この記事の末尾へ 新しいアルバムの目次へ 古いアルバムの目次へ 神々を訪ねて目次へ

案内板
石岡神社 の (→H31春 1) 氷見御旅所が案内されています。
秋の例大祭では、石岡(いわおか)の神が幾台ものダンジリに供奉され、御旅所に渡ってこられます。

氷見御旅所
御旅所ではダンジリの「かきくらべ」が奉納されます。御神幸を、いっそう楽しんでいただくためです。
西条ダンジリは石岡神社に始まるといわれますから、その誇りもあってのことでしょう、石岡ダンジリの「かきくらべ」は、他にも増して、力が入っているそうです。
*「かきくらべ」の「かく」は「舁く」で、「舁き比べ」です。

氷見御旅所
ふだんの御旅所では、お年寄りがゲートボールに興じたりしています。地図上では、新御堂(しみど)公園と表記されています。
「新御堂」は地名ですが、おそらく上掲写真右端に見える、御堂に由来すると思われます。
なお残念ながら、看板に記されたクロマツは、(七本残っているとありますが)全部枯死してしまったそうです。

地名 大久保
御旅所から旧さぬき街道を東進すると、すぐ「大久保」に入ります。

大久保四郎兵衛の祠
大久保に、大久保(の)四郎兵衛を祀る小祠があります。
・・大久保四郎兵衛は天正の陣の際、この地の防衛に当たったが、敵の軍勢を防ぎきれず、高尾城まで後退した。城では石や木材を集めて攻め上る敵に投げ落とし、少数の兵で大軍を防いだ知勇の将である。・・と案内されています。

たごり地蔵
反対の面には、・・ぜんそくの持病があった彼は、地元で、たごりの神様と崇められるようになり、堂内に赤い頭巾と衣を身につけた地蔵さんとして、今でも大切に祀られている。天正十三年(1585)、高尾城にて討死。享年四十五才。・・とあります。
*たごり地蔵の「たごり」は、「たごる」=「咳をする」、から来ているのでしょう。

千人塚へ
さらに東進すると、千人塚・野々市ケ原古戦場への道標が立っています。天正の陣の古戦場です。
天正の陣は、秀吉の四国平定軍(小早川隆景率いる毛利軍)と、金子備後守元宅(もといえ)率いる地元軍との戦いでした。万対千の戦いで、地元軍に勝ち目はないと思われ、実際、当初は降伏論が優勢だったと言います。
にもかかわらず徹底抗戦したのは、「意地」だったのかもしれません。総大将・金子元宅は、・・昨日は長宗我部に手を下げ、今日は小早川に腰を折り、他人に後ろ指をさされんことは心苦しきなり、・・と言って、諸将に徹底抗戦を説いたといいます。

田圃
衆寡敵せず。敗色濃厚となる中、地元勢は残存兵力を高尾城に集結。いよいよ抗しきれぬと見るや城に火を放ち、退路を断って、野々市ヶ原に打って出ました。
最後の玉砕戦を挑んだ、と言えるでしょう。ご覧いただいた四郎兵衛の祠や、これからご覧いただく供養塔などは、いずれも、高尾城あるいは野々市ヶ原で討死した将兵を弔うものです。この道のこの辺は、天正の陣最大の激戦を戦った地元軍の、供養の道ともなっています。

地蔵庵浄光寺
道標の先に浄光寺があります。
浄光寺は、野々市原で討ち死にした江渕城主・塩出善五郎を供養して、享保11(1726)、建立されたそうです。本尊は地蔵尊で、善五郎の子孫が江戸から、背負い持ち帰ったと伝わります。
なお浄光寺は、明治30(1897)、善五郎の子孫・塩出家から、野々市集落に移管されています。「私」の先祖供養が、野々市集落という「公」に共有されました。

忠魂碑
浄光寺の角には、日清、日露、大東亜戦争、それぞれの忠魂碑が建っています。
手前が日清戦争の碑で、だんだん大きくなって、一番奥が大東亜戦争の碑です。
「私の死」に向ける視点が一元化されてゆく、その様が見えるようです。

