楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H25 秋 ① 観賢堂 屋島寺 八栗寺奥の院竹居観音 八栗寺へ

2013-12-20 | 四国遍路
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観賢僧正廟

「お大師信仰」の一断面です。観賢堂を訪れました。
高松市と高松観光協会による由緒看板を、まずお読み下さい。
・・・(観賢)僧正は旧鷺田村(現在の西ハゼ町)の人で、文徳天皇の仁寿三年(853年)に生まれた。 空海大和尚に弘法大師の諡を賜った時、観賢僧正は勅命を伝える使となり、御下賜の紫衣を着せ大師の御髪を剃り大任を果たした。 後母に逢うため故郷に帰った時、大師の御髪を剃った剃刀をこの地に埋めたので、ここを剃刀塚といいます。 昭和4年、当時の村長内井市太郎氏有志により、ここに僧正の遺品を納められ、頌徳碑と供養所へ(ママ)建立されました。・・・
なお、「西ハゼ町」のハゼは、地名由来からは「櫨」(はぜ)という漢字でしたが、読むにも書くにも難しく、日本初のカタカナ町名が誕生したのだそうです。


弘法大師 剃刀塚

こちらの由緒看板には「高松市鶴尾地区地域おこし事業推進委員会」の名で、次のようにあります。
・・・廟中の空海が着ていた朽ちはてた衣を着がえさせ、頭髪を新しい剃刀でそりました。翌年、その剃刀をこの地に埋めたといわれます。 昭和3年に、時の村長内村市太郎氏等により僧正の徳をしのびこの碑を建てました。(古老の話による)・・・


剃刀塚延命地蔵

村の古老の話は、「御入定」「御衣替え」にまつわる話でした。
・・・昔、醍醐天皇の御代、延喜9年(921)のことじゃそうな。天皇さんの夢枕に大師が立たれてな、衣が傷んだで、新しい衣が頂けないじゃろか、頼んだそうな。天皇さんはすぐ、東寺の偉い坊さんに、新しい衣を届けよとお命じになったんじゃが、この坊さんが、観賢さん言うてな、なんとまあ、讃岐も、この土地の生まれよ。・・・お大師さんといい観賢さんといい、えらい人が出て、わしらも名誉なことじゃ。・・・それで観賢さんは大師の御廟に入ってな、天皇さんから「弘法大師」を賜ったとお伝えして、伸びた髪や髭を整えさせていただき、新しい衣に替えてさしあげたんじゃそうな。大師は観賢さんを、奥の院の無明橋までお見送りくださったと言うぞ。・・・なんと、その時の剃刀が、ここに埋まっとるんじゃ。観賢さんが里帰りされての、その時ここに埋めたんじゃと・・・。


観賢堂

「紫雲山観賢寺」と刻まれていますが、いまは「観賢山久米寺」と寺名を変えているようです。ただし地元では「かんげん・さん」または「かんげん・どう」で通っており、「久米寺」では、まったく通じませんでした。
もっとも、「かんげんさん」という名も、私が接した限りでは、それが何者なのか、そもそも人物なのかどうかも、今は伝わっていないようで、私は会う人ごとに、大師号がどうの、石室で大師のお姿をどうのと、長い話をしてしまったのでした。


紫雲山

普通、栗林公園から見える富士山型の山を紫雲山と呼んでいますが、国土地理院の地図では、紫雲山は、浄願寺山、稲荷山、室山など溶岩台地を総称したものです。写真は、栗林公園から見える室山を反対側から見たものです。


道池から屋島小学校

手前の溜め池 (道池) は江戸時代中期の工事だそうです。白い校舎は屋島小学校です。夕焼け時には紅く染まるのでしょうか。


遍照院

ここで一息ついて行きなさい、そんなお大師さんの声が聞こえてくるようです。これから急な登りが始まります。


御加持水

三分の一ほど登った所でしょうか。御加持水は旧ケーブル駅方向への分岐てもあります。(ちょっと荒れていますが) 登ると、古代朝鮮式山城「屋嶋城」(やしまのき)の遺構があります。
ぜひ見たいのですが、今回はパスです。庵治の竹居観音に参るつもりなので、時間が足りません。次回、坂出の城山(きざん)遺構と合わせ、見学したいものです。また屋島寺始まりの地である北嶺、島北端にある江戸時代の砲台跡なども見たいと思います。


