楽しく遍路

四国遍路のアルバム

大瀬 新田八幡神社 三嶋神社 下坂場峠 鴇田峠 44番大宝寺 上黒岩遺跡

2024-08-07 | 四国遍路
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  このアルバムは、平成22年の遍路アルバムを、リライトしたものです。
  そのため、令和6年の現状とは異なる、写真や記事内容が含まれています。
  その点、ご注意ください。

 平成22年(2010)7月14日  雨 第四日目

宿
今日は久万高原まで歩きます。雨、それもかなり強い雨が予報されていますが、梅雨末期の遍路です。仕方ありません。
最初の目標地は、遍路道が国道380号を行く農祖峠遍路道と、国道379号を行く鴇田峠遍路道に分岐する地点、突合(つきあわせ)です。どちらも44番大宝寺へ行く道ですが、私は今回も、前回と同じ国道379号の鴇田峠遍路道を行きます。未知の道を行きたいとも思いましたが、過去を懐かしむ気持ちの方が勝っているのです。
突合の次は、畦々(うねうね)の三嶋神社を目指します。ここは前回、北さんと大休止したところなのです。


国道379号大洲方向   
宿がある旧道から、国道379号へ降りてきました。写真は、国道379号の大洲方向を、ふり返って写したものです。
写っている橋が、前号で記した、「筏流し橋」です。筏流しの地域興しに連動して、この名がつけられました。
  

バス停兼休憩所
国道379号沿いに、バスの梅津停留所兼休憩所がありました。
・・お寄りんかい 一休み 一休み・・と記されています。
しかし、せっかくのお誘いですが、私は歩きはじめたばかり。ここは通過させていただきます。
なお、停留所名の「梅津」(うめつ)は、集落の名前です。梅津集落の中を通っていた旧道を、新国道がショートカットしたため、集落本体から少し離れたバス停になってしまいました。


梅津トンネル
梅津トンネルは87メートル。平成20年(2008)の開通です。前回ここを通ったときには、なかったトンネルです。
「梅津」の由来は、土地の人によると、・・「梅」は、この辺に梅の木が多かったので「梅」となったんじゃ。「津」はの、「行き詰まった所」じゃったんで「津」なんじゃ。巨岩があって、この先には行けなんだのよ。・・とのことでした。
「行き詰まった所」だから「津」というのは、すこしわかりませんでしたが、・・なんにせよ、そう伝わってとるんじゃから、仕方なかろうが。・・とのことで、了解しました。梅津トンネルは、その巨岩を穿って通したトンネルなのだそうです。


交通標識
380号へ直進せず、379号(左方向)へ進みます。なお国道379号は、突合からは、田渡川沿いの道となっています。代わって小田川沿いに走るのは、国道380号です。


吉野川トンネル
吉野川トンネルは、長さ330メートル。田渡川沿いの蛇行部をショートカットするトンネルです。
「吉野川」とは、なにやら意味ありげな地名ですが、由来については、後述の「新田八幡宮」をご覧ください。


記憶の場所
ここ、思い出した!前回、4人で休憩した所です。
松山さん、北条さんと納札を交換し合ったり、座り込んでアンパンを食べたり、出会ったばかりの若いお坊さんの話をしたり、→(H16春5ここには楽しい記憶がのこっています。


田渡川(たど川)
田渡川は、下坂場峠(後述)辺りを源流とする、小田川の支流です。小田川は肱川の支流ですから、肱川水系ということになります。
遍路道はこの先、下坂場峠を越えるので、その辺までは田渡川と一緒、ということになります。


宮之谷口停留所
少し歩いてみて、わかりました。かなり疲労が溜まっています。
靴の中の「水漬く足」は、フヤケ状態を越え、かなり危険な状態です。スパッツを購入すれば、問題は一挙に解決するのですが、私には便利なものを嫌うという、変な意固地さがあり、購入を躊躇っていたのです。(今は愛用しています。意固地とはいえ、筋金入りではないのです)。


