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四国遍路のアルバム

H25 初夏 ⑤ 我拝師山出釈迦寺  捨身ケ嶽禅定

2013-09-06 | 四国遍路
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ここ数日、不快なコメントが多数寄せられています。個別にアクセス制限で対処してみましたが、止むことがなく、五月蠅くて仕方ありません。そこで、申し訳ありませんが、これまでコメントをいただいた方については自動公開としながらも、初めての方については、一時保留したのち、迷惑メールでないものは公開したいと思います。ご了承ください。


「四国遍礼霊場記」(寂本)より

寂本さんが描いた「出釈迦寺図」です。
左端に筆(の)山が描かれ、中央に我拝師山 捨身ケ嶽、その右に塔跡、中山が描かれています。捨身ケ嶽へ登る道には「世坂」との書き込みがあります。五来重さんによると、お接待の施物が置かれていたところから、「施坂」とも呼ばれたそうです。
中山の(北の)麓には「水茎岡」という地名が記されています。西行さんが庵を結んでいました。手前の「あまき里山」=天霧山は、弥谷山と尾根続きです。間に建物が二棟描かれていますが、文字による説明はありません。 


筆の山 我拝師山 中山

「出釈迦寺図」の三つの山を写真に撮ると、このようになります。中央、我拝師山の棚状の部分が「塔跡」です。
善通寺の山号は「五岳山」ですが、五岳とは、この三山に、香色山、火上山を加えた、五山です。これらの山が立ち並ぶ様が、さながら屏風を立てたかのように見えることから、この辺を「屏風ヶ浦」と呼ぶ、ともいわれています。


あまき里山=天霧山

ふり返ると天霧山が見えます。
山容を変えるほどの採石は、戦後の始まりです。安山岩が切り出され、主に砕石として使われています。
しかし天霧山での採石は古く、造寺造塔が盛んとなった平安時代から行われていました。凝灰岩が「天霧石」として切り出され、五輪塔などの石材として、多く使われたそうです。前回に見た、香川氏の供養塔は、その一例でしょう。興隆寺廃寺の供養塔も天霧石かもしれません。


弥谷寺の凝灰岩転石

採石は、尾根続きの弥谷山でも行われていました。そもそも弥谷寺は、採掘場跡に建っていると言えるそうです。例えば獅子窟は凝灰岩をくり抜いた岩穴です。また磨崖仏が刻まれた岸壁も、凝灰岩を切り出した採石面だといいます。
写真の、石段両側にある巨岩は、火山礫凝灰岩の崩落岩塊なのだそうです。


73番 出釈迦寺本堂 大師堂

閑話休題。
73番札所は我拝師山麓の出釈迦寺です。捨身ケ嶽禅定は、その出釈迦寺の奥の院とされています。
しかし澄禅さんは「四国遍路日記」に、次のように記しています。・・・此の寺(曼荼羅寺)ニ荷俵ヲ置テ出釈迦山エ上ル、寺ヨリ十八町ナリ。・・・爰只曼荼羅寺ノ奥ノ院ト可云山也・・・。
遍路たちは曼荼羅寺に荷物を置いて、曼荼羅寺の奥の院と云うべき「出釈迦山」に上った、と言うのです。この時、まだ出釈迦「寺」は存在していなかったという記述になっています。


出釈迦寺奥の院

寂本さんも、「四国遍礼霊場記」に同様のことを書いています。・・・此寺は曼荼羅寺の奥院となん。・・・むかしより堂もなかりきを、ちかき比(頃)、宗善という入道のありけるが、心さし(志)ありて、麓に寺を建立せりとなり・・・。
我拝師山の麓に堂はなかったが、近頃、宗善入道が寺を建立した、と言うのです。それが元となり73番出釈迦寺が生まれた、という脈絡になります。


捨身ケ嶽山門

真念さんは「四国遍路道指南」に、・・・此寺札打所十八町山上に有、しかれども由緒有て堂社なし。ゆへに近年ふもとに堂?に寺をたつ、爰にて札をおさむ・・・と書いています。
近年になって山の麓に「堂?に寺」が建ち、ここに札を納めるようになったが、それ以前は、十八町上った山上で納札を打っていた。山上には「堂社」はなかったが、「由緒」はあった、とのことです。