道
道標に従って、南方向(山の方向)に曲がり、千人塚に向かいます。

漆喰塀
漆喰塀の家がありました。(H30秋 4)の土居構で見た、漆喰塀の断面がよくわかります。

千人塚史跡公園
千人塚周辺は、今は公園として整備され、塚や碑やが建っています。

千人塚
千人塚は首塚です。この地で秀吉軍の大将・小早川隆景による首実検が行われ、首級がここに葬られました。
首実検とは、討ち取った敵の首級を総大将自らが検分し、その真偽を定め、戦働きへの論功行賞を行うことをいいます。主従関係確認のための重要な儀式で、勝利の儀式でもあります。

生子山城主の碑
生子山城主 松木三河守安村公之碑
碑文(裏)によると、昭和9年(1934)7月17日、安村公の子孫が、公の戦没350年の忌辰(命日)に當り、建立したとのことです。
安村の討死は、野々市ケ原とも川之江仏殿城 (→H24秋遍路) とも言われていますが、7月17日が命日ということは、ここでは野々市ヶ原討死説をとっています。仏殿城だと、命日は8月5日になると思います。

千人塚 四百年祭碑
天正の陣 野々市原古戦場 千人塚四百年祭
天正の陣が天正13(1585)。その400年後の昭和59(1984)、四百年祭が行われました。

400年祭供養塔
天正之陣 四百年忌 戦没 殉死 被災 諸霊追善供養塔
高尾城を捨てるにあたって、もはや戦えぬ負傷兵、婦女子の多くが自決したといいます。こういうことを指して、「殉死」と言っているのでしょう。

阿弥陀堂
阿弥陀堂は、平安時代末期の創建と考えられています。
平成6(1994)建て替えの際、「吉祥寺末庵 蓮花院阿弥陀如来堂再建」と記された、嘉永5(1852)の棟札が見つかったそうです。

今井玄蕃頭祠
阿弥陀寺の傍に、今井玄蕃頭の祠があります。
今井玄蕃頭(げんばのかみ)は、剣山城城主・黒川美濃守道博旗下の武将で、この人もまた、野々市ヶ原で討死しました。剣山城の黒川氏については、 →H30春 8 でふれています。

藤
今井玄蕃祠の奥に見える藤棚(ノダフジ)です。
藤といえば、氷見御旅所傍の民家にも、見事な藤棚があります。

こんぴら道標
旧さぬき街道ですので、こんぴら道標が建っています。
こんぴら大門迄 十九里

丹民部守神社
丹民部守越智清光は、(遠隔地の)久万鄕笠松城城主でしたが、祖母が横山城主・近藤家の出身であった縁で金子方に与し、高峠城に入城しました。
横山城は、高峠城の、加茂川を挟んだ対岸にある山城です。今はその下を、松山自動車道の横山トンネルがぬけています。

丹民部守神社・民部さん
丹民部守は野々市ケ原の玉砕戦で、敵将・吹上六郎と組み合ったまま落馬。あろうことか、自分の家来に討たれたと言われています。民部は「吃音」だったため名乗りが遅れ、家来が我が主と気づかず、刺してしまったようなのです。また落馬は、足の負傷を押して出陣したため、踏ん張りがきかなかったからだといわれています。

丹民部の墓・民部塚
そんなことがあって、丹民部は死後、吃音や足弱の神様として、信仰されています。
なお、民部は家来によって討たれたのではなく、吹上六郎と差し違えたのだ、との説もあります。が、この場合でも、民部神への信仰には、変わりはありません。

一宮へ
丹民部守神社からすこし引き返して南方向へ上がってゆきます。一宮神社に向かうためです。
農作業の方に出会うことが出来たので道を確認すると、・・その道を左に曲がり、すぐ右に曲がって上ると、その先が「一宮さん」です。・・とのことでした。
「一宮さん」と呼ばれているのですか、と尋ねると、・・ええ、私らはそう呼んどりますが、と答えてくださいました。
写真右は、一宮神社 参道改修記念碑 です。

一宮神社
・・大三島の神さまを勧請しているのでしょうか?
・・さあ、そのへんは、わかりませんが。
さて、この神社の一宮神社という社名は、どこから来ているのでしょうか。