国道379号
うどん屋さんから500メートルほど先に、旧道への分岐があります。
この旧道はおそらく、新田八幡神社の参道でもあるのでしょう。


新田八幡神社
旧道を歩いて、新田八幡神社に着きました。この神社を『えひめの記憶』は、次の様に紹介しています。
・・新田八幡神社は、新田義宗(よしむね)を祀(まつ)る神社です。今から640年ほど前、南北朝の時代(1336~92年)、南朝の忠臣新田義貞(よしさだ)の三男に、義宗がいました。義貞は亡くなり、一族もバラバラになって衰えていった時、再起を図り義宗は四国に逃れ、越智郡の大島や、宇和地方や、大洲、内子方面、小田川の北の方を経て、ここ中田渡に落ち延びてきました。
・・義宗と家来は、岩木(いわき)の森に家を建てたそうです。日がたつにつれて、奈良の吉野にいたころのことが忘れられなくて、中田渡の谷間がその吉野に似ていることから、吉野の千本桜を懐かしんで、東の谷の桜の美しい所を桜原(さくらわら)と名付けました。そして、その谷間と合流して流れる川を吉野川と名前をつけ、自らを慰めていたそうです。


拝殿
・・義宗は、疫病にかかって、山奥のことだから医者も薬もなく、近くに住むおばあさんだけが、看病をしてくれたそうです。ある日、義宗は桜原で川の水を飲もうと下りた時、動けなくなり亡くなったそうです。田渡の人たちは、義宗の遺徳を慕い手厚く葬って、ここに新田武義神社をつくったとの話です。(これが新田八幡神社の始まりのようです)。
・・そのころより、この神社にお参りすると御利益があるということから、旧暦2月の初の卯の日のお祭りを「卯の市」と呼び、卯の刻(午前6時ごろ)参りをするものが多くなってきました。戦前(太平洋戦争前)は縁結びの神様として信仰が厚く、多くの露天商や、いろんな見せ物小屋でにぎわったそうです。戦時中は、武運長久・戦勝祈願のお参りの参拝者も多かったのですが、終戦直後は国を挙げて人心が動揺し、次第にすたれていき、縁日といっても参拝者が少なく寂しい状態になりました。
(なお59番国分寺には、新田義貞の弟、脇屋義介の墓があります。こちらは、義宗のように「神」になることはなく、人として祀られています)。→(H30春6)


日本誕生
境内に陰陽石があります。陰石は、手水場の手水鉢(弘化2年/1845の年号が刻まれている)が、それに見立てられています。
「日本誕生」の文字から、これが伊耶那岐命と伊耶那美命の「国生み」神話に基づいているのは明らかです。ただ(残念ながら私には)それが新田八幡神社ととどう関わるのか、いつからここに置かれ、いかなるメッセージを発しているのかは、わかっていません。


陰石とされる手水鉢 
とまれ、古事記から「国生み」の下りを、書き下し文で記しておきます。
・・その島に天降(あも)りまして、天の御柱を見立て八尋殿を見立て給ひき。ここにその妹伊邪那美の命に「汝が身はいかになれる」と問い給えば、「我が身はなりなりてなりあはざるところ、ひとところあり」と申し給ひき。
・・ここに伊邪那岐の命詔りたまひしく「我が身はなりなりてなりあまれるところ、ひとところあり、かれこの我が身のなりあまれるところを、汝が身のなりあはざるところにさし塞ぎて、国生みなさんと思ふはいかに」と宣り給へば、伊邪那美の命「しか善けん」と申し給ひき。


中田渡橋
この辺は、中田渡地区です。


石仏たち
ここにお住まいなのは、お地蔵さんでしょうか。
石仏さんたちのお住まいは、近頃は簡易住宅風のものが多くなってきていますが、これは岩陰風(後述)の、なかなか居心地の良さそうなお住まいです。


標識
上田渡地区に入ってきました。


落合トンネル
平成4年(1992)開通。長さ103メートル。
帰宅して、グーグルマップを見ていて気づきました。大失敗でした。
このトンネルの右側には旧道が残っており、そこには落合大師堂があったようなのです。私はすいすいとトンネルを抜けてしまい、見逃してしまいました。


落合
落合トンネルを抜け、右方向、県道42号線(久万-中山線)に向かいます。左に進むと砥部町→松山市です。


標識
県道42号の標識が見え、大宝寺が案内されています。



すごい降りになった来ました。大きな雨粒がバチバチと、菅笠やポンチョを叩いています。
民家はないので、小屋型バス停留所をさがすことにし、急ぎました。
ところが、あった!と思ったら、・・先客がいました。


