楽しく遍路

四国遍路のアルバム

伊豆田坂を越え 真念庵へ

2018-05-02 | 四国遍路

 
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国道321号
四万十川を渡り、国道321号=サニーロードを4キロほど行くと、伊豆田トンネルがあります。これを抜けると足摺エリアです。
エリアからエリアへの移動が、トンネルを抜けることによって、簡単にできてしまいます。トンネル嫌いの人は別として、ですが。


国道321号
しかし、まだトンネルがない時代、旅人は伊豆田坂という大坂を越えねばならず、難渋していたといいます。
かつてエリア間の移動は、旅人にとって難儀でした。エリアとエリアの間には、エリアをエリアたらしめる交通障壁=難所が、かならずと言っていいくらい、在ったからです。


伊豆田トンネル 
四国遍礼名所図会に、次のような記事があります。
・・つくら渕村。これよりいつた坂麓まで一里の間、谷合、家なし。いつた坂(大坂なり 甚だ険しく)峠にて休足。
また澄禅さんは四国遍路日記に、(大雨大風の直後だったのですが)、その難渋ぶりを記しています。
・・いつた坂とて大坂在り。石ども落ち重なりたる上に大木倒れて横たわりし間、下を通り上を越えて、苦痛して峠に至る。是より坂を下りて一ノ瀬という所に至る。是より足摺山へ七里なり。

伊豆田トンネル
  M.43(1910) 伊豆田峠越えの車道開通
  S.34(1959) 伊豆田隧道(360㍍)が、伊豆田坂の下に開通
  H. 6(1994) 現・伊豆田トンネル(1600㍍)が、伊豆田隧道の下に開通
  H. 7(1995) 伊豆田隧道が、ローリング族走行、心霊スポット騒ぎもあり、埋め戻さる
古来の道である伊豆田坂遍路道は、明治期の車道開通後も使われていましたが、伊豆田隧道開通後は、次第にその有用性を失ってゆきました。平成に入り伊豆田トンネルが開通するに至っては、世間的には、その存在さえ忘れ去られます。覚えている人も、・・もはや通行不能になっている・・、大方の人は、そう考えていたと思います。



しかし、とは考えず、伊豆田坂の実地踏査を試みる人たちがいました。踏み固められた、昔の道が強かであることを、きっとご存知の方たちだったのでしょう。とまれ、それぞれの観点から、古来の道の今が、気にかかる方たちでした。
この人たちが始めた、伊豆田坂へんろ道復旧活動の一端が、HP「掬水へんろ館」の談話室に残されています。談話室は現在、閉鎖中ですが、そのアーカイブスは閲覧できます。
「2010.11.9 談話室有志一同」の札は、談話室に集った人たちが、この日、ここに集結。復旧作業を終えた後に架けた、小さな記念なのでしょう。
  H.22(2010) 談話室有志一同により、伊豆田坂復旧


アクセス道
さて、幸せなことに私は、復旧直後の伊豆田坂を越えることができました。以下、その時の伊豆田坂の様子を、ご覧いただこうと思います。なお必要に応じ、その5年後、H27(2015)に歩いた時の写真を加え、整備が整ってゆく様子も、ご覧いただきます。
まず、伊豆田坂へのアクセスです。
  バスの場合:高知西南交通「伊豆田北坂」バス停の先
  歩きの場合:津蔵渕川橋の手前に、写真の分岐があります。これを、右に入ります。


アクセス道
入ってきた道は、伊豆田隧道に通じる道です。
「この道は通り抜けできません」との標示が立っていますが、伊豆田隧道が埋め戻されているからです。歩き遍路には、関係ありません。


伊豆田隧道への道
軽い傾斜の登り道をゆきます。


分岐
(私の場合ですが)30分弱歩くと、右手に分岐が現れました。
しかし、とりあえずは無視して、先に進むと、・・


行き止まり
すぐ行き止まりになります。埋め戻された伊豆田隧道が、繁茂する樹木に隠れています。黄色の線はセンターラインです。


隧道のプレート
すかして見ると、「伊豆田隧道」のプレートが見えます。


登り口へ
先ほどの分岐点に戻り、遍路札が案内している道を行きます。
この道はたぶん、明治期に建設された、伊豆田峠越えの車道に由来する道だろうと思います。曲がりくねりながら、葛篭山(つづら)西方の伊豆田峠を越え、下加江に至ったようです。車両の登坂能力や、トンネルの掘削技術、架橋技術などが今よりも低かった時代、各地で、等高線をたどるようなクネクネ道が、よく造られました。これもその一つでしょう。