掃除

枯れ葉の時季ですが、きれいに掃除してくれています。


不喰梨(喰わずの梨)

不妄語、不慳貪の教えです。旅人に梨を求められましたが、欲をかいて、「食べられない梨です」と嘘を吐き、断ってしまいました。するとその梨は本当に食べられない梨になってしまいました。嘘を吐かない、欲をかかない。


畳石

板状に、しかも規則的に割れ目が入っていることから、安山岩ですが、「畳石」と通称されています。


畳石の西行歌碑

西行法師の歌碑があります。読みとれませんが、次のように刻まれているそうです。
  宿りして ここに仮寝のたたみ石 月は今宵のあるじなりけり   西行


南無阿弥陀仏 

文字通り、人生最後の大仕事、「あちらの世界」に渡ること、練習なしのこの仕事、一人っきりのこの仕事、心細いその時は、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・。


登山回数番組

H25.9末日現在の集計で、大横綱(2000回以上)が47人、そのトップは13004回。横綱(1000回以上)が50人います。
私が前回登ったH21.3には、大横綱が9人、そのトップは今回と同じ人で8055回、横綱は55人でした。この間に横綱の38人が大横綱に昇格しています。しかも横綱の数は減ることなく、むしろ5人増えています。会はまだまだ右肩上がりのようです。
前掲写真の参道掃除は、このグループが中心になって行われている、と聞きました。


屋島寺

札所では唯一、鑑真和尚(わじょう)の開基という。
和尚は来朝の時、屋島沖をお通りになりましたが、南方に「異気」を感じられ、屋島に船をお着けになりました。こうして「本朝律寺ノ最初」(澄禅さん)が屋島北嶺に建立されます。唐招提寺建立よりも前の、屋島寺の興り譚です。
なお鑑真和尚は屋島上陸の翌年、国分寺町鷲ノ山東麓に鷲峰寺を建立された、とも伝わっています。


屋島寺

北嶺の普賢堂は後に、弘法大師により南嶺、現在の地に遷され、84番札所屋島寺が誕生することになります。
北嶺には今も「千間堂」という地名が残り、仏教建築の基壇、礎石が確認できるとのことです。次回のお楽しみです。


廃仏毀釈?

いずれもが頭部を失っています。代わりに丸石を付けてもらったようです。故意によるものと思われます。


壇ノ浦への下り口

澄禅さんは「四国遍路日記」に、・・・扨(さて)、東ノ方エ行テ屏風ヲ立タル様成坂在。爰ヨリ下ハ平家ノ城郭也。五丁斗下テ壇ノ浦ニ至・・・と書いています。
屏風を立てたような急坂を (写真ではあまり急に見えませんが急坂です) 下ると「壇ノ浦」に至ります。


壇ノ浦 五剣山

(これまで何回も触れてきた) 崇徳上皇には申し訳ありませんが、保元の乱の歴史的意義から言えば、その主役は源氏と平氏であって、天皇家のご兄弟も、藤原摂関家のご兄弟も、もはや脇役でしかありません。源氏、平氏という武士勢力が、それぞれ分裂しながらも、この乱に登場したことが、保元の乱のもっとも重要な部分です。この後、平治の乱を経て、平家政権が登場することになります。


路傍

しかし、驕れる平家は久しからず、文治元(1185)、敗走を重ねてきた平氏は壇ノ浦の戦い(屋島)にも破れ、さらに西へと瀬戸内海を敗走、壇の浦の戦い(赤間関)に破れて滅亡します。保元の乱からわずか29年後のことでした。