ドシャブリ 
どうやら ノラ君のようです。ささくれだった感じはありませんが、はたして小屋を、私とシェアする気になってくれるでしょうか。
追い出してしまうのは、可愛そうなので、さりげない風を装いながら、しかし安心してもらうため、優しく声をかけながら入ってゆきました。やや警戒して前足を立てましたが、逃げ出すまでには至りません。なんとか成功。シェアが始まりました。


仲よく
一人と一匹が椅子の両端に坐っての、奇妙な時間の始まりです。
カメラを向けたら、ちょっと警戒、耳が後ろに下がりました。犬はうれしいときも耳を後ろに引きますが、今の場合は、緊張させてしまったのでしょう。
しかしこのノラ君、たぶんお遍路さんから優しくされた経験があるのです。私の手がザックにかかると、なにか期待の表情をみせるのは、お遍路さんから、食べ物をもらったことがあるからかもしれません。見知らぬお遍路さんたちの優しい心が、ノラ君を通して、私に回ってきたということでしょう。おかげさまで、素敵な雨宿りができました。ありがとうございました。



雨はまだ降っていますが、歩きはじめました。ノラ君へは、行動食を少し残してあげました。
犬は、おおむね私の友達です。このブログにも、けっこう多くのワンチャンが登場しています。帰り道が心配になるほど遠くまで、一緒に歩いてくれたワンチャン。迷っているとき突然現れて、先導?してくれたワンチャン。一声吠えて、私の到着を宿の人に伝えてくれたワンチャン。見知らぬ私との出会いを、身体をすり寄せて喜んでくれたワンチャンなど。そして、この雨宿りのワンチャンも、忘れられないワンチャンとなりました。


臼杵三嶋神社
前回は、ここで大休憩をとったのでした。日向に白衣や靴下を干し、乾くまで休みました。
こんなに長く休んだら、もう松山さん達には追いつけないだろう、そんな話をしていたら、やがて追いついてしまい、それが「ウサギとカメの記」という、CD作製につながったりしたのでした。
今回も、当初は大休止するつもりでいたのですが、・・


拝殿
この降りです。白衣を乾かすどころではありません。頭を下げ、シャッターを押して通過しました。


やぎ
まだ雨は止んだわけではないのに、ヤギがいました。まさかあの雨の中も、ここにつながれていたとは思えないのですが。だとすれば、とんでもなく可哀相なことでした。ヤギは、雨が苦手なのです。


雨上がりのヤギ
こちらは放し飼いですから、雨降りの間はどこかに避難していたでしょう。
写真は、平成17年(2005)、52番太山寺へ向かう途中、志津川沿いの道で撮ったものです。


上畦々
上畦々に着きました。
道標には、・・左方向 へんろ道 ひわた峠経由 大宝寺・・とあります。
これに従い、左方向へ上ってゆきます。右の直進する道は、これまで歩いてきた、県道42号(久万-中山線)です。


入口
・・鴇田峠遍路道・・と石柱にあります。
うっかりすると、これから鴇田峠への「峠道」が始まると勘違いしそうですが(実は前回の私たちがそうでした)、そうではありません。
石柱は、この道が鴇田峠遍路道という名の、大洲から44番大宝寺へ向かうルート上にあることを示しています。


山道
とはいえ、この道は「峠道」ではあるのです。下坂場峠に登る、「下坂場峠道」です。
ここを通るのはほとんどお遍路さんですから、「下坂場峠遍路道」とも呼べるでしょうが(実際、グーグルマップは、そう呼んでいます)、紛らわしくなるので、やはり「下坂場峠道」としておきましょう。


下坂場峠
とまれ、峠に着きました。下坂場峠(H570)です。石柱の所が標高410㍍ほどですから、約160㍍ほど高度を上げたことになります。
峠に着いたら、そこには、先ほど分かれた県道42号が合流していました。42号は、登坂力の弱い車両でも登れるように、グネグネ蛇行しながら、ここまでやって来たのです。


県道42号
さて、これより峠を下りますが、歩く道は、ふたたび県道42号です。
しかしこの下り道は、ほとんど蛇行していません。(距離はほぼ同じなのに)高度差が50㍍ほどに減っているからです。


