注意:本記事は伊藤計劃「虐殺器官」「ハーモニー」、神林長平「いま集合的無意識を、」のネタバレを含みます。感情についての考察、あるいは同作品読書後の考察のお共に。
なかなか更新できずに申し訳ありません。私は元気で書く意欲もまだまだありますので、今後とも本ブログをよろしくお願いいたします。
さて、感情について、と題しました。前置きとして、なぜ今これを書くかということについて、少々導入を。
小学生の頃から親に言われていた事に「理性と本能は相克するもの」というものがありました。本能に負けてはいけない。本能に負けては動物と同じだ。やりたいことでも理性で我慢するのが人間だ、と。
そして伊藤計劃を読み、人間が進化の過程で獲得した「器官」としての言語能力的な虐殺誘因の概念を得て、意識が人間の行動上及ぼす作用を考え、神林長平氏のそれに対する舌鋒鋭い批判を読み、その上で冒頭の「理性と本能」が本当に相克すべきものなのか、原理的にそうなっているのか、という事を今さらになって再検討していて、ようやく上記の作品上で展開された議論について身体的な理解を経たように感じたので、形にしておこう、というのが今回の動機になります。どうぞお付き合いください。
考えの取っ掛かりとしては、「感情はおよそ論理的に行動することに対し害悪となりうるのだろうか」、という事を挙げたい。
例えば、私はラーメンが好きです(唐突)。そして、最近腹周りを気にしたりしているため、ダイエットを心がけています。
ここで問題。私がダイエットを完遂するにあたり、ラーメンは食べるべき食品でしょうか、控えるべき食品でしょうか。
至極論理的な帰結として、食べない方がいいに決まっています。しかし、私は今でもラーメンを食べている。回数は減らしましたが。好きだから、食べたいから、ラーメンを食べる。自分へのご褒美に替え玉をしたりなんかする。腹が出たから健康のために塩分油分が多い食品は控えるべき、という論理的帰結を、食べたいという欲求が、食べた後に感じる満足感が、いともたやすく覆す訳です。つまり、好きなものを食べるときに感じる幸福な「感情」が「論理」的な行動を阻害する。
もっと感情の悪い面を考えてみましょう。対人関係などで非常に腹が立った時。後のことを考えると止しておけばいいような事を、その場の感情に任せてやってしまう時について。煽りが過ぎた研究室の同回生の胸倉をつかむ、輪講でボスの追及に逆切れするなど。冷静になってみれば、論理的になってみれば、これらの行動ははっきり言って破滅的に役に立たない。同回生に腹が立ったなら直接言うか、第三者を介して解決に動くべきでしょうし、輪講でボスに追及を受けたら粛々と受けて勉強し直すべきでしょうし、その際にあまりにハラスメント事案に該当するようなら教務課に行けばいい。よほどのリターンが無い限り、その場で感情を爆発させることに意義は無い。仮に「感情」なるものを意識から完全に分離できるとして、感情がもしなければ、残った論理的な判断思考から上記のような例で適切な対処法が取れる事でしょう。
また、我々の生活上における苦しみは感情に起因している場合が多いようにも感じます。例えば、満員電車。大学に行く最短ルート、かつ1限に間に合うように、ということで私も満員のJRと満員の御堂筋線にのって通学していますが、場合によっては非常にしんどく辛い2時間を過ごす羽目になります。朝から。まだ一日は始まっていないうちから。これも感情が無ければ、人口密度が高い、などと感想を抱くことはあれど、まさに無感情に2時間電車に揺られることが可能でしょう。論理的に考えてこのルートが最短で通学コストが低いから、満員電車に乗るべきだ、という論理的思考のままに。感情さえなければ不快感を覚えることはあるまい。やっぱり感情は害悪なのだろうか。
ではなぜ感情なんてものがあるのでしょうか。段階的に考えていきましょう。