長門国赤間関の「だんのうら」は「壇ノ浦」ですが、屋島の「だんのうら」は、「檀の浦」、の方がいいのかもしれません。


庵治石丁場

五剣山の麓に、牟礼町久通(くず)や庵治町丸山があります。石材加工業の中心地です。写真の、四角に切れ込んでいる港は久通港です。江戸時代から、石材積み出し港でした。


荒石

明治以前は荒石で積み出すことが多く、久通や丸山に定住する仕立師(細工師、石匠)は、多くはなかったようです。地域内で採石→細工→積み出しを分業する、いわゆる「社会的分業」が進むのは、明治以降だそうです。
とりわけ戦後、昭和28(1953) 軍人恩給が復活して墓石需要が急増し、続いて高度成長の中、庭石や灯籠、記念碑などの需要が増加し、「社会的分業」は加速されました。・・・そして昭和30年代、ある画期がおとずれます。


路傍で見つけた庵治石の細工

画期、それは世界的彫刻家 流 政之(ながれ・まさゆき)さんによる「庵治石匠塾」の開講です。
美術工芸の角度から庵治石に光が当てられました。庵治石の水晶並といわれる硬度、地肌の美しさに、石匠の高度の細工技術と芸術性が加えられ、見事な石材彫刻の造形が生まれ始めました。「庵治石」の名が世界に広まりました。 →徳島で見た流さんの作品


庵治港

庵治港もまた、久通港と並んで、江戸時代からの庵治石積み出し港です。(北半分は漁港として使われています)。そもそも「庵治石」という名の興りは、積み出し港が庵治だったことにある、とも言われています。久通(くず)石では具合が悪かったのかも?

庵治石の「強度」を物語る話があります。・・・海水を塩釜で煮詰め、製塩する時代がありました。塩釜には、鋳鉄製塩釜、土星塩釜、網代塩釜などがありましたが、瀬戸内海地方では石製塩釜が多用されたそうです。塩釜の底として薄い石板を使ったのですが、庵治石は最もその酷使に耐えたといいます。半端な石では割れてしまいました。


佐藤継信の石塔

澄禅さんの「四国遍路日記」に・・・(安徳天皇の) 内裏ノ傍ニ 一群ノ松ノ中ニ 奥州佐藤次(継)信ノ石塔在・・・とあります。安徳天皇の行在所近くに、佐藤次(継)信の石塔があるというのです。しかし、・・・銘細字ニテ不分明・・・つまり、功績をたたえる文(銘)は、細字で読みとれない、と書いています。
たしかに細かい字で、読めませんした。継信は義経に奥州時代から従い、檀の浦の戦で義経の楯となり討ち死にした、とされています。「忠臣」として褒め称えられることになります。
右下の小さな石柱には「佐藤継信墓」とありますが、墓は別の所にあるようです。


安徳天皇社

安徳天皇の行宮はこの辺であったろう、と由緒看板にあります。大正時代には賀陽宮殿下(かやのみや)、昭和には浩宮殿下がお成りになった、そうです。
ところで讃岐の崇徳天皇関連の寺社ですが、皇族がお成りになったことは?どなたか、ご存じの方、教えてください。


相引川水門

屋島は、昔、ハッキリと島でした。江戸時代に埋め立てが進み、ほとんど陸続きになりますが、島だったときの痕跡は残っています。相引川です。
屋島の南を東西に流れ、河道の両端に河口を持っています。水門ができるまでは、東西二つの河口から潮が満ち上がって来、また東西に引きわかれたのだそうです。それで「相引」です。澄禅さんは「四国遍路日記」に・・・屋島ヲ中ニシテ 両方ヨリ潮一度ニサシ、又引時モ一度二引故ニ 相引ト云也・・・と、川の名の興りを書いています。
また、両軍がこの川の辺で戦って引き分けた、引き分けたから相引川となった、とも言います。