登り口へ 
この種の道は、今、旧道好きのバイク・ライダーたちがよく知る道ですが、車両も、まれには走行します。
実際、私は二度目の時、乗用車と出会い、乗っていかないかと誘われました。久しぶりに帰郷したという年配の夫婦で、子供の頃、毎日のように抜けていた伊豆田隧道が懐かしく、見に来たのだそうでした。(写真奥を、その乗用車が走っています)。


登り口へ
ところがかつて、乗用車どころかバスまでもが、伊豆田峠越えの道を走っていたそうです。
当然、用心はしていたのでしょうが、S.32 (1957)、バス転落事故が起きています。死者5名を出す大事故だったそうです。
伊豆田隧道の開通が、その翌々年、S.34(1959)ですから、不幸な事故が、工事を加速させたのは間違いありません。


登り口へ  
この事故は、田宮虎彦さんの作品「赤い椿の花」で取りあげられたことで、より長く、人々の記憶に留まることとなりました。
また同作品は、「雲がちぎれる時」と改題されて映画化もされ、広く全国的にも知られることとなりました。
私は機会があれば、映画を観たいと思っています。当時の道の様子が、映像として残っているようなのです。なお伊豆田峠は、作中では、菅多峠となっています。


下を見ると
すこし登って下を見ると、先ほどの伊豆田隧道への道が見えました。


登り口
登り口です。
看板が立っていて、・・旧伊豆田坂登り口 真念庵まで1時間半 南無大師遍照金剛・・とあります。
ここからが、ここでいちばん古い道。今も残る伊豆田坂です。


5年後
5年後、H.27(2015)に撮った、同じ場所の写真では、遍路札が圧倒的に増えています。



長い眠りにもかかわらず、数多の人たちが踏み固めた道は、健在でした。ちょっとした感動でした。



騒音と排ガスのトンネルを歩くより、多少の時間はかかっても、私はこちらを選びます。



後に、茶屋跡まで上がってから気づいたことですが、この道は、四国電力が工事道として、時折使っていた可能性があります。峠の茶屋跡に、いくつもの碍子(絶縁体)が落ちていたことからの推測です。
だとすれば、それはこの道にとって、幸いなことだったでしょう。


石仏
やがて二体の石仏がありました。


大師像
大師像の台座に、履(くつ)と水差しが浮き彫りされています。旅の必需品である履き物と飲み物を描いて、道中の安全をお願いしていると考えられます。
水は瓢箪でも表されますが、ここでは、把手、注ぎ口が付いた水差しです。


他の一体の台座
隣の一体にも、こちらは線刻ですが、やはり履と水差しが描かれています。
さて、四国遍礼名所図会の次の記述は、この石仏に関係するのでしょうか。
・・(伊豆田坂の)峠にて休足。右手に金剛水(右手に有 人皆是をのみ悦ぶ 加持水也 坂九合に有 坂下る)・・
石仏は九合目ほどの所に在ります。


道標
登り切ると道標があり、足摺山まで七里半であることを案内しています。


茶屋跡
茶屋跡の平地です。


茶屋の基礎石
基礎石が残っています。



おそらく茶屋で使っていたものでしょう。いくつもが落ちていました。


下りへ
これより、登ってきた反対側に降りてゆきます。
写真からもおわかりと思いますが、向側は急な下りになっています。急な斜面が、おそらく高度差60㍍ほどにわたって落ちており、さすがの「踏み固められた道」も、ここでは持ちこたえられなかったようです。
自然に帰ってしまった急斜面に道を見つけ、ルートを示す作業が、「2010.11.9」の主たる作業であったでしょう。


下り口
降り口が「同行二人 ⇒」で示されています。応急的な標示ですが、指示は明確です。


5年後
5年後は、こう変わっています。
⇒シールが貼られている竹が、上掲の、「同行二人」の竹と同じ竹です。シールの下の節に、薄くなっていましたが、文字が残っていました。



やはり応急的なルート標示ですが、指示は明確でした。先を行くのは、同行した北さん。遍路の友人です。なお、この竹も、なにやら懐かしさにかられ、探してみたのですが、見つかりませんでした。



