楽しく遍路

四国遍路のアルバム

高瀬から 弥谷寺へ

2020-02-19 | 四国遍路

 
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申し訳ありません。またまたスキップです。
前号は本山寺奥の院・妙音寺で終わったのでしたが、今号は高瀬から始まります。
妙音寺-高瀬間は、次回遍路で歩き直す計画を温めていることもあり、今号では、あえてスキップさせていただきました。煩雑ではありますが、ご了解ください。



予讃線高瀬駅(三豊市)近くの宿に泊まり、弥谷寺→海岸寺へ向かいます。海岸寺へのルートは、朝の段階では海沿い道としていましたが、いくつかの出会いがあった後、天霧峠から下る道へと変更することになります。
距離は短いのですが、あまりゆっくりとはできません。というのも明日の行程のため、詫間まで移動しなければならないからです。


高瀬川 葛ノ山
高瀬川です。大麻山を源流とし、三豊市を北西に貫流。(明日歩く)詫間港に注ぎます。
写真奥は葛ノ山(くずの山)です。


瓦谷
県道221号・宮尾高瀬線 からの景色です。ガードレール沿いに高瀬川が流れています。
右端の山が(前出の)葛ノ山94㍍。中央やや左の、富士山型の山は山条山(やまじょう山・186㍍)。地元ではトンギリ山と通称される山です。とがっている山、ということでしょうか。
左端は爺神山(とかみ山・214㍍)。高瀬富士とも呼ばれていますが、残念ながら採石(安山岩の砕石をとる)で、山体に段ができてしまいました。今でも見る角度によっては、富士山型ですが。


爺神山と宗吉瓦窯跡
山条山と爺神山の間の谷は、瓦谷と呼ばれています。7C中-8C初、 瓦の生産が行われていたことから付いた名前です。当時の、最大級の瓦産地で、窯跡が24基も、今に残っています。
瓦谷周辺は、宗吉瓦窯跡史跡公園として整備されており、宗吉かわらの里展示館もあります。私は H25(2013) に訪れました。


宗吉瓦窯跡
本山寺の奥の院である妙音寺は、出土した瓦を鑑定した結果、7世紀後半の創建とされ、( 現存する中では )四国最古級の古寺とされています。
(少なからずビックリしましたが)藤原京跡から、妙音寺の古瓦と同范の瓦が見つかったのだそうです。宗吉瓦窯産の瓦で、妙音寺瓦と同じ粘土を使って作られ、同じ文様が刻まれているといいます。
とすると、藤原京が営まれていたのは694年-710年ですから、妙音寺の創建も、その時期・・7世紀後半・・だろう、ということになります。


宗吉瓦窯跡
重くて割れやすい瓦の運搬は、どのようにして行われたのでしょう。宗吉窯は、藤原京で使う瓦の、最も遠隔の産地だったと考えられています。陸送は無理です。
(見にくいと思いますが)次の地図で、古代の海岸線をご覧ください。(地図は、宗吉かわらの里展示館でいただいたものです)。


地図
予讃線みの駅の辺りは、この頃は海(古三野湾)です。海が、(前出の)葛ノ山の北裾まで迫っており、当然、高瀬川も葛ノ山の東を河口としていました。現在の河口である詫間港からは、直線距離で3キロも手前です。
宗吉瓦窯は、当時は海の側にあり、瓦は窯近くの湊から、瀬戸内海→大和川→飛鳥川を経て、藤原京に運ばれたとのことです。


海岸線
近くを歩くと、かつての海岸線と思われる、土地の高低が見られました。


窯跡からの景色
かわらの里が広がっています。手前が山条山、奥が爺神山です。


窯跡からの景色
窯跡から見た景色です。手前に、宗吉瓦窯跡史跡公園の施設が見えています。
奥の山は、右端のピークが天霧山。その左、鞍部を挟んで弥谷山→黒戸山と連なっています。左の富士山型の山は、貴峰山(きみね山222㍍)です。