拝殿
西条市の観光物産協会HPは、この神社について、次のような記事を載せています。
・・(この神社は)古代より橘郷を代表する郷社で、大山祗神他一神を祀り、橘新宮神社と結びついていた。その後大山祗神は大三島に遷り、臍の緒の神のみを祀る村社となるが、その後は不明。

奥殿
ある時期、・・大山祇神他1神を祀っていた、・・とHPは記しています。この記述に拠れば当神社は、大山祇神社の分社として、一宮神社と呼ばれているのかもしれません。
しかしHPはまた、・・その後大山祗神は大三島に遷り・・とも記しています。大山祇神がお還りになったので、この神社は・・臍の緒の神のみを祀る村社・・となった、というのです。

折敷に縮三文字
では、もう大山祇神は祀られていないのかというと、奥殿の棟には今も、大山祇神社の社紋・折敷三文字がついています。
おそらく私が知らない経緯があるのだと思います。いつか調べてみたいと思います。なお一宮神社は新居浜にも、もう一社あります。

石岡神社の杜
一度、旧街道まで降りて、石鎚神社へ向かいます。
下っていると、石岡神社の社叢が見えました。見事な社叢です。

石鎚神社
石鎚神社については、前に記したことがあります。→H24春遍路 6 、 →H30秋 4
茶臼山の石鎚神社や、 樋山地の石鎚神社についても、よろしければご覧ください。 →H27春 12 →H26春 その5

日野駒吉像
前神寺についても、前に記しました。石鎚神社と同じ号です。
ここでは、参道に建つ日野駒吉さんの像にだけ、ふれておきます。
日野駒吉さんは明治生まれ。昭和26(1951)に亡くなるまで、生涯を大師信仰にかけた方です。(H30秋 3)でふれた、横峰寺道に立つ舟形地蔵丁石のほとんどは、日野さんが建てたものだそうです。

日野駒吉像台座
日野駒吉さんは、「寿し駒」の通り名で呼ばれていました。「寿し駒」は、日野さんが営んでいた、すし屋さんの屋号です。
墓石には「真徳院篤信居士」と、台座には「日野篤信居士参拝記念」と刻まれています。いずれにも含まれる「篤信」は、字のごとく、信仰が篤いことをいいます。篤信の生涯を送られたということです。

道
前神寺を過ぎると、次の当面の目標は、伊曽乃橋です。加茂川に架かる橋です。

高峠
高峠が見えてきました。
山上に高峠城があり、この城が細川氏の付家老・石川氏の居城であったことは、 →H30秋4で記しました。
天正の陣では、総大将・金子元宅が入城。この城で総指揮をとっています。(前述した)徹底抗戦の衆議は、高峠城でなされました。

水路
田植え期でもあり、水量が増えています。

水路
水はもちろん、加茂川からの取水です。加茂川は、石鎚山脈岩黒山に水源をもっています。

土居構
右手に土居構が見えてきました。土居構は、高峠城主・石川氏の、平時の館でした。

土居構
奥が正門につづく道、手前は脇門につづく道です。

土居構
石積みがきれいに残っています。

登り道
土居構の前の道です。この道を南に上ると、(前号でお伝えした)真導寺、保国寺、伊曽乃神社に至ります。

八堂山
八堂山が見えてきました。この山沿いを加茂川が流れています。

加茂川へ
加茂川の堤防に上る坂です。

八堂山 加茂川
伊曽乃神社の例大祭フィナーレでは、向こう側の土手に80台ものダンジリが並び、宮入りする神輿を見送るそうです。
宮入りを阻もうと、河原に降りてくるダンジリもあるそうです。神輿を囲み、もみ合うそうですが、その景色は西条市民の、次なる祭を待つ心情に重なるのだといいます。今日が終われば、次の祭まで365日。祭好きの西条市民の、カウントダウンが始まるわけです。
なお河原に降りてくるのは、神戸地区(かんべ)のダンジリに限られているそうです。神戸は、伊曽乃神社が鎮座する地区です。

伊曽乃橋
伊曽乃橋はメロディー橋とも呼ばれるそうです。欄干をバチでたたきながら歩くと、「ふるさと」が奏でられます。
伊曽乃橋は昭和58(1983)、架け替えられましたが、その前は、一銭橋とよばれる木製の、手すりもない橋だったそうです。橋の渡り賃が一銭だったことからついたと思われます。