道標
県道42号を下り、久万川の支流・二名川(にみょう川)が造る、谷底平野に降りてきました。
鴇田峠まで2.7キロ、大宝寺まで6.4キロKとあります。現在時刻は12:45。大宝寺参拝は明日のつもりなので、急ぐ必要はまったくありません。


宮成バス停
ここは宮成(みやなる)という集落です。標高520㍍ほどです。
地名の由来は、わかりませんでした。次掲の葛城神社と関係があるのかもしれません。


葛城神社
祭神は、一言主命。まことに興味深い神様です。
雄略天皇を恐れ入らせたという古事記(712)の記述。雄略天皇と仲よく狩りをしたという日本書紀(720)の記述。その雄略天皇によって、土佐に流されたという続日本紀(797)の記述。役行者に法力で縛られているという日本霊異記(822)の記述。一言主命が時代を下るにつれ貶められてゆく様は、何を物語っているのでしょうか。
なお、土佐に流された一言主命が鳴無神社にまず居を定め、次いで土佐神社へ遷る譚などについては→(H27春10)→(H27秋1)をご覧ください。


葛城大師堂
葛城神社の隣、道より4㍍ほど高いところに、葛城大師堂がありました。茶堂風の建て方になっていて、板敷きの間があります。


葛城大師堂
軒下をお借りして、昼食をとりました。宿でお願いしたオニギリです。
集落を眺めわたしながらの食事を楽しみました。


鴇田峠へ
二名川を渡り、森田集落に入り、いよいよ鴇田峠へと向かいます。


案内
  右直進 鴇田峠入口 とあります。
ここから鴇田峠への峠道が始まります。正真正銘の「鴇田峠遍路道」ということでしょうか。


由良野
由良野(ゆらの)地区は、元は、(先ほど通過した)森田集落の入会山であったとのことです。森田地区の人たちのための茅場(屋根を葺くための茅を得る)であったり、薪炭林(薪炭材を得る)であったりしたわけです。
戦後になり、集団入植による開墾が試みられましたが成功せず、今は、・・自然と人の相互依存と共生関係の本来の姿を求めて・・「由良野の森」づくりが進められていると言います。
なお由良野には、縄文草創期の「由良野遺跡」があります。それは今回私が訪ねる予定の、「上黒岩遺跡」と同期の遺跡とのこと。次の機会にでも、訪ねてみたいものです。


道標
  へんろ道 
風情のある道標です。アジサイの、少し盛りが過ぎているのも一興。


一服
  お大師さまと一服
この頃の私には喫煙習慣があったので、むろん、一服も二服もさせていただきました。しかし、この看板、今はもう取り払われているのでは?


休憩所
シャレタ休憩所です。



いよいよ鴇田峠への登りにかかります。


道標
鴇田峠まで0.9キロとあります。



前回、松山さんたちの鈴の音が聞こえてきたのは、この辺だったでしょうか。
人が多いところでは、迷惑かもしれないので鳴らさないようにしているが、山の中では鳴らしていると、そんな話を聞いていたので、きっと彼女たちだろうと思ったのでした。よく届く鈴の音でした。



石畳のためでしょうか、道が川になっています。
すでに靴は浸水しているのですが、かといってザブザブ歩く気にはなれません。しっかりした石の頭を拾いながら、捻挫しないように進みます。こんな時、お杖には助けられます。


道標
この辺では、もう松山さんたちに追いついていたと思います。
・・私たちは久万からバスで松山に帰るので、もう会えないかと思ってました。
・・では、バス乗り場までご一緒し、見送りましょう。
こんな話を交わしたのでした。


Iだんじり岩
この岩は「だんじり岩」と呼ばれているとのことです。側に、次の様な説明がありました。
・・この十畳敷きほどの大きな岩は、その昔弘法大師が四国八十八ヵ所巡錫の時、あまりの空腹と疲労のため、自分の修行の足りなさに腹を立て、この岩の上で「だんじり(じだんだ)」を踏んで我慢されたそうです。その時踏んだ「だんじり」の足跡が残っており、それ以来誰言うとなくこの岩を「だんじり岩」と呼ぶようになったそうです。


