楽しく遍路

四国遍路のアルバム

八坂寺 文殊院 八塚 杖の渕 西林寺 浄土寺 繁多寺 石手寺 伊佐爾波神社 宝厳寺

2017-05-03 | 四国遍路

 
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八坂寺へ
浄瑠璃寺を出て八坂寺へは、1キロにも満たない距離です。
しかし、とてもいい道です。


常夜灯
八坂寺に近づくと、常夜灯がありました。文字が刻まれています。
   奉 八金石  八坂組 
「八」は(八坂寺ではなく)八幡神社でしょう。「金」は金比羅神社。「石」は石鎚神社です。三社への願いを一灯に込めて奉納しています。


常夜灯
頭文字だけで複数の神社を表すスタイルは、けっこう広がっていたようです。
写真は伊吹島で撮ったものです。「蛭」は蛭子神社、「金」は金比羅神社、「八」は八幡神社です。三社に海上安全を祈願しています。


八坂組
幟立ての石柱にも「八坂組」とあります。
「組」は、元々は、相互扶助などを目的に、近隣の家々がまとまってつくった、自然発生的地縁組織でした。しかし江戸期には、藩の支配体制に組み込まれます。


47番札所八坂寺
八坂寺は、大宝元(701)、文武天皇の勅願により創建されたといいます。44番大宝寺と同じ経過です。
両寺をつなぐ、なにかの繋がりがあったのかもしれません。それは、あるいは熊野信仰だったでしょうか。(前号で記しましたが)、三坂峠には若一王寺跡がありました。


諏訪神社
諏訪神社の杜です。私は溜め池の堤防から見る、この景色が好きです。
諏訪神社は、古事記の伝では、信濃に籠もっているはずの神社ですが、武神として武士からの尊崇が篤く、とりわけ鎌倉期に、全国展開しました。(ある調査によると)全国に2616社があるといいます。


参道
祭神の建御名方命(たけみなかた命)は大国主命を父とし、事代主命を兄とする神ですが、「国ゆずり」を諾とする父神・兄神に逆らい、最後まで抵抗しました。
しかし建御雷命(たけみかづち命)に力比べを挑んで敗れた結果、信濃の諏訪湖に籠もることになります。それでも武士の尊崇を受けたのは、強者に挑む勇気が好まれたからのようです。


参道
この諏訪神社は、中世、この地方を支配した、河野氏が勧請したものかもしれません。
河野氏は、北条の河野郷を故地とし、湯築城(道後)と三津を本拠とする一族でした。源平合戦で源氏方に与し、とりわけ壇ノ浦の戦いで戦功をあげ、勢力を伸ばしたとのことです。河野氏には、この後、何度も触れることになります。


景色
懐かしい景色があります。


文殊院
衛門三郎伝説に実在のモデルがいたのかどうか、わかりませんが、文殊院は衛門三郎の邸宅跡地にある、とされています。お金持ちの家だったので「邸宅」と呼ばれています。
喜捨を求める弘法大師に、知らぬこととはいえ、非道い仕打ちをした衛門三郎は、報いを受けることとなりました。八人の子供たちが次々と亡くなるのです。
悔いた衛門三郎は、大師のお許しを得ようと、死に装束で四国を回り始めます。四国遍路の始まりを伝える話です。


八塚参道
「八塚」は、衛門三郎の子供たち(男子5人、女子3人)の墓、とされています。弘法大師が一夜にして八つの塚を築き、子たちを供養したと伝わります。
大師は子たちに死をたまわりましたが、憐れんでもいたことが示されています。優しい大師と怖い大師、二つの大師イメージは、衛門三郎伝説の核心です。
さほどの遠回りではありません。遍路道に復する道も単純です。ほんのひととき、伝説の世界に身を置いてみては如何でしょう。


八塚
八基の古墳が「墓」として使われています。古墳時代終末期(7世紀頃)の円墳と方墳の上に、小祠が置かれ、地蔵尊が祀られています。
他にも古墳はあったはずですが、それらは均されて田圃になっており、衛門三郎伝説と結びついた八基のみが残ったと考えられます。史実としての墓が、伝説上の墓に護られている形です。四国遍路発祥伝承・衛門三郎伝説が持つ「重み」故でしょうか。


八塚
衛門三郎は今わの際に、大師と会うことができました。大師が顕れてくださったのです。
衛門三郎は自分の非道のすべてを懺悔し、許しを乞います。大師は(既にすべてをご存知ですから)、告白を真実と認め、許しました。そして、何か望みはあるか、と尋ねます。


お大師さんの出現
衛門三郎は望みを大師に告げて、安らぎの中、今生を閉じました。大師は杉のお杖を、墓標として立てます。お杖はやがて根づき、杉の巨木に育ちます。今の杖杉庵です。
四国を回る、少なからぬ遍路たちが、今なお「羨望」をさえ感じる、お大師さんと衛門三郎の場面です。


