーローだ。
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歩む人

2008年01月29日 | 思うコト


数年前、友達がインドを旅行した際、その旅の途中で、
「バスはいつ到着するんですか?」
とバス停留所の係員さんに尋ねたところ、
チッ、こりだから観光客はよ~、という表情で、
「待ってればちゃんと来るよ。せっかちだな~。」
と、バス到着予定時間二時間後に言われたらしい。
だから何だってぇ~んだ、何を唐突に書いておるのだ、え? 
といいますと、冬だからであります。(←エ?)
冬。
冬は寒い。
寒いので猫もコタツで丸くなり、
吉岡君は冬眠してしまう。
眠りについている吉岡君は、さぞかし美しいに違いない。
そういえば満男君はよくチャ~ミングにうたた寝していたわ~。
四日間の奇蹟で見せた寝顔はそりゃ~びゅ~てほ~だったよのぉ~。
ちゃ~みんぐでびゅ~てほ~な寝顔の持ち主ヒデタカ君、略して
ちゃびゅほ~君♡ 
なぁんて思わずハート付きで呼んでみたくなっちゃうのよ、
うふっ、むはっ、んふふふ~、うきゃきゃっ♡ 
ってならなくていいから早く目覚めてくれぃ、吉岡君よ。

愛しの君よ インド人も 待ちきれない

思わず新年の初句を詠んでしまったでねぇですか、
んもぉ~、吉岡君ったらカンバァ~~~~~ック!!!!! 
プリーズ。
いや、帰ってくるのはなにもウルトラマン及びにサーモンだけではなく、
吉岡君だって必ず帰ってきてくれるのですが、
そりはわかっているのでぃすが、
しかし寂しくなっちゃうのだ、恋煩いだわ、困ったわ・・・。
こりはもう、淋しい、というより、寂しい。
という感覚でありますのよぉおおぉぉ~おいおいおぃおぃ、泣いちゃうぞぉ、
ぶひっ。(←泣いている。)
そういえば去年は、CMでの吉岡君しか観れなかった私であります。
15秒×9CM=135秒 
なんてこったいっ、キュ~ピ~三分クッキングより短いじゃないかっ、
おぉ神よ仏よなんまいだ~! 
しかしどのCMでもわんだほ~だったわね、さすがのさすけだ吉岡殿、フフ。
という賛辞はとりあえず脇に置くとして、役者な吉岡君が早く観たいよぉ~。
ということにやはり想いは帰結するのでありまする。
という吉岡雨乞い状態を先日姉に電話で話していたところ、
「それなら他の俳優さんで気分を紛らせればええやんか。」
と言われてしまったのであります。

フッ
なんてこったい
こりだからまったくよ~
姉よ、
お主あまいぞ青二才。

代わりがいないのが吉岡君なのだ。

といっても別に私の人生は、
吉岡君だけだけ君だけが好き好き猪突猛進バラの包みのたかしまや~うふっ♪
となっているわけでは決してなく、
吉岡君のことはもちろんどすこい大好きだけれども、
でも他にも、大好きらぶらぶあいらびゅ~かもかもべいべ~、
などとオバカさんマッハゴーゴー状態でうきゃっ♡
とかなっているその他約一名の俳優さんもいたりするし、
映画を観るのがなにより好きなので、鑑賞する作品ごとでの
その他大勢の俳優さんたちの演技を観ては、上手いな~
と感心したりすることは随時あるわけで。

ならばどうしてこんなにも吉岡君に惚れているのか?

と一行置きで考えるとですね、
吉岡君には吉岡君にしかしか出せない吉岡味、
というのを絶対的に内包している味な人だからなのだ、
と強くそう思うからでありまする。
よく、生活感が全然感じられないのが魅力だぜ、んはっ。
とかなんやら賛辞を受けている役者さんがいたりするけど、
人間を演じ、そこにある人生を語るべく役者さんに、
生活感がなくてどないすんねんな? 
と私なぞはついつい五年三組魔法組のはてなマンみたいに
首を斜め45度に傾げてしまうのでありますばい。
しかし生活感といっても別に、こめかみにトクホンを貼り付けて、
巨人戦をラジオで聴きながらワンカップ大関をすすっている、
という昭和枯れススキような極端なものである必要はなく、
あくまでもその人に、役者としての人生ではなく、
一人の人としての生活がそこに感じられるかどうか
ということであるわけでして、吉岡君にはそれがあるのだっおぉぶらぼ~!
ということを書きたいのでありましただ。
だから寂しいよぉ~なんてぶひぶひ言ってはいけないのかもしりない・・・
ぶひっ。(←あ、)