鴇田峠
「ひわた峠」です。峠の案内板は「ひわだ」と濁らせていましたが、ここは「協会地図」に従い、「ひわた峠」としておきます。
ところで「ひわた峠」は、なぜ「鴇」という字を当てているのでしょう。「鴇」は、鳥のトキの字です。「ヒワ」の字は「鶸」なのですが。


大宝寺へ
44番大宝寺へ4キロ。もうすぐです。
4人で、列を組んで歩いたのでした。北さん-松山さん-北条さん-私、の順でした。



真念さんは『四国遍路道指南』で、この辺の道を、次の様に案内しています。
・・上たど村、過て三嶋明神、○うすぎ村、大師堂○二明村、爰にかつらき明神、行てはしわたり大師堂。過てひわだ坂、此の峠より久万の町、すがう山見ゆ。大洲領、松山領のさかいなり。・・
「上たど村」は上田渡村、「うすぎ村」は臼杵村、「二明村」は、今は二名村と表記、「かつらぎ明神」は、今は葛城神社です。


久万の街
・・此の峠より久万の町、すがう山見ゆ。
(峠から少し下ってでしたが)確かに見えました。菅生山は判別できませんが、久万の町が一望できました。
・・大洲領、松山領のさかいなり。
かつては藩領の境となっていましたが、今は、内子町と久万高原町の境になっています。


新四国88ヵ所
鴇田峠からの下りは、林道と、林道のヘアピンをショートカットする、山道とから成っています。山道には、久万新四国八十八ヵ所の信仰空間が創られています。


国道33号
降りてきました。とは言え、ここは久万高原町です。高原の名の通り、標高は480㍍ほどあります。
谷底平野の背骨でもあるかのように、国道33号が走っています。旧土佐街道(松山街道)をベースとする道で、高知と松山を最短で結ぶ国道です。
この道を北進すれば、三坂峠を経て松山に入るのですが、むろん私たちはその前に、44番、45番を打たなければなりません。


道標
宿に向かいます。


おもご旅館
16:00 おもご旅館着
44番大宝寺のお参りは、明朝に回します。疲れがたまっていることもありますが、それよりも、明日の予定がゆっくりだからです。
明日の行程は。おおざっぱには、次の様に考えています。
44番大宝寺参拝→バスで上黒岩遺跡へ移動→タクシーで45番岩屋寺へ移動→バスで高野口へ移動→三坂峠の宿へ歩く。


床の間
床の間つきの、立派な部屋で夕食です。泊まり客は私一人。
額の書に為書があるので、・・お宅は森さんなのですか?・・と尋ねてみると、
・・そうなんです。この額は、巖谷小波さんが三代前の当主(初代)に贈ったものなんです。・・とのこと。驚きました。



かつて久万が林業で財をなした頃の話など、いろいろの話をして下さいました。
うかがったお話のいちいちは記せませんが、この旅館の歴史は古く、明治初期は、橋長旅館の名で営業していたと言います。おもご旅館と改めたのは大正期とのことでした。(これらのことは、新聞紙上でも伝えられているので、記すことができます)。
・・「富士の間」という、乃木大将もお泊まりになった部屋がありますが、贅を尽くしたお部屋ですよ。ご覧になりますか?・・


欄間
もちろん、見せていただきました。
6畳と4畳半の続き部屋になっていて、写真は、その境にある欄間「富士山」です。これが部屋の名の興りとなっています。富士に松が見えますが、これはサルスベリの細工物です。
初めは、初代当主の隠居部屋として設えたようですが、やがて乃木大将、巌谷小波など、著名人を泊める部屋として、使われるようになったとのことです。


天井
「支輪(しりん)変わり天井」と呼ばれているそうです。黒い部分が見えますが、「黒柿」です。やや白く盛り上がって見えるのは、サルノコシカケだそうです。その他、桑、欅、屋久杉など、超高級材がふんだんに使われています。因みに黒柿とは、ネットで調べると、・・樹齢数百年、白と黒の美しい模様を持った希少な柿の古木です。 ・・とのこと。