窯跡からの景色
さて、遍路道に戻ります。
札所71番から73番の山々が、一望できます。左は(前出の)弥谷山系。右は、火上山-中山-我拝師山。


分岐
川下(地名)を過ぎると、道がY字に分岐し、道標が建っています。遍路道は左です。右は、今では国道11号に合流します。


道標
  これより、いやだに寺 三十九丁 / 打越へ 屏風ヶ浦 六十九丁
とあります。
「打越」の意味は不明ですが、あるいは「一点からある点を越えて測る長さ」を意味するかもしれません。とすると道標の意味は、・・ここから(弥谷寺を越えて)屏風ヶ浦 まで 六十九丁・・となります。この場合、屏風ヶ浦は(善通寺ではなく)、海岸寺を指しています。


道標など
先の道標に従って左に進むと、すぐ、いくつかの石造物に出会いました。散在していたものを集めたと思われます。
石柱には、光明真言一億万遍とあり、土台に左手差しが浮き彫りされています。
大師像の台座石には、沓(くつ)と水瓶が浮き彫りされ、その下、土台には、「左へんろみち 是ヨリいや谷 三十九丁」などと刻まれています。三十九丁は、前の道標と同じ距離です。


天霧山 弥谷山
’屏風ヶ浦 六十九丁’ 海岸寺への道は、弥谷山と小ピークの間の天霧峠を、向こう側(=北方向=海方向)へ降ります。
この道については後述します。


コスモス
もう12月ですが、コスモスが頑張っていました。この花、見かけによらず根性があると、私は一目置いています。


常夜灯
石造物に、続々と出会います。これは、出井集落の常夜灯です。
道標の正面は、左手差し弥谷寺・・と読めます。小祠は、土地の神さまでしょう。


落合大師堂
落合集落の大師堂です。スワンが、かわいいアクセントになっています。
右には集落の集会所があり、左には神社があります。鳥居の扁額には、ただ「神社」とのみ書かれています。なんの神さまか、もうわからないのでしょうか。とにかく、神さまがいらっしゃる社です。
左、木のポールの下に大師像の道標がありますが、文字は不明です。 右の高い石柱は、弘法大師千百年御遠忌と記されています。およそ百年前のものです。


道標など
落合大師堂から百㍍弱先、民家の前に、道標などがを集められています。
いちばん手前の小さな道標は、左指差しの下に、・・右 丸が免(め) / 左 いや谷 みち とあります。
延命地蔵さんでしょうか、半跏踏み下げ地蔵尊の座像があり、台座石正面には、袖付きの左指差し 右 丸か免道 左 へんろ道、と刻まれています。


九免明
金常夜灯の「金」は、金毘羅の略です。金毘羅様に奉献された常夜灯、ということでしょう。「金」の他にも、「八」で八幡様を表したり、「蛭」で蛭子様を表したりもするようです。
奥の小祠は、土地神さまでしょう。九免明は地名で、「くめんみょう」と読みます。


門柱
弥谷寺の門柱です。右 弘法大師御修行之遺跡、 左 四国第七十一番弥谷寺、とあります。


八丁大師
道標に、従是本堂江八丁 とあります。もはや「これより弥谷寺へ」ではありません。


足跡
何者かがここを歩きました。蹄が二つ、偶蹄の持ち主です。イノさんでしょうか。



へんろ道は様相をかえました。この道は、基本的には車は走りません。


俳句茶屋
懐かしの俳句茶屋です。同郷の歩き遍路お二人との、出会いの場所です。
あの時は、ここに荷物を置かせてもらって参拝したのでしたが、残念ながら、・・老朽化による倒壊の危険が心配される為、修繕計画中です、・・とのことでした。


山門へ
俳句茶屋のすぐ先に、山門につづく石段があります。
弥谷寺の参拝導線は、今は石段になっており、これより本堂まで、10本ほどの石段を上り継がねばなりません。段数の計は、山門から540段だそうです。(この石段は含まれていません)。


