楽しく遍路

四国遍路のアルバム

H25 初夏 ⑥ 八十場水 瑠璃光寺 奥の院 城山神社 高照院 不動瀧 醍醐寺

2013-09-27 | 四国遍路
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氏神さま

八十場(やそば)に向かって、金山の山裾を歩いていると、「国津大明神 天正城趾」への案内が出ていました。
上がってみると、小さな神社がありました。掃除中の男性がいたので、由来など尋ねてみましたが、「この辺の氏神さま」としか分からない、とのことでした。先祖代々、大切にしているので大切にしている、それだけのことなのだそうです。
天正城趾に向かおうとすると、この先には何にもないよ、とのことです。親切で言ってくれています。にもかかわらず進むのも難しく、断念しました。 


サヌカイト(讃岐石)

民家の塀です。土台石にサヌカイトを使っています。破断面の鋭さ、光沢から見て、サヌカイトに違いないでしょう。きれいな打音が出ることから、「カンカン石」などとも呼ばれる石で、金山は希少な産地の一つです。他では、金山の隣の城山(きやま)、81番国分寺の北、五色台周辺、奈良大阪の境にある二上山などで採れます。
その剥離性の良さ、硬度から、古く、「石器」として重宝されました。


八十場の水

「八十場の水」の水源は、ここから500㍍ほど上の、金山神社、金山薬師(金山瑠璃光寺)境内にあり、サヌカイトの鉱脈をくぐって、ここに出ています。
この石積みもサヌカイトです。


八十場の水

水は透明ではなく、また透き通った青でもありません。不透明で、白濁しています。だが、汚れているのではありません。たぶんサヌカイトの「養分?」をたっぷり含んでいるのでしょう。


悪魚退治の場面図

トコロテンの清水屋(きよみず・や)さんに、悪魚退治の場面図が掛かっていました。八十場の水の「霊水伝説」にかかわる絵です。
「霊水伝説」とは、側の由緒板に曰く・・・南海に征して悪魚の毒に悩んだ讃留霊皇子とその軍兵88人は、童子の捧げるこの水によって蘇ったが故に、八十蘇場(やそば)の水と言う・・・。
讃留霊皇子と兵たちは、悪魚は退治したものの、その毒気に当たって苦しみます。しかし、八十場の水で解毒され、蘇りました。


霊水を神童が王に差し出す場面

童子が讃留霊皇子に霊水を差しだしています。画面右上に、退治された悪魚がいます。
・・・退治はしたものの、毒気に当たり、親王は御気弱りたまい、親王よりも精魂が劣る兵たちは、死んでしまいました。しかし親王 霊水を服用し給えば、御気強くならせ給い・・・


八十蘇水が軍兵の傷を癒やす

・・・親王 御自らの手で 死人の口に霊水を注ぎ給うと、・・・皆蘇生シタリ・・・!


魚堂遺址碑(県立坂出高校にて)

讃留霊皇子たちを呑み込んだ悪魚は、腹中より損害され、苦し紛れに・・・伊与ノ海ヲ過ギテ 室戸ノ崎マデ 負イテ往ク・・・腹中痛ケレバ オヨギ還テ 当国 坂勢ノ浜ニ 馳上テ 終ニ死ニタリ・・・
悪魚が馳せ上がったという「坂勢ノ浜」は、「坂出の浜」だと解されています。

ところが、悪魚が死んで以降、日照りや洪水が続くようになりました。人々は「祟り」と畏れました。


「魚堂遺址碑」の文字

大魚の霊を鎮めるため、祠を建てました。坂出駅の南側、県立坂出高校校庭の一角に当たる場所です。戦国時代末期まで、この辺が海岸線だったとのことです。その祠を・・・今ニ魚ノ御堂ト云・・・。
なお、坂出高校は「津波避難場所」に指定されていますが、「ここの地盤の高さは約1.3㍍です」。


金山から江尻方向

「悪魚」にまつわる地名由来譚があります。
「悪魚」は「江の魚」と呼ばれていたそうですが、退治された「江の魚」の尻尾が流れ着いた所が、現在の坂出市「江尻」で、腹部が流れ着いたのが、坂出市「福江」(←腹江)だとか。