先ほどラーメンを例に取りましたが、食物を摂取してから時間がたつと腹が空きます。胃の内容物が腸に送られ、栄養を絞られ、カスとなって出口へ向かっていく。物理的に腹が空く。当然、生物は食物を摂取しないと死んでしまうので、生物は食物を摂取するように働きかけられます。どのように?食欲を感じることで。正確に言えば、物を食べる際に感じる快感をちらつかせられることで。生物の体から考えた時、食欲を欲求、と考えるのは少し違うような気がします。何故なら、体からしたら「必要」な訳ですから。体を操縦している主体を動かすために、脳内物質を調整し、必要な行動に対する好感度を操作する。そしてある程度必要が満たされれば、満腹中枢が働き、ちゃんとブレーキを踏む。よくできているが、余計なお世話です。そんな機能があるせいで、我々は実験や作業で食事時を逃して2時とか3時とかになってしまったとき、腹が空いているはずだがなんだか食欲がない、という謎の理由で食事を見送ったりしてしまう訳です。体からしたら大誤算でしょうが、論理的な行動の方にも言い分がある。うるせぇ、今作業中断したらまずいから飯食ってる暇なんざねぇんだ。そして作業が一段落した時、自由に食事にできたらどれほど良い事でしょう。やっぱり感情は害悪じゃないか。
もっと行きましょう。どんどん行きましょう。お次は睡眠です。食欲、性欲と並ぶ、欲求の王道です。少し論旨とずれるやもですが、気にしない。
睡眠欲求と言いますか、眠いという状態が邪魔で仕方がない。睡眠時間を生活に合わせて自在にコントロール出来たらどんなにいいことか。寝るべきタイミングで寝て、起きるべきタイミングで起きる。そして睡魔に身を任せるときのあの甘い絶望に満ちた快楽よ。あの抗いようのなさは何なのでしょう。
ここで想定しているのは、感情とは欲求(身体的必要性)を根源とする本能的な仕組みである、という構造です。私は主に食欲からこの構想を得ましたが、快不快の感情を操る報酬系としての生得的な、本能を考えたい。
と、すると。理性とは、論理的思考(厳密的に言えば推論能力の方が重要かもしれないが)と経験から組み立てられるもの、つまり我々が幼少時から繰り返してきた無数のトライ&エラーを経て形成されるものと考えられましょう。ならば、本能的な、曖昧で我々意識の検証を受け付けないプリセット価値判断としての感情はいらないのではないか。我々には(ある程度経験を積みカシコクなった成人には)現状にカスタマイズされた理性があるのだから!
が、私はここで本能の意義について考えてみたいと思うのです。興味深い事例として、5歳以下の幼児を集めて、多種多様な食べ物を自由に食べさせて栄養のバランスは取れるのか、という幼児の偏食を調べる実験があります。(というか、聞いただけでこの際調べてみましたが実施国、時期など不明。よもや都市伝説ではないと思うが……)
この実験において、結局幼児らは体に必要なものをきちんとバランスよく摂取できていたとのこと。翻って、経験を積んでカシコイ筈の我々に同じ芸当はできるでしょうか。論理的な積み上げだけで、日々のバランスの良い食事を実現できるでしょうか。私には、どうも難しいように思われる。
この説明で首を傾げられる方にはもう少し。つまり、古き良き人工知能、つまり自立学習をしないタイプでデータベース型の推論を行うようなもの、に対して条件文を書いて書いて書いて、結果日々のバランスの良い食材を選択させることは容易なことだろうか、という問いに当たります。
勿論、先ほど上げた実験の中で赤さんシェフの作り上げたメニューは、体重や年齢から決定されうる最善解ではないでしょう。g単位で何かしらを測定したわけでもない。好きなように食べているだけなのだから。
でも、ベターな内容になっていたのなら、感情は人間の、いや生命のお得意な、最善解ではないかもしれないが、大体これで解決できる筈、という類の仕組みとして進化の過程で我々が獲得したものなのではないかと思われるのです。そして、恐らくただ生きるだけなら、この感情に任せた行動というのはそれなりに優秀なのは間違いないでしょう。むしろ人間の行動の方が本能的な解決策を邪魔しているのかもしれない。