州崎寺

弘法大師の創建になる、とのことです。真念さんのお墓があるのですが、申し訳ない、参り忘れました。
前記の佐藤継信は、この寺の本堂扉に乗せられて、源氏本陣に運ばれたといいます。その縁でしょうか、継信の菩提寺になっているそうです。


八栗半島(庵治半島)

八栗半島の最北端に竹居観音寺があります。遠いのでバスを使うつもりでしたが、次の便まで40分ほどあり、庵治方向に歩いておりました。
すると、・・・お遍路さん、どこへ向かっています?・・・、 例の声がかかりました。事情を話すと、「送っていこか、うん、待っとり、車出してくるけん」  
有り難いことに、タクシーならおそらく2000円は超えたであろう距離を運んで下さいました。この方は八十八カ所をすでに周り、今は不動霊場を回っているそうでした。


竹居観音寺

二階家の屋根の位置からお分かりでしょうが、坂は急です。坂下が海で、竹居観音寺があります。海の「側に」在るというより、海と陸の「境目に」在るという感じです。
竹居の「竹」は、「岳」(たけ=ごつごつした山)から来ている、とも言われます。大仙山が海に落ち込む所です。


洞窟の前から竹居の浜

竹居観音寺は、高松城の鬼門・艮(うしとら)の守護として、生駒親正あるいは松平頼重により創建されたといいます。高松藩は初め、関ヶ原の功績により生駒氏が封じられますが、御家騒動(生駒騒動)で改易となり、水戸松平から黄門光圀のお兄さん、頼重が転封されてきます。
しかし、それ以前も、この地は長く信仰の場でした。五来重さんは「四国遍路の寺」で、次のように書いています。
・・・本格的な辺路修行では、ここ(五剣山)を回ってさらに竹居観音まで回ったものと思われます。それが山と海との行道です。・・・四国遍路の寺には山の方を金剛界とし、海の方を胎蔵界とするという名づけ方があります。幸い八栗寺にはその伝承が残っていて、竹居観音を奥の院としてお参りしています。この場合は潮垢離をとるということも行道の目的だったでしょう。・・・


洞窟への「長命之橋」

洞窟に続く橋が架かっています。この橋、「長命之橋」と名づけられています。橋が架かる以前、命を落とした人が何人もいたのでしょうか?


長命之橋の下

橋の下は海です。岩の濡れ工合から、今は引き潮だと分かります。少し海が荒れれば、確実に波がとどきます。かつて、ここが「行場」であった頃は、むろん橋は架かっていませんでした。最初の橋は大正4(1915)だそうです。
頼富本宏さんが「四国遍路とはなにか」で、「かひさわり」という言葉を説明しています。
・・・「かひさわり」とは、「貝障り」とも書く。すなわち、岸壁にしがみつきながら、海に突き出た断崖や巨岩を廻る。その時に抱きついて見えない岸壁の向こう側に指を這わせながら、貝や岩肌などの手がかりを探る行動を表現したものである。手を伸ばした先に何もなければ、そのまま海に落ちるしかない。命懸けの行である。・・・


岩窟

「もう半年早く来ればよかった」というのが私の残念な思いです。
竹居観音寺は「工事中」でした。岩窟は補強工事を施しているようで、中には足場が組まれていました。


工事中

岩窟まで、より安全に行けるようにと、長命之橋の手前に木製幅広の橋を新設しています。
これまでは「子松橋」が架かっていましたが、狭い上、海面に近く、危険と考えたのでしょう。その上に新・子松橋を架けているのです。


新・子松橋

新・子松橋です。・・・このハシ渡っちゃいけません・・・いえいえハシは渡りません。真ん中通って来ましたよ・・・
まだ手摺も出来ていません。怖くて、とてもじゃないがハシは渡れません。真ん中通って、岩窟まで一応、行ってみました。(工事の人のお許しは得ています)。