道
武丈公園を抜け、山沿いの道を行きます。

山沿いの道
この辺では、山沿いの道に平行するように、旧讃岐街道が走っています。現在は国道11号となり、車が多い道ですが、実はこちらの方が、遍路道としては古い道です。
常夜灯など、石造物も残っているとのことですから、いつか歩いてみたいと思っています。

大木
ただ、やはり車は苦手で、ついついこの道を歩いてしまうのですが。

雨水
土佐漆喰で見られる、水切り瓦のような働きをするのでしょうか。

地蔵庵
・・地蔵原地蔵庵はその昔、弘法大師が四国巡錫の砌、この地にて一夜で地蔵尊を石刻安置されたと伝えられています。霊験灼にして、爾来参詣者が跡を絶たず、人々は宇堂を建設し、いつの頃からか、この地を地蔵原と呼ぶようになった・・とのことです。

案内
道前病院と王至森寺が案内されています。
道前病院の「道前」は、道前平野の道前で、松山の道後平野の道後と対になっている地名です。道前-道後をつなぐ桜三里については、何回か記してきました。
道前平野の中心都市は西条市で、加茂川、中山川、大明神川など、お馴染みの川が造る平野です。西部の中山川流域を周桑平野、東部の加茂川流域を西条平野と、わけて呼ぶことが多いようです。

王至森寺
王至森寺(おしもり寺)は、・・舒明天皇(7C前半)が道後への行幸の途中、暴風雨に遭い、森の中の寺で難を避けられたところから、王至森寺といわれるようになった、・・との伝説があるそうです。
ご詠歌: ありがたや たつあらなみを しづめつつ み船導く 森のともしび

キンモクセイ
境内のキンモクセイは、モクセイとしては珍しい巨木で、昭和2(1927)、国の天然記念物に指定されたそうです。
高さ16メートル、根回り4メートル。開花時には、4キロ四方に香が広がるといいます。

山門
扁額「法性山」は、小松藩三代藩主・一柳直卿(なおあきら)の筆になるといいます。広く知られた能筆家で、前号で記した仏心寺の扁額も、直卿の筆でした。

大師堂
大師堂への石段です。王至森寺は真言宗真言宗御室派の寺で、本尊は大日如来です。

境内
大師堂から見た境内です。左の大きな建物が本堂。

鳥居
大師堂への石段と平行して、法性大権現への参道があります。

神社へ
これが最後の石段。75段あります。後述しますが、きれいに掃き清められています。

拝殿
法性大権現は、大威徳明王とも呼ばれ、そのお姿は六足六面六手。多くの場合、水牛に乗っています。泥田をものともせず歩く水牛に乗って、大威徳明王は、どこへでも来てくださるわけです。
六足は六波羅蜜を歩み続ける決意を、六面は六道の隅々までを見通す願力を、六手は(その手に武器をもて)法を守護する力を、表しています。

清掃
参道を一人、拝殿から下まで、掃き清めている方がいました。氏子さん(79才)だそうで、月一回、半日かけて掃くのだといいます。
凹みに入った落ち葉を掃き出すには、箒は少し減っている方がよく、そのため新しい箒を使い初めるときは、すこし先を切るのだといいます。

