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『楽しく遍路』は、本日、7月23日を以て、はてなブログへ移転しました。
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なお、はてなブログでは、
7月23日 (R7冬3) 大水上神社 歓喜院 嫁楽観音・地蔵寺 鬼ヶ臼山 高瀬 を、
公開しております。
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初めにお断りします。今号でご覧いただく記録は、(前々号から始まった)令和7年1月の遍路記録ではありません。5年前、令和元年12月に歩いたときの記録です。
(前号末でも記しましたが)私は今年1月の遍路で、大水上神社→歓喜院→地蔵寺→鬼が臼山→高瀬の区間を失敗。ご覧いただけるような見聞を、ほとんど持つことができませんでした。そこで窮余の一策。一度は不十分として仕舞い込んでいた同区間の5年前の記録を、ふたたび引っ張り出してきたのです。
不十分と思いながらそれをご覧に供するとは、まことに心苦しのですが、よろしければご覧いただきたいと思います。
令和元年(2019)12月12日

地図
地図を載せておきました。この日歩くエリアは、「協力会地図」には載っていないからです。右下の、大水上神社の宮奧であるA点から、順にB→C・・へと歩いていてゆきます。
なお右下の△点は、(前号末で記した)私が迷いついた地点です。あろうことか、北へ向かっていたはずなのに、出発点の大水上神社より1キロ近くも南の地点にまで来ています。「迷う」とは、こういうことなのです。

A点からふり返った写真
令和元年(2019)12月12日、もっと見ていたいとの思いを大水上神社に残し、私は次の目的地・歓喜院に向かい、歩きはじめました。
しかし現在時刻は12:10です。この後、歓喜院から地蔵寺に参り、鬼ヶ臼山に登り、5:00前には高瀬駅前の千歳旅館に着くことを考えると、急がねばなりません。

A点から見た前方
昨日、加麻良神社に立ち寄りたいと思いながら果たせず、加えて今日は延命院にも立ち寄れず、大水上神社もまた、未消化のまま立ち去ろうとしています。
しかし、かといって落胆しているのではありませんでした。というのも、私はこの時点では、来春すぐにでも再訪し、歩き直すつもりでいたからです。今回は下見だ、くらいの気分でいたのでした。それがまさか、5年も待たされることになるなどとは、夢思わず、・・。

B点
B点です。
A点からここまでは、基本、東進の道でしたが、この角を左折し、北に転じます。道標などはなく、また尋ねる人もいませんから、磁石と地図だけに頼っての判断でした。
こんな小さな道に入り込んで大丈夫だろうかと、不安混じりの判断ではありましたが、この判断、後になって・・いい判断だった・・と、やや鼻を高くしました。スマホに従って歩いていたら、まず歩くことはない道だからです。まだまだ人間様の方が、・・などと思ってみたりもして。

北上する
やがて四国の道に合流しました。この四国の道は、大水上神社から金刀比羅宮につづく、旧金毘羅街道をたどっているようです。後述しますが、この辺は、旧こんぴら街道が一点集中してくる処なのです。
この道をしばらく北上します。
なお「茶畑ウォーキングコース」は、大水上神社と茶畑を歩く、4-5キロほどのコースだそうです。知りませんでしたが、二ノ宮地区を中心とした高瀬町南部の丘陵地帯は、香川県の生産量の8割を占める、お茶の産地なのだそうです。この辺には三豊層群という地層が広がっており、その水はけのよい砂礫層が、茶の栽培に利しているのだといいます。(また、三豊層群には粘土層も含まれていて、これを原料として三豊の瓦生産は隆盛した、とのことですが、三豊層群のこと、私にはよくわかりません)。

C点
車道に出ました。しかし車はほとんど走っていません。何号線なのか、調べてみましたが、わかりませんでした。古い町道なのでしょうか。
道標が示しているように、四国の道はこの道を渡り、細い登り道になりますが、私はここで左折し、この車道を北西に進みます。

D点
道標のない道がつづきますが、この辺ではもはや、不安は感じていませんでした。というのも、実はB点からC点の間で、たまたま庭作業中の農家の方に出会うことが出来、・・道は正しい・・ことが、確認できていたからです。農家の方のお話と、私の磁石が指す方向は、完全に一致していたのでした。
写真は、道が北西方向に向きを変えているところを写しています。

E点
道を急いでいたら、後ろから軽トラックが来て、止まりました。運転席を見ると、先ほど道を尋ねた農家の方です。
・・たまたま用があって、歓喜院の方に行くが、乗って行くか?
と、申し出てくれました。・・たまたま用がある・・は、気を使わせまいとの、ご配慮だったかもしれません。
私は時間が気にもなっていたので、このご厚意を、有り難く受け入れました。

傾山
乗せてもらう直前に撮った写真に、おもしろい名の山が写っていました。傾山(かたぶき山・287㍍)です。
山名の由来は、どうやら山頂下に見える白いバンドにあるようです。これは安山岩の柱状節理なのだそうですが、これがやや傾いて走っている景観から、傾山と命名されたと言われています。このラインの傾きで、山体の傾きが強調されている、ということかもしれません。
なお先述の「三豊層群」ですが、傾山の西側にも広がっているのだそうです。とすると、今は太陽光パネルが広がるこの辺にも、かつては茶畑が広がっていたのかもしれません。あるいは瓦用の粘土が採掘されていたのでしょうか?

F点
車を降ろしてもらったF点は、歓喜院へ歩いて10分ほどの地点です。
私は大いに助けられたのでした。この後、行程を進めるにつれ分かってきたことですが、もしこのお接待がなったら、おそらく私は、鬼ヶ臼山には登れなかったのです。5年後、「再訪遍路」で失敗する(前号参照)ことを併せ考えるとき、このお申し出が如何に有り難いものであったのかがわかります。このお接待があって、今、私はこの記事を書くことが出来ているのです。なお、写真右端の石柱の文字は、「高瀬七福神参道口」です。歓喜院内にある七福神です。

朝日山と高瀬川
川は高瀬川。山は、朝日山です。朝日山は、傾山と向かいあうように、その北に立っています。
山頂に城のような建物が見えるので、通りかかった小学生に尋ねると、・・あれは朝日山です。城ではなく郷土資料館です。・・と、立派な答が返ってきました。「ふるさと学習」で教わっているのだそうです。山は、朝日山森林公園になっていて、山頂には伊勢朝日山本宮もある、といいます。展望台からの眺望は360度開け、瀬戸大橋まで見えるとのことです。

歓喜院へ
高瀬川を渡り、歓喜院へと向かいます。
ここに川が流れているということは、重要です。歓喜院瓦窯で焼かれた瓦の運搬に、高瀬川の水運が使われた可能性が、考えられるからです。何しろ瓦は重いのです。当時、陸送は困難でした。
ちなみに、同じ高瀬川の河口(当時)の近くには、大規模瓦窯「宗吉瓦窯」→(R1初冬5)がありました。その立地が、そこからの海運利用を考えてのことであったのは、明らかです。また「二の宮瓦窯」の側には、宮川が流れています。