竹居の浜

民家が数軒建っています。一番手前に竹居観音寺の本堂などがあります。


竹居観音寺本堂

注連縄を張っています。この寺には今も「神」の要素が残っているわけです。


瀧炎堂

本堂の側に仮堂が建っていました。
大きな読経の声が聞こえていました。住職さんとお話し出来ればと思ったのですが、できません。


四国最北端の地

庵治(八栗)半島の最北端であり、四国の最北端でもあります。


潮目

庵治港まで歩き、バスに乗ります。すこし時間があるので、のんびり、景色を楽しみながら歩きます。


砂浜

砂浜集落がありました。ふと思いました。久通から庵治にかけての海岸も、(今は埋め立てられていますが)、砂浜だったのでは?
大きな石を、砂浜の緩い傾斜を利用して海に入れ、筏を取り付け、海水の浮力を利用して運ぶ・・・。


鳥居

これより約20分の登りだと聞きました。もう大丈夫だと思ったとたん、ブレーキがかかりました。饅頭を食べたり、お接待所で長っ話をしたり・・・。


鳥居

扁額に「歓喜天」とあります。「八栗の聖天さん」、えらい人気だったと言います。


夕陽

傾いた陽が射し込んでいます。


岩塊

宝永地震の時の崩落岩塊です。この塊は、ここで止まりました。岩質から、五剣山が危険な行場であると分かります。


夕陽と屋島

いいタイミングで登ってきました。


八栗寺 五剣山

五剣山が紅く染まっていました。お参りだけすませ、宿に入りましたました。門前の宿に泊まります。


次回は八栗寺から六万寺、志度寺へと歩きます。
更新は、歳をまたいで、1月10日の予定です。平成26年は、どうかよい年でありますように。 

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2 コメント

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Unknown (天恢)
2013-12-28 13:29:23
いよいよ年の瀬も押し迫り、2013年も残り少なくなりました。 「楽しく遍路」さんのブログも、いよいよ二巡目結願の最終章となりましたが、この一年楽しく読ませていただき有難うございます。
遍路で、最後の讃岐の地に入ると足取りも急に軽くなってきます。 京阪神からも近く、遍路道沿いの人家は他県に比べて多く、地方的色彩の強い四国にあって、讃岐だけは都会的なセンスを感じました。 
それに讃岐は崇徳天皇ゆかりの地、弘法大師の生誕地でもあって、「名所・旧跡」も多く、「お大師信仰」も数多く根付いているように思えます。 「観賢堂」も遍路の通りすがりに、こんなところがあったのかと身近さを感じる場所です。
また、八栗半島の最北端に「竹居観音寺」も、古くからの信仰の場で、山アリ、海アリの修行の地だそうで興味が尽きません。 恐らく世に知られていないだけで、埋もれている「お大師信仰」はたくさんありそうです。 それをこうやって掘り起こすことも大事なことと痛感します。 どうか良いお正月をお迎えください。
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Unknown (楽しく遍路)
2013-12-30 13:50:01
天恢さん いつも、ありがとうございます。
一巡目は「へんろみち保存協力会」の地図に、ほぼ従って歩きました。“ほぼ”というのは、意図せず外れてしまったことが、つまり迷ったことが、多々あったからです。意図して外れたところは、あまりありませんでした。
二巡目は一転、88カ所、別格二十カ寺、奥の院、大師ゆかりの寺などを、「乱れ打ち」というのでしょうか、ここと思えばまたあちら、外れに外れて歩きました。1/2500地図を使うことが多くなりました。結果的には円環が繋がり、二巡目を閉じたのが、この10月でした。初遍路が2001.12.27なので、12年かかってのことでした。
ブログを現在のスタイルで始めたのは2011.8.24でした。以来、2年と4ヶ月が経ちました。その間、45回の更新を数えています。三週間に一回の更新は、私の生活リズムのなかにあります。
この後、私はどんな歩き方をし、どんなことを書くのでしょうか。飽きることなく付き合っていただき、多くのご教示をいただければ幸いです。
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