八塚
衛門三郎の望みは、来世への良き転生、でした。
現世での非道は、前世での悪業の故かもしれません。悪い因果の巡りを切っていただき、良き来世をいただきたい、と大師に願います。
それは自分のためであるよりも、死なせてしまった子たちを供養するためであり、非道を働いた人たちに詫びるためでもあったでしょう。


八塚
いちばんよく知られている再来譚では、衛門三郎は伊予国の領主、河野息利(やすとし)の長男として再来します。衛門三郎は河野一族でしたから、同じ一族の頭領として生まれたことになります。息方(やすかた)と名乗り、善政をしいたといわれています。伝わってはいませんが、子たちも、息方の子として、再来したのではないでしょうか。息方に八人の子があったかどうかは、わかりませんが・・。


八塚
衛門三郎再来譚は他に、有徳の商人として再来した話や、同じ河野一族である一遍上人として再来した話があります。
時宗の祖となる一遍が「大師信仰」に組み込まれているのは、とても興味深いことです。同じ河野一族だという理由だけで成り立つ話ではありません。取り込む側と取り込まれる側が、互いに親和感を持ち合っていて成り立つ話です。


八塚
お大師さんは、渇水に困る者があればお杖水を湧かし、食べるに困る者があれば三度栗を実らせ、しかし二枚舌を使う者には喰わず芋を成らせます。人が生きる上での基本を示し、真っ直ぐに生きる者には来世を約束しますが、間違ったことをすれば罰します。
空海という歴史上の人物に発し、弘法大師と尊崇され、お大師さんと親しまれ、また怖れられもする信仰上の存在は、その多くの部分が、衛門三郎伝説の中に集約され、造形化されています。


道標
遍路道に復する道標です。


収穫
写真には写りませんでしたが、白鳥が、トラクターを怖がる風もなく降りています。少し離れてカラスも、抜け目なく降りています。稲穂が刈り取られ、カエルや虫が無防備状態になってしまうからです。


ソックリかかし
こんにちは!思わず声をかけそうになりました。
案山子は、神話では、「くえびこ」と呼ばれる神です。動くことなく、じっと周りを見続けているので、世の中をのことはなんでも知っている、とされています。


ソックリかかし
出石寺からの下り道にも、ソックリ案山子がいます。この案山子には二度だまされました。


小村大師堂・札始大師堂
まだ伊予川と呼ばれていた重信川が、折からのにわか雨で出水し、御身の置き所なく大師は、法力を以てにわかの草庵を結ばれた、といいます。後世、小村の大師堂と呼ばれるようになる庵です。


手水鉢
衛門三郎は遍路に発つにあたり、庵に弘法大師を訪ねましたが、お留守と知り、自分の住所、氏名、年月日を書き残したそうです。それが納め札の始まりとなり、小村大師堂は、札始大師堂とも呼ばれています。
文政十 丁亥歳 は1828年です。



このような道が、いつまで残ってくれるでしょうか。新しい道標の後ろに、古い道標が隠れています。


道標
 巡拝 右 へんろ道


重信川
かつて伊予川と呼ばれた重信川です。河床が砂礫層で、流域に伏流水による湧水を、いくつもつくっています。


大師堂
大師堂があります。お大師さんが歩く道には大師堂が建ちます。


杖の渕
お大師さんが地にお杖を突き立て、湧かせてくださった、と伝わります。杖の渕(じょうの渕)は、48番西林寺の奥の院となっているそうです。


杖の渕
今も豊かに湧いています。


大師堂
ここにも大師堂があります。


西林寺
西林寺は伊予の関所寺であったとか。・・罪ある者が山門をくぐると、無間地獄に落ちるそうです。間断なく苦しみつづける地獄、です。


列車
伊予鉄道高浜横河原線です。


49番浄土寺
市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖などと讃えられた空也が浄土寺に滞留。村人を教化したといいます。空也は、口称念仏の祖とされ、後に一遍が師と仰ぎました。
鹿杖を持ち、口から六体の阿弥陀仏を吹き出している(南無阿弥陀仏と唱えている)、お馴染みの空也像を、当寺も伝えるといいます。鎌倉時代の作だそうです。
 

50番繁多寺
ここ繁多寺には、一遍が逗留したそうです。一遍は、遊行上人、捨聖と讃えられる時宗の祖です。
先に、衛門三郎が一遍として再来した譚を記しましたが、念仏信仰と大師信仰との、融合の土壌は、浄土寺、繁多寺、さらには(前号で記した)窪寺、岩屋寺などで養生されたのかもしれません。


51番石手寺
河野息方は、「衛門三郎再来」と記された石を握って、生まれたといいます。その故事により、寺はそれまでの安養寺から、寛平4(892)、石手寺に改称したとのことです。
しかし、繰り返しになりますが、衛門三郎伝説の成立が9世紀まで遡る、というのではありません。伝説は、念仏信仰の普及→仏教の民衆化の潮流の中で、時間をかけて物語化され、流布されました。流布を担ったのは、高野聖などの念仏聖、熊野修験だったでしょう。