寺名
僧都山 大坊 法連寺 歓喜院
真言宗のお寺で、開基は伝・道雄とのこと。「道雄」は弘法大師十哲の一人とされる人物で、その読みは、ネット上では、(どうおう)(どうお)(どうゆう)などとされています。
本尊も、ネット上ではいろいろです。 勢至菩薩とも大日如来とも、また不明ともされています。寺に着いたら尋ねてみるつもりでいましたが、残念、ご不在のため果たすことができませんでした。そういうわけで、かく言う私も、「不明」と記しておきます。

歓喜院
ご不在といえば、そのため歓喜院所蔵の、国指定重文「木造不空羂索観音菩薩坐像」を拝観できなかったのも、悔やまれました。作例が少ない不空羂索観音菩薩像であるうえに、重文でもあります。ぜひ拝みたいと思っていたのでした。また真言系では、不空羂索観音は「六観音」の内には含まれず、代わって、准胝観音が入っています。不空羂索観音が六観音の一に入るのは、天台系と耳にしているので、その辺の事情についても、伺ってみたいと思っていたのでした。
更にまた言えば、ご不在の境内を彷徨くことは憚られ、瓦窯跡を見つけられなかったのも、残念でした。もっともこれらは、すべて、またすぐ来るつもりでいた故の、あきらめの良さ故でもあったのですが。

本堂
この建物が、本堂のようです。天明年間(1781-1789)の建築と言います。
中に祀られているのは勢至菩薩か、大日如来か、それとも・・。扉を開いて覗いてみようかとも思いましたが、やはり止めました。
どうやら瓦窯跡は、この本堂の裏にあるらしいのですが、その辺がお寺の私的エリアであるとも見え、立ち入りが憚られたのでした。

お堂
国指定重文「木造不空羂索観音菩薩坐像」が祀られているお堂です。
不空羂索観音は、「ふくうけんさく観音」とも「ふくうけんじゃく観音」とも読み、・・人の祈りを空しくせ不(ず)、漏らすことなく羂索で掬い上げ、・・救済してくださる観音さまです。
像について、側の説明板は次の様に記しています。・・榧材の一木造りの一面八臂の像で、寺伝では弘法大師の御作とのこと。像高89.1㌢、頭に天冠台をいただき、眉間に水晶の白毫を入れ、目は彫眼。右足を左膝の上に置き、吉祥坐に結跏趺坐している。(中略)彫は深く、面相は温和で全身の均整もよく、刀法もさえた美しい像で、県内木像のうちの優作である。台座、光背、持物は後世の補作。藤原時代前記の作である。

七福堂
こちらは、七福堂だそうです。
側の説明看板には、・・七福神を祀る。七福神は七難即滅、七福即生の七福にして、寿命・有福・人望・清廉・愛敬・威光・大量の吉祥神なり。(後略)・・とあります。
寿命は寿老人が、有福は大黒天が、人望は福禄寿が、清廉は恵比寿が、愛敬は弁財天が、威光は毘沙門天が、大量は布袋和尚がもたらしてくれるといいます。

池の宮旧八幡宮
池の宮旧八幡宮とあります。説明がないので分かりませんが、「池の」とは、門前の池でしょうか?「旧」とは、如何なる「新」に対しての「旧」なのでしょうか?
名称から察して、興味深い話が伝わっているに違いないのですが。

地蔵寺へ
さて、次なる目標、嫁楽観音・地蔵寺へと向かいます。車のお接待をいただいて、時間に余裕が出来たとはいえ、地蔵寺の次には鬼ヶ臼山が待っています。のんびりとはしていられません。

高瀬川
高瀬川沿いの道を下ると、ほどなく地蔵寺が見えてきます。

地蔵寺
福井山の山裾にたつ、地蔵寺です。
前に広がる平地は、地蔵寺に因んで、地蔵原と呼ばれているそうです。かつては、地蔵寺の寺領であったとのことです。

山門
左右の寺名額に、
讃岐三十三観音霊場第廿三番札所
宝珠山悲願院地蔵寺
とあります。真言宗のお寺で、開基は行基。ご本尊は、准胝観世音菩薩・地蔵菩薩といいます。

案内看板
しかしこの地蔵寺は、むしろ「嫁楽観音」として、人口に膾炙しています。
・・本尊の准胝観音は、信仰すれば、長患いせず、下の世話をかけることなく、ポックリ死ねるということで、俗に「嫁楽観音」と呼ばれている。・・とのことです。
私はいただきませんでしたが、お願いすれば、・・極楽往生ゆきの切符・・しかも上席切符がいただけるとのことです。

本堂・嫁楽観音堂
「四国遍路」(岩波新書)の著者・辰濃和男さんは弥谷寺への途中、この寺に立ち寄ったそうです。次の様に記しています。
・・高瀬町の嫁楽観音地蔵寺にもお詣りした。「さぬきのポックリさん」といわれている寺だ。「円満長寿・安楽往生」がうたい文句で、参詣者はここで、極楽往生ゆきの切符を手に入れることができる。白木蓮、木蓮、辛夷の花が咲き競い、ポックリ寺をはなやいだものにしている。
「極楽行きの切符、買うたか」
「うん、買うた買うた」
年配の女性がふたり、すれ違ってゆく。はがき大の極楽行き切符には、「必ずお棺にいれてもっていくこと」と書かれてあり、「我昔造るところの諸の悪業」を「み仏の前に懺悔し奉る」ことが記されてあった。この切符は、「閻魔様の特別のお許しを得て出来た」ものだとも書いてある。長生きはしたい。しかし死ぬときは、だれの迷惑にもならずポックリ死にたい。そういう願いの人が少なくないのだ。

瑜伽堂
この堂には、瑜伽さん(ゆがさん)、淡島明神(あわしま明神)、金毘羅童子が祀られているとのことです。堂前に、それぞれの神様の縁起を記した看板があります。長いので略記すれば、瑜伽さんは、厄除けや縁結びの神さま。淡島さまは、婦人病に霊験があるとされています。金毘羅童子は、宮毘羅大将(くびら大将)とも呼ばれる、薬師十二神将の大将で、航海安全の神様です。
興味深いのは、瑜伽さんと金毘羅さんが一堂に祀られていることです。江戸時代、瑜伽さんと金毘羅さんの「両参り」が隆盛しましたが、ここでは一度に「両参り」が果たせる、というわけです。「片参り」はよくないとされていますから、これは重宝したことでしょう。

旧こんぴら街道
瑜伽さんと金毘羅さんの「両参り」について、上記の縁起は、次の様に記しています。
・・江戸時代からゆーがさん(瑜伽さん)と金毘羅さんの二社参りが盛んで、寺の前、高瀬川にそった旧金毘羅街道は、伊予(愛媛県)、備前(岡山県)からの両参りで賑わいました。
さもあらん。前述したように、この辺は四国各地からの金毘羅街道が、一点集中してくる処です。金毘羅詣りの人たちの意気は、いやが上にも高まっていたことでしょう。写真は、県道218号で撮った、旧こんぴら街道の標識です。

伊予の瑜伽大権現
なお、「伊予から」とは、伊予桜井の、今は補陀落山法華寺の境内に在る、瑜伽大権現を指すのでしょう。(伊予桜井は59番国分寺が在る所で、法華寺は、国分尼寺の法灯を継ぐ寺とされています)。「備前から」とは、岡山県倉敷市の瑜伽大権現を指すと思われます。→(H30春6)

