わび、さびについては、多くの方々がさまざまな解釈をなさっています。
先人たちはなぜ、その概念を明言せず、歌でたとえたりしたのでしょうか。
きっと、言葉で説明しても、ああでもない、こうでもないという上っ面の解釈
になってしまうので、
聞き手の 言葉以外の身体感覚、暗黙知、に落とし込むために
余白、空の部分を残しているのでしょう。
そう、そしてそこは、無意識の担当です。
無意識は、判断、批判を行いません。
通常は顕在意識、表面意識がガードして
無差別にいろいろなものが入ってくるのを防いでいます。
一つのことを ~だ。と明言するとそれに対して そうかな?とか、違うよ!
などという抵抗が起きます。
顕在意識は、そこで、それらを排除してしまうのです。
ですから、なんとなく、~のようなもの。
というぼやかした表現を行うことで、
顕在意識の抵抗を受けずに、無意識へ採り入れられます。
またそれをきっかけに無意識は自動反応でスイッチが入りますから、
自分自身でひらめく、気づく。ことで腑に落ちてくるのではないでしょうか。
そしてもう一つ 無意識には否定形が通用しません。
~してはいけない。いけない。と思っていると、~してしまうという経験はないでしょうか。
無意識はイメージを言語として活用しますから、~してはいけない。
という時もうすでに~をイメージしてしまっているのです。
ですから、花も紅葉もなかりけり。
と言った途端私たちの内面世界は、すでに花も紅葉も真っ盛り…。なのです。
日本の文化が無意識を扱っているというのは、そういう意味だったのですね。
「白紙も模様のうちなれば、心にてふさぐべし」
元禄時代の画家。土佐光起の言葉です。
松岡正剛氏、『侘び・数寄・余白』より。
土佐光起 水辺鶉図
源俊頼歌意図(みなもとのとしよりかいず)
余白に、和歌がしたためられています。
日本画は本当に余白が美しいです。
この部分に一人ひとりが入ってゆくことでアートは完成するのです。
無意識への探求、冒険、遊覧、創造へ私たちを誘ってくれる見事な仕掛けです。
そしてそれは、作者の世界へ鑑賞者も参加し、
自由に自分自身の想像を楽しみ、共に世界を創造するということでもあるのです。
これこそ、 双方向コミュニケーション!
なんと日本では三百年も前から行っていたのです。すごい!~
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