根本御堂

その「由緒」とは・・・
真念さんが言う「由緒」を、山上の「根本御堂」が、伝えています。
寺看板に「捨身ケ嶽禅定」と大書され、表札が二枚掛かっています。一枚には「釈迦如来御出現之霊場」、もう一枚には「弘法大師捨身誓願遺跡」とあります。堂前の石柱には「弘法大師建立 大塔の跡」とあります。これが「由緒」です。
石柱の裏面には、仁安2(1167)、禅定参拝された西行さんの文を、山家集から引用して刻んでいます。・・・師に あはせおはしましたる所の標に、塔を建ておはしましたりけり 高野の大塔などばかりなりける塔の跡と見ゆ  苔は深く埋みたれども、石大きにして、露に見ゆ・・・
この地が釈迦如来御出現の霊場であることの標として、大師は大塔を建立された。その建物は今はないが、礎石が苔むして埋もれている、と西行さんは書いています。
   筆の山に かき登りても 見つるかな 苔の下なる 岩の気色を  西行


我拝師山 捨身ケ嶽の鎖場 

大師がまだ真魚(まお)と呼ばれていた頃、・・・衆生救済の誓願をお立てになり、願いかなうなら、釈迦如来よ、現れて我が身を受けたまえと、崖上から身を投じられました。釈迦如来は御出現なされました。真魚は天女に抱きとめられたといいます。ジャータカ風の捨身譚です。
捨身ケ嶽の、真魚が身を投げたとされる所には、現在、稚児大師の像が立っているそうです。(私は、そこまで上れませんでした)。
   めぐり逢はんことの契りぞ ありがたき 厳しき山の 誓ひ見るにも  西行


多度津方向

「四国遍礼霊場記」(寂本)より・・・其道の程 険阻にして 参詣の人 杖を抛(なげうち) 岩を取て登臨す。南北はれて 諸国 目中にあり。大師 此所に観念修行の間、緑の松の上に 白き雲の中 釈迦如来影現ありしを 大師拝み給ふによりて、こゝを我拝師山と名け玉ふとなん・・・
「南北はれて 諸国 目中にあり」とのことですが、捨身ケ嶽に登っていないので、私には北方向しか見えません。


黒戸山 弥谷山 天霧山

北方向を見て、まず目に入るのが、弥谷山を中心とする山塊です。
「死霊がこもる山」を見下ろすことがあろうなど、思ってもみませんでした。やはり、ここは特別な地なのでしょう。「弘法大師捨身誓願遺跡」、「釈迦如来御出現之霊場」。私は今、大きな信仰空間に身を置いています。


塩飽諸島

弥谷山の向こうに塩飽諸島が見えます。いわゆる「両墓制」の空間が、眼下に広がっているわけです。
伊吹島の所で触れましたが、塩飽諸島には(消滅しつつも)「両墓制」の習わしがあります。墓を、一人の死者について二基、・・・遺体を埋葬する埋め墓と、供養するための参り墓・・・建てる風習です。
「弥谷参り」も、「両墓制」の一形態です。遺体を葬った後、その霊を弥谷山に導き、弥谷寺で供養します。埋葬と供養が別々になっています。


層塔

奈良時代から平安中期の作とされています。これも「天霧石」でしょうか。背景に天霧山が見えています。


梵字など

江戸時代のものだそうです。


磨崖五輪塔

陽刻されています。室町時代初期の作と説明があります。  


鐘楼

夫婦連れのお二人に出会いました。今は多度津にお住まいですが、「佐田の出、なんですよ」、とのことでした。雲辺寺の手前で、境目峠を降りてきた所です。鐘楼の横木に腰掛けて、小一時間、佐田のこと、眼下の丸亀平野のことなど、とりとめもなく話しました。
最近の晴れ続き水不足に話が及ぶと、讃岐には二大利水事業がある、と話されました。一つは、もちろん、お大師さんがかかわる満濃池です。もう一つは、昭和49(1974)完成の「香川用水」でした。早明浦ダムの水を香川県に引く、吉野川分水用水路です。・・・お二人は、この後、捨身ケ嶽に登られました。


西行腰掛けの石

讃岐院おはしましけむ御跡に近づくにつれ、西行さんの足跡も濃くなってくるようです。
写真は、世坂にある「腰掛けの石」です。土地の人の話では、元からここに在ったのではないようです。西行さんは、あちこちに腰掛け石を残しています。腰掛けて、歌の推敲などしておられたのでしょうか。


出釈迦寺の西行歌碑1983

出釈迦寺の、求聞持大師像の隣に、小さな歌碑がありました。建立年は安永八(1779)です。
・・・七十三番出釈迦寺当山奥之院 弘法大師行道所禅定場エ 是ヨリ十三丁・・・ とあります。捨身ケ嶽禅定が、安永八、すでに出釈迦寺の奥の院であったことが分かります。
刻まれている歌は、前述の、・・・めぐり逢はんことの・・・の歌です。