いろいろの石仏たち
下(しも)の世話まではされたくない等々、様々の「切実な」心配事に応えてくださるべく、このお寺には、多くの仏様たちが準備されています。
境内には例えば、ボケ除け地蔵さん、お乳地蔵さん、さすり地蔵さん、洗い観音さん、身代わり不動さん、四国88ヵ所霊場、秩父34ヵ所観音霊場のお砂踏み道場、仏足石、ペット供養などが、様々の願いに応えるべく、居並んでいます。

古代蓮・大賀蓮の碑
昭和26年、大賀一郎理学博士が千葉県検見川町の泥炭層から、蓮の種子三粒を発見。その内の一粒が、2000年から5000年の時を経て発芽したのだそうです。
その蓮の子孫が、当・地蔵寺に分根され、数を増やしています。
数千年もの間、地中の闇に閉じ込められていながら、健気にも花を咲かせた蓮の種子を、哀れ、闇しか知らず逝ってしまった水子に喩え、いつの世にか生まれ変わって花咲けよと、その魂を供養しているのです。

古代蓮・大賀蓮
残念ながら今は破れ蓮ですが、花期には、きれいな花を咲かせるそうです。
蓮華の中に、子らに優しい地蔵菩薩が座しておられるのです。

行田蓮
写真は、私が住む埼玉県の行田市で発見された、もう一つの古代蓮「行田蓮」です。原市沼で撮りました。(原市は、お笑いの原市の出身地です)。
行田市の小針という所に、工事用に掘削した穴がありました。穴にはいつしか水が溜まり、池のようになっていたのですが、やがて水面に、蓮の円い葉が浮かび始めたのです。昭和48年(1973)のことでした。葉は増えつづけ、花期には花を咲かせるようになったといいます。古代蓮の種子が、偶然の機会を得て開花したのでした。

山門
現在時刻は、13:40。
これより、鬼ヶ臼山へ向かいます。

景色
左は、七宝連山です。弘法大師が七つの宝を埋めたと伝わるお山です。
右は、讃岐七富士の一で、高瀬富士とも呼ばれる、爺神山(とかみ山/214㍍)でしょう。良質の安山岩が出ることから、昭和30年代、大々的な採石がおこなわれた山で、(見る角度によっては)今や富士山とは似て非なる山容となっています。標高も、かつては標高227㍍ありましたが、今は、214メートルと、低くなっているそうです。
♫爺神の山を 東に七宝 西に見るところ 古き歴史と伝統に・・
これは、地元、比地小学校の校歌です。地元小中高等学校の校歌に歌われる、美しい山容だったのですが、残念です。
なお、爺神山に伝わる鈴石伝説、バレンタイン山としての復活計画などについては、後述(次号)します。

高瀬川
高瀬川右岸を下ります。
700㍍ほど川を下ると、上掲地図と下掲地図に記入の、□G点に至ります。高瀬川と高松自動車道が交わる地点です。

地図
左下に□G点があります。
これより□H点に向かって、高松自動車道沿いの道を北上します。

□G点
高松自動車道です。

□G点
前方に七宝連山と爺神山が見えます。
ここで右折し、□H点に向かって北上します。

竣工碑
しばらく歩くと、左側に上にあがる坂道がありました。鬼ヶ臼山登山口へはこの道を登りますが、すぐ先に溜め池が在るので、行ってみました。
堤防に石碑が立ち、皿池、黒穂池と呼ばれる、二つの県営溜め池があることが、記されています。

竣工碑
裏面には、池の造築が1680年頃と推定されていること。長年に渡り地域の田畑を潤してきたが老朽化は免れず、平成26年(2014)、大規模改修を行ったこと、などが記されています。

高速道沿いの道
引き返し、先ほどの坂を登ると、高松自動車道とほぼ同じ高さの道に出ました。

石塔
道端の空き地に、何基もの石塔が集められていました。
高速道の下に埋もれて仕舞いかねなかった石塔を、ここに集めたのでしょう。

高速道
この後の計画は、次の様です。
・・□H点まで歩き、これを右折。地理院地図に記載された登山口(これが「鬼が臼南登山口」であることは、後に知る)から登る。
・・下山は、これも後にその名を知ることになる、「末登山口」へ降りる。
・・南口に行く途中には、鬼ヶ臼伝説にまつわる「鬼の釜石」があり、「末口」の近くには「赤子の足跡」や「馬の足跡」があるので、これらを見学する。

□H点
ところが、□H点に着くと、予期していなかったことが起きました。看板が立っていて、・・直進すると180㍍先に登山口がある・・ことが案内されているのです。
それが「山奥登山口」を指しているとは、後になって分かるのですが、なにしろそのような道は、国土地理院地図には記載されていないので、私は大いに戸惑っていました。

町道田井-本谷線
迷った末に私が出した結論は、・・やはり計画通りに歩く・・でした。
直進すると、登山口はあっても、「鬼の釜石」はみられないことになります。やはり計画通りに右折し、「鬼の釜石」を見て、地理院地図に記載の登山口から登ろうと、(多少の不安はありましたが)決めたのでした。

鬼の釜石
「鬼の釜石」です。
ところで、鬼が臼伝説とは、説明看板は次の様に記しています。
・・昔、鬼ヶ臼に一人の男神(鬼)がいて、里人をさらっては、山上の岩臼でついていました。これを見かねた女神は、男神の馬と自分の赤子を競争させ、この勝負によって、男神の悪事を止めさせました。この時の決勝点である岩の上には、今も赤子と馬の足跡、そして馬が首を突き入れて死んだという穴が残っています。
この「釜石」で、鬼がなにを煮て食べたのかは記されていませんが、まさか・・。

登山口
登山口がありました。「鬼の釜石」も見ることができたし、私は大いに満足し、登り始めました。
ただ、後になって分かることですが、勘違いがありました。この登山口は(地理院地図に記載の「鬼ヶ臼南登山口」ではなく)、「三つ山登山口」だったのです。この段階では、「三つ山口」の存在を知らなかったため、「鬼ヶ臼南登山口」と思い込んでいたのです。

通行止め
いい気分で登っていたのも束の間。こんな場面に出くわしてしまいました。棒が数本、きちんと真横に置かれているのです。
この横棒が伝えるメッセージは何か。明らかにこれは、・・この先、進むな・・です。文字による表示がないことを、やや不審に思いましたが、・・進むな・・のサインを読み取ってしまった以上、余所者の私が、事情も知らず入り込むことはできません。

通行止め?
私は□H点へ、引き返すことにしました。
もしこの登り口が「三つ山登山口」であると認識できていたら、おそらく私は引き返さず、この先にある、「八つ山北口」か「鬼ヶ臼南口」に向かっていたことでしょう。しかしそれは、後になって分かることでした。

□H点から登山口へ
□H点から180㍍先だという登山口(山奥登山口)へ向かいます。

山奥登山口
登山口です。
案内看板は、次の様に記しています。
・・鬼ヶ臼山は標高199.5㍍。ここから15分ほどで登れる。山頂には、俗に鬼ヶ臼とよばれている巨岩がある。平成10年市指定史跡である。500年もの年月を経て今に伝えられている鬼にまつわる伝説がある。室町幕府が衰退を辿り始めた頃に創作された物で、当時の民衆の偽らない心をよく映し出していると言われている。伝説にまつわる地名として、地獄谷、首山、血の池、三ツ石(鬼の釜石)、赤子、馬の足跡、巨岩(鬼ヶ臼)などがある。すぐ上、数台駐車可
平成27年(2015)10月 まちづくり推進隊高瀬 高瀬百景実行委員会

