楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H26春 その5 焼山寺道から樋山地石鎚山 雨乞の滝 上一宮大粟神社 鬼籠野 建治寺

2014-08-07 | 四国遍路

 
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はじめに


「風景発心の地」展望・休憩所から
はじめに一枚の地図をご紹介し、それを作成された方々への感謝と敬意を表したいと思います。ウェブ上に公開されている地図ですが、樋山地石鎚山を中心に、藤井寺から柳水庵にかけての焼山寺道を記した詳細な地図です。
私は前回このブログに、焼山寺道の古いへんろ道について記し、今回は焼山寺道から樋山地石鎚山を廻る道をご紹介しようとしています。これらを可能にしてくださった地図です。
最初、どのようにして見つけたか、はっきりしないのですが、今は「麻名尾根古道」で検索し、その中のリンクを通して、地図に至っております。
本来ならば前回記すべきであった感謝の気持ちですが、手違いがあり、後回しになってしまいました。申し訳ありません。地図の作成に当たられた方々、そのための調査に当たられた方々、そしてまた各所で遍路道を支えてくださっている数多の方々、おかげさまで私は、「楽しく遍路」であることができています。ありがとうございます。
地図を作成されたのは、「風景発心の地」と名付けられた展望・休憩所を建設された方々と同じグループ(団体?)なのかもしれません。そのお名前は休憩所に、やや遠慮がちに小さく示されています。

焼山寺道から樋山地石鎚山へ


分岐
藤井寺から歩き始め、長戸庵を過ぎ、「風景発心の地」展望・休憩所を過ぎ、馬の背道を過ぎた辺りに道標が立っています。比較的新しい一連の道標の一つです。「焼山寺 柳水庵」を示す直進の矢印があり、小さく、右下を向いた矢印が「樋山地・敷地」(集落名)方向を示しています。


石積み
樋山地集落跡、樋山地石鎚山を訪れるため、「樋山地・敷地」の方向を選びました。
下り道です。ドンドン下りました。Point of No Return を越えてしまった、そんな感じで下っていました。
それでも下りは20分余だったでしょうか、石積みが見えてきました。宅地や畑地を造成したものと思われます。


道標
石鎚神社、鎖場への道が示されています。写真奥が、焼山寺道方向(長戸庵)です。
ここからは急な登り坂になります。短い距離の中で、下った分(200㍍)の高度を取り返し、なおかつ、すこし高度を上げなければなりません。


遍路シール
うれしや、矢印シールが貼ってありました。おそらく上の道標よりも古いものでしょう。焼山寺道方向が示されています。


河野氏先祖碑
道標からもう少し下った所に、河野氏の先祖碑があります。
    人皇第七代孝霊天皇末葉元伊豫國城主
     從五位上越智 河野伊豆守萬五郎通吉 
   大通院殿前豆大守天叟長運大禅定門  
     天正十八年寅三月二十九日逝去  
    *「通吉」の「吉」は、上が「土」。
元伊豫城主・河野伊豆守萬五郎通吉なる人物を先祖とする人たちが、ここに住んでいました。この先祖碑は、その証です。「越智 河野・・・」の意味は、越智氏から分出した河野氏、ということでしょう。
天正18年は西暦1590で、秀吉が「小田原征伐」し、天下統一する年です。


河野氏先祖碑
側に小さな碑があって、先祖碑寄付者の名が並んでいます。河野姓の人たちです。金額は5円とか10円で、昭和8(1933)の建立です。
おそらくは、いつの頃か、一族内紛の難を逃れた河野氏の一流が、ここに入植したのだと想像しています。「海の民」が山に入ったのですから、よほどのことがあったに違いありません。しかし自分たちの出自は、長きに渡り忘れず、先祖碑を建てました。


高岡(五社)神社由来記
土佐を歩いた時のことを思い出しました。高岡(五社)神社(かつての37番札所)の由来記は次のように始まっています。
・・・平安時代初期、伊予豪族であった河野家の子孫がこの地に来住し、一帯を開発して祖神と崇敬神を祀ったのが仁井田大明神である。・・・
こちらの河野氏も、おそらくは難を逃れてきたのではないでしょうか。河野氏が本拠とする伊予北条は、地政的に、周辺各勢力からの調略を受けやすく、ために内乱が絶えなかったと言います。