屋久杉
ただ残念なことですが、リライト版を書くために調べてみると、この「おもご旅館」、今は閉店となっていました。

 平成22年(2010)7月15日 雨のち晴 第五日目

天気
今日は上黒岩遺跡の見学日です。この遺跡は貴重な複合遺跡で、縄文草創期(約16000-11500年前)から縄文後期(約4400-3200年前)にかけて、1万年ほどもの間、人が住みつづけていたと考えられています。6年前、北さんと訪ねたいと思いながら果たせず、残念に思っていたのでした。
7:00 ゆっくりと朝食し、荷物は宿に預けて大宝寺に参拝します。
9:00過ぎのバスで、遺跡に向かいます。
今日も良い天気とは言えないようですが、上黒岩遺跡から45番岩屋寺へはタクシー。岩屋寺から宿のある久万へは、再びバスを使います。まず問題はないでしょう。


大宝寺へ
手前を久万川が流れています。架かる橋は、総門橋。その奧に見える門が、大宝寺の「総門」です。
小学生の黄傘が咲いています、いいアクセントになってくれました。


ふり返って
久万川方向をふり返って撮りました。
道が軽い下りになっています。


勅使門
勅使橋というそうです。
勅使とは、後白河天皇がご病気平癒祈願に際し、遣わされた勅使です。より詳しくは、→(H16春6) →(H28秋4)をご覧ください。


下乗
ここからはどなたも、たとえ勅使といえども、ご自分の足で歩かねばなりません。


山門
44番は88ヵ所のちょうど真ん中。中札所というそうです。どなたもが此所に来て、結願までの残る日数を計算してみることでしょう。
平成16年(2004)春、私も北さんと当寺に参り、目算してみました。ただし、神ならぬ身の知るよしもなし。その時のデータに「平成17年椎間板ヘルニア手術」は、織り込まれていませんでした。


山門 
さて、これより山門を潜り、本堂、大師堂とお参りを済ませまたのでしたが、なぜでしょうか、その部分の写真がないのです。「椎間板ヘルニア」が平癒したことを感謝し、今回の遍路の安全をお祈りしたのは確かなのですが。
というわけで、やむをえません。お寺の由来などについても、こちらをご覧ください。→(H16春6) →(H28秋4)


バス
お久万大師の隣の、伊予鉄久万営業所で乗車。上黒岩遺跡に向かいます。
写真の行き先表示には、主要停留所しか記されていませんが、「上黒岩遺跡前」という停留所もあります。「御三戸(みみど)」(後述)の三つ手前の停留所です。
なお「伊予落合」は、国道33号に国道380号が落ち合う?地点です。33号は松山から南進し、久万の谷底平野を貫いた後、久万川の流れと共に東へ向きを変えます。その転進点へ、東進してきた380号が合流。380号は33号に役目を譲って、ここで終点となります。


上黒岩遺跡前
到着です。
(現時点でのことは分かりませんが)当時は、JR四国バスと伊予鉄南予バスの二社が、この路線を運行していました。


案内地図
「岩陰文化の里」として、地域の活性化を図ろうとしているようでした。
「岩陰文化」の名は、上黒岩遺跡が「岩陰遺跡」(後述)であることから来ているのでしょう。
「山中家住宅」が記されていますが、これは、宇摩郡別子山村(現・新居浜市)から移築したものだと聞きました。国の重文指定を受けています。


久万川
 ♫川は流れーて どこどこゆくのー  
この水、流れ流れて、土佐湾の太平洋に注ぐのだそうです。
35番清滝寺の辺りで見た、あの清流・仁淀川に、この久万川の水がブレンドされていたなんて、思ってもみないことでした。


久万川
久万川から先、太平洋までの流れは、次の様です。
・・この先(先述の)御三戸で、久万川は面河川に合流し、
・・面河川は、愛媛と高知の県境・柳谷(やなだに)を経て、高知県に入ります。
・・高知県に入った面河川は、仁淀川と名前を変えて東進。
・・伊野町で南に転じて、土佐湾に注ぎます。私たちは、この南進する仁淀川を渡り、清瀧寺に向かったのでした。


旧山中家住宅
四国地方山間部に見られた、典型的な住宅とのことです。建築は、18世紀中期から末期と推定されています。


山中家
茅葺きの分厚さに驚きます。


山中家 
きれいな入母屋です。


岩陰遺跡
上黒岩遺跡は、高さ約20mの石灰岩の断崖を背に、西南に開いた岩陰遺跡です。
「岩陰遺跡」とはニッポニカによると、・・まっすぐに切り立った断崖直下のわずかな広さのくぼみを、天然の住居として利用した古代遺跡・・を言います。そのくぼみの奥行きが深くなると、「岩陰」ではなく、「洞窟遺跡」と呼ぶようですが、上黒岩は、そこまでは深くないのです。