登山再開
ふたたび登り始めました。ガードレールに「鬼ヶ臼」の案内があります。
これなら、登っても大丈夫のようです。

案内
コースガイドがあり、杖もお借りできるようです。

山道
この辺では、坂はまだ緩やかです。おそらく山頂直下で急坂となるのでしょう。

道標
山道が合流しました。
右奥方向を指して、「町道 鬼の釜石」とあります。先ほど登山を断念した道が、この道です。従って、この「町道」は、(私が歩いた)田井-本谷線を指しています。
手前方向は「山奥登山口」とあります。私が登り始めた登山口です。登山口に名前がついていることは、ここで初めて知りました。
左奧方向に「鬼ヶ臼 500㍍」とあるので、この方向に進みます。

山道
整備された、きれいな道です。まだまだ坂は緩やかです。

分岐
鞍部に出ました。道標が立っています。
右方向が「鬼ヶ臼山頂」です。私はこの方向へ向かいますが、その前に、左方向の「りゅうおうさん」に立ち寄ります。「りゅうおうさん」は、竜王山と書くようです。
奧方向は、(写っていませんが)「末登山口 県道」と記されています。県道は219号(神田-高瀬線)です。私が降り口と考えている道です。手前は、私が登ってきた道で、「山奥登山口 鬼の釜石」と記されています。先ほどの分岐点で、山奥登山口と鬼の釜石方向に分かれるのです。

竜王山へ
道標から400メートルほど歩くと、竜王山山頂です。標高は、160メートル。

竜王山山頂
展望は開けていませんでした。
しかし、小祠が祀られています。山名から、ここでは雨乞いが行われていた、とも推察されます。

鳥居
竜王山から、先ほどの鞍部にもどってきました。
「山神大明神」の鳥居を潜って、今度は鬼ヶ臼山を目指します。

山頂
山頂直下は、やはりちょっと厳しい坂でした。
とまれ、山頂に達しました。逆光の中、巨岩が見えます。
香川大学公開講座「讃岐ジオサイト探訪」活動報告(その2)によると、・・ 鬼ヶ臼山は、約9000万年前の花崗岩類でできた全山花崗岩の山で・・山頂の巨岩は、まだ風化せずに残っている「コアストーン(core stone)」なのだそうです。花崗岩 が風化する過程で内部に残る岩塊、ということだそうです。

巨岩・鬼ヶ臼
以下、下手な写真ですが、お楽しみください。

巨岩・鬼ヶ臼
鬼が里人を搗いたという、鬼の臼岩です。

巨岩・鬼ヶ臼
わかりませんが、梵字が刻まれているようです。
鬼伝説とは別に、山神さまが祀られているのでしょう。

景観
北北西方向に、三つのピークが見えました。いちばん右のとんがり山が、貴峰山(とみね山222㍍)、その左が毘沙古山(びしゃご山231㍍)さらに竜王山(178㍍)です。むろん竜王山は、前述の竜王山とは、別の山です。

景観
貴峰山-毘沙古山-竜王山の右に、もう一つ、三つのピークが見えています。右から、天霧山(あまぎり山382㍍)-弥谷山(いやだに山381㍍)-黒戸山(くろと山299㍍)です。言うまでもなく弥谷山は、71番弥谷寺があるお山です。天霧山と弥谷山の間の鞍部を向こう側に下れば、真魚ゆかりの、海岸寺があります。

景観
西方には、金毘羅さんのお山が見えました。
その他、(地蔵寺を出たところで見えていた)七宝連山も写したのですが、残念、(逆光だったからか)写っていませんでした。

下山
下山しますが、計画を変更しました。
当初は末登山口に降りるつもりでしたが、時刻は、もう16:00です。出発前の調べでは、末登山口から高瀬駅前の千歳旅館まで約3.3キロだったので、急いでも、小一時間はかかります。これに下山時間を加えれば、宿着がだいぶ遅くなりそうです。

下山
「赤子の足跡」や「馬の足跡」を見られないのは残念だけれど、またすぐ来ることだし!末口に降りることを止め、登ってきた山奥口へ降りることにしました。その方が近いからです。(帰宅して距離を測ってみると、山奥口から高瀬駅まで、2.7キロでした)。

山奥登山口
駆けるように降りてきました。

宿へ
宿へ急ぎます。

捨身ヶ岳
山頂では撮れなかった、火上山-中山-我拝師山です。

日没
日が落ちます。この時期の三豊市での日没は、17:00頃です。

へんろ小屋
平成26年(2014)11月完成の「日韓友情の小屋」。第53号茶処みとよ高瀬です。
「茶処」と入っているのは、うれしいですね。前述のように、高瀬は茶処なのです。
ずっと急いできたので、ちょっと休ませてもらいました。

月
時刻は16:50。ふと見上げると、きれいな月がかかっていました。
これ、コールドムーンです。12月の満月です。

宿
高瀬駅前の宿、千歳旅館に着いたのは、17:20頃でした。滑り込みセーフ、といったところです。
泊まり客は、こんな時期でもあり、私一人。話し相手に、女将さんが付き合ってくださいました。
いろいろお話をうかがいましたが、とりわけ宇高連絡船のウドンの話は楽しかったです。船尾での素うどんの立ち食いは、四国を出るとき、入るときの、セレモニーでもありました。
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
令和7年のシリーズに1号だけ挿入された、令和元年の遍路記は、如何でしたでしょうか。次号からは、再び令和7年1月にもどります。行程は、高瀬から本山寺への逆歩きです。
ところで次回更新予定は、7月23日ですが、私もそろそろGooByeを考えなければなりません。もしかすると、次号は「はてなブログ」でご覧いただくことになるかもしれません。もしそんなことになりましても、引きつづき、よろしくお願いいたします。
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地図
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なお右下の△点は、(前号末で記した)私が迷いついた地点です。あろうことか、北へ向かっていたはずなのに、出発点の大水上神社より1キロ近くも南の地点にまで来ています。「迷う」とは、こういうことなのです。

A点からふり返った写真
令和元年(2019)12月12日、もっと見ていたいとの思いを大水上神社に残し、私は次の目的地・歓喜院に向かい、歩きはじめました。
しかし現在時刻は12:10です。この後、歓喜院から地蔵寺に参り、鬼ヶ臼山に登り、5:00前には高瀬駅前の千歳旅館に着くことを考えると、急がねばなりません。

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昨日、加麻良神社に立ち寄りたいと思いながら果たせず、加えて今日は延命院にも立ち寄れず、大水上神社もまた、未消化のまま立ち去ろうとしています。
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B点
B点です。
A点からここまでは、基本、東進の道でしたが、この角を左折し、北に転じます。道標などはなく、また尋ねる人もいませんから、磁石と地図だけに頼っての判断でした。
こんな小さな道に入り込んで大丈夫だろうかと、不安混じりの判断ではありましたが、この判断、後になって・・いい判断だった・・と、やや鼻を高くしました。スマホに従って歩いていたら、まず歩くことはない道だからです。まだまだ人間様の方が、・・などと思ってみたりもして。