特徴ある二つの山は、右が雄山(おんやま)、左が雌山(めんやま)です。雄山の向こう側に、崇徳天皇が上陸された「松山の津」があります。


志度寺奥の院 地蔵寺門前

そして、なんと、讃留霊皇子たちを船もろとも呑み込んだ大きな口が、さぬき市に流れ着いたとのことです。今の、さぬき市志度「江の口」です。
「江の口」には、志度寺奥の院の地蔵寺があり、境内に魚霊堂(うおのみどう)があります。石柱文字は、「海鵄魚口(えのうお・くち) 魚霊堂(うおのみどう)」、です。
「江の魚」、あるいは鯨だったかもしれません。(モビーディックを想起しますが)、超自然的存在への畏怖が「悪意」に転じても、不思議ではありません。なお、「江の魚」=�訝(えい)説もあります。


城山神社(きやま)

悪魚「江の魚」は坂出や志度に祀られましたが、では、讃留霊皇子たちは、どうなっているのでしょうか。
城山神社で一つの答を見つけました。この神社、金山の隣の、城山の麓に鎮座しています。
城山神社の社伝は、祭神 神櫛別命(かみくしわけ)が、景行天皇の御代、悪魚退治の功績で讃岐国造に任じられた、と伝えているそうです。讃留霊皇子については、日本武尊との関わりなど、いろいろに伝わっていますが、「城山神社に祀られている」、が答の一つではあります


菅公祈雨

城山神社は延喜式内大社。格式ある古社です。境内に、摂社として、菅原道真公が祀られています。雨請天満宮です。
道真公は讃岐国司として在任中、旱魃にみまわれ、城山の神に雨乞いをしたそうです。その時の祭文が残っています。 「菅公祈雨」です。見事、雨は降り、農民は狂喜したとのことです。


金山薬師への登り口

八十場の水の水源に登ります。
他にも登り口はありますが、清水屋さんと墓地の間の道が一番分かりやすく、近道のようです。
登れば、金山薬師(瑠璃光寺)と金山神社があるわけですが、元々、神仏分離以前は一つでしたから、境内を接して並んでいます。


金山大神の鳥居

「金山大神」の扁額が掛かっています。
「金山大神」は「山の神」ですが、本地垂迹説により、お隣、金山薬師の薬師如来が本地仏、つまり、お薬師さんの権現さん、と考えられるようになります。




さほど険しい道ではありません。やがて右に入るのですが、目印は「けいの里」の建物です。これが目についたら、右に進みます。すると二の鳥居があり、神社が見えます。
「けい」は「磬」と書く、古代中国渡りの打楽器です。打音がきれいなサヌカイトの利用を考えて、ここに建てたようです。


二の鳥居

昭和62(1987)の「金山神社の再建の由来」碑は、次のように始まっています。
・・・その昔江尻村の春市夏祭りは、山の金山市と海のお恵比須さんに代表されていました。金山市には、招行したお客さんと共に家庭の自慢料理の押抜寿司や酒肴を持寄して金山神社(権現さん)に参詣し、ワラビや春欄つつじの花に囲まれ、小鳥の囀りを聞きながら野外食を楽しみました。・・・
金山神社が「権現さん」と、親しみ呼ばれていたことがわかります。


金山神社

・・・金山神社は金山の神であり、旧江尻村の守護神でもあります。又どんな日照りの年でも一度も渇れたことのない江尻の命水の水源の守り神でもあります・金山市が廃れて久しい年月が流れ、その間神社は粗末にも荒れ放題で、誠に畏れ多い極みです。・・・「江尻の命水」とは、むろん八十場の水です。
石段、石垣、ふんだんにサヌカイトが使われています。


土俵四本柱

・・・さきに江尻の「村おこし町作り」のために子供太鼓台を造ってくれた江尻子ども会の世話人や江尻親睦会、体育会の世話人の間でその昔さかんだった江尻の祭り復活の話が進められております。・・・祭では相撲を奉納したのでしょう。
この碑が建立された昭和62(1987)頃は、さかんに「町おこし」が叫ばれていました。裏を返せば、「地域崩壊」が極まらんとする頃でした。翌年の昭和63には、竹下さんが一億円を配りますが、結果は、ご存じの通りです。


金山瑠璃光寺 金山薬師

大師は八十蘇場の泉付近を巡錫中、霊気を感じられたといいます。八十蘇場の水の、まさに「薬師=薬水(やくすい)」たる霊気を感じられたのでしょう。そこで薬師如来の石像を彫出され、この水源に安置されました。金山薬師の興り話です。
右の、大師堂と思われる建物は、無残に荒れています。