脳の活動や心臓のエネルギー源として重要なのに自然界に希少な糖分を摂取するために我々は糖分を好むのに、それが嗜好品として出回ったために肥満が生じた。暗くなって来たら眠くなるようにして脳や体の一定期間での休息を予定していたら、電灯の下で画面をにらみながらいつまでもカタカタブログの記事を書いていたりしたと思ったら翌朝お日様の下で眠いとか言い出す。どうなってるんでぃ、おいおい、と言いたいのかもしれない。
つまり、感情とは理性が構築され行動原理が整理されるまでの単なるプリセットではなく、一から論理的思考で判断するには複雑すぎる対象に対して、おおまかな解決策を包括的に導く仕組みなのだとしたらどうか。
感情と理性が相克する時、いつでも理性が正しいと言えるのだろうか。それでも、もう一度反転させます。本能的な解決策より、より良い解決策を技術的に導けるとしたら、どうなんだろうか。
ここで私が否応なく想起させられるのは人工知能の存在です。先ほどもすでに言及しているけれど。
食物の栄養バランスについて、では論理的帰結として最善解が求められるようになったとしたらどうでしょう。人間の体の仕組みが解明されて、必要な栄養素が明らかにされて、各種の食べ物が含むそれらの量のデータが整理されて。最善とは言わずとも、経験的に本能的な判断より良いものが出来れば本能は用済みになるでしょう。更には、こうした問題を学習した人工知能が完成して最善解を提示してきた場合にも。
将棋などの問題について、恐ろしい事に、棋士の先生方は局面を読んでも全ての合法手を読むわけではないと言います。大体3つの手が経験的に浮かぶのだとか。本筋の手、第二候補の手、そして常識外れな手、のような内訳の様です。そして、これらの精度はかなり高い。人間のだいたいの解決能力、というと失礼かもしれませんが、全てをその場で一から構築しなくても(経験的にではもちろんあるのですが、進化の過程の獲得に対応して)ある種の本能として良い手を指せるという能力です。そして、局面を評価するわけです。が、当然ミスもある。読み逃しが存在することもある。そこで読める限りの手を読み、学習の結果局面の評価を人間より正確に行う人工知能があったとしたら、まず人間には勝てないでしょう。発想経験の問題ではなく、その場で読んでしまうのだから。
結論として、人間が感情を捨てることは(分離可能という仮定の上でではあるが)、本能的な問題解決能力より優れた論理的解決能力の導入によって可能になるだろう、と私は考えます。
つまり、日常の煩雑時に対処する際は無感情に理性で以て論理でもって行動し、それで対処できない複雑な問題に対しては(というよりも本能的に対処した方が早い問題に対しては)、経験でもいいしより精度の良い論理的知性体の助言でも良いのですが、それらの言うとおりに行動することで適切な行動をとることができるでしょう。
具体的に言えば、足の小指を角にぶつけて、いってー、と飛び上がって患部を抑えて、痛みに涙しながら氷を求めて冷蔵庫に走る、というような行動が、足の小指を角にぶつけて痛みを感じ、患部をスキャンした端末が表示する対応(もちろん事前にデータベースに登録された箪笥の角に小指をぶつけた何千何万の症例を基にした正確無比で症状ごとに異なった詳しい指示)を、叫ぶことも涙することも無く実行するように出来るでしょう。そして、どうやらこのような、本能的行動の放棄と論理的行動の外注化こそが、伊藤計劃のハーモニーの行く末にある物なのではないか、と私は考える。
ここまで考えて、初めて神林長平の以下の文章が身に迫って来る。以下引用。いま集合的無意識を、p211より
「そうだ。『ハーモニー』で伊藤計劃が考えていた<意識>というのは、定義が曖昧だ。よくわからないというのが率直な感想だった。あそこでの<意識>は、むしろ<感情>というほうがわかりやすい。あるいは<自由意思>とかね。それはたしかに意識から生じるにしても、彼は、意識というものがヒトにとってどのように作用し、なにを生んでいるかを掴み損ねていたようだ」