虎ロープやマジックでルートが示されていました。


5年後
5年後の写真です。整備が丁寧になり、もう「応急」の域を抜けています。



斜度が緩やかになってくると、そこに再び、昔の道が姿を現しました。



健在です。見事に残っています。


道標
休憩中の作品でしょうか。
同行二人と記された白い物は、前述した碍子です。四国電力が残したと考えられます。


道標
とりあえずの道標として、有効でした。


通行止め
いずれもが追跡ごっこのサインにも似て、うれしくなります。


草刈りはさみ
「シダ刈りお接待」の呼びかけです。伊豆田坂に限らず、草が繁茂しやすい道に、よく置いてあるのを見かけます。ありがとうございます。
文は次のようです。・・お願い お時間のある方、へんろ道維持にご協力下さい。次の方のために、この先、シダ刈りお接待をお願いいたします。鋏はここにお戻しください。この先、三ヶ所設置してあります。感謝 南無大師遍照金剛


降り口
林道への降り口です。


降り口
林道です。降りて左に進みます。

 真念庵へ


林道
足摺遍路道の起点、真念庵へ向かいます。



展望が開けてきました。


旧トンネルへ
埋め戻された伊豆田隧道に至る道は、通行止めになっています。


景色
きれいに棚田が広がっています。市野瀬集落に近づいてきました。


三原へ
市野瀬川に架かる橋です。右方向が上流。左が下流です。
橋の手前右側に、下の道標群があります。


道標
案内看板に、道路工事や開発で多くの道標が失われたことが、記されています。


いつた橋
「いつた橋」とあります。伊豆田トンネルに通じる橋です。
「伊豆田」の名の興りは、H24 秋遍路① で、すこし記していますので、よろしければご覧ください。


真念庵登り口
真念庵に着きました。


真念庵石段
真念さんは四国遍路道指南に次のように書いています。
・・間崎村、薬師堂あり。津蔵渕村、この間いつた坂(伊豆田坂)、下りて小川あり。市野瀬村、佐賀浦より是まで八里。


真念庵
・・この村に真念庵という大師堂、遍路に宿貸す。これより足摺へ七里。ただし篠山へかける時は、この庵に荷物を置き、足摺よりもどる。月さんへかける時は荷物持ち行く。初遍路は篠山へかけると言い伝う。右両所の道案内、この庵にて詳しく尋ねらるべし。


真念庵
さて、ご覧いただきましてありがとうございました。
次回更新は5月30日を予定しています。内容は、ちょっと迷っています。このまま土佐路のシリーズを続けるか、ようやく実現できた春遍路のシリーズに切り替えるか?少し考えてから決めようと思います。

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4 コメント

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伊豆田峠 (水島宜彦)
2018-05-02 17:32:02
久しぶりに旧伊豆田峠の記事懐かしく拝読、清水往還の件は大野正義様が2008に記事を菊水へんろ館に寄せられ、私が知って翌年に現地訪問、「峠の茶屋跡の道標」は私の先祖(?)が嘉永4年に建てたことを知りました。その頃私も遍路歩きしていたし、またこの「桑下村」での私の先祖の系図を調べていたので、詳しく確認追跡してみました。しかし当時の墓石、古文書などには庄屋などの名前しか残らず、その家族かなと想像するに止まり、寄進者の「水嶋敏京」の確認はできませんでした。今までどこにも報告でずにいたものですが、現在は多くの皆様が維持に努めておられることに敬意を表します。
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Unknown (楽しく遍路)
2018-05-03 08:51:00
水島宜彦様 ありがとうございます。
個別の活動が「2010.11.9」へ収斂されてゆく、その一端がまた明らかになりました。
2008から2010への道程は、個人活動であるだけに、結構長く、厳しいものもあったろうと思います。おかげさまで私などは、遍路だけでなく、ブログ作りまでをも楽しむことができており、重ねて、感謝の意を表したいと思います。

私は本文で「踏査」について触れましたが、「調査」もあったことがわかりました。しかもご自分と嘉永の道標寄進者とのつながり探しという、まことに興味深い調査をされています。墓石や古文書にも当たるという、綿密な調査には感服いたしました。
私は道標下部の文字がいまひとつ読みとれず、あきらめておりましたが、貴メールに記されたことを頼りに、もう少しねばってみようとも思います。これからもご教示よろしくお願いいたします。
返信する
♪田舎のバスはおんぼろ車 デコボコ道をガタゴト走る~ (天恢)
2018-05-08 15:30:43
 新緑も日増しに色濃く、春はどんどん過ぎてゆきます。 今回も「古い遍路アルバム」からのリライト版ということで、平成22年秋に歩かれた 「伊豆田坂を越え 真念庵へ」の道中記を楽しく読ませていただきました。 こうした古い記録の「新しい遍路アルバム」への引越しは、読者にとって広い土俵への復活・再生ですから、ブログの充実感を覚えます。

 さて、今回の舞台は四万十川を渡ってから足摺岬へ。 その入り口となる伊豆田峠を越えて真念庵に至るわずか数キロの清水往還道ですが、歴史、風土、地勢などでいろいろコメントしたいものがここには凝縮されています。 それで焦点を絞らずに書きたいことを箇条書きにしました。
① この道は、江戸時代から遍路の難所と記されていますが、明治の終わりに車道が開通して、バスまで走り始めて、峠の下に昭和34年伊豆田隧道(360m)が開通、 さらに平成になって伊豆田隧道の下に新伊豆田トンネル(1600m)が開通しました。 ブログを読んで、この道にも長い歴史と進展があったことをしみじみと思い起こしました。
② ブログに『車両の登坂能力や、トンネルの掘削技術、架橋技術などが今よりも低かった時代、各地で、等高線をたどるようなクネクネ道が、よく造られました。』とありますが、旧トンネルの下に新トンネルの建設事例は、全国各地にあって、故郷福岡の犬鳴峠もそうですし、下田街道の天城越えなどもそうです。 それと、遍路では、こういうクネクネ道をショートカットする遍路道に悩まされました。 入り口を見落として、ぐるっと遠回りさせられた苦い思い出が何度もありました。
③ 四国の遍路道は1200km以上あったようですが、旧遍路道の多くは潰され、まっすぐな新道がどんどん造られて100kmほど短くなったと言われています。 その一方では、とくに平成になって旧遍路道の復活の動きも活発化しています。 新道ができて有用性を失って、その存在まで忘れられていた「伊豆田坂へんろ道」も心ある多くの方たちの手によって復旧し、快適な遍路に供されています。
④ 天恢も、昨年も含めて2度ほど新伊豆田トンネルを歩きましたが、それほど車の排気ガスに息苦しさを感じませんでした。 年々通行車両も少なくなっているようで、それは幡多地区の過疎化と少子・高齢化による人口減少にあります。 足摺岬は四国の高速道路計画からも外されて、頼みの観光・漁業が不振で今後の発展はそう望めそうもありません。 「何もないところが一番好きだ!」なんて、旅人のロマンなどはこの地に住む人たちには到底通じるものではありません。 この現実を見るにつけ日本の行く末が思いやられます。

さてさて、タイトルの「♪田舎のバスはおんぼろ車デコボコ道をガタゴト走る~ 」ですが、昭和30年、中村メイコさんが歌った『田舎のバス』です。 昭和のよき時代における田舎のバスの車掌さんの歌ですが、ブログにあった伊豆田峠での傷ましいバス転落事故で犠牲になられた方たちには明るく陽気な歌詞なので申し訳なく思います。 また、⑤ この事故の10年前に昭和の歌姫・美空ひばりさんも高知県大豊町でバス事故に遭われ、九死に一生を得た話も、当時の貧弱な交通事情を今に伝えるものです。 こうした不幸な事故を教訓として真摯に安全性に取り組んだ日本人の姿勢はいつまでも持ち続けてもらいたいものです。
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♫発車オーライ (楽しく遍路)
2018-05-10 16:08:35
♪田舎のバスはおんぼろ・・、の2年後、昭和32(1957)、コロムビアローズさんが ♫私は東京のバスガール・・と歌い上げます。
♫発車オーライ・・ 時代が移り変わろうとしていたのです。
昭和35年、上京した私がなにより驚いたのは、青梅街道の上下線ともに、数珠つなぎで並んだ車の列でした。♫発車オーライどころではありません。どこまでつながっているのかわからない長い渋滞列で、車はどれもが、白や黒のガスを吐き出していました。青梅街道だけの話ではありませんでしたので、私はその時、けっして大げさではなく、地球の将来を案じていました。

以来、車が走るところには排ガスあり、ましてトンネルにおいておや、と確信していたのですが、この度、半世紀以上を経て、誤りを正していただけました。
トンネルに排気ガスは、かならずしも充満してはいない。言われてみればその通りです。過疎の地域で、トンネルだけが車でつまっているはずはありません。

初めての遍路の時、本で「総距離は1300キロとも1200キロとも言われる」と読んで以来、ずっとそう思い込んでいました。
これも言われてみれば、そうですね。新道には遊びがありませんから、総距離が短くなってくるのは道理です。
ちょっと寂しい気もしますが、最短1100キロと覚えなおします。

今回は美空ひばりさんのことも含め、私の気づいていなかったことを書いていただけました。
私にとって彼女は、はじめからスターでしたが、バスに乗って高知の山奥を巡業していた時代もあったのですねえ。
目から鱗のコメント、ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。
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