北上する
やがて四国の道に合流しました。この四国の道は、大水上神社から金刀比羅宮につづく、旧金毘羅街道をたどっているようです。後述しますが、この辺は、旧こんぴら街道が一点集中してくる処なのです。
この道をしばらく北上します。
なお「茶畑ウォーキングコース」は、大水上神社と茶畑を歩く、4-5キロほどのコースだそうです。知りませんでしたが、二ノ宮地区を中心とした高瀬町南部の丘陵地帯は、香川県の生産量の8割を占める、お茶の産地なのだそうです。この辺には三豊層群という地層が広がっており、その水はけのよい砂礫層が、茶の栽培に利しているのだといいます。(また、三豊層群には粘土層も含まれていて、これを原料として三豊の瓦生産は隆盛した、とのことですが、三豊層群のこと、私にはよくわかりません)。

C点
車道に出ました。しかし車はほとんど走っていません。何号線なのか、調べてみましたが、わかりませんでした。古い町道なのでしょうか。
道標が示しているように、四国の道はこの道を渡り、細い登り道になりますが、私はここで左折し、この車道を北西に進みます。

D点
道標のない道がつづきますが、この辺ではもはや、不安は感じていませんでした。というのも、実はB点からC点の間で、たまたま庭作業中の農家の方に出会うことが出来、・・道は正しい・・ことが、確認できていたからです。農家の方のお話と、私の磁石が指す方向は、完全に一致していたのでした。
写真は、道が北西方向に向きを変えているところを写しています。

E点
道を急いでいたら、後ろから軽トラックが来て、止まりました。運転席を見ると、先ほど道を尋ねた農家の方です。
・・たまたま用があって、歓喜院の方に行くが、乗って行くか?
と、申し出てくれました。・・たまたま用がある・・は、気を使わせまいとの、ご配慮だったかもしれません。
私は時間が気にもなっていたので、このご厚意を、有り難く受け入れました。

傾山
乗せてもらう直前に撮った写真に、おもしろい名の山が写っていました。傾山(かたぶき山・287㍍)です。
山名の由来は、どうやら山頂下に見える白いバンドにあるようです。これは安山岩の柱状節理なのだそうですが、これがやや傾いて走っている景観から、傾山と命名されたと言われています。このラインの傾きで、山体の傾きが強調されている、ということかもしれません。
なお先述の「三豊層群」ですが、傾山の西側にも広がっているのだそうです。とすると、今は太陽光パネルが広がるこの辺にも、かつては茶畑が広がっていたのかもしれません。あるいは瓦用の粘土が採掘されていたのでしょうか?

F点
車を降ろしてもらったF点は、歓喜院へ歩いて10分ほどの地点です。
私は大いに助けられたのでした。この後、行程を進めるにつれ分かってきたことですが、もしこのお接待がなったら、おそらく私は、鬼ヶ臼山には登れなかったのです。5年後、「再訪遍路」で失敗する(前号参照)ことを併せ考えるとき、このお申し出が如何に有り難いものであったのかがわかります。このお接待があって、今、私はこの記事を書くことが出来ているのです。なお、写真右端の石柱の文字は、「高瀬七福神参道口」です。歓喜院内にある七福神です。

朝日山と高瀬川
川は高瀬川。山は、朝日山です。朝日山は、傾山と向かいあうように、その北に立っています。
山頂に城のような建物が見えるので、通りかかった小学生に尋ねると、・・あれは朝日山です。城ではなく郷土資料館です。・・と、立派な答が返ってきました。「ふるさと学習」で教わっているのだそうです。山は、朝日山森林公園になっていて、山頂には伊勢朝日山本宮もある、といいます。展望台からの眺望は360度開け、瀬戸大橋まで見えるとのことです。

歓喜院へ
高瀬川を渡り、歓喜院へと向かいます。
ここに川が流れているということは、重要です。歓喜院瓦窯で焼かれた瓦の運搬に、高瀬川の水運が使われた可能性が、考えられるからです。何しろ瓦は重いのです。当時、陸送は困難でした。
ちなみに、同じ高瀬川の河口(当時)の近くには、大規模瓦窯「宗吉瓦窯」→(R1初冬5)がありました。その立地が、そこからの海運利用を考えてのことであったのは、明らかです。また「二の宮瓦窯」の側には、宮川が流れています。

寺名
僧都山 大坊 法連寺 歓喜院
真言宗のお寺で、開基は伝・道雄とのこと。「道雄」は弘法大師十哲の一人とされる人物で、その読みは、ネット上では、(どうおう)(どうお)(どうゆう)などとされています。
本尊も、ネット上ではいろいろです。 勢至菩薩とも大日如来とも、また不明ともされています。寺に着いたら尋ねてみるつもりでいましたが、残念、ご不在のため果たすことができませんでした。そういうわけで、かく言う私も、「不明」と記しておきます。

歓喜院
ご不在といえば、そのため歓喜院所蔵の、国指定重文「木造不空羂索観音菩薩坐像」を拝観できなかったのも、悔やまれました。作例が少ない不空羂索観音菩薩像であるうえに、重文でもあります。ぜひ拝みたいと思っていたのでした。また真言系では、不空羂索観音は「六観音」の内には含まれず、代わって、准胝観音が入っています。不空羂索観音が六観音の一に入るのは、天台系と耳にしているので、その辺の事情についても、伺ってみたいと思っていたのでした。
更にまた言えば、ご不在の境内を彷徨くことは憚られ、瓦窯跡を見つけられなかったのも、残念でした。もっともこれらは、すべて、またすぐ来るつもりでいた故の、あきらめの良さ故でもあったのですが。

本堂
この建物が、本堂のようです。天明年間(1781-1789)の建築と言います。
中に祀られているのは勢至菩薩か、大日如来か、それとも・・。扉を開いて覗いてみようかとも思いましたが、やはり止めました。
どうやら瓦窯跡は、この本堂の裏にあるらしいのですが、その辺がお寺の私的エリアであるとも見え、立ち入りが憚られたのでした。

お堂
国指定重文「木造不空羂索観音菩薩坐像」が祀られているお堂です。
不空羂索観音は、「ふくうけんさく観音」とも「ふくうけんじゃく観音」とも読み、・・人の祈りを空しくせ不(ず)、漏らすことなく羂索で掬い上げ、・・救済してくださる観音さまです。
像について、側の説明板は次の様に記しています。・・榧材の一木造りの一面八臂の像で、寺伝では弘法大師の御作とのこと。像高89.1㌢、頭に天冠台をいただき、眉間に水晶の白毫を入れ、目は彫眼。右足を左膝の上に置き、吉祥坐に結跏趺坐している。(中略)彫は深く、面相は温和で全身の均整もよく、刀法もさえた美しい像で、県内木像のうちの優作である。台座、光背、持物は後世の補作。藤原時代前記の作である。

七福堂
こちらは、七福堂だそうです。
側の説明看板には、・・七福神を祀る。七福神は七難即滅、七福即生の七福にして、寿命・有福・人望・清廉・愛敬・威光・大量の吉祥神なり。(後略)・・とあります。
寿命は寿老人が、有福は大黒天が、人望は福禄寿が、清廉は恵比寿が、愛敬は弁財天が、威光は毘沙門天が、大量は布袋和尚がもたらしてくれるといいます。