へんろ道標
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号も、引き続き伊予路を東進します。三角寺までカバーできるでしょうか?
更新予定は、8月28日です。暑さ厳しき折柄、くれぐれもご自愛下さい。
この記事のトップへ 新しいアルバムの目次へ 古いアルバムの目次へ 神々を訪ねて目次へ
さて、今回の「氷見御旅所 千人塚 ~ 法性大権現」ですが、お盆や終戦記念日を前にして、あれこれと物思いに耽りながら読ませていただきました。 というのも、400年以上も昔、この地で起こった古戦場の傷跡をたどる巡礼の道中とも思えたからです。
ブログでは、天下統一を目前とした秀吉の2万大軍に立ち向かった地元軍の諸将の奮戦となるのですが、所詮、勝ち目のない戦で、つまらぬ武士の「意地」の結果は玉砕しかありませんでした。 それが今に語り継がれ、慰霊が続くのはそれなりの理由があるからでしょう。 ここでも婦女子などの非戦闘員を巻き込んだようで、地元の方たちにとっていつまでも癒えぬ心の傷を残したのかもしれません。
間もなく終戦記念日を迎えますが、先の大戦だけでも軍人・民間人の死者は300万人以上、心や身体に痛みや傷を負わされた縁者は何千万にも及ぶことでしょう。 負けると解っている無謀な戦争に駆り立てたのも当時の上層部の無知とつまらぬ意地からでしょう。 今となっては、一億総玉砕にならなかったことを日本人として喜ぶべきことです。
さてさて、今回のタイトル『♪私のお墓の前で 泣かないでください・・・・・』は、秋川雅史さんの『千の風になって』です。 お盆のお墓参りとは関係なく、実は秋川さんは愛媛県西条市の出身で、「西条まつり」にはイタリア留学時も含めて全て帰省して舁き夫(かきふ)として参加しているそうです。豪華絢爛たるダンジリの練りで知られている「西条まつり」については、ホームページやユーチューブでの閲覧をぜひお勧めしたいです。
この祭りを支える地元の人や西条出身者の「一年は祭りに始まり、祭りに終わる」という心意気が実に素晴らしい!ものがあります。「祭りがやりたいから西条に残った」、「祭りがやりたいがために仕事を辞めて西条に帰った」、「年一度の祭りにだけは万難を排してかならず帰郷する」といった祭りへの情熱が独特の気風を育てたようです。 また西条では、祭りを神事として捉える意識が特に強いようで、イベント化・観光化・祭りの土日開催への移行に対する嫌悪感・抵抗感が根強く、市民の大多数が祭りに参加するため、祭礼期間中は地元企業や学校が一斉に休みになったり、遠方に暮らす西条出身者も仕事を休んで帰省したりするなど、祭りは西条っ子の心に強く根付いているとのことです。 これからも「西条まつり」がますます大発展することを願っています。
しかし炎帝の意気はますます盛ん。災害級の暑さはゆるみそうもありません。
天恢さん、皆さま、くれぐれもご自愛ください。
かく言う私は、かなりバテております。
そのため返信が遅くなったのは、まことに申し訳ないことです。
夏は、戦争を考える季節。
ヒロシマを思い、ナガサキを思い、数多の奪われた命を思い、傷を負った身体と心を思い、
数多の奪った命を思い、傷を負わせた身体と心を思い、
・・過ちは繰り返しません・・と、改めて誓うのが、日本の夏でした。
現在形で書けない現状を残念に思い、やや落ちこんでいましたが、天恢さんから元気をいただくことができました。
・・お盆や終戦記念日を前にして、あれこれと物思いに耽りながら・・読んでくださったとのこと。
ありがとうございます。そんな読み方をして下さることが、とても励みになります。
「千の風になって」をテーマソングとするテレビドラマを見た記憶があり、調べてみました。
平成19(2007)、フジテレビ系列で放送された「千の風になって ドラマスペシャル」で、
その第5回目、「なでしこ隊 少女達だけが見た特攻隊・・封印された23日間・・」を、私は見たのでした。
原詩はアメリカ人による英詩だそうですが、その日本語訳、秋山雅史さんが歌う「千の風になって」から、特攻隊員の死に思いを馳せるドラマが制作されたことに、ちょっと感動していたのを覚えています。
というのも、実は私も、初めてこの曲を聴いたとき、曲中の「私」を特攻隊員に重ねてみたことがあったからです。同じような感じ方をする人を見つけ、少々、心強く思ったのでしょう。皆さんは如何でしょうか。
秋山さんのお祭好き、気合いが入っていますね。そこでタイトルは「お祭マンボ」の一節です。
本文で記したダンジリの「かきくらべ」ですが、その「かく」は「担く」ではなく、「舁く」を当てるべきでした。ご教示ありがとうございました。本文はもう直しました。
集中がかなり難しくなっていますので、そろそろ、少しずつ、次号を書き始めることにします。がんばります。
秋川雅史さん、とすべきところを、秋山と記してしまいました。天恢さんのご指摘で知りました。頭とは別に指が動いていたようです。