山門
  剣五山  弘法大師御修行道場  真言宗大本山弥谷寺 
幼き頃の弘法大師・真魚は、7才から12才まで(781-786)、現・大師堂の奥にある「獅子の岩屋」で、勉学に励まれたそうです。また唐より帰国後も、再度窟に籠もり、千座の護摩を修されたといいます。このことに因み、弥谷寺は「弘法大師御修行道場」とされています。


仁王像 阿
ただし当時の寺名は弥谷寺ではなく、八国寺(やこく寺)と号したそうです。四国遍礼霊場記(寂本)は、・・此峰にのぼりぬれば、八国を一望するが故に、八国寺といひける・・と記しています。
そして、・・何れの時よりか、・・八国寺(やこく寺)を弥谷寺(やこく寺)と書くようになった、としています。霊場記の頃、弥谷寺(いやだに寺)は、「やこく寺」と読まれていたようです。


仁王像 吽
なお弥谷寺HPが記す寺名由来は、次のようです。
改号は大師ご帰国の大同2(807)のことで、・・再度獅子窟に籠り千座の護摩を修し、満願の日、蔵王権現のお告げをきき、五柄の剣と唐にて恵果和尚より授かった金銅の五鈷鈴(国重文)を納め、山号を剣五山、寺名を神仏の谷の寺(神仏の坐す弥山の谷にある寺)として弥谷寺に改めたと伝わります。


船石名号  
この船形石は、「船石名号」と呼ばれています。山門の側にあります。
左行には、五輪塔のような浮き彫りが見えています。しかし右行は、何かの名号が掘られていると思われますが、風化で、ほとんど読みとれません。南無阿弥陀仏でしょうか。


四国遍礼名所図会の弥谷寺図部分  
「船形名号」はよく知られていたらしく、四国遍礼名所図会の弥谷寺図には、山門の左側に、それらしきものが描かれています。
なお、後述しますが、三途の川と、それに架かる法雲橋も描かれています。


賽の河原
山門から始まる二本目の石段付近は、「賽の河原」に擬せられています。
死出の山を越えた死者は、賽の河原を六日間歩きつづけます。そして七日目、三途の川を渡ります。


四国遍礼霊場記の弥谷寺図
とはいえ、石段の道から賽の河原をイメージするのは、難しいと思います。
そこで四国遍礼霊場記から弥谷寺図をお借りし、載せてみました。弥谷寺の原初の姿が視えてくるような、そんな気がする絵です。
五輪仏塔が、・・幾千といふ事をしらず(霊場記)・・描かれ、まさに弥谷寺は山中他界。死者の霊が帰る所、と見えます。


四国遍礼名所図会の弥谷寺図 
二つの絵を見比べてみてください。名所図会からお借りした絵ですが、こちらからは、どちらかといえば、現在に近い姿が見えてくるのではないでしょうか。
霊場記の発刊は元禄2(1689)。名所図会は、それより111年後の、寛政12(1800)と考えられています。二枚の絵は、この間の弥谷寺の変化を、写しているのだと思います。


賽の河原  
賽の河原には、親に先立った不孝の故に、三途の川を渡れずにいる子たちがいます。
子たちは、先立つ不孝を詫びつつ石を積みますが、・・日も入相のその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝らは何をする・・くろがねの棒をのべ 積みたる塔を押し崩す・・(賽河原地蔵和讃)
鬼に追い立てられる子たちを救うのは、 能化の地蔵尊です。そんなわけで石段の両側には、多くの地蔵尊が並んでいます。


お手かけ岩
二本目の石段を上がると、道の両側に巨岩があります。あたかも関門のように見えるこの岩は、「お手かけ岩」だそうです。
手を岩に掛け、こじ開け、途(みち)を通してくださったのは、お大師さんでしょうか。