(引用終わり)
意識というものは、我々の体が観測した各種情報を編集したビデオムービー、という程度にしか考えていないので、私としても上の文に続く意識論に共感するところなのですが、神林長平の挙げた感情と自由意思の二つについては圧倒的に前者が適切だと思う。もし伊藤計劃が意図した「意識消失」が本能的行動からの解放を示すのならば、残った論理的思考と外注された思考の統合としての「意識」(そう、私はハーモニーにおける意識消失の後にも人は自らを認識できると考えている)は何かに縛られるわけではないでしょう。神林氏は、論理的に最善と思われるその時々の行動を必ず取るのでは、という束縛が見えたのかもしれない。ですが、本能的好みを放棄したとしても、お昼ご飯にカロリーメイトのフルーツ味を食べるかメープル味を食べるか、どっちでも構わない状況は発生しうると私は思うのです。
テクノロジーによる判断の外注化とそれにともなう感情の放棄は可能である、という持論に立脚し、最後にその先に待つものは何か、という事を考えて終わりにします。
これは、将棋ソフトとプロ棋士の関係性を見た時に言えるのですが、思考の外注先の正当性は誰が検証するのだろう、という問題として提起されうるでしょう。本能的、すなわち進化論的に成立した正当性を否定し。理性的、すなわち経験的に積み重なった論理的正当性を超えたところに存在し。人間ではないものが提示してきた「論理的帰結」を目にした時、それを受け入れるべきか否かはどのように判断されるのでしょう。
いや、そんな高尚な問題に留めておけるだろうか。人間が判断そのものを放棄し、低きに流れる水のごとく人工知能や人間以外の知性が示す判断を、思考の外注として無条件に採用、適応範囲を拡大させたとき、人間の思考内容はどんどん狭くなっていくでしょう。もはや人類は主体的に生きることが出来なくなるでしょう。
それでも希望はあります。将棋も囲碁も、私がプロの先生方を尊敬するのは、ソフトという人間を超えた読みと大局観を持つ存在が示す「思考」を解析し取り入れるべきか否か判断されることです。それどころか、コンピューター発の戦法、大局観が確実に人間側の多様性につながっている。いつか棋力に圧倒的な差がついても、手の意味の追求が不可能になることは無いのではないか。
この「前例」をもってすれば、我々が困難に対し思考を積み上げ続けることで、我々を超える知性の「思考」と対峙することは出来るはずだ、という希望を私は抱いています。
例え、その先に種としての繁栄を次世代の知性体たちに譲ることになったとしても、人類はそれなりにアクティブな老後を過ごせるのではないでしょうか。人工知能に人類を愛する機能を付けておかないと抹殺される、旨の論を聞いたことがありますが、そんなことは無いでしょう。人類の存在が、彼らの思考の検証手段として機能する限り、我々は有用の筈です。(間引きされるかもしれませんが。手心加えてもらえるようにやっぱり、人類を愛してもらうように条件づけた方がいいかもしれない)
まとめます。
感情は時に論理的行動にとって害悪なものであっても、人類が進化の過程で獲得したそれなりの確度を持つ包括的な問題解決能力である本能から生じる物であり、本能は論理的推論だけでは対応が難しい状況の判断に役立つ場合がある。そして、それが問題解決能力として運用される以上、経験的に、技術的に代替することは可能であり、本能的な行動が放棄され思考を外注することで、感情を無に帰して我々は理性的に生活することができる。
しかし、その際に人間の論理的思考では解決できない問題の解決方法の考案を人間より優れた知性に外注する時、その検証作業と受け入れの是非の判断を怠っては、人類は急速に思考することを放棄して主体的に生きることが出来なくなってしまうだろう。
以上、感情を無に帰す可能性についてのお話でした。長文になりましたが、お読みいただきありがとうございました。