水場

澄禅さんは「四国遍路日記」に・・大師御定ノ札所ハ 彼金山ノ薬師也・・・と記し、ここが本来の79番札所だと明言しています。


水場

しかし、・・・子細由緒ヲモ知ラズ 辺路修行ノ者ドモガ、此寺ヲ札所ト思ヒ 巡礼シタルガ初ト成、・・・金山薬師ハ在テ無ガ如ニ成シ・・・
事情を知らない遍路の多くが、崇徳天皇社を札所と勘違いし、巡礼するようになり、いつしか79番札所が移ってしまった、と言います。金山薬師は在って無きが如し、となってしまいました。


井戸

その後、金山薬師は、79番高照院の奥の院 金山瑠璃光寺として再興されますが、今日ふたたび、ご覧のような状態になっています。


瑠璃光寺奥の院へ

瑠璃光寺には奥の院があります。


奥の院へ

写し霊場の石仏を辿りながら、瑠璃光寺奥の院に詣りました。
かなりの石仏が残っています。道はしっかりと踏み固められ、荒れていません。


瑠璃光寺奥の院

残念ながら、澄禅さんの言葉をお借りすると、「在って無きが如し」状態です。


奥の院

数年前の写真と比べても、荒れ方が酷くなっているのがわかります。


野澤井崇徳天皇御殯�仄御遺蹟

ふたたび八十場の水に話を返します。
八十場の水が登場する、歴史上の出来事が起こりました。崇徳上皇の崩御です。
八十場が、御殯�仄の地となりました。当時、貴人は、殯(もがり)の期間をおいて後、本葬されましたし、崇徳上皇の場合、葬儀に関して、都の意向を確かめる必要もありました。その間、玉躰は、この霊水にひたされ(または水上に安置され)、損腐を防いだ、と伝わります。
ただし、「八十場」(やそば)という地名は景行天皇の皇子にかかわる表記なので、崇徳上皇に関しては、「野澤井」(やざわのい)という古い、別の地名が使用されています。 


白峰宮

崇徳天皇社です。
殯の期間中、玉躰に対して、お仕えする高官達から誄(しのびごと)が奉られました。玉躰は、その度に、ご神光を発せられたそうです。そこで二条天皇が宣旨され、造営されたのが白峰宮だ、と伝わります。
ご神光が発せられたことから白峰宮は、「明の宮」(あかりのみや)とも呼ばれています。また地名から「野澤井宮」とも呼ばれるようです。


摩尼珠院

「摩尼珠院」の文字が刻まれた石柱がありました。
金華山妙成就寺摩尼珠院は弘法大師の創建で、崇徳上皇もよく訪れたといいます。白峰宮が創建されて後は、その別当寺として、白峰宮と一体の存在となり、前述のように、多くの遍路が訪れ、79番札所となりました。
摩尼珠院は明治の神仏分離で廃され、今は高照院が79番を継いでいます。高照院は崇徳天皇との関わりから、天皇寺とも呼ばれています。


高照院大師堂と城山

大師堂の背後に城山が見えます。「きやま」と読みます。
663年、白村江の戦いに破れた大和政権は、唐や新羅による侵攻に備え、北九州、瀬戸内海沿岸に城を築きました。この山に残る城跡も、その一つだと言われています。百済人の指導による、朝鮮式山城です。なお、屋島にも同様のものがありましたが、保存は城山の方がいいようです。


城山

城址まで登ることはできませんでしたが、中腹にある瀧行場まで行ってみました。


  

かなり急ですが、よく踏まれており、古い道であることは確かです。何カ所かにトラロープが張ってありましたが、そのお世話になることはありませんでした。


城山から見た金山

途中、金山が見えました。別の機会に触れたいと思いますが、金山と城山はいろいろと繋がりを持っていたようです。


不動瀧 

残念ながら水涸れの時でした。水は落ちてなく、岩肌が濡れている、という状態でした。
不動明王が鎮座しておられます。


石像  

2体の石像があります。一体は、大師像です。もう一体は、どなたでしょうか。側の石碑に登場する「塩田芳市師」でしょうか?
石碑に曰く・・・大不動瀧 当山不動明王 我祖弘法大師 旧摩尼珠院創設ノ砌リ 御自ラ彫刻シ給フ所ノ尊像祠レル旧址ニシテ 霊験灼然ナリ 昭和八年十二月三十日 塩田芳市師 再ビ当山大不動瀧ヲ開キ 此所ヲ守護シ奉ル・・・(下段に世話人名が列記)


石碑

昔の文は、助詞や接続詞で論脈を追ってゆく、現代人の形式論理思考では、捉えがたい所があります。ほぼ次のようなことを伝えているのでしょうか?
・・・大師は摩尼珠院(旧摩尼珠院)を創設されました。その際、御自作の不動明王像をここにお祠りになり、以来この瀧は、不動瀧として霊験灼然たるものがありました。(明治の神仏分離で摩尼珠院は廃されてしまいしたが)、昭和8(1933)、塩田芳市師が、旧摩尼珠院不動瀧を再び開かれました。(当山は、新摩尼珠院不動瀧です)・・・。