法雲橋
お手かけ岩を抜けると、その先が法雲橋です。この橋は三途の川に架かる橋ですが、善人にのみ、渡ることが許される橋です。
法雲橋を渡る善人にとっては、下を流れる川は、けっして恐ろしい川ではないので、橋柱には、その名も潅頂川と刻まれています。


法雲橋  
しかし、罪ある人が渡ろうとするとき、潅頂川はたちまちにして怖い川へと変じます。罪深き場合、その罪人は、むろん法雲橋は渡れず、下流の強深瀬(ごうしん瀬)を渡らねばなりません。そこは波逆巻く激流で、水中には五体を引き裂く大きな石が転がり、肉を食らう大蛇が棲んでいるといいます。
罪浅き場合は、上流の浅水瀬を渡りますが、それでも水深は膝下くらいあるそうです。けっして楽々とは渡れません。


三途の川
法雲橋から覗くと、(水は涸れていましたが)三途の川の川筋が見えました。
三途の川の川幅は、(見た目には1メートルほどでも)、実際には!幅4000キロにもなんなんとする、大河だそうです。なにせ、彼岸と此岸を隔てる川ですから。


お迎え観音菩薩
おかげさまで法雲橋を渡ることができた私たちは、金剛拳菩薩のお迎えを受けることが出来ます。
この菩薩像は、江戸時代の元禄年間の作だそうです。


岩塊
さて、ちょっと話題が変わります。
この辺に点在する岩塊ですが、これらは凝灰角礫岩の崩落岩塊で、かつて弥谷山の南斜面が大崩壊したとき、上から落ちてきたものだそうです。


岩塊
弥谷寺はその崩落跡に、凝灰岩類の岩壁を利用しつつ、建てられているそうです。例えば大師堂奥の獅子の岩屋は、凝灰岩を掘削した洞穴に、阿弥陀如来、弥勒菩薩、大師像を安置したものだといいます。また数多の磨崖仏は、凝灰岩壁に刻まれています。(香川大学工学部安全システム建設工学科作製「讃岐ジオサイト27」より)


108段石段
閑話休題。
煩悩の数と同じ、108段の石段を上ります。一段上がるごと、煩悩を一個、捨てます。
しかし私はと言えば、海岸寺に参る道を如何せんか、降りてくるお坊さんとの短い立ち話から、迷い始めることになります。この話は次号で。


大師堂へ
大師堂へ上がる石段です。
前述しましたが、大師堂の奥には、獅子の岩屋と呼ばれる岩窟があります。お大師さんが真魚の頃、勉学に励んだところです。ここで祈れば、背負った罪を獅子が食い尽くしてくれるので、獅子の岩屋なのだと言われます。また一説には、洞窟が、口を開けた獅子のように見えることから来る、とも。


多宝塔
多宝塔を経て本堂へ向かう道もありますが、私はこの道はとりません。


香川氏代々の墓
香川県の名の興りともなった、天霧城主・香川氏代々の墓です。弥谷寺山のもっと上部に在ったものを、こちらに降ろし、供養しているそうです。
香川氏(讃岐香川氏)は、秀吉の四国攻め(天正の陣)で改易となり、滅びました。


修行大師像
修行大師に励まされ、次なる石段に向かいます。


十王堂
石段の途中に十王堂が、在るべくしてありました。三途の川を渡った死者達は、十王による審問を受けねばならないからです。
殺生、盗み、不貞、虚言など、生前の悪行が順次問いただされ、閻魔帳に記載されます。噓をついても、浄玻璃鏡(じょうはりの鏡)に真実が映し出されますから、すぐバレてしまいます。こうして35日目には閻魔大王から審判が下り、49日目には、六道のいずれに行くかが決まります。


護摩堂
石段を上がりきると護摩堂があります。中は洞窟で、護摩壇が設えられているので、護摩窟ともいうそうです。窟にある石の坐像は、道範阿閣梨とおっしゃいます。
ここを右に進むと、天霧峠から天霧城跡、あるいは天霧峠から海岸寺に至ります。左は、水場を経て本堂です。私は当面、左に進みます。