なかなか更新できずに申し訳ありません。私は元気で書く意欲もまだまだありますので、今後とも本ブログをよろしくお願いいたします。
さて、感情について、と題しました。前置きとして、なぜ今これを書くかということについて、少々導入を。
小学生の頃から親に言われていた事に「理性と本能は相克するもの」というものがありました。本能に負けてはいけない。本能に負けては動物と同じだ。やりたいことでも理性で我慢するのが人間だ、と。
そして伊藤計劃を読み、人間が進化の過程で獲得した「器官」としての言語能力的な虐殺誘因の概念を得て、意識が人間の行動上及ぼす作用を考え、神林長平氏のそれに対する舌鋒鋭い批判を読み、その上で冒頭の「理性と本能」が本当に相克すべきものなのか、原理的にそうなっているのか、という事を今さらになって再検討していて、ようやく上記の作品上で展開された議論について身体的な理解を経たように感じたので、形にしておこう、というのが今回の動機になります。どうぞお付き合いください。
考えの取っ掛かりとしては、「感情はおよそ論理的に行動することに対し害悪となりうるのだろうか」、という事を挙げたい。
例えば、私はラーメンが好きです(唐突)。そして、最近腹周りを気にしたりしているため、ダイエットを心がけています。
ここで問題。私がダイエットを完遂するにあたり、ラーメンは食べるべき食品でしょうか、控えるべき食品でしょうか。
至極論理的な帰結として、食べない方がいいに決まっています。しかし、私は今でもラーメンを食べている。回数は減らしましたが。好きだから、食べたいから、ラーメンを食べる。自分へのご褒美に替え玉をしたりなんかする。腹が出たから健康のために塩分油分が多い食品は控えるべき、という論理的帰結を、食べたいという欲求が、食べた後に感じる満足感が、いともたやすく覆す訳です。つまり、好きなものを食べるときに感じる幸福な「感情」が「論理」的な行動を阻害する。
もっと感情の悪い面を考えてみましょう。対人関係などで非常に腹が立った時。後のことを考えると止しておけばいいような事を、その場の感情に任せてやってしまう時について。煽りが過ぎた研究室の同回生の胸倉をつかむ、輪講でボスの追及に逆切れするなど。冷静になってみれば、論理的になってみれば、これらの行動ははっきり言って破滅的に役に立たない。同回生に腹が立ったなら直接言うか、第三者を介して解決に動くべきでしょうし、輪講でボスに追及を受けたら粛々と受けて勉強し直すべきでしょうし、その際にあまりにハラスメント事案に該当するようなら教務課に行けばいい。よほどのリターンが無い限り、その場で感情を爆発させることに意義は無い。仮に「感情」なるものを意識から完全に分離できるとして、感情がもしなければ、残った論理的な判断思考から上記のような例で適切な対処法が取れる事でしょう。
また、我々の生活上における苦しみは感情に起因している場合が多いようにも感じます。例えば、満員電車。大学に行く最短ルート、かつ1限に間に合うように、ということで私も満員のJRと満員の御堂筋線にのって通学していますが、場合によっては非常にしんどく辛い2時間を過ごす羽目になります。朝から。まだ一日は始まっていないうちから。これも感情が無ければ、人口密度が高い、などと感想を抱くことはあれど、まさに無感情に2時間電車に揺られることが可能でしょう。論理的に考えてこのルートが最短で通学コストが低いから、満員電車に乗るべきだ、という論理的思考のままに。感情さえなければ不快感を覚えることはあるまい。やっぱり感情は害悪なのだろうか。
ではなぜ感情なんてものがあるのでしょうか。段階的に考えていきましょう。