池の宮旧八幡宮
池の宮旧八幡宮とあります。説明がないので分かりませんが、「池の」とは、門前の池でしょうか?「旧」とは、如何なる「新」に対しての「旧」なのでしょうか?
名称から察して、興味深い話が伝わっているに違いないのですが。

地蔵寺へ
さて、次なる目標、嫁楽観音・地蔵寺へと向かいます。車のお接待をいただいて、時間に余裕が出来たとはいえ、地蔵寺の次には鬼ヶ臼山が待っています。のんびりとはしていられません。

高瀬川
高瀬川沿いの道を下ると、ほどなく地蔵寺が見えてきます。

地蔵寺
福井山の山裾にたつ、地蔵寺です。
前に広がる平地は、地蔵寺に因んで、地蔵原と呼ばれているそうです。かつては、地蔵寺の寺領であったとのことです。

山門
左右の寺名額に、
讃岐三十三観音霊場第廿三番札所
宝珠山悲願院地蔵寺
とあります。真言宗のお寺で、開基は行基。ご本尊は、准胝観世音菩薩・地蔵菩薩といいます。

案内看板
しかしこの地蔵寺は、むしろ「嫁楽観音」として、人口に膾炙しています。
・・本尊の准胝観音は、信仰すれば、長患いせず、下の世話をかけることなく、ポックリ死ねるということで、俗に「嫁楽観音」と呼ばれている。・・とのことです。
私はいただきませんでしたが、お願いすれば、・・極楽往生ゆきの切符・・しかも上席切符がいただけるとのことです。

本堂・嫁楽観音堂
「四国遍路」(岩波新書)の著者・辰濃和男さんは弥谷寺への途中、この寺に立ち寄ったそうです。次の様に記しています。
・・高瀬町の嫁楽観音地蔵寺にもお詣りした。「さぬきのポックリさん」といわれている寺だ。「円満長寿・安楽往生」がうたい文句で、参詣者はここで、極楽往生ゆきの切符を手に入れることができる。白木蓮、木蓮、辛夷の花が咲き競い、ポックリ寺をはなやいだものにしている。
「極楽行きの切符、買うたか」
「うん、買うた買うた」
年配の女性がふたり、すれ違ってゆく。はがき大の極楽行き切符には、「必ずお棺にいれてもっていくこと」と書かれてあり、「我昔造るところの諸の悪業」を「み仏の前に懺悔し奉る」ことが記されてあった。この切符は、「閻魔様の特別のお許しを得て出来た」ものだとも書いてある。長生きはしたい。しかし死ぬときは、だれの迷惑にもならずポックリ死にたい。そういう願いの人が少なくないのだ。

瑜伽堂
この堂には、瑜伽さん(ゆがさん)、淡島明神(あわしま明神)、金毘羅童子が祀られているとのことです。堂前に、それぞれの神様の縁起を記した看板があります。長いので略記すれば、瑜伽さんは、厄除けや縁結びの神さま。淡島さまは、婦人病に霊験があるとされています。金毘羅童子は、宮毘羅大将(くびら大将)とも呼ばれる、薬師十二神将の大将で、航海安全の神様です。
興味深いのは、瑜伽さんと金毘羅さんが一堂に祀られていることです。江戸時代、瑜伽さんと金毘羅さんの「両参り」が隆盛しましたが、ここでは一度に「両参り」が果たせる、というわけです。「片参り」はよくないとされていますから、これは重宝したことでしょう。

旧こんぴら街道
瑜伽さんと金毘羅さんの「両参り」について、上記の縁起は、次の様に記しています。
・・江戸時代からゆーがさん(瑜伽さん)と金毘羅さんの二社参りが盛んで、寺の前、高瀬川にそった旧金毘羅街道は、伊予(愛媛県)、備前(岡山県)からの両参りで賑わいました。
さもあらん。前述したように、この辺は四国各地からの金毘羅街道が、一点集中してくる処です。金毘羅詣りの人たちの意気は、いやが上にも高まっていたことでしょう。写真は、県道218号で撮った、旧こんぴら街道の標識です。

伊予の瑜伽大権現
なお、「伊予から」とは、伊予桜井の、今は補陀落山法華寺の境内に在る、瑜伽大権現を指すのでしょう。(伊予桜井は59番国分寺が在る所で、法華寺は、国分尼寺の法灯を継ぐ寺とされています)。「備前から」とは、岡山県倉敷市の瑜伽大権現を指すと思われます。→(H30春6)

いろいろの石仏たち
下(しも)の世話まではされたくない等々、様々の「切実な」心配事に応えてくださるべく、このお寺には、多くの仏様たちが準備されています。
境内には例えば、ボケ除け地蔵さん、お乳地蔵さん、さすり地蔵さん、洗い観音さん、身代わり不動さん、四国88ヵ所霊場、秩父34ヵ所観音霊場のお砂踏み道場、仏足石、ペット供養などが、様々の願いに応えるべく、居並んでいます。

古代蓮・大賀蓮の碑
昭和26年、大賀一郎理学博士が千葉県検見川町の泥炭層から、蓮の種子三粒を発見。その内の一粒が、2000年から5000年の時を経て発芽したのだそうです。
その蓮の子孫が、当・地蔵寺に分根され、数を増やしています。
数千年もの間、地中の闇に閉じ込められていながら、健気にも花を咲かせた蓮の種子を、哀れ、闇しか知らず逝ってしまった水子に喩え、いつの世にか生まれ変わって花咲けよと、その魂を供養しているのです。

古代蓮・大賀蓮
残念ながら今は破れ蓮ですが、花期には、きれいな花を咲かせるそうです。
蓮華の中に、子らに優しい地蔵菩薩が座しておられるのです。

行田蓮
写真は、私が住む埼玉県の行田市で発見された、もう一つの古代蓮「行田蓮」です。原市沼で撮りました。(原市は、お笑いの原市の出身地です)。
行田市の小針という所に、工事用に掘削した穴がありました。穴にはいつしか水が溜まり、池のようになっていたのですが、やがて水面に、蓮の円い葉が浮かび始めたのです。昭和48年(1973)のことでした。葉は増えつづけ、花期には花を咲かせるようになったといいます。古代蓮の種子が、偶然の機会を得て開花したのでした。

山門
現在時刻は、13:40。
これより、鬼ヶ臼山へ向かいます。

景色
左は、七宝連山です。弘法大師が七つの宝を埋めたと伝わるお山です。
右は、讃岐七富士の一で、高瀬富士とも呼ばれる、爺神山(とかみ山/214㍍)でしょう。良質の安山岩が出ることから、昭和30年代、大々的な採石がおこなわれた山で、(見る角度によっては)今や富士山とは似て非なる山容となっています。標高も、かつては標高227㍍ありましたが、今は、214メートルと、低くなっているそうです。
♫爺神の山を 東に七宝 西に見るところ 古き歴史と伝統に・・
これは、地元、比地小学校の校歌です。地元小中高等学校の校歌に歌われる、美しい山容だったのですが、残念です。
なお、爺神山に伝わる鈴石伝説、バレンタイン山としての復活計画などについては、後述(次号)します。