水場の窟
身内に死者が出ると、家族はその魂を背負い(背負う格好をし)、この水場までやって来ます。水場の窟は、あの世への入り口だと信じられているからです。


水経木
家族は魂をここに降ろして、死者が未練を残さぬよう、けっしてふり返ることなく、帰るのだそうです。
ここにたくさんの位牌や経木が見られるのは、水場の窟からあの世に渡った死者達を、供養してのことです。


本堂へ
本堂へ上がります。弥谷寺の核心部です。


本堂
大師堂や護摩堂がそうであったように、本堂もまた、岩穴につながって建てられています。創建時から、本尊・千手観世音菩薩が祀られてきた、岩穴だそうです。
五来重さんは「四国遍路の寺」に、・・洞窟が多いところはたくさんの行者が集まります。山岳修行をする人たちは洞窟を探して、洞窟に籠もって修行をしました。
そしてそこに、山岳寺院が発祥しました。


磨崖仏
水場窟から本堂にかけての凝灰岩壁には、多数の五輪塔が陽刻されて残っています。
かつては、霊場記の弥谷寺図ででも見たように、この辺のみならず全山、数多といっていい数の納骨五輪塔がありましたが、残念ながらその多くは、今は失われています。


磨崖仏
五来重さんは、・・かつては死者の霊が山に帰るという信仰がありましたから、山岳寺院が死者供養の場となりました。・・と記しています。


磨崖仏
五輪塔の真ん中に穴を穿ち、骨を納め、四角の石で蓋をしていました。


支え
壁に掘られた穴には、足場や建物を支えるために掘られた穴もあります。


三尊像
中央に阿弥陀如来、左右に観音菩薩、勢至菩薩が陽刻されています。平安から鎌倉にかけてのものではないかと言われており、あるいは大師の作かとも言われているそうです。


三尊像
左右には、六字名号・南無阿弥陀仏が、ここに葬られた数多の死者への回向として、陰刻されています。(風化で見えにくくなっていますが)、9行にわたっているそうです。


景色
ご覧いただきまして、ありがとうございました。
高瀬→弥谷寺→海岸寺を予定して書き始めた今号ですが、すみません、弥谷寺で止まってしまいました。弥谷寺→海岸寺は、次号廻しとなります。更新は3月19日の予定です。

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2 コメント

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♪我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日もくる 春がくる~ (天恢)
2020-03-04 19:58:24
 日本でも、世界でも、時々刻々と新型コロナウィルスの感染環境が変化しています。 一体どうなることやら収束も終息も見えないまま月日だけが空しく過ぎて行きます。

 さて、今回は「高瀬から 弥谷寺へ」ですが、古くから「弥谷参り」と呼ばれる風習が伝わり、地元では死者の霊魂が向かう先だと信仰され、天恢も平成21年と24年の二度ほどお参りしました。 さすが死霊のこもる山だけあって、あたりには霊気が漂い、霊界に踏み込んだような、不思議な気持ちにさせられる霊場です。 ブログにあるように、『身内に死者が出ると、家族はその魂を背負い(背負う格好をし)、この水場までやって来ます。水場の窟は、あの世への入り口だと信じられているからです。 家族は魂をここに降ろして、死者が未練を残さぬよう、山門に辿り着くまでけっしてふり返ることなく、帰るのだそうです』、 そんな「弥谷参り」を想像しながら道中記を楽しく読ませていただきました。