岩陰遺跡
『えひめの記憶』は、この遺跡発見時のことを、次の様に記しています。
 「これは、どうも社会科で習った古い土器のかけららしいよ」
(美川)中央中学校二年生(1年とも)の竹口義照はそう思った。父の渉が自宅左隣の岩陰で田なおしの土をとっていると、おびただしい「川ニナ」にまじって、土器のかけら・動物の骨などが出てきた。昭和三六年の春まだ浅い頃のことである。
義照から学校へ、報告を受けた美川村教委から県教育委員会へ。その依頼を受けた愛大文理学部西田栄教授が来村し、調査の結果、貴重な繩文遺跡であることが確認されたのが、昭和三六年六月四日のことであった。


上黒岩考古館
標高397Mのこの辺には、高地の故でしょう、クリ、ナラ、クヌギ、トチなど、東日本に卓越する落葉広葉樹が野生しており、その若芽や実を好むイノシシ、シカ、ウサギ、ツキノワグマ、それらを捕食するニホンオオカミが棲んでいたと言います。
人間は、これらを採取、捕食して暮らしていたわけですが、補食した動物は、発掘された骨の鑑定から、イノシシ、ニホンジカ、カモシカ、ウサギ、ツキノワグマ、ニホンオオカミ、カワウソ、カワニナなどであったそうです。


ニッポンイヌ
しかし犬は、肉食の対象ではなく、トモダチであったようです。
家犬として飼われていたらしく、この犬は、人と共に埋葬されていたと言います。


発掘当時
(考えるところあり、写真は掲載しませんが)発掘された成人女性の全身骨が、展示されていました。20体ほど出土したうちの、一体だといいます。
身長147センチとのこと。けっして低い方ではなかったろう、と考えられています。なお男性の平均身長は、これにプラス10センチ位であったろう、と推定されています。
人骨がこれほど損傷が少ない状態で残ることができたのは、場所が南面した傾斜地で乾燥していたこと、カルストの石灰分が土壌を中和し、そのため骨のカルシウム分が溶け出すことがなかったこと、などが考えられるそうです。そういえばこの遺跡、四国カルースト台地(石灰岩台地)の西端に位置するのでした。

 
線刻礫(石偶)
次のような説明がされていました。
・・石にいくつもの線を刻み、長い髪や腰蓑(?)乳房などを表現しています。この石は女性を表現したものと考えられており、「女神石」とも呼ばれています。
・・用途については不明な点もありますが、子どもを産むことができる女性の特質や生命力を信仰の対象として、狩猟や採集といった自然の恵み子どもの誕生ないしは安産を願う祭祀の道具として使っていたとする説などが考えられています。
・・近年では、ユーラシア大陸の旧石器時代のヴィーナスとの比較研究が行われ、関連性が指摘されています。


殺傷人骨
(これも写真は掲載しませんが)へら状骨器が刺さった腰骨が展示されています。
一時は「最古の殺傷人骨」として注目された人骨ですが、その後の研究から、次の様なことが判明しているとのことです。
・・この腰骨は女性のものであり、(へら状骨器は)死亡の直前、或いは死後に刺されたものであることが、判明しました。それは何らかの病気で亡くなった女性への、儀礼行為として行われ、死亡の原因となった悪霊?を取り除くためであったのではと推測されます。



遺跡見学を終えた頃、晴れ間が見えてきました。久しぶりの晴れ間です。
ここから岩屋寺まで、バスの路線はありすが、適当な便はありません。仕方なく(というより、そのつもりだったのですが)、タクシーを呼んでもらいました。来てくれたタクシーは、(先述の)高知との県境・柳谷のタクシーでした。

さて、ご覧いただきまして、ありがとうございました。
次号は岩屋寺から、できれば三坂峠を越えた辺りまで、ご覧いただこうと考えています。更新は9月4日を予定しています。
もはや地球温暖化ならぬ沸騰化が、連日の猛暑、天候不順をもたらしています。皆さま、くれぐれも体調管理にお気をつけられ、過ごされますように。

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