先ほどラーメンを例に取りましたが、食物を摂取してから時間がたつと腹が空きます。胃の内容物が腸に送られ、栄養を絞られ、カスとなって出口へ向かっていく。物理的に腹が空く。当然、生物は食物を摂取しないと死んでしまうので、生物は食物を摂取するように働きかけられます。どのように?食欲を感じることで。正確に言えば、物を食べる際に感じる快感をちらつかせられることで。生物の体から考えた時、食欲を欲求、と考えるのは少し違うような気がします。何故なら、体からしたら「必要」な訳ですから。体を操縦している主体を動かすために、脳内物質を調整し、必要な行動に対する好感度を操作する。そしてある程度必要が満たされれば、満腹中枢が働き、ちゃんとブレーキを踏む。よくできているが、余計なお世話です。そんな機能があるせいで、我々は実験や作業で食事時を逃して2時とか3時とかになってしまったとき、腹が空いているはずだがなんだか食欲がない、という謎の理由で食事を見送ったりしてしまう訳です。体からしたら大誤算でしょうが、論理的な行動の方にも言い分がある。うるせぇ、今作業中断したらまずいから飯食ってる暇なんざねぇんだ。そして作業が一段落した時、自由に食事にできたらどれほど良い事でしょう。やっぱり感情は害悪じゃないか。
もっと行きましょう。どんどん行きましょう。お次は睡眠です。食欲、性欲と並ぶ、欲求の王道です。少し論旨とずれるやもですが、気にしない。
睡眠欲求と言いますか、眠いという状態が邪魔で仕方がない。睡眠時間を生活に合わせて自在にコントロール出来たらどんなにいいことか。寝るべきタイミングで寝て、起きるべきタイミングで起きる。そして睡魔に身を任せるときのあの甘い絶望に満ちた快楽よ。あの抗いようのなさは何なのでしょう。
ここで想定しているのは、感情とは欲求(身体的必要性)を根源とする本能的な仕組みである、という構造です。私は主に食欲からこの構想を得ましたが、快不快の感情を操る報酬系としての生得的な、本能を考えたい。
と、すると。理性とは、論理的思考(厳密的に言えば推論能力の方が重要かもしれないが)と経験から組み立てられるもの、つまり我々が幼少時から繰り返してきた無数のトライ&エラーを経て形成されるものと考えられましょう。ならば、本能的な、曖昧で我々意識の検証を受け付けないプリセット価値判断としての感情はいらないのではないか。我々には(ある程度経験を積みカシコクなった成人には)現状にカスタマイズされた理性があるのだから!
が、私はここで本能の意義について考えてみたいと思うのです。興味深い事例として、5歳以下の幼児を集めて、多種多様な食べ物を自由に食べさせて栄養のバランスは取れるのか、という幼児の偏食を調べる実験があります。(というか、聞いただけでこの際調べてみましたが実施国、時期など不明。よもや都市伝説ではないと思うが……)
この実験において、結局幼児らは体に必要なものをきちんとバランスよく摂取できていたとのこと。翻って、経験を積んでカシコイ筈の我々に同じ芸当はできるでしょうか。論理的な積み上げだけで、日々のバランスの良い食事を実現できるでしょうか。私には、どうも難しいように思われる。
この説明で首を傾げられる方にはもう少し。つまり、古き良き人工知能、つまり自立学習をしないタイプでデータベース型の推論を行うようなもの、に対して条件文を書いて書いて書いて、結果日々のバランスの良い食材を選択させることは容易なことだろうか、という問いに当たります。
勿論、先ほど上げた実験の中で赤さんシェフの作り上げたメニューは、体重や年齢から決定されうる最善解ではないでしょう。g単位で何かしらを測定したわけでもない。好きなように食べているだけなのだから。
でも、ベターな内容になっていたのなら、感情は人間の、いや生命のお得意な、最善解ではないかもしれないが、大体これで解決できる筈、という類の仕組みとして進化の過程で我々が獲得したものなのではないかと思われるのです。そして、恐らくただ生きるだけなら、この感情に任せた行動というのはそれなりに優秀なのは間違いないでしょう。むしろ人間の行動の方が本能的な解決策を邪魔しているのかもしれない。