高岡(五社)神社 今宮御祭神
五社の一、今宮神社の御祭神は「伊豫二名洲小千命」(いよのふたなのしま・をちのみこと)と申します。
伊豫二名洲は「国産み神話」における四国の古名です。小千命は、(阿波河野氏の先祖碑にも記されている)孝霊天皇の孫神で、「越智」姓の興りとなる神です。土佐河野氏もまた、その出自を忘れなかったようです。


石積み
「遍路ころがし」と呼ばれる難路は、長い年月と膨大な人手をかけて、今日のような「安全な道」になってきました。
大小、さまざまの工事がある中でも、前回お伝えした、急な尾根道に代わる比較的緩やかな道の付け替え工事は、おそらく最大級の工事だったと思われますが、これをになったのは、どんな人たちだったのでしょうか。


石積み
この大工事に、樋山地の人たちも無関係ではなかったに違いない、そんな思いを抱きつつ、私はここにやって来ました。
史料に基づく証明は私の手に余りますが、この地に立ってみて、私はほとんど確信しました。樋山地の人たちが焼山寺道の建設に、そして保全に、力を尽くしてくださったことを。


石積み
しかし、お礼を申し上げるべき方々の姿は見えません。一説では最盛期、家屋数は200軒を超えていたとも言います。その人たちは、どこへ行ってしまったのでしょう。
つい最近まで人が住んでいた(あるいは今も住んでいる)形跡が見られましたが、残念ながら「集落」としては崩壊しています。日本の自給型集落は、1980年代、ほぼ姿を消してしまいます。
伊予からやってきた人たちが、また何処かへ流れてゆきました。今度は、一族四散したのではないでしょうか。


墓石
居住地から少し登ると墓がありました。もう長く、墓参する人がいないのです。


「河野」の文字
「河野」の文字が消えかかっています。(わかりにくいので赤線を引きました)。


お鎖道標
集落を抜け、厳しい道を南方向へ登ります。石鎚神社へ向かう道です。


石鎚神社
右の建物は「農村舞台」だったそうです。斯く、日本の基層感性は形成されていた、けっして大げさではなく、そう思いました。


石鎚神社


石鎚神社


鎖場
少し登ると鎖場(お鎖)があります。「石鎚山」には欠かせないものですが、私には、もう鎖は無理です。迂回路を行きます。



鎖は、文化14(1816)、麻植郡児島村の講中が寄進したものだそうです。


迂回路
迂回路もけっこう厳しく、トラロープの助けなしでは登れませんでした。ここを下るルート取りは、できれば避けた方がよいと思います。


奥の院
樋山地石鎚神社奥の院です。ここまで鎖が届いています。


山頂
奥の院を回り込むと、すぐ山頂です。


眺望
山頂から鴨島の街、吉野川が望めます。今日は曇っていますが・・・。

これより尾根道を歩いて、遍路道に復帰します。後で知りますが、尾根道は「麻名尾根古道」と名づけられています。「麻植と名西をつなぐ古くからある尾根道」という意味だそうです。


尾根道道標
この道標が周辺の状況をよく表していると思います。
右に下ると神社に至ります。さらに下ると樋山地を経て、麓の集落・敷地に至ります。
写真奥に進むと、樋山地石鎚山の山頂、鎖場の上(奥の院)に出ます。さらに奥に進むと掘割峠です。
堀割峠から北に下ると、前回お伝えした川島です。下らず尾根道を進むと、前々回お伝えした(枯雑草さんのご指摘にもある)忌部山です。
私は忌部から、当然のように、吉野川に沿う伊予街道を通ってきたのですが、こんな道が(やはり)あったのですね・・・。


焼山寺道への復帰
柳水庵(→焼山寺)へは右上の道、長戸庵(→藤井寺)へは左下の道を行きます。写っていませんが、ここにも道標はあります。
冒頭の「分岐」からここまで、私は2時間半ほどかけています。