不動瀧

石碑の内容を、仏教専門家はどう判断されているのでしょうか。素人頭には、今ひとつピンと来ないものがあります。「塩田芳市師」について何も知らないのですから、当然ではありますが。


醍醐寺

鴨川に向かう遍路道をちょっと右に入ると、醍醐寺があります。金山瑠璃光寺の管理をされているお寺として知ったのですが、醍醐寺は古い歴史がある寺です。
日本最古の本格的仏教寺院、飛鳥寺(法興寺)が造営されるのは、6世紀末から7世紀初頭にかけてですが、7C後半、早くも讃岐の地に、妙音寺(現本山寺奥の院)や開法寺(讃岐府中)が造営されています。まさに「法興」の名の通り、仏法は凄まじい勢いで興ったのでした。醍醐寺は、妙音寺より小半世紀後、7C末から8C初頭の造営と考えられています。


古・醍醐寺基壇

醍醐寺と同時期、綾川を挟んだ向こうに鴨廃寺が造営されています。さらに、醍醐寺に隣接して、「西福寺」「弘法寺」という地名が残っています。この辺には広大な「仏土」が広がっていたのかもしれません。
讃岐国衙は、この「仏土」の中に在ります。なお、讃岐国分寺が造営されるのは、醍醐寺よりさらに小半世紀後の、8C中です。 

傍に民家が建っていますが、フレームからカットして撮影しました。古の景色が想像できます。 


妙音寺

妙音寺と藤原京との関わりが証明されています。妙音寺跡から発掘された古瓦と、藤原京跡で出土する古瓦とが、同笵であることがわかったのです。


宗吉瓦窯(むねよし・がよう)

瓦を造ったのは三野の「宗吉瓦窯」です。元は土師器を造っていたようですが、妙音寺用に製作した瓦の質の高さが、どのようにしてでしょうか、都に伝わり、認められました。


宗吉瓦窯側からの景色

弥谷寺を打ち終えた私たちは、やがて火上山、中山、我拝師山、そして筆の山を眼前にしますが、宗吉瓦窯は、これらの山々を反対側から眺める位置に在ります。写真左奥が天霧山、その手前が弥谷山。右奥が大麻山(象頭山)、手前が火上山など、です。
火上山の名の興りを、私は修験の道とかかわらせて考えましたが、宗吉瓦窯では、瓦製作の「火」との関わりも考えているようです。また、天霧城とかかわって、「のろし」場であった可能性も考えています。


昔の海との境

現在、知られている範囲では、宗吉瓦窯は、藤原京からもっとも離れた位置に在る瓦窯です。重い瓦は船で運ばれました。
窯がある斜面に立つと、昔の海岸線が浮かんで見えます。海が巾着状に入り込んでいたのがわかります。瓦窯は、その一番奥にあります。
写真の段差が、昔の海岸線です。 



ちょっと横道に逸れましたが、次回は、79番高照院から遍照院→高家神社→81番白峯寺方向へ、崇徳天皇を訪ねて歩くことになります。
異常に暑い夏もようやく終わりました。
次回更新は、10月11日に予定しています。