 そして、天恢も弥谷寺には沢山の思い出が残っています。 ① 一巡目の遍路では、門前の「ふれあいパークみの」に泊まって、78番郷照寺までの8つの札所を一日で回る超過密・強行軍でしたが、多度津から宇多津まではJRを利用しました。 こんな歩き方は決してお勧めできませんが、理由あってのことでした。
②弥谷寺本堂から眺望する三豊市の平野や讃岐の山々・・・ ブログの最後の写真「景色」 を見て、弥谷寺はこんな高所に位置する札所だったのです。 山門から540段以上もある長い石段の上に建つ古刹ですから当然のことです。 それにしても二度とも、10年前の60歳代でも苦しい思いで上った記憶が残っていません。 それもそのはずで荷物を俳句茶屋に預けていました。
③荷物を預けた「俳句茶屋」は、当時はマスコミやドラマでも取り上げられる超有名スポットでした。 年配の姉弟のお二人でお店を切り盛りされていましたが、やはり寄る年波には勝てなかったのでしょうか?店じまいの写真を見て寂しい思いです。 弟さんは楽しい方で、「男は75歳過ぎると遍路は無理、その点女性は80歳過ぎても元気に歩いている人が多い!」とのご意見。毎日、遍路さんを相手にされている方ですから、やけに説得力がある言葉が耳に残っています。 天恢も後期高齢者なので身につまされます。
④天恢にとっても弥谷寺での忘れがたい出会いがありました。 5番札所地蔵寺近くでギャラリーカフェ「Brisa」営まれているマスターとの出会いです。 このギャラリーで遍路に関する文芸展へ2度ほど出品を依頼されて、「思い出の『四国のみち』 寄り道、脇道、まわり道」という駄作を出品しました。 およそ芸事には全く無縁でセンス無き身に機会をいただき御大師様に感謝しかありません。
⑤終わりに、弥谷寺には死霊が籠もっていると天恢は固く信じております。 遍路ではメモ代わりに写真を撮りまくっているのですが、デジカメですから失敗はほとんどありません。 それが弥谷寺では2度とも手ブレやピンボケの失敗写真が続出しているのです。 これも死霊のイタズラでしょうか?

 さてさて、今回のタイトル『♪我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日もくる 春がくる~』ですが、終戦後間もない頃に大ヒットした「異国の丘」です。 シベリアに抑留された兵士の間で歌われ、非常に強い望郷の念が伝わってきます。 今、新型コロナウィルス禍の苦しみに耐え、頑張っている皆さんにこの詞を捧げます。 春はもう来ているのです!
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♫春よ来い 早く来い (楽しく遍路)
2020-03-08 16:21:34
厳しいときがつづいています。結果、社会がギスギスしてきました。
こんなときは心静かに、みいちゃんと、春が来るのを待ちたいと思います。
マスクなしに、おんもに出られる、その時まで・・

さて、弥谷寺にたくさんの思い出をお持ちの天恢さんですが、いつかの機会に、もう一つ、加えてみてはいかがでしょう。
そのプランは、・・多度津港から佐柳島に渡り、島から弥谷山を眺める・・です。
佐柳島(塩飽諸島の島々)には、かつて両墓制の風習がありました。埋墓と詣墓が、今も残っています。
死者が帰る山 ・ 弥谷山を背景に、埋墓、詣墓が並ぶ景色は、なかなか得がたい景色です。弥谷山は海を隔てているので遮蔽物がなく、丸々、その姿を現しています。
私は一度訪ねましたが、出来ればもう一度、行ってみたいと思っています。

さてさて、今回、私は弥谷寺から海岸寺へ降りましたが、海岸寺奥院で「俳句茶屋」を見ましたよ。
弥谷寺で休業中の俳句茶屋を見たばかりだったので、ちょっと驚きましたが、短冊のかけ方など、弥谷寺のものと同じでしたから、二軒の茶屋は、なんらかの繋がりがあるのではないでしょうか。

なお海岸寺へ降りる道は、聞くほど荒れているとは思えませんでした。虎ロープが随所に張られているし、常時、赤リボンか遍路札が視界に入っていて、道に迷う心配もないし、沢には橋も架かっています。さすがに雨の日は、沢筋の道ですから、避けた方がいいとは思いますが、いい道でした。

とはいえ現状では、四国に入るのは、しばらく後のことになるのでしょうね。
閉塞の日々がつづきますが、ご自愛ください。
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