神山温泉から建治寺-大日寺へ


神山温泉経由建治寺へ
すこし遠回りになりますが、神山温泉を経由して建治寺→大日寺へ向かいます。ぜひとも上一宮大粟神社を訪ねたいからです。この神社は、大日寺の、道を挟んだ隣にある一宮神社と、密接な関係を持っています。
途中、雨乞の滝や建治寺にも寄ります。建治寺では、以前お伝えした「灯台」を見なければなりません。


善長寺
左右内谷川沿いに善長寺があります。立ち寄ってみました。
しかし申し訳ないのですが、私の関心は寺の境外、塀の下の石碑に向いてしまいました。「神山先住霊観世音菩薩 子育て観世音菩薩 由来」とあります。
当地・神山を高天原に擬する説があるようです。・・・天孫族が神山に入られた時、原住民との間に争いがあり、多くの方が犠牲になられたであろう、その方々の供養のため観音菩薩像建立を発願した・・・、といったことが刻まれています。


善長寺
国生み神話で、四国は淡路島に次いで2番目に生まれますが、四国の中でも阿波は淡路島につながる地です。だからでしょうか、阿波高天原説、阿波邪馬台国説が根強くあります。
まあ、そういうロマンの感じ方もあっていい・・・などと言ったら、間違いなく叱られるでしょうが。


鮎喰川
左右内谷川が鮎喰川に合流します。鮎喰川に架かる橋を渡ると神山の中心です。


雨乞の滝
鮎喰川の支流、高根谷川を遡上すると、歩いて30分ほどで「雨乞いの滝」に着きます。
滝からさらに30分ほど登ると高根山悲願寺(こうねさん・ひがんじ)があります。邪馬台国の本拠、卑弥呼の居城跡とされている寺です。残念ですが、ここはパスします。


不動瀧
途中、うぐいす滝・不動滝・もみじ滝・観音滝などの小瀑があります。


大岩壁
岸壁の向こうに雨乞の滝があります。


雨乞の滝・雄滝
雨乞の滝は、雄滝と雌滝がある「夫婦滝」です。残念ながら一枚に収まりませんでした。
滝は龍神の御神体と考えられ、従って水不足のときは、ここで雨乞いがされたわけです。



昨日とは打って変わって、・・・のどかです。神山の町を通り抜けて上一宮大粟神社へ参ります。


上一宮大粟神社鳥居
所在地は名西郡神山町神領。この神社は神の地に在ります。鎮まれる神の御名は、大宜都比売命(おおげつひめ)と申します。


一宮神社
「上一宮・・・」の対となるべき「下一宮」は、13番大日寺の隣、一宮神社です。神仏分離以前は大日寺と一体であった神社です。

何年か前、遍路宿・名西花のおかみさんに「阿波国の一宮はどこですか?」と尋ねた時のことです。おかみさんは即座に「そりゃ、あそこよ(すぐ側の一宮神社)、『神山』から降りてこられての・・・」と答えたものでした。
(上一宮大粟神社に祀られる)大宜都比売命が降りてこられて(分祀されて)、ここ一宮神社に祀られています。


上一宮大粟神社
・・・それが証拠に、大日寺は「大粟山」大日寺と言うけんな。「大粟」は大粟神社の「大粟」じゃ。昔は寺と神社は一緒じゃったから、大粟山一宮寺とも言うた。
・・・大宜都比売命は農業の神さまでな、ここに初めて「粟」を蒔いてくれたんよ。それで「大粟山」よ。「アワ」という国の名前の興りじゃな。・・・


上一宮大粟神社に隣接する「神宮寺」
この地は阿波国の創りの地ということですから、おかみさんでなくとも、「阿波国一宮」はここに決まり、ということになります。
が、・・・どうやら異論もあるようなのです。もちろん異論への反論もあるのですが・・・。
それらについては、次回、また次々回、歩く先々で少しずつ触れてみたいと思います。