高瀬川
高瀬川右岸を下ります。
700㍍ほど川を下ると、上掲地図と下掲地図に記入の、□G点に至ります。高瀬川と高松自動車道が交わる地点です。

地図
左下に□G点があります。
これより□H点に向かって、高松自動車道沿いの道を北上します。

□G点
高松自動車道です。

□G点
前方に七宝連山と爺神山が見えます。
ここで右折し、□H点に向かって北上します。

竣工碑
しばらく歩くと、左側に上にあがる坂道がありました。鬼ヶ臼山登山口へはこの道を登りますが、すぐ先に溜め池が在るので、行ってみました。
堤防に石碑が立ち、皿池、黒穂池と呼ばれる、二つの県営溜め池があることが、記されています。

竣工碑
裏面には、池の造築が1680年頃と推定されていること。長年に渡り地域の田畑を潤してきたが老朽化は免れず、平成26年(2014)、大規模改修を行ったこと、などが記されています。

高速道沿いの道
引き返し、先ほどの坂を登ると、高松自動車道とほぼ同じ高さの道に出ました。

石塔
道端の空き地に、何基もの石塔が集められていました。
高速道の下に埋もれて仕舞いかねなかった石塔を、ここに集めたのでしょう。

高速道
この後の計画は、次の様です。
・・□H点まで歩き、これを右折。地理院地図に記載された登山口(これが「鬼が臼南登山口」であることは、後に知る)から登る。
・・下山は、これも後にその名を知ることになる、「末登山口」へ降りる。
・・南口に行く途中には、鬼ヶ臼伝説にまつわる「鬼の釜石」があり、「末口」の近くには「赤子の足跡」や「馬の足跡」があるので、これらを見学する。

□H点
ところが、□H点に着くと、予期していなかったことが起きました。看板が立っていて、・・直進すると180㍍先に登山口がある・・ことが案内されているのです。
それが「山奥登山口」を指しているとは、後になって分かるのですが、なにしろそのような道は、国土地理院地図には記載されていないので、私は大いに戸惑っていました。

町道田井-本谷線
迷った末に私が出した結論は、・・やはり計画通りに歩く・・でした。
直進すると、登山口はあっても、「鬼の釜石」はみられないことになります。やはり計画通りに右折し、「鬼の釜石」を見て、地理院地図に記載の登山口から登ろうと、(多少の不安はありましたが)決めたのでした。

鬼の釜石
「鬼の釜石」です。
ところで、鬼が臼伝説とは、説明看板は次の様に記しています。
・・昔、鬼ヶ臼に一人の男神(鬼)がいて、里人をさらっては、山上の岩臼でついていました。これを見かねた女神は、男神の馬と自分の赤子を競争させ、この勝負によって、男神の悪事を止めさせました。この時の決勝点である岩の上には、今も赤子と馬の足跡、そして馬が首を突き入れて死んだという穴が残っています。
この「釜石」で、鬼がなにを煮て食べたのかは記されていませんが、まさか・・。

登山口
登山口がありました。「鬼の釜石」も見ることができたし、私は大いに満足し、登り始めました。
ただ、後になって分かることですが、勘違いがありました。この登山口は(地理院地図に記載の「鬼ヶ臼南登山口」ではなく)、「三つ山登山口」だったのです。この段階では、「三つ山口」の存在を知らなかったため、「鬼ヶ臼南登山口」と思い込んでいたのです。

通行止め
いい気分で登っていたのも束の間。こんな場面に出くわしてしまいました。棒が数本、きちんと真横に置かれているのです。
この横棒が伝えるメッセージは何か。明らかにこれは、・・この先、進むな・・です。文字による表示がないことを、やや不審に思いましたが、・・進むな・・のサインを読み取ってしまった以上、余所者の私が、事情も知らず入り込むことはできません。

通行止め?
私は□H点へ、引き返すことにしました。
もしこの登り口が「三つ山登山口」であると認識できていたら、おそらく私は引き返さず、この先にある、「八つ山北口」か「鬼ヶ臼南口」に向かっていたことでしょう。しかしそれは、後になって分かることでした。

□H点から登山口へ
□H点から180㍍先だという登山口(山奥登山口)へ向かいます。

山奥登山口
登山口です。
案内看板は、次の様に記しています。
・・鬼ヶ臼山は標高199.5㍍。ここから15分ほどで登れる。山頂には、俗に鬼ヶ臼とよばれている巨岩がある。平成10年市指定史跡である。500年もの年月を経て今に伝えられている鬼にまつわる伝説がある。室町幕府が衰退を辿り始めた頃に創作された物で、当時の民衆の偽らない心をよく映し出していると言われている。伝説にまつわる地名として、地獄谷、首山、血の池、三ツ石(鬼の釜石)、赤子、馬の足跡、巨岩(鬼ヶ臼)などがある。すぐ上、数台駐車可
平成27年(2015)10月 まちづくり推進隊高瀬 高瀬百景実行委員会

登山再開
ふたたび登り始めました。ガードレールに「鬼ヶ臼」の案内があります。
これなら、登っても大丈夫のようです。

案内
コースガイドがあり、杖もお借りできるようです。

山道
この辺では、坂はまだ緩やかです。おそらく山頂直下で急坂となるのでしょう。

道標
山道が合流しました。
右奥方向を指して、「町道 鬼の釜石」とあります。先ほど登山を断念した道が、この道です。従って、この「町道」は、(私が歩いた)田井-本谷線を指しています。
手前方向は「山奥登山口」とあります。私が登り始めた登山口です。登山口に名前がついていることは、ここで初めて知りました。
左奧方向に「鬼ヶ臼 500㍍」とあるので、この方向に進みます。

山道
整備された、きれいな道です。まだまだ坂は緩やかです。

分岐
鞍部に出ました。道標が立っています。
右方向が「鬼ヶ臼山頂」です。私はこの方向へ向かいますが、その前に、左方向の「りゅうおうさん」に立ち寄ります。「りゅうおうさん」は、竜王山と書くようです。
奧方向は、(写っていませんが)「末登山口 県道」と記されています。県道は219号(神田-高瀬線)です。私が降り口と考えている道です。手前は、私が登ってきた道で、「山奥登山口 鬼の釜石」と記されています。先ほどの分岐点で、山奥登山口と鬼の釜石方向に分かれるのです。

竜王山へ
道標から400メートルほど歩くと、竜王山山頂です。標高は、160メートル。

竜王山山頂
展望は開けていませんでした。
しかし、小祠が祀られています。山名から、ここでは雨乞いが行われていた、とも推察されます。

鳥居
竜王山から、先ほどの鞍部にもどってきました。
「山神大明神」の鳥居を潜って、今度は鬼ヶ臼山を目指します。

山頂
山頂直下は、やはりちょっと厳しい坂でした。
とまれ、山頂に達しました。逆光の中、巨岩が見えます。
香川大学公開講座「讃岐ジオサイト探訪」活動報告(その2)によると、・・ 鬼ヶ臼山は、約9000万年前の花崗岩類でできた全山花崗岩の山で・・山頂の巨岩は、まだ風化せずに残っている「コアストーン(core stone)」なのだそうです。花崗岩 が風化する過程で内部に残る岩塊、ということだそうです。