求聞持大師像

なお、「四国遍礼名所図会」の説明も、現状通りの記述となっています。・・・本堂本尊釈迦如来、大師堂(本堂の脇にあり)。捨身岡(本堂より十三丁山上にあり)。此所大師御修行の時 釈迦如来影現し給ふ所也。故に出釈迦寺と号す・・・。
出釈迦寺はすでに存在し、寺名の由来までが記されています。むろん「捨身岡」は出釈迦寺の奥の院です。

我拝師山を故地として、曼荼羅寺が生まれ、出釈迦寺が生まれました。その様子を西行さん、澄禅さん、寂本さん、真念さんらが書き残してくれました。
冒頭でお示しした寂本さんの「出釈迦寺図」中、二棟の建物は、曼荼羅寺でもあり、出釈迦寺でもあるのでしょう。元は一つなのですから。


猛暑の中、集中を欠き、予定していた甲山寺・・・郷昭寺の部分を書くことができませんでした。
残念ですが、この部分をスキップして、次回は、79番高昭院の奥の院であり、元79番、(白峯宮を含めれば元々79番)である金山瑠璃光寺と、やはり高照院の奥の院とされる、摩尼珠院 不動瀧を中心に報告いたします。早く本調子に戻れればいいのですが・・・。
更新予定は9月27日です。

 *訂正上記中 「高照院の奥の院とされる、摩尼珠院 不動瀧」の部分は、「城山の瀧行場 不動瀧」と訂正します。

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2 コメント

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Unknown (楽しく遍路)
2013-09-06 21:03:04
天恢さん とりわけ俳句茶屋にかかわる情報、ありがとうございます。
姉弟でやっておられたんですね。私は弟さんとしか、お目にかかったことがありませんでした。
HP拝見しました。長く続けていただければと思いますが、その苦労も大きいようですね。毎回、明るく応対してくださいますが。

身を捨てる思いで上られた我拝師山とは、鎖場がある捨身ヶ嶽のようですね。驚きです。その思いが、きっと、お孫さんに通じたのでしょう。私には、いくら孫のためとは言え、無理です。

伊吹島、いつか訪ねてあげてください。私もまた訪れて、すこし細かく「調査」したいと思っています。

そうですね、「風立ちぬ、いざ生きめやも」ですね。
返信する
Unknown (天恢)
2013-09-06 14:22:29
 前回の「H25 初夏 ④ 続伊吹島・・・」も楽しく読ませていただきましたが、コメントはあの暑さで思考停止のためお休みしました。 さぁ、「風立ちぬ、いざ生きめやも」です。
 伊吹島は、「イリコの島」、その味の旨さの秘密は「曳き船」で捕れた鰯を、即、加工場へ「運搬船」で加工場へ運び、鮮度を落さないから良質のイリコになると聞き及んでいました。 が、それを更に海水で煮て、干すことで、ますます美味しくなる秘密が隠されていたんですね! (納得!)
 弥谷寺の門前にある「俳句茶屋」も思い出あるスポットです。 二度ほど茶店に荷物を置かせていただいて、お参りした後にお茶などいただきました。 二度とも「ご主人」の対応だったのですが、昨年NHKの「あさイチ」で店主の大野姉知子さんの存在を知っていましたので、ご主人に問い合わせたところ、大野姉知子さんの弟さんでした。 大野さんと「俳句茶屋」については、NHK、日経、山陽新聞などで報道されていますので、ぜひ参考にしてください。
http://www1.nhk.or.jp/asaichi/2012/05/30/02.html
http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASFH03005_U2A400C1000000&uah=DF130920114231
http://www.sanyo.oni.co.jp/feature/bunka/ohenro/2009/11/26/20091126104331.html

 もう一つ、天恢も昨秋、出釈迦寺の奥の院とされている我拝師山の捨身ケ嶽禅定にお参りしました。 孫が中学受験を迎えるにあたって、出来ることは神仏におすがりするしか道はないのです。 並のお願いでは効き目が薄いと思い、身を捨てる思いで我拝師山に上りました。 お陰さまで孫は無事に第一志望校に入学できて、元気に通学しています。
 どの札所も、遍路道も思い出沢山ですが、まだまだ知らないことばかりと痛感しております。 また、コメントさせていただきます。
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