中分(なかぶん)の板碑
14世紀(南北朝時代・至徳-嘉慶期)の結衆板碑(けちじゅう・いたび)と推定されています。信仰を同じくする人たちの集団が建てた板碑で、自分たちの冥福を祈っています(逆修)。
説明文は・・・結衆板碑であろう。当時の鬼籠野(おろの)をこの板碑が象徴しているようである・・・と記しています。結衆板碑に象徴される「当時の鬼籠野」とは?ちょっと分かりませんが。


鬼籠野神社
・・・(「すえドン」さんのブログから孫引きさせていただくと)宝治二年(1248)八月八日神領村大粟神社の分霊を奉祀すると伝う。中古、中一之宮大明神と称した・・・とのこと。
上一宮大粟神社を「上一之宮」、一宮神社を「下一之宮」、そして鬼籠野神社を「中一之宮」と称したと言います。
私は今、神が下り給うた道筋を歩いているのでしょうか。


鬼籠野 県道208号線
鬼界ヶ島は、「鬼」を嫌ってでしょうか、喜界ヶ島に変わりました。ですが鬼籠野は鬼籠野のままです。鬼伝説(鬼を閉じ込めた)がこの地に伝わるからです。「鬼」を嫌うどころか、古い表記「尾呂野」から、あえて「鬼籠野」に変えた、とさえ言われます。


変電所
四国電力(よんでん)の変電所。予想を超えた大きさでした。


獄門峠
標識に峠の名前が記されていました。獄門峠。江戸時代、鮎喰川の河原で斬罪に処された人の首が「みせしめ」として吊されていたのだとか。


神山森林公園へ
へんろ道保存協力会の地図に載っている点線の道を探したのですが、見つかりませんでした。
大桜トンネル手前の車道を森林公園方向へ登ることになりました。けっこうやっかいな道でした。
なお、歩く人は少ないようですが、、トンネルを抜けて、一宮城から一宮神社・大日寺に降りてゆく道もあるようです。「だぼ」さんが「休日に歩いて遍路」で紹介されています。


標識
とりわけやっかいなのは広大な公園の中です。散歩道が張り巡らされていて、迷ってしまいます。
公園の案内図は各所にあるのですが、建治寺が記載されていないのです。コンパスとカンをたよりに、ようやくこの標識までたどり着きました。公園内でコンパスを使うなんて、初めての経験でした。


建治寺
山道に入れば、たちまち下に建治寺が見えてきました。


不動瀧
特に名前がついてはいなかったようですが、不動明王が祀られています。


龍門窟
自然の洞窟ではありません。人が年数かけてコツコツと掘ったものだそうです。入口に懐中電灯が置かれていましたが、高い所と狭い所は駄目なので・・・。


「灯台」
如意輪寺のところで(H25 秋その6) かなり細かく触れましたが、建治寺の常夜灯は、船乗りにとっては「灯台」でした。今も、(電気ですが)終夜、灯されています。


鳴門方向
鳴門方向からも津田方向からも、昔の夜は暗闇ですから、見えたようです。


参道
大日寺の方ヘ下ってゆきます。


瀧行場


権現道
建治寺の御本尊は金剛蔵王大権現です。だから「権現道」です。

ご覧くださいましてありがとうございます。
次回更新予定は8月28日です。
大日寺・一宮神社から井戸寺に向かいますが、一宮城、国中寺、天岩戸別八倉比売神社、気延山、そして天狗久にも立ち寄ります。