巨岩・鬼ヶ臼
以下、下手な写真ですが、お楽しみください。

巨岩・鬼ヶ臼
鬼が里人を搗いたという、鬼の臼岩です。

巨岩・鬼ヶ臼
わかりませんが、梵字が刻まれているようです。
鬼伝説とは別に、山神さまが祀られているのでしょう。

景観
北北西方向に、三つのピークが見えました。いちばん右のとんがり山が、貴峰山(とみね山222㍍)、その左が毘沙古山(びしゃご山231㍍)さらに竜王山(178㍍)です。むろん竜王山は、前述の竜王山とは、別の山です。

景観
貴峰山-毘沙古山-竜王山の右に、もう一つ、三つのピークが見えています。右から、天霧山(あまぎり山382㍍)-弥谷山(いやだに山381㍍)-黒戸山(くろと山299㍍)です。言うまでもなく弥谷山は、71番弥谷寺があるお山です。天霧山と弥谷山の間の鞍部を向こう側に下れば、真魚ゆかりの、海岸寺があります。

景観
西方には、金毘羅さんのお山が見えました。
その他、(地蔵寺を出たところで見えていた)七宝連山も写したのですが、残念、(逆光だったからか)写っていませんでした。

下山
下山しますが、計画を変更しました。
当初は末登山口に降りるつもりでしたが、時刻は、もう16:00です。出発前の調べでは、末登山口から高瀬駅前の千歳旅館まで約3.3キロだったので、急いでも、小一時間はかかります。これに下山時間を加えれば、宿着がだいぶ遅くなりそうです。

下山
「赤子の足跡」や「馬の足跡」を見られないのは残念だけれど、またすぐ来ることだし!末口に降りることを止め、登ってきた山奥口へ降りることにしました。その方が近いからです。(帰宅して距離を測ってみると、山奥口から高瀬駅まで、2.7キロでした)。

山奥登山口
駆けるように降りてきました。

宿へ
宿へ急ぎます。

捨身ヶ岳
山頂では撮れなかった、火上山-中山-我拝師山です。

日没
日が落ちます。この時期の三豊市での日没は、17:00頃です。

へんろ小屋
平成26年(2014)11月完成の「日韓友情の小屋」。第53号茶処みとよ高瀬です。
「茶処」と入っているのは、うれしいですね。前述のように、高瀬は茶処なのです。
ずっと急いできたので、ちょっと休ませてもらいました。

月
時刻は16:50。ふと見上げると、きれいな月がかかっていました。
これ、コールドムーンです。12月の満月です。

宿
高瀬駅前の宿、千歳旅館に着いたのは、17:20頃でした。滑り込みセーフ、といったところです。
泊まり客は、こんな時期でもあり、私一人。話し相手に、女将さんが付き合ってくださいました。
いろいろお話をうかがいましたが、とりわけ宇高連絡船のウドンの話は楽しかったです。船尾での素うどんの立ち食いは、四国を出るとき、入るときの、セレモニーでもありました。
さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
令和7年のシリーズに1号だけ挿入された、令和元年の遍路記は、如何でしたでしょうか。次号からは、再び令和7年1月にもどります。行程は、高瀬から本山寺への逆歩きです。
ところで次回更新予定は、7月23日ですが、私もそろそろGooByeを考えなければなりません。もしかすると、次号は「はてなブログ」でご覧いただくことになるかもしれません。もしそんなことになりましても、引きつづき、よろしくお願いいたします。
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マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや
「自分の命まで捧げて守るに値する祖国が、本当にあるのか?」 この問いを、敗戦に至るまで「日本勝利」を頑なに信じていた当時の国民にこそ、投げかけたかったのです。
さて、今回は「大水上神社 ~高瀬」ですが、「楽しく遍路」さんが今年6年ぶりに大復活遍路となった道中記ですが、今号の記録は5年前、令和元年12月に歩かれたときの記録だそうですが、5年前に三豊を歩かれた時の見残し・書き残しもあったようで、未完を補っての登場です。
それと、待ってました! お詣りされたのは聞いていましたが、辰濃和男著・「四国遍路」(岩波新書)に載る嫁楽観音地蔵寺。 「だれの迷惑にもならずポックリ死にたい」、「極楽往生ゆきのキップ」、ささやかな庶民願望がここでは綴られています。
さてさて、今回のタイトルは、老子の「天網恢々疎(てんもうかいかいそ)にして漏(も)らさず」で、天恢の名もこの言葉に由来します。 天の神が張り巡らした網の目は粗いが、決して悪を見逃すことはない。だから行動は慎まなければならないという教えです。 このタイトルが何故ここに? ですが、
このGooブログ最上段にある「goo blogサービス終了のお知らせ」でクイックすると「この度、2025年11月18日をもちまして、goo blogはサービスを終了することとなりました。」とあります。 また、ブログ最終欄のコメントを投稿欄には、「サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。」と、あります。
サービス終了理由として、『これまで私たちは、「みんなの好きを応援する」ことを大切に、みなさまの想いが世界中に届き、読者の心を動かし、共感を呼ぶ──そんな場を目指して運営を続けてまいりましたが、この度サービス終了というお知らせをすることとなり、心よりお詫び申し上げます。 2004年3月のサービス開始から21年にわたり、ご愛用いただき誠にありがとうございました。』
どんなに言い訳を並べても、要は、「儲からんから止める」ということだけです。
Gooでの「楽しく遍路」の更新は今後ないそうです。 次号からは「はてなブログ」での開設展開です。 終了するブログのコメントには書きたくない気持ちは察していただき、コメント投稿停止も間近に迫り、中途半端なコメントしか書けなかったことをお詫びします。
♪今は黙してゆかん~、NTTに恨みつらみを込めて 天網恢々疎にして漏らさず!
前号のアップロード直後、「はてなブログ」への引っ越しを敢行。これまでの記事とコメントの全部を移すことができました。まだ記事中のリンクはgooにつながったままですが、これらは追々直して行くつもりです。
次号からは、Hatenaブログでお会いしましょう。なお今号の、このコメントのやり取りは、(すでに引っ越しは終わっていますので)手作業で、Hatenaのコメント欄に、コピー&ペーストしておきます。
さて、『あんぱん』の登場人物のぶは、戦中、「愛国の鑑」と称えられる小学校の先生でしたが、敗戦後は、そのことで苦しみます。子供たちを戦争へと駆り立てた自分を責めるのです。
あの場面を見ていて思いだした詩がありました。竹本源治さんという、のぶ同様に、戦中、高知県で小学校の先生をされ、戦後も先生をつづけられた方が書いた、『戦死せる教え児よ』という、悔恨の詩です。昭和20年代から30年代半ばくらいまでは、けっこう(特に先生たちの間では)広く読まれた詩でしたが、近頃は、ほとんど話題に上がることもなくなっているので、『あんぱん』を口実に、ここで紹介させていただきます。
戦死せる教え児よ
逝(ゆ)いて還らぬ教え児よ
私の手は血まみれだ!
君を縊ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慚愧 悔恨 懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝つた君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
繰り返さぬぞ絶対に!
しかし、久しぶりに「核の時計」(世界終末時計)を調べてみたら、残り89秒にまで進んでいました。キューバ危機(1962)の時でさえ、まだ2分も!あったのでしたが。
あまり悲観的にはなりたくないのですが、ついつい、そうなってしまいます。今年も厳しい夏のようです。お身体大切にお過ごしください。