登る
石手寺のお山に登り、・・


伊佐爾波(いさにわ)神社楼門
・・伊佐爾波神社にでます。道後七郡総鎮守とされています。
伊予国府は現今治市の桜井にあり、それよりもこちら側が「道後」。向こうが「道前」でした。道後七郡とは、野間・風速(風早)・和気・温泉・久米・伊予・浮穴郡、です。


伊佐爾波神社本殿
伊佐爾波神社は春日造りです。とりわけ色彩、屋根の曲線がきれいです。


湯月町
長い石段を下り、湯月町にでます。前回(平成24春)お参りできなかった宝厳寺に参ります。


宝厳寺
宝厳寺は、一遍上人ゆかりの寺です。
壇ノ浦(1185)の戦いで功績をあげ、勢力を強めた河野氏でしたが、承久の乱(1221)で後鳥羽上皇側についたため、没落します。一族の主なものは流罪、断罪になりました。
一遍の父、河野通広(みちひろ)は、流罪、断罪こそ免れましたが、宝厳寺に籠もることとなりました。一遍は、通広の第二子として、ここ、宝厳寺の一角で生まれた、とされています。


境内
本堂は、平成25(2013)、火災で全焼したそうです。庫裏も焼かれ、木造一遍上人立像も焼失したとのことです。

ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次回更新予定は、5週間後、6月7日とさせていただきます。この間に、できれば春遍路に・・と願っているのですが。


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2 コメント

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🎵夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る~ (天恢)
2017-05-05 19:39:56
 今年も花咲く春から新緑が日増しに濃くなる季節を迎えました。 この春から新たな生活を始めた新入生や新入社員の方たちも、五月病なんかフっ飛ばして、そろそろ環境に馴染んでもらいたいものです。 今回も「八坂寺~宝厳寺」を楽しく読ませていただきました。

 さて、今回は三坂峠から松山市内に入り、のどかな田園風景が広がる古道をのんびりと歩きたいのですが、ここは四国遍路の元祖・衛門三郎の出身地です。  『喜捨を求める弘法大師に、知らぬこととはいえ、非道い仕打ちをした衛門三郎は、報いを受けることとなりました。八人の子供たちが次々と亡くなるのです。』 という「衛門三郎伝説」の怖い話の土地柄です。
 現代なら、「親(衛門三郎)の悪行の報いで、どうして8人もの罪なき子たちの命を奪ったのか? 」と、轟々たる非難が沸き起こり、たちまちお大師さまは大炎上です。 「楽しく遍路」さんは、このブログで、『人が生きる上での基本を示し、真っ直ぐに生きる者には来世を約束しますが、間違ったことをすれば罰します。』と、仏教の「因果応報」の教えを示されています。 
 天恢も幼少の頃から「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば 悪い報いがある」という戒めを祖母に散々聞かされながら育ちました。 この歳になっても、死後「閻魔大王のお裁き」で、「地獄行」か「極楽行」が決まる時を一番怖れています。 松山市内での恐怖体験は、八坂寺の閻魔堂、西林寺の無間地獄、太山寺の鐘楼内の地獄・極楽絵などがお勧めスポットです。

 さてさて、タイトルの「🎵夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る~」は、文部省唱歌の「茶摘み」です。 明治の歌ですが、時代を越えて歌い継がれて、今年の八十八夜は5月2日でした。 「・・・あれに見えるは茶摘みじゃないか。 あかねだすきに菅の笠」と続きますが、菅笠となるとお遍路さんですね。 まもなく「楽しく遍路」さんも遍路へ? 天恢も11年目の遍路へ出発します。 ほとんど毎年この時期に出発するのは、初夏ですから「着替えが少なくて済む」という理由だけです。 今回は、先ず龍馬脱藩の道 「梼原(ゆすはら)」を観光して、入野海岸から歩き始めて、四万十川河口を渡って足摺へ。 竜串から月山神社に参拝し、宿毛街道「中道」を通って宇和島まで歩く計画です。 これからも遍路を続けたいなら「無理」だけはするまい、と心がけることにします。
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夏は来ぬ。 (楽しく遍路)
2017-05-07 12:02:03
新緑から万緑へ、時季うつる中、きっと四国は、すばらしい装いで「私たち」を迎えてくれるでしょう。
というのも、天恢さんとたぶん時期が重なって、私も松山から歩かせてもらう予定だからです。同じ時、同じ四国を、同じ陽にあぶられながら、元気に歩くことができたら、と思います。

私はふたたび高縄山に登ってみようと考えています。ブナの原生林が楽しみです。近見山にも登ろうと思います。いずれも、小中学生の頃、ようやく「自分」を意識でき始めた頃、登った山です。今また登って、どんな感慨が持てるでしょうか。

現代なら、・・たちまちお大師さまは大炎上です・・
そうなってしまうのでしょうね。「裁き」を畏れ、「裁き」の前に畏まるというようなことは、今の人たちには、たぶん、なじまないのでしょう。
思うに、天恢さんにいっぱい怖い話をして聞かせたおばあさんは、えらい!

天恢さん、次回コメントでは、春遍路の様子、ぜひ知らせてください。
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