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7 コメント

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Unknown (歩き遍路)
2013-09-28 20:26:52
悪魚伝説よく調べていますね。感心しました。これからも楽しみに読ませてもらいます。
Unknown (楽しく遍路)
2013-09-29 07:14:37
歩き遍路さん はじめまして
悪魚伝説は今回の「目玉」です。注目していただけ、うれしいです。
この伝説の面白いところは、舞台が広く散らばっていることなんです。八十場や志度の地蔵寺や江尻や福江、城山神社が、それぞれ異なる役柄で登場し、一つの伝説を構成するのです。今回は書きませんでしたが、やがて訪れる白峯の稚児ケ岳も、霊水を讃留霊皇子に捧げる神童が現れた場所として、登場してきます。
こういうことは、よほど広域地域間の繋がりなしには生まれないことですよね。私たちの予想を越えた歴史があったように思います。
この辺の切り口は多く、サヌカイト、古墳、大和政権、道真、空海、崇徳天皇、西行、・・・、興味が尽きることはありません。
Unknown (天恢)
2013-09-29 21:37:59
かのゲーテが旅について語った言葉の中で「人は自分の持っているものしか旅から持ち帰れない」っていうのがあるそうです。 つまり、旅すれば何もかも得られるということではなく、自分の身の丈に合ったものしか持ち帰れないということです。
「遍路」も旅ですが、結願というゴールを目指すだけでなく、目標にたどり着こうとするその過程が大事だと思っています。 だから「楽しく遍路」的な歴史や時代背景などの下調べが必要となるのでしょう。
 もう一つ、79番高照院ですが、「金華山 高照院 天皇寺」が正式名では? だから「天皇寺」と称して構わないのではないのでしょうか? 「へんろみち保存協力会の地図編では「高照院」ですが、7、8年前の書籍類では「天皇寺」の表現が圧倒的でした。 これも天皇さまにはばかってのことでしょうか?
Unknown (楽しく遍路)
2013-09-29 23:43:49
まず始めにコメントへのアクセス制限について。
不快コメントが多く寄せられているので、やむなく自衛手段を講じました。これまでお寄せいただいたことのある方のコメントは自動公開し、初めての方のコメントは一時保留して、私の「検閲」を経て公開する、というものです。
うまく作動しているか心配でしたが、一時保留は「歩き遍路」さんのコメントで、自動公開は天恢さんのコメントで、うまく仕分けられていることがわかりました。当面、この状態でいて、うまく不快コメントをやり過ごせたら、元の完全自動公開に戻したいと思っています。

このブログは、こういうことができるし、使いやすいブログなのです。しかし、新規の募集をしておらず、やがて提供自体が停止になるだろうことは必至です。
そうなると、便利なブログ故に、データの他ブログや他HPへの移動ができず、困った事態になります。提供停止なら、せめてデータを移動させる機能を付けてからにしてほしいと、切に願うのですが。
Unknown (楽しく遍路)
2013-09-30 07:27:56
寺社の正式名称と呼び名の関係は、個別に調べてみると面白いようですね。
79番の場合、私の感覚では、札所が金山瑠璃光寺から「天皇さんのお寺」へ移行する過程で、一般化した呼び名が、正式名称に取り込まれていった、そんなプロセスではなかったか、と思っています。

では、私はなぜ寺号「天皇寺」ではなく、院号「高照院」をタイトルにも使用しているか、ですが、なんとなく、「摩尼珠院」→「高照院」という流れを意識しつつ、「明の宮」と「高照院」の組み合わせが気に入っているからなんだと、ご指摘を受けて、そう思いました。
瑠璃光寺・金山権現 考察 (バロン)
2023-10-19 18:10:22
 初めまして。
当地を、整備清掃管理している バロン(67) と申します。
 
前オーナーの前田仁氏からサヌカイトの云々を聞き、この山に転居住まいして 約35年 となります。
 
 ブロアーで掃除していますと、時折瑠璃光寺、奥の院を訪ねて来られる方と遭遇します。
ネットの時代てしょうが、全国から来られいてます。
 
 さて、この 元七十九番札所 に就いてですが、今は無き本堂の庵には、江戸時代の墨汁による落書きが沢山ありました。 
記憶では、天保年間の筆が一番多かったと。
今は、私が瓦を集めて跡地をお祀りしております。

 如何せん、澄禅さんのような実記がない為、境内のホールで時折私の 諸説セミナー を開く際は、伝承に頼った説明となります。
 
 石器時代より、おそらく数多くの方々がこの地を往来したものと推測しますが、今は、イノシシが群れ遊ぶ杜と化しました。
 
 いつまで管理できるか不明ですが、何かしら情報がございましたら、サイトのアドレスまで是非ご案内頂ければ幸いです。
Unknown (楽しく遍路)
2023-10-21 06:55:23
バロンさん、コメントありがとうございます。
私が訪ねたとき、金山はすでに、バロンさんの「整備清掃管理」の下にあったのですね。
私は本文に、・・道はしっかりと踏み固められ、荒れていません・・と記しましたが、それがバロンさんのおかげだったとは、知らないことでした。遅くなってしまいましたが、ありがとうございました。

バロンさんの「諸説セミナー」、いつか私も参加してみたいものです。
私のコロナで中断させられている遍路は、実は今、坂出で止まっているのです。もし再開できたときには、当然、金山権現・瑠璃光寺、そしてできるなら「けいの里」を訪ねるつもりでいますので、もしかしたらその時、ブロアーで掃除しているバロンさんと、遭遇できるかもしれません。もしそうなれば、どんなにかうれしいことでしょう。落書きのこと、瓦のことなど、・・それらは立派な史料です・・お話をうかがえればと思います。

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