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ほろびた村 (天恢)
2014-08-10 10:35:44
 前回ブログに天恢の横ヤリ?で「善入寺島」が割り込んだため、「樋山地石鎚山と焼山寺道」が分割掲載され、全体的なまとまりを悪くさせてしまいました。 11番藤井寺から12番焼山寺に至る遍路道で、今回紹介された「麻名尾根古道」の地図を合わせてみれば、「樋山地石鎚山」が身近な存在として、現遍路道の脇道として楽しく遍路に誘ってくれそうです。 
 「善入寺島」に強く惹かれたのは、少し離れていますが「樋山地」と共通した「ほろびた村」だからです。 民俗学者の宮本常一さんが著書『ふるさとの生活』の第1章が『ほろびた村』でした。 岐阜県揖斐川町にあった八草(はっそう)という開拓村で、冬は雪が深くどうにも住めなくて、住民がちりじりになってしまって、『ほろびた村』になったそうです。 宮本さんは著書で、「こんな山奥にまで、なぜ人は住んでみようとしたのでしょうか?」とか「人はどうしてこんなとこところにまで住まねばならなかったのか?」 と、しみじみと問い掛けています。 
 この樋山地も、戦乱を避けて河野氏の一流が、わずらわしい世を逃れ平和な生活をするために築いた集落だそうですが、住めば天国でこういう集落は日本全国いたるところに存在したようです。 それにしても「樋山地」の段々畑や住居跡の石積み写真を見て、限界集落と言われる過疎地の将来を見るようで悲しくなります。 『ほろびた村』の原因は開拓失敗だけではなく、雪害、洪水、山崩れ、津波、戦乱、飢饉・・・などいろいろあります。 原発事故で「善入寺島」のように強制避難区域となった集落を思えば、滅びの要因はどこにでも存在しています。
 世界でも例をみない勢いで少子高齢化と人口減少が進む現代日本で、ある人口問題の研究グループの報告で全国の市区町村のうち896の自治体が、人口減少によって町がなくなる"消滅可能性" =『ほろびた村』となるとありました。 専門家が言うには、このまま一極集中化が進めば、「都会は栄えて、地方は廃る」という方向性ではなく、都会も地方も共倒れするしかないそうです。 ということは、村が滅びるのではなくて、日本が滅びていくことです。 どうすれば回避できるのでしょうか? これが私たちに問われている課題でしょう。
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いたたまれない気持ち (楽しく遍路)
2014-08-12 11:31:37
天恢さん、ありがとうございます。
「横ヤリ」のおかげで、私は二つの「ほろびた村」に触れることができました。結果、このようなコメントもいただくことが出来ました。「横ヤリ」、おおいに賛成です。近頃、世の中が変なのも、まともな「横ヤリ」が少ないからかもしれません。

44番大寶寺に向かう民宿で、夜、外に出てみました。川を挟んだ黒い尾根筋に灯を一つ、見つけました。あんなところに住むなんて、さぞかし不便なことだろう、と思いました。追われて行ったと私は思ったのです。
宿のご主人にそのことを話すと、昔はあそこが一等地だったのですよ。川近くのこの宿なんて、増水すればたちまち流されましたしね、日当たりは悪いし、望んで住む人なんていませんでしたよ、とのことでした。今日的な目ではわからないことが多いようです。
土佐・須崎の岩不動に向かう道でのことでした。一車線の道のカーブに在る一軒家に、おばあさんが住んでいました。一日に一時間も陽が当たるだろうかと心配になるような、山の陰の家でした。おばあさんが話されるには、ここに居るとお遍路さんに会えるし、こうして話もできるから住み続けている、のだそうです。
「なぜ住んでみようとしたのか」「住まねばならなかったのか」・・・考えていて、こんなことを思い出しました。


ひとつ、私の親たち世代に共通していたことを書きます。
それは、自分達親はともかく、子供たちには同じような生活はさせたくない、という願いでした。だから、本人が望めば都会に出してやろうと思い、「ゼニ」を貯め、子供を送り出したように記憶します。それが何より子供にとっていいことであり、まわり回って自分たちのためでもあるかもしれない、そう思っていたようです。
仕送りの「ゼニ」を稼ぐ必要から、親たちが地域の自給循環(地域としての基本機能)を壊していることなど、子供の私はまったく知りませんでした。次世代を担うべき若者を欠いた地域がどうなるかなど、考えもせず、‘いつの日にか帰らん’などと(さすが故郷に錦などとは考えませんでしたが)心躍らせ、都会に旅立ち、結局、親の期待を裏切って、都会に住みつき、帰りませんでした。
地域の崩壊ということが言われますが、その端緒を開いたのは私(たち)だったのです。近頃ようやく、自覚しています。

「若い者が働きたくても、仕事がないんよ」
四国を歩きながら何回聞いたことでしょう。その度に、四国を捨てた都会人である私は、いた堪れない気持ちになっています。

とりとめもなく書きました。お返事にはなっていないでしょうね。
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