脳の活動や心臓のエネルギー源として重要なのに自然界に希少な糖分を摂取するために我々は糖分を好むのに、それが嗜好品として出回ったために肥満が生じた。暗くなって来たら眠くなるようにして脳や体の一定期間での休息を予定していたら、電灯の下で画面をにらみながらいつまでもカタカタブログの記事を書いていたりしたと思ったら翌朝お日様の下で眠いとか言い出す。どうなってるんでぃ、おいおい、と言いたいのかもしれない。
つまり、感情とは理性が構築され行動原理が整理されるまでの単なるプリセットではなく、一から論理的思考で判断するには複雑すぎる対象に対して、おおまかな解決策を包括的に導く仕組みなのだとしたらどうか。
感情と理性が相克する時、いつでも理性が正しいと言えるのだろうか。それでも、もう一度反転させます。本能的な解決策より、より良い解決策を技術的に導けるとしたら、どうなんだろうか。
ここで私が否応なく想起させられるのは人工知能の存在です。先ほどもすでに言及しているけれど。
食物の栄養バランスについて、では論理的帰結として最善解が求められるようになったとしたらどうでしょう。人間の体の仕組みが解明されて、必要な栄養素が明らかにされて、各種の食べ物が含むそれらの量のデータが整理されて。最善とは言わずとも、経験的に本能的な判断より良いものが出来れば本能は用済みになるでしょう。更には、こうした問題を学習した人工知能が完成して最善解を提示してきた場合にも。
将棋などの問題について、恐ろしい事に、棋士の先生方は局面を読んでも全ての合法手を読むわけではないと言います。大体3つの手が経験的に浮かぶのだとか。本筋の手、第二候補の手、そして常識外れな手、のような内訳の様です。そして、これらの精度はかなり高い。人間のだいたいの解決能力、というと失礼かもしれませんが、全てをその場で一から構築しなくても(経験的にではもちろんあるのですが、進化の過程の獲得に対応して)ある種の本能として良い手を指せるという能力です。そして、局面を評価するわけです。が、当然ミスもある。読み逃しが存在することもある。そこで読める限りの手を読み、学習の結果局面の評価を人間より正確に行う人工知能があったとしたら、まず人間には勝てないでしょう。発想経験の問題ではなく、その場で読んでしまうのだから。
結論として、人間が感情を捨てることは(分離可能という仮定の上でではあるが)、本能的な問題解決能力より優れた論理的解決能力の導入によって可能になるだろう、と私は考えます。
つまり、日常の煩雑時に対処する際は無感情に理性で以て論理でもって行動し、それで対処できない複雑な問題に対しては(というよりも本能的に対処した方が早い問題に対しては)、経験でもいいしより精度の良い論理的知性体の助言でも良いのですが、それらの言うとおりに行動することで適切な行動をとることができるでしょう。
具体的に言えば、足の小指を角にぶつけて、いってー、と飛び上がって患部を抑えて、痛みに涙しながら氷を求めて冷蔵庫に走る、というような行動が、足の小指を角にぶつけて痛みを感じ、患部をスキャンした端末が表示する対応(もちろん事前にデータベースに登録された箪笥の角に小指をぶつけた何千何万の症例を基にした正確無比で症状ごとに異なった詳しい指示)を、叫ぶことも涙することも無く実行するように出来るでしょう。そして、どうやらこのような、本能的行動の放棄と論理的行動の外注化こそが、伊藤計劃のハーモニーの行く末にある物なのではないか、と私は考える。
ここまで考えて、初めて神林長平の以下の文章が身に迫って来る。以下引用。いま集合的無意識を、p211より
「そうだ。『ハーモニー』で伊藤計劃が考えていた<意識>というのは、定義が曖昧だ。よくわからないというのが率直な感想だった。あそこでの<意識>は、むしろ<感情>というほうがわかりやすい。あるいは<自由意思>とかね。それはたしかに意識から生じるにしても、彼は、意識というものがヒトにとってどのように作用し、なにを生んでいるかを掴み損ねていたようだ」
(引用終わり)
意識というものは、我々の体が観測した各種情報を編集したビデオムービー、という程度にしか考えていないので、私としても上の文に続く意識論に共感するところなのですが、神林長平の挙げた感情と自由意思の二つについては圧倒的に前者が適切だと思う。もし伊藤計劃が意図した「意識消失」が本能的行動からの解放を示すのならば、残った論理的思考と外注された思考の統合としての「意識」(そう、私はハーモニーにおける意識消失の後にも人は自らを認識できると考えている)は何かに縛られるわけではないでしょう。神林氏は、論理的に最善と思われるその時々の行動を必ず取るのでは、という束縛が見えたのかもしれない。ですが、本能的好みを放棄したとしても、お昼ご飯にカロリーメイトのフルーツ味を食べるかメープル味を食べるか、どっちでも構わない状況は発生しうると私は思うのです。
テクノロジーによる判断の外注化とそれにともなう感情の放棄は可能である、という持論に立脚し、最後にその先に待つものは何か、という事を考えて終わりにします。
これは、将棋ソフトとプロ棋士の関係性を見た時に言えるのですが、思考の外注先の正当性は誰が検証するのだろう、という問題として提起されうるでしょう。本能的、すなわち進化論的に成立した正当性を否定し。理性的、すなわち経験的に積み重なった論理的正当性を超えたところに存在し。人間ではないものが提示してきた「論理的帰結」を目にした時、それを受け入れるべきか否かはどのように判断されるのでしょう。
いや、そんな高尚な問題に留めておけるだろうか。人間が判断そのものを放棄し、低きに流れる水のごとく人工知能や人間以外の知性が示す判断を、思考の外注として無条件に採用、適応範囲を拡大させたとき、人間の思考内容はどんどん狭くなっていくでしょう。もはや人類は主体的に生きることが出来なくなるでしょう。
それでも希望はあります。将棋も囲碁も、私がプロの先生方を尊敬するのは、ソフトという人間を超えた読みと大局観を持つ存在が示す「思考」を解析し取り入れるべきか否か判断されることです。それどころか、コンピューター発の戦法、大局観が確実に人間側の多様性につながっている。いつか棋力に圧倒的な差がついても、手の意味の追求が不可能になることは無いのではないか。
この「前例」をもってすれば、我々が困難に対し思考を積み上げ続けることで、我々を超える知性の「思考」と対峙することは出来るはずだ、という希望を私は抱いています。
例え、その先に種としての繁栄を次世代の知性体たちに譲ることになったとしても、人類はそれなりにアクティブな老後を過ごせるのではないでしょうか。人工知能に人類を愛する機能を付けておかないと抹殺される、旨の論を聞いたことがありますが、そんなことは無いでしょう。人類の存在が、彼らの思考の検証手段として機能する限り、我々は有用の筈です。(間引きされるかもしれませんが。手心加えてもらえるようにやっぱり、人類を愛してもらうように条件づけた方がいいかもしれない)
まとめます。
感情は時に論理的行動にとって害悪なものであっても、人類が進化の過程で獲得したそれなりの確度を持つ包括的な問題解決能力である本能から生じる物であり、本能は論理的推論だけでは対応が難しい状況の判断に役立つ場合がある。そして、それが問題解決能力として運用される以上、経験的に、技術的に代替することは可能であり、本能的な行動が放棄され思考を外注することで、感情を無に帰して我々は理性的に生活することができる。
しかし、その際に人間の論理的思考では解決できない問題の解決方法の考案を人間より優れた知性に外注する時、その検証作業と受け入れの是非の判断を怠っては、人類は急速に思考することを放棄して主体的に生きることが出来なくなってしまうだろう。
以上、感情を無に帰す可能性についてのお話でした。長文になりましたが、お読みいただきありがとうございました。
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