吉岡君にだって欲はあると思う。
いい演技がしたい、という欲は、彼の中にもあると思うわけで。
けれどもその欲のベクトルというのは、あくまでも
「作品の出来」へと徹底的に向かっていて、
「自己表現」へと向かっているものではない、
と彼の演じる姿を見る度に、そう感じるであります。
役者は役を通して、人の物語=人生を観客に伝えるものでありますだ。
それはまず演じる役者が、人としての人生を尊重しながら、
ふつ~に生きていなければ、伝えることなど出来ない芸当なのだと思うわけで。
しかしカメラの前で演じるという事は、普通の日常生活からは
かなり逸脱していることであるのは間違いないわけで。
けれども吉岡君は、その逸脱性をよぉ~く心で理解している、
のかもしれない。
だから一旦カメラから離れれば、メディアに踊らされることなく、
ふつ~の兄ちゃんとして生きている、
のかもしれない。
そうすることが言ってみれば、吉岡君の持つ役者欲なのかな~、
などと思ったりしている私であるのかもしれない。

彼から発っせられる台詞、仕草、表情は、
紙の上に書かれた言葉を掬い取って上手く形にしているのではなく、
そこには人生がのっているのだと、
確かな実感をもって感じさせ伝えてくるものであり、
確固たる人生が感じられるから、だからこそ彼の演技は、
観る者たちの持つ様々な人生に深く深~く響いてくるのだと、
そう思うでありますです。

個人の名誉や名声なんて、湯気みたいなものであり、
そりはあるように見えても、実態はつかめないものであるわけで、
悲しいほど刹那的であり、瞬く間に過去形へと形を変えてしまうものだと
思うとです。
しかしいい作品というのは、
人々の心の中で永遠に生き続けていくものなわけで。
吉岡君は、そういったことを、
きちんと確知できている人なのかもしりないですだ。

人としての人生があるからこそ生きてくる吉岡君の演技。
そこに代わりなどは決してないわけで。

だからこそ吉岡君という役者さんは
とても魅力的なのであり、
とても特別なのだ、
と思う私でごぜいやす。

吉岡君、最高っす。
好っきやで。
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白さの似合う人

2008年01月18日 | 思うコト




冬。
冬といえば、雪。
雪といえば、白。
白といえば、吉岡君。
吉岡君は白も似合う。
んふっ♡
白衣を纏ったコトー先生は、そりゃ~魅力的だったっす。。。
同じくホワイティーな、まるで綿棒みたいなナルミ先生とは
一味違った白さっぷりを全身から醸し出していたでありますばい。
ありは吉岡君独特の白オーラだと思うであります。
白衣はまぁ特別使用だとしても、
白いシャツ、白いTシャツの着こなし具合に、
大人の魅力が反映されているような気がしてならないであります。

先日のことなのでありますが、何年か前に、
スピードメーター時速3.7㌔くらいの尺度で
うきっ♡となっていた俳優さんを久々にテレビで見たら、
お見事っばんざーいっ!と思わずTVの前でグリコのポーズを
とってしまったくらいな濃密度でオヤっさん化していたので、
げはぁーーーーーーーーーっ!?
と一気にスピードメータの針が0に減速してしまったであります。
彼はやっと三十歳になったばかり。
数年前までは、細くてお目めもキラリンッなんてしてて、
仕草も動作も少年なごり雪目指せ青年大使よ抱け、なかんじでぇ~、
うきっ♡とか、んきゃっ♡とかさせたりしてたのぉ~、なのに、なのにぃ~、
いきなりオヤジかよ? 
悲しいぢゃんかぁ~、泣いちゃうぞぉ、うぅ。
いや、ここでオヤジ同好会の方に断っておきたいのですが、
オヤジとは、決して実年齢からなるものではなく、
あくまでもその人生度からくるものだと私は思うであります。
だから75歳の男の人にもとても魅力的なじぇんとるめ~んは沢山いるし、
また逆に二十代ですでにどっぷりオヤジになってしまう人も巷には
沢山いると思うであります。
要はいかにその人生を歩んでいるかという、
その歩みの確かさだと思うでありますだ。
履いている靴ばかりを気にしている人もいれば、
靴底が破れて足にマメができてもひたすら歩き続ける人もいるわけで、
そこの選択の違いが、イカす大人になるか、またはイカの塩辛になるかの
大きな分かれ道なような気がするであります。
大人の魅力とはその生き様であり、
その生き様はそのままその容姿態度仕草に
オーラとして滲み出てくるものだから、
そこに嘘はないと思われ。
言葉や態度が、生み出す結果に置いてきぼりにされている人は
多いでありますだ。
だからこそ結果で見せてくれる人のオーラというのは、
非常にものすごくとってもしびれるほどかっちょええのだっ吉岡君っ!!!
いかすぜよ~。
たまらんじぇ~。
フフ。

白が似合う大人の男性というのは、貴重だと思うであります。
白いシャツや白いTシャツは誰にだって着れるけど、
でもそれがほんまに似合うという大人の男性は、
巨人軍の原監督胴上げのようでありまして、要するに
滅多にお目にかかれるものではない、と言いたいのでありました。
白いシャツは、人を、そのオーラを選ぶものなのかもしれないですばい。
白いシャツを着ていても、全身から滲み出るオヤジオーラで、
その白さは簡単にくすんでしまう。
だからこそ白いシャツを白いままに着こなしている、という人は
えらくかっこええっす。
くすませることなく、濁らせることなく、
さらっと白を着こなしてしまう、そりが吉岡君。むはっ♡ 
兼ね合わせているオーラとシャツの白さが、
とても綺麗に調和している人だと思うですばい。
おまけにいつまでも変わらぬ細身体型、
なのに骨格しっかりぶらぼ~君。
なんてことなのかしらっ、奇跡だわっ!
白くってスリムで実力型。万能スリム冷蔵庫みたいずら、
吉岡君ったら、わぁ~んだほ~っ、好っきやでっ!

白の似合う吉岡君。
そこには決して無理がない。
吉岡君には、無理がない。
と思う。
とても自然に流れている大河みたいだす。
流されているのではなく、ゆったりと自然に流れをくんでいる、
そんな感じがするですばい。
だからこそ着こなしてしまう白なのかもしれない。
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もっとロマンス

2008年01月08日 | 思うコト



忘れていたのでありますが、紀元前の頃には私も乙女でありました。
生まれて初めてのデートに、心とお目目にお星様をきらめかせていたり、
ランチにごちそうしてもらったファーストフードのハンバーガーを
彼を目の前しにてパクつくことがどうしても出来ず、思い余って
彼が席を外した瞬間に急いでそのハンバーガーを
母親から借りたハンドバッグの中に放り込んだ結果、
バッグの中身まで牛使用100%にして、その日の帰宅後に
生まれて初めて母親の涙する姿を目にしたという、
やはり乙女と涙は切っても切れない関係にあるらしい。
お母さん、ごめんよ~。

ということで(なにがやねんな?)、
最近ちびっとロマンスモードの私でごぜいます。
新しく買い込んだDVDを観て「しゃばだばだぁ~~~~~~
となったり、はたまた今年に入って最初に観にいった映画に
「だばだばだぁ~~~~~」となったかと思えば突然
「あぁ~あなたにぃ~こいごこぉ~ろぬすまれてぇ~
もっとぉ~ろまんすぅ~わたしに~しかけてきて~♪」
などと全て平仮名で歌ったりなんかしての、
どっぷりロマンスつくだ煮状態、といった感じでごぜいます。
しかしこのロマンスというのはとても掴みにくいものでごさんす。
掴んだと思っても次の瞬間ツルリンパッと蒸発してしまいがちなもので
ありますばい。
例えばロマンチック映画を観てとなりつつ横を向くと
旦那さんが大口開けて爆睡していた。
貴様~四の字固めの格好のままシベリアに投げ飛ばしたろか? 
と花の子ルンルンからライオネル飛鳥へと瞬間変貌した経験のある人は
私を含め世界に8人くらいはいると思われるわけで。
世の中いつもハーレクインロマンスのようにはいかないでありますだ。
だからこそこの小説シリーズは永遠に売れ続けているのかもしりないですばい。

とそこで思ったのでありますが、
よく考えてみたら、ロマンスな役を演じている吉岡君というのは、
オバQの髪の毛より希少でありますだ!
なぜだ、なじぇなのだ、吉岡君? 
いや、過去に、それなりのロマンス君を演じてくれていたかもしりない。
しかしそれはなんつーかどことなく、ぬるま湯浪漫す、
といった感がしてしまうわけであ~り。
ここだけの話でありますが(って他にどこがあるというのだろう?)
大きな文字では書けないので、ひそひそひそひそひそひそひそひそひそひそ
とほんとにひそひそと書いてしまったですばい、そうでなくてですね、
確かに「心の砕ける音」は恋愛ものといえる役柄だったのかも
しりないですばってん、けれども個人的には、
「なぁ~んで兄弟の設定が逆になっておるのだぁっ? 
読んでから見るか見てから読むか角川文庫じゃなかったけど
やはり先に原作を読んでしまった私はぐわらっしゃんっ!」
と放送開始5分後に自分の心が砕けてしまったわけであり、
「四日間の奇蹟」にしたって、一体、
月光なのか瀬戸の花嫁なのかどっちなのだろうどうして
ベートーベンからいきなりルミちゃんなのですかぁっ!?
と天に向かって絶叫しそうになった人は東日本だけでも3人はいると思う。 

一ファンとしては、ここらでルミちゃんもゴローもキツネもくるまやも
徳永英明もやしがにラーメンも淳之介も西田敏行もなしの直球ストレート
ストライクゾーンなロマンスたまり漬けの吉岡君が観てみたいぞなもしっ!
と思うわけでありまする。
小説の中の人物で例をあげて言えば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そうだ私は恋愛小説は読まない人だったのでした・・・。
もとい映画の中の登場人物でいえば、イル・マーレの建築家とか、
初恋の来た道の先生とか、アメリが恋するスクーターくんとか、
ベルリン天使の詩の天使とか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ぼわっ $%#$@@&&*^%$! ←シュミレーションしてみて
勝手に一人で燃え上がってしまったらしい。
この言語描写を現代語訳にすると、
「きゃぁ~っ、吉岡君ったらどないしょーっ!!!!!!!」
となるわけでありますがだからといってどないもできないので、
はぁ~~~~っと溜息。やはり乙女と溜息は切っても切れない縁らしい。
(↑いつのまにちゃっかり乙女にっ?!)

吉岡君は、じぇったい恋愛ものが似合うはずだっ!
と私は国会議事堂で宣言してもいい。
なんてたって彼はとても透き通っているっす。
凛と透き通っていて、そこはかとない少年質の名残を持ち、
そしてその名残を取り巻くような色気がとて~もナイーブに、
さわ~っと吹いていく風のように漂っているでがんす。
おぉっ、これぞロマンス体質っ、打率でいうと4割5分5厘!
なんとロマンスバージョンな人なのだ、吉岡君ったらブラボ~っ!!!
吉岡君のもつ薫りのような色気には、
そこにまた様々な音色のようなものが宿っているような
感覚を受けるわけであり。
一つの仕草や言葉が流れるような優美感をもっているのだけれども、
でも同時にそこだけで完結している美しさもあるというか、
一遍の詩のような意味合いを深く持ち合わせているというか、
永遠と一瞬が同じ密度でそこに同時に存在しながら
様々な音色=ニュアンスを奏でている、という感じがとてもするでぃす。
それは切なかったり救いようがなかったり
無様なほど悲しかったりするけれども、でもやはりそこには
揺ぎない梁のような強さ逞しさも宿っているわけで、
そこがっ、それがっ、とっても浪漫であり、ロマンチックであり、
ロマンスであるので、吉岡くんったらしびれるぜ~。
と、なってしまうわけでございます。

ロマンスは、掴みにくく逃げやすいものでありますだ。
だからこそ、吉岡君という人の確固たる存在から解き放たれる
確固とした感情の機微でもって、ぐわしっと確かな感覚で
心を掴んでもらいたいわけで。
吉岡君は、
吉岡君なら、
いや吉岡君だからこそ生み出せるロマンスというものが
唯一無二に存在していると思うですばい。
いつかそんなもっとロマンスな吉岡君が見てみたいでありまする。
コメント (2)
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謹賀新年

2008年01月01日 | 思うコト


明けましておめでとうございます。

旧年中は、ここにお越しくださり誠にありがとうございます。
本年もここで皆様にお会いできると幸いです。

皆様にとりまして、幸多き素敵な一年となりますよう、
心よりお祈り申し上げます。


二○○八年 元旦
風子
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良いお年を。

2007年12月30日 | 思うコト



今年もあと僅かで終わりですね。
皆様、いかがお過ごしでしょうか?

気づけば、忙しくて、今月は二つしかブログを書いていませんでした・・・。
四月から書き始めたこのブログでありますが、
いつもここに来て下さる皆様に気持ちを支えていただきながら、
書き続けることができ、こうして年の瀬を迎えることができましたです。
皆様には感謝の気持ちでいっぱいです。
いつも読んでくださって、ほんとうにありがとうございます。

これからも、吉岡君への想いなどを、
ゆっくりと、私なりに綴っていきたいと思っています。
またここに皆様にお越しいただけたら、とても幸いです。
明年もどうか宜しくお願い申し上げます。

皆様、お元気で、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。




今年の心からの感謝を込めて、
風子より

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