二本足の學者を目指して

賢を見ては齊しからん事を思ふ

平成二十九年十二月二十日(水)天皇と國民、有徳である事と無知

2017-12-20 17:18:29 | 文學、精神、そして魂
 天皇と國民、有徳である事と無知

 先日、某まとめブログをスマホで閲覽してゐると、某野黨の何某が、「皇室の神事は國民生活に何の關係もない」と述べてゐたと云ふ。この發言乃至認識に就いては、否定的な意見が、多かつたやうであるが、ネットの匿名掲示板の書込とは云へ、それでは、「皇室の神事」、就中、天皇の在り方とは、如何樣に、吾々「國民生活」に「關係」して來るのかと云ふ見解は明示されてゐなかつた。この問ひに就いては、松原正氏が、「天皇を戴く商人國家」を著す事で、明確に答へてゐる訣だが、この事に就いて、私なりに半ば強引に、簡單に要約すれば、以下のやうになる。天皇は祭祀の長である。その祭祀の長たる天皇は、祭祀を執り行ふ事によつて、私心を去る。天皇に私無しと云ふ在り方はフィクションであり、理想であるが、天皇は、その理想を遵守せねばならぬ。私心を去り、公の爲に盡くすのが、祭祀の長としての、そして、日本と云ふ國家の家長としての、天皇の使命である。詰り、天皇は、親天皇派に對してのみならず、反天皇派の國民に對しても、彼等彼女等の幸福を祈る。それは、天皇は、政治を超越してゐると云ふ事、或は超越すべしと云ふ事である。各家庭の家長も亦、天皇や偉人賢人に肖り、私心を去り、家族の爲、地域の爲、國の爲に盡くすべきである。家長以下の人間も、亦、人の上の人たる、天皇や偉人賢人、自らの家の家長に肖るべきである。かう云ふ風に、天皇と臣民の生活とは繋がつてゐる。否、繋がつてゐたと云ふべきか。其處で、をかしな事がある。NHK抔の各メディアは、「政府は、天皇陛下が生前退位の意向がにじむお氣持ちを表明されたことを受けて」云々と報じて久しいが、この「意向」とは、一體、どう云ふ形で「表明された」事になつたのか。稍、政治主義的な云ひ方になるが、左翼は、保守派に對して、保守派であるならば、何であれ、天皇の「意向」には從ふべきと云ふだらう。が、天皇が、あれやこれやと「意向」を表明するやうになれば、國はどうなるか。天皇は、天皇に私無しと云ふフィクションを遵守してこそ、「倫理の儀表」たり得る。あれやこれやと「意向」を表明する天皇とは、惡しき天皇と云へる、と書いて了へば、世間の人々はどう思ふであらうか。日本人、就中、保守派は、天皇の個やら「意向」を保ち守るのではない。天皇に私無しと云ふフィクションこそを、保ち守らねばならぬ。そして、亦、吾々國民一人一人も、天皇に肖る必要がある。が、私心を去る事は美徳ではあるが、私心を去る事によつて、惡しき現状が維持、乃至、更に惡化されて了ふと云ふデメリットもある。私心を去らんとする有徳な個人が、ブラック企業であつたり、惡しき政治體制を、維持し、維持するに留まらず、その無意識の共犯者ともなり得る。その事は、G.オーウェルが、「動物農場」に於て、描いてゐる。ボクサーは善良な馬であるが、その只管ハードワークするボクサーは、豚の獨裁を維持、存續させる事に、無意識ではあるが、寄與してゐた事となる。ボクサーは、個人として善き存在ではあるが、政治的には賢明ではない。賢明